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滋賀県彦根市 鳥居本宿

Toriimotoshuku, Hikone city, Shiga

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May 2018 柚原君子

中山道 第63 鳥居本宿

概要

1603(慶長8)年、彦根地方の地割りをするために江戸からやってきた奉行の嶋角左衛門は、東山道時代からあった宿駅小野(彦根道追分のある路地より京方面の小野村。現在は古宿の標識が立つ)の本陣を勤める寺本家に鳥居本に本陣を移すように命じます。命じた年から20年後に彦根城が完成していますから、本陣移動は後に将軍のお成り道となる彦根追分の手前にあった方が便利、という位置関係からかもしれません。

鳥居本宿(とりいもとじゅく)は、鳥居の元にある宿駅という表記そのままに、かつて宿内にあった多賀大社の鳥居に由来しています(他説では現在の近江町の日撫神社の鳥居ともいわれていますが、距離的には多賀大社よりもはるか遠い距離になるので、他説とはいえ真偽はどうでしょうか)。

鳥居本宿には、中山道時代から『三赤』といわれる名産品があります。
一つ目は彦根に出荷される「西瓜」(皮が厚かったことで衰退)。二つ目は300年以上前に創業された有川製薬の胃腸薬「赤玉神教丸」。三つ目は天候の荒れる木曽の山道を越えるために旅人が買い求めた、柿の渋で和紙を防水して作った「赤い雨合羽」(戦後に衰退)です。

前の番場宿の摺針峠で中山道脇を走っていた高速道路はトンネルに入ってしまうので、鳥居宿近辺に高速道路は走っていません。新幹線の線路はありますが、ものすごい勢いで通過する姿が田畑の奥に見えるのみです。また近江鉄道も宿から外れていますので、ゆったりと曲がって続いていく宿内には本陣、脇本陣ともに現存しないながらも、道の両脇には重厚な家屋も多く、江戸時代色の濃い街道を味わって歩くことができます。

1843(天保14)年の『中山道宿村大概帳』によれば、本陣1軒、脇本陣2軒、問屋場1軒、旅籠35軒で宿内家数は293軒、宿内人口は1,448人です。

宿の規模に比べて旅籠が多いのは、赤玉の薬や旅支度の合羽を求める人が多かったことと、鳥居本宿が北国街道の分岐点であること(番場宿から山道を下ってきて宿の入り口である矢倉川のあたりが北国街道へ行く道)に関係しています。

彦根道は琵琶湖を南下して野州で東海道に合流する41㎞の街道、いわばバイパスです。
元々は信長が整備した道ですが、関ケ原の戦い以後に家康が上洛に使ったので『ご上洛道』・『御成道』、また、朝鮮通信使が使ったために『朝鮮人街道』とも呼ばれています。

中山道をそのまま道なりに南下しても京には行かれますが、将軍上洛の宿所は『城』と決められていたために、彦根城に経由する為、彦根道を使っています。
また鎖国時代にあって唯一の外交関係の朝鮮からの外交使節朝鮮通信使が彦根道を使用した意味は、将軍しか使わない道を使うことで最上級の持てなしの証とした、のではないか言われています。朝鮮からの外交使節団は総勢40名余にのぼり、笛や太鼓、踊りなどでにぎやかに通過したそうです。将軍の代替わりごとに来日して、1607(慶長12)年から1825(文化8)年までの間に12回ほどあったそうです。それほど大きくない鳥居本宿に旅籠が多かったことがうなづけます。

※朝鮮通信使は1375(永和元)年、足利義満が派遣した日本国王使に対して李氏朝鮮が信(よしみ)を表す使者として派遣されたのが始まり。秀吉の朝鮮征伐で一時途絶えたものの家康が修復して再開された。

1、赤玉神教丸有川家


国道8号線の矢倉橋を渡ると中山道は国道を離れて左の道に入っていきます。『ようこそ 彦根市』のモニュメント。昔の旅人姿。とても高い位置にあります。この先は松並木が続いていたそうですが、今は住宅地になっています。卯建や虫籠窓のある旧家や、藁葺き屋根のある家などを見ながら歩いて行くと、道の突き当たる右側に広い敷地に大きな商家が見えてきます。『赤玉神教丸の有川家』です(現在の社名は『有川製薬株式会社』)。

創業は1658(万治元)年。「お伊勢七度、熊野へ三度、お多賀さんには月詣り」の歌も残っているほどの多賀神社へのお参りの多かった時代に、人々はこの道を通り、多賀神社の神教によって調製したことが始まりといわれる、腹痛、食傷、下痢止めの赤い玉の妙薬を買い求めたたといいます。
重厚な商家は1751年の宝暦時代のもので、間口23㍍、奥行き32㍍。門と奥庭は滋賀県指定の文化財、主屋他5棟は国の重要文化財に指定されています。一周をしてみましたが、歴史のある建物です。

有川家は土地の郷士でもともとは鴨川姓。有栖川宮家に出入りを許されるようになったのが縁で、有川を名乗るようになったそうです。
腹痛、食傷、下痢止めは当時の旅人にとってはなくてはならない常備薬です。普通の旅人は勿論のこと近江商人が持って歩くので全国に名が知られ、各地の薬屋と取り次ぎをして店頭販売も行い、最盛期には80余名もの人々が働いていたそうです。

有川家住宅の横の細道を抜けて、国道の向こう側に『法界坊旧跡』があります。
上品寺(じょうぼんじ)の釣鐘。花魁の名前が彫り込まれているそうですが、下からはみえません。
江戸時代のこと。7代住職法海坊、のちに了海は荒れ果てた上品寺をたてなおそうと、江戸に出て托鉢します。あるとき、吉原の遊女 花里が、法界坊の法話に感激し、法界坊に梵鐘の寄進を発願(ほつがん)します。花里はこころざしなかばで病死しますが、姉の花扇が妹の遺志をついで梵鐘を鋳造し、法界坊に寄進します。法界坊はこの鐘を荷車に積んで、はるばる江戸から持ち帰り、鳥居本の上品寺に安置したといいます。

余談があり、真面目な法界坊ですが「隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ)」で、「法界坊」なる僧が吉原で浄財を使い果たすことが描かれていて、そこには色と欲に絡んで人まで殺してしまう破戒僧として描かれています。この頃の法界坊は19歳。あまりにもの戯曲とは思いますが、何もないところに火はたたないと昔から言いますから、坊さんなのに色事の花魁にのめり込んで集めた浄財を使い込んだとか、何かあったのかもしれません。

                                                           

2、合羽 本家合羽所木綿屋嘉右衞門~本陣・脇本陣


『法界坊旧跡』から街道に戻ります。
神教丸の有川家を過ぎると道は左に直角に曲がり『枡形』に。地名由来となった多賀大社の鳥居があったそうです。現在、多賀大社一の鳥居は次宿の『高宮』にあります。地名の由来になっている割には立て札はありません。枡形を曲がった街道は当時の中山道を思いおこさせるような情景で続いていきます。

『湖東焼 自然斎 旧宅』の看板。『米屋 旅籠』であったという建物の前にたっています。佐和山に連なる百々山の土と物生山の釉薬が使用されている湖東焼は彦根藩の保護を受けて焼かれていたそうです。湖東焼は、江戸時代後期に彦根城下外船町の商人絹屋(伊藤)半兵衛らによって、民窯として始められていますが、販路の開拓に難儀しています。1842(天保13)年、絹屋窯は雅楽器の収集など美術品をこよなく愛好する藩主井伊直亮彦により藩へ召し上げとなり、藩の直営で維持されるようになります。

鳥居本宿でも1856(安政3)年、原村の平次、鳥居本村の治平(自然斎←若い頃から井伊直弼の絵の師匠)、高宮村の善治郎白壁町の松之助が株仲間を結成して中山道沿いで土産物として湖東焼をうります。その店舗が米屋という旅籠であったようです。

次の藩主井伊直弼の時代には職人50人を抱える黄金時代を迎えることになりますが、桜田門外の変が起きて藩は苦境に立たされ職人たちは出奔し湖東焼は衰退していきます。

合羽を型取った看板が見えてきます。1832(天保3)年創業の『本家合羽所木綿屋嘉右衞門』の屋号のある彦根市指定文化財の岩根家住宅です。
店頭に彦根市教育委員会の看板があります。
『享保五年(1720)年、馬場弥五郎が創業したことに始まる鳥居本合羽は、雨の多い木曽路に向う旅人が雨具として多く買い求め、文化・文政年間(1804~30) には十五軒の合羽所がありました。
天保三年(1832)創業の木綿屋は鳥居本宿の一番北に位置する合羽屋で、東京や伊勢方面に販路を持ち、大名家や寺院、商家を得意先として大八車などに覆いかぶせるシート状の合羽を主に製造していましたので、合羽に刷り込んださまざまな型紙が当家に現存します』。
鳥居本宿のさん赤の一つです。番場の忠太郎や木枯らし紋次郎が羽織っていたマントです馬場弥五郎は大坂で四国伝来の合羽製作技術を習熟して鳥居宿で開業します。楮(コウゾ)紙に菜種油を塗布、その後柿の渋を塗布して防雨+防寒具として大いに重宝されますが、やがて大正時代初期にはビニール製品に押されて衰退していきます。

建物には銅の青さび色の『岩根嘉右衞門』表札が残されています。

左側に『本陣跡』。寺村家が勤めています。本陣の門は今は倉庫の扉になっています。
寺村家は当街道の京寄りにあった小野村の小野宿で本陣を勤めていた人物ですが、幕府の「鳥居本に宿を移すように」の命を受けて動き、鳥居本宿でも本陣を勤めます。
広大な本陣であったそうで、寺村家大福帳には参勤交代では8藩が利用して、一行は平均して5.60名。広大な本陣でもまかないきれなかった様子です。
明治維新後は大名行列がなくなり、大名の宿舎に利用した部分は売り払われ、住居部分も老朽化が激しくなったため、1937年にヴォーリズの設計による洋館に建て直されています。ヴォーリズ氏は本陣の実際の建物を見た上で設計したとのことで、洋風に本陣の風合いが入っている近代建築の洋館とのこと。見学できるか否かの案内もなく、外観だけ見ることにします。洋館と倉庫の扉に残る本陣の門、通り過ぎるだけにしても少し違和感のある本陣跡。
本陣の並びに『脇本陣跡』問屋場も兼ねています。脇本陣はもう一軒あったそうですが消滅したとあります。
5月の連休を利用して近江の三宿を訪ねています。雨は残念ですが、今日はひとまずここで終了して米原駅前に取ってあるホテルに戻ります。

                                                        

3、「合羽屋 寺村跡」や「大村屋(合羽)」から彦根道追分道標


米原駅より近江鉄道鳥居本の駅に。無人駅です。形がとてもきれい。近江商人が中心となって開業させた鉄道で、駅舎は1931(昭和6)年に建設されています。当時の典型的な駅舎建築様式を伝えており、現在も、当時の姿のまま使用されています。鳥居本のあたりは、当時、藤原定家の荘園で「古今和歌集」や「百人一首」の編集で知られる藤原定家を、経済的に支えたのが鳥居本の人たちでした」と書かれています。
昨日の続きを歩きます。
左側の屋根の上に看板。1825(文政8)創業。合羽屋の『松屋、松本宇之助店』です。鳥居本町の合羽の製造は1970昭和(55)年に終わっています。松屋は、戦後、梱包用の縄づくりに転換。現在の邸宅は、2001(平成13)年に改修されたもの。合羽の形の看板ですが、看板の内容は縄などを扱う包装材料店になっています。
交差点の向こう角に珍しく木製の常夜燈。続いて選挙の貼り紙が残念な大きな商家。
『鳥居本宿交流館さんあか』に立ち寄ります。皮が厚くて途絶えたという西瓜のPRが目を引きます。大日本江州鳥居本驛の文字の上に赤い字で“西瓜糖”とあります。江戸時代の神教丸が旧家でみつかったという新聞記事もあります。色鮮やかな赤い玉が3粒とあります。また柿の渋が塗られているという合羽の生地も、赤というより朱から橙色の趣で、年配の方にはなじみのある蛇の目傘の様な色合い風合いです。鳥居本宿のさん赤です。

「合羽屋 寺村跡」や「大村屋(合羽)」などの店名をぶら下げた家が続きます。卯建、白漆喰塗り、格子づくり柱には弁柄、虫籠窓が三つもある商家は登録有形文化財になっています。宿の中心部がそろそろ終わります。『専宗寺』の2階建て太鼓門の天井は佐和山城の遺構、寺の建立は聖徳太子と伝えられているそうです。

7,8分歩いて『彦根道追分道標』に。文政十亥秋建立(1827・文政10)。「左 中山道 京 いせ 左 彦根道」と書かれています。「ご上洛道」「朝鮮人街道」とも呼ばれていた彦根道。参勤交代での大名の使用は認められていません。元々は信長が作ったという琵琶湖を南下して野州で東海道に合流する41㎞の街道です。

                                                                 


4,古宿小野村から原八幡神社

彦根道追分を過ぎると、以前の宿場があった古宿、小野の村にはいります。ねぎ坊主が花を付け、田植えの準備がされている田園風景の中を歩きます。遠くに見えるのは八幡神社。小野村の産土神様。祭礼のお囃子には小野小町が謡われるそうですが、小野小町の出生地と言われている地ならではで、街道脇には立派な小町塚もあります。その少し先、『小町茶屋跡』という立て札もあります。明治中期までお多賀さん参りの人々で賑わった茶屋とあります。原村の一里塚がこの辺りにあったそうですが位置不明とのこと。新幹線高架をくぐって暫く行くと右側に『原八幡神社』。聖徳太子を祀っています。芭蕉の昼寝塚、門人の白髪塚などがあります。次は高宮宿です。

                                                                        

 


May 9, 2016 瀧山幸伸 source movie

高宮宿方面から東に進む

                                                                     

有川家付近

                                                       

         

馬場宿方面へ 

摺針峠

               

    


Jan.5, 2013 大野木康夫 source movie

鳥居本の街並み              有川家住宅  


Nov.2010 撮影/文:中山辰夫

彦根市鳥居本町

彦根から鳥居本に入るには何本かのルートがある。今回は自転車を利用して佐和山トンネルを抜けて入ることにした。

彦根駅前からは国道八号線を走り佐和山トンネルを抜ける。約250mの歩道向けのトンネルが併走している。

抜けてすぐに八号線を横断すると、鳥居本宿へ向かう旧道(朝鮮人街道)に入る。約1.5kmで鳥居本宿への分岐点となる。

       鳥居本宿は、中山道の宿駅で江戸から63番目。前宿の番場(現米原町)から一里一町、次宿の高宮へ一里半。宿北端から北国街道南端から朝鮮人街道が分岐している。

鳥居本宿は高宮宿と同様に、本陣や脇本陣の建物こそ現存しないが、随所に重厚な家屋が残り、宿場の雰囲気が残されている「天保年間の宿村大概帳」によると、鳥居本宿の長さは小野村境から下矢倉村まで13町(約1.4km)と記されている。

宿は宿高115石、人口1448人、家数293軒、本陣1軒、脇本陣2軒、問屋場1軒、旅籠屋35軒の規模であったようだ。

この宿の名物は「雨合羽」と「腹薬の赤玉神教丸」および「すいか」の三つであった。

鳥居本合羽の「本家合羽所」と書かれた看板が残されている家屋や、「赤玉新教丸 あかたましんきょうがん」を今なお製造・販売する宝暦年間(1750〜60)頃建造とされる赤玉新教丸本舗の重厚な店舗が現存している。

中山道に沿って集落が延びている。現在も同様である。年に一回の「とりいもと宿場まつり」は宿を上げて取組まれる。平成22年度は“街道を赤に染めて戦国時代情緒を演出しょう”だった。

宿場の商家や民家が公開されかつての宿場の賑わいが再現される。「赤」をテーマに全体で宿を維持しようとの熱意が伝わる行事である。道標

彦根道(朝鮮人街道)と中山道が交わる箇所に立つ。文政10年(1827)に建てられた。

トンネルをくぐり国道八号線を越えてきた道が朝鮮人街道であった。

「右 彦根道」「左 中山道 京 いせ」「文政十丁亥秋建之」の銘文が刻んである。

三叉路になっている。

  朝鮮人街道「別に記載する」 (ここから摺針峠まで約2.5km)

彦根道が朝鮮人街道で、佐和山の南を東西に走り、彦根城下と中山道を結ぶ道。ここから彦根城下までは1里の距離である。

佐和山が城郭をなしていた頃は城内の道で他所者の往来はなく、しかも山田町地先から中山道沿いの百々村までの間は道が無かった。

ここに新道が敷設されるのは彦根藩二代藩主井伊直孝の頃で、以後彦根道或いは朝鮮人街道と呼ばれた。

 高宮宿を過ぎ小野村に入る。水田がつながり、中山道を挟んで右側には名神高速、左側には新幹線が走る。

中山道は、小野村から鳥居本の入口である西法寺村を経て鳥居本宿に至る。

  鳥居本宿へ入る中山道

  百々家住宅

登録有形文化財

 百々山本照寺跡・八幡神社

鳥居本油敏局のすぐ横の左側へ入る小道を行く。名神高速のガードをくぐり右方向の小山を進む。

百々氏の菩提寺と伝える寺院跡。天台宗。阿弥陀堂のみが存在する。文明10年(1478)建立、元亀3年(1572)信長の兵火で焼失。

西法寺辺りに住いした梅本という人物が、本照寺持仏堂の永続を計り本尊を別院に秘蔵して隠すと共に、本照寺の境内に鎮守の神社を作り、八幡宮として百々村の崇拝神社とした。

      専宗寺「別に記載する」

浄土真宗本願寺派

通りに面した大層な寺院である。

明応6年(1497)創建。開基は了明。彦根藩主の井伊家の帰依を受けて栄える。現本堂の建立年代は不詳であるが、向拝蟇股や紅梁の絵様から、18世紀後半のものと推定されている。太鼓門の天井には佐和山城の用材が使われている。

   旧庄屋 住長新家(成宮隆夫家住宅)

今回の祭りで初公開された。構造は百々家と類似したごつい造りとなっている。

   長池地蔵

  街道の家並み

      地蔵堂

    合羽所「松屋」

看板は屋根の上に上げるのが正しい

    脇本陣・問屋跡

小規模ながら、主客用、側近者用と家族用の三つの領域を持ち、貴人の客が宿泊できる構えを持っていた。

脇本陣の高梁家は、畳数117、喜良平脇本陣は68畳で、本陣とはかなりの開きがあった。高橋家は問屋も兼ねていた。

筋道を隔てた隣には高札場があった。

    本陣跡

本陣跡は木綿屋の合羽の看板の向にあるヴォーリス設計による洋館建の寺村家。横の小屋前に本陣の門が残されている。

本陣寺村家は畳数が201あった。文政12年(1829)から天保12年(1841)の13年間に161回・3594人であった。一回の利用者数は22.3人、最多は80人、最小は2人、実際は50〜60人が収容限度であった。街道に面して北から表門、板間、主屋と並んでいた。

参勤交代の大名の供揃は200〜300人に達し、全員の収容は不可能で下宿を必要とした。当宿の場合、安芸廣島藩・筑前久留米藩・紀伊和歌山藩・阿波徳島藩・出雲松江藩・長門萩藩・美作津山藩・伊予松山藩などが利用しており、下宿を利用する大通行が年間数回ずつあった。

        鳥居本駅

本陣跡の向い、国道8号線と面している。

近江鉄道 昭和6年(1931)開業と同じ建築(別報)

  合羽所木綿屋

木製「道中合羽形」の看板。「本家合羽所 木綿屋 嘉右衛門」の字。大田南畝「壬戌紀行」には、「此駅にまた雨つつみの合羽ひさぐ家多し。油紙にて合羽をたたみたる形つくりて、合羽所と書きしあり。えどにて合羽屋といへるものの看板なり」と記されている。

    旅籠屋・大藤屋跡

卯達に藤の家紋を漆喰塗りで浮き出させていた。

   湖東焼自然斎住居跡(別に掲載する)(旧鳥居集会所)

    赤玉神教丸本舗

万治元年(1658)創業。現在も製造・販売中

  明治天皇石碑

  上品寺

   松並木

鳥居本のはずれに松並木が現存する。冬には防寒手当てが施される。

   

 

鳥居本の案内を経て磨針峠(すりはりとうげ)を越え、次の宿・番場宿へ向かう。

   合羽

江戸中期から戦前まで合羽清蔵は鳥居本の重要な産業の一つだった。

鳥居本宿で合羽の製造が始まったのは、享保5年(1720)の馬場弥五郎の創業とされ、大阪で奉公後、合羽製造に柿渋を用いることを奨励。

保湿性と防水性に富んだ良質な合羽の名声が高まり雨の多い木曽路に向かう旅人の必需品となった。

最盛期には街道沿いに25軒の製造業者がいた。鳥居本合羽が赤いのは、柿渋を塗る時に弁殻を入れることによる。

天保3年(1832)創業の木綿屋は、東京や伊勢方面に販路を持ち、商家や寺院を得意先として大八車などに覆いかぶせる合羽を主に製造していた。

       湖東焼

湖東焼は江戸時代の後期、彦根で生まれた。城下町の商人・絹屋半兵衛たちによって始められ、13年後彦根藩に召し上げとなった。

当時の藩主は十二代目の井伊直亮。彼は雅楽器や美術品をこよなく愛した。彼のもとで絹屋以来の高級品生産の方針に拍車がかかった。

8年後藩主になる直弼は楽焼に手を染めるなど、焼物に強い関心を持っていた。藩主になると釜場の規模を拡大し、全国から優れた職人を招聘し、経営改革にも乗り出した。こうして湖東焼は黄金時代を迎えた。この時代に逸品が多く生まれた。

しかし、桜田門外の変で直弼が暗殺されてからは、パトロを失い、2年後に藩窯の歴史は終わった。

湖東焼の黄金時代を中心に民業として民間で上絵付(うわえつけ)を行なう4人の仲間がいた。4人の仲間とは、鳥居本宿の自然斉、原村の床山、高宮宿の赤水、城下白壁町の賢友である。彼らは安政3年(1856)に彦根藩より窯元の免許を得て、藩窯などから素地を

求め、それに上絵付を行なった。

その内の一人、自然斉は「米屋」という旅籠を本業としていた。赤絵、金彩を加えたもの、色絵と多彩で、中には青磁の肌に赤絵色彩を施した特異な作品もつくった。この自然斉の住居が、旧鳥集会所である。

明治を迎えると湖東焼の窯も宿場もともに衰退し手行った。

  朝鮮人街道

中山道の脇往還で、主要地方道大津能登川長浜線の一部で約40km。鳥居本から中山道と分かれて、彦根・安土・近江八幡を経て、野洲行畑で中山道に合流する。

もとは屈曲の多い野道だったが、織田信長や豊臣秀次が築城の際、城下町繁栄の為に貨物や旅人を東山道から迂回させるように拡充した。

さらに関が原合戦で勝利を得た徳川家康は、この道を通り京都に入ったので、縁起のいい古道とされ、歴代将軍の上洛時の通路となった。

このため、能登川町伊庭と野洲町永原には、御殿という将軍専用の休憩宿泊所が設置された。

徳川幕府は、隣国朝鮮との友好親善を重視し、朝鮮通信使を優遇するためこの街路を通行路にあてた。朝鮮通信使は、将軍の就任祝賀のため代始め毎に派遣された。この街道を往復したのは十回であった。広重 木曾街道六十九次之内 鳥居本

 鳥居本宿の北側で中山道と北国街道に分岐する。中山道は東(右手)に折れ、急な山道を登り摺磨針峠(すりはりとうげ)を越える。

浮世絵は峠にあった望湖堂(ぼうこどう)という本陣構えの茶屋(昼食や茶・菓子などを提供する休憩所)付近から琵琶湖の絶景を望んだ光景である。

ここでは「すりはり餅」が供され、参勤交代の大名や朝鮮通信使らも立ち寄って休憩した。現在では内湖が干拓され、ここから望む琵琶湖の湖岸は遠くなってしまった。

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