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滋賀県近江八幡市 近江八幡 

Omihachiman,Omihachiman city,Shiga

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水路を活かし伝統的な街を守る
 Nature
 
 
 Water    
 Flower
 
水路沿いの修景
 Culture
 
近江商人の街並とヴォーリズの遺産
 Facility
 
 Food
 
 


Nov.22,2020 瀧山幸伸

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日牟礼八幡宮付近

            

 

八幡堀付近

                                                                                                                  


Sep.10 2016 瀧山幸伸 source movie

夕暮れ時の近江八幡

八幡掘

Hachimanbori

                                                                         

クラブハリエ、日牟礼カフェ

Club Harie, Himure cafe

                                            

新町通り

Shinmachi

                                           


Nov.24.2014 中山辰夫

八幡堀の紅葉         


Jan.16, 2014 中山辰夫

八幡堀 1月の八幡堀周辺です。行楽シーズンには見落とし易い景色にも出合える。

                            


July 10,2013 川村由幸

重要伝統的建造物群保存地区に指定されている新町通りから八幡堀を歩いてみました。

八幡堀の水に近づいても厳しい暑さが和らぐことがなく、永原町通りはパスしてしまいました。

                                                                            


May 4,2013 大野木康夫

 

新緑の近江八幡街並と旧家
                                         

 

八幡堀周辺

 

            

 

日牟礼八幡宮
           


Sep.2011 大野木康夫 source movie

2011.8.6撮影

  

八幡堀「近江八幡の水郷」の一部として重要文化的景観に指定されています。

この日、日牟礼八幡宮の無料駐車場は観光客の車でほぼ満車の状態でした。近江八幡市は滋賀県中央部の平野に位置し、市域の北東部に広がる西の湖は、ヨシ原特有の湿地生態系を示している。

近江八幡市の周辺は古くから琵琶湖の東西交通を支えた拠点の一つとして栄え、近世には豊臣秀次が八幡山城の麓に城下町を開き、西の湖を経て琵琶湖に至る八幡堀を開削した。

楽市楽座などの自由な商工業政策が行われ、八幡堀沿いの街は廃城以後も在郷町として発達した。

八幡堀沿いの街は舟運で結びついて旧城下町と一体的に展開し、現在の市街地の骨格となった。

江戸日本橋で近江商人が取引した商品には、「近江表」「近江上布」など湿生植物を原料とするものが数多く含まれていた。

西の湖の北岸に面する円山の集落は近江商人が築いた流通経路を通じて市場を拡大し、ヨシの産地として広く知られるようになった。

円山の集落では現在もヨシ加工による簾や葭簀をはじめとする高級夏用建具の製造が行われており、製造業者の数は減少したものの「ヨシ地焼き」などの種々の作業は従来の手法を留めている。

「近江八幡の水郷」は、西の湖やその周辺に展開するヨシ原などの自然環境が、ヨシ産業などの生業や内湖と共生する地域住民の生活と深く結びついて発展した文化的景観である。

(国指定文化財等データベースより)

               

白雲館明治10(1877)年に八幡東学校として建てられたものです。

     

近江八幡市八幡(伝統的建造物群保存地区)近江八幡市八幡は琵琶湖の東岸中央に位置し北国街道と中山道が交差する交通の要衝に発達した町で、近江商人の根拠地として反映した時代の瀟洒な主屋、土蔵群が多数現存しています。

特に、大型町家と前庭の見越しの松が連続して並ぶ景観は圧巻です。

(国指定文化財等データベースより)指定地区のうち新町通に行きました。

                    

市立郷土資料館新町通沿いにあります。

歴史民俗資料館(旧森五郎兵衛別邸)を併設し、旧家の内部公開も行っています。

                      

旧伴家住宅資料館本館の南側にあります。

                

 旧西川家住宅  


Jan. 2010 撮影/文:中山辰夫

市立資料館

近江八幡市新町二丁目22

          

近江商人の歴史を感じさせる新町通りにある。

西村太郎右衛門の邸宅跡に建設された旧八幡警察署を利用したもので、朝鮮通信使などの往来のあった旧京街道に面している。考古資料などが展示されている郷土資料館と近江商人の帳場風景を再現している歴史民俗資料館、江戸中期の典型的な商家・旧西川家住宅(国重要文化財)・旧伴家住宅の4館で構成されている。

西川家住宅(県重要文化財・非公開)は道を挟んで建っている。豊臣秀次によって開かれた城下町「近江八幡」は、後に近江商人の発祥の地として栄え、基盤目状に区画された町並みに今も残る商家や白壁の土蔵群は、江戸時代の中期から明治に天秤棒一本の行商から財をなし、全国的に活躍した近江商人の往時の隆昌をしのばせる。

平成3年、滋賀県下で初めて国の重要伝統的建造物保存地区に選定された。

この近辺の特長ある通りを先ず歩いてみた。

町屋の特徴は、切妻造・桟瓦葺・平入りの木造建築が基本であること。道路の正面の造りは格子・出格子・虫籠窓(むしご)からなり軒下の壁に貫を一筋見せる形は卯立(うだつ)とともに特徴となっている。

この特徴ある町屋に見越しの松・塀・土蔵などが連なり落ち着いた町なみを生み出している。新町通り

近江八幡市新町2・3丁目

新町2丁目は町並みがよく保存されている。

西側に旧西川利右衛門宅、歴史民俗資料館、東側に西川庄六宅・森五郎兵衛宅、三丁目の京街道筋に旧伴荘右衛門宅がある。

森五郎兵衛宅は現在は空家だが、延享2年(1745)江戸に出店を設け、呉服・太物の販売を始め、安政4年(1857)には江戸真綿株仲間に加入して真綿をも扱い、森五商店として発展した。

                 

永原町通り

格子戸や白壁の土蔵など古い町並みが今も色濃く残る通りである。

新町通りや八幡堀と同様「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されており、落ち着いた家並みが続く。

二階部分の虫かごに似た小さな窓「むしご窓」や防火壁の役目をする「うだつ」などが見られる。

         

郷土資料館

  

ともに西村太郎右衛門の屋敷跡である。

西村家は屋号を綿屋と称し、初代嘉右衛門はすでに慶長年間(1596〜1615)には、町の肝煎として町政にたずさわり2代目嘉右衛門の弟太郎右衛門は海外で活躍した。

しかし太郎右衛門は鎖国で帰れなくなり、長崎の絵師菱川孫兵衛に安南渡海壱船額を描かせ、日牟禮八幡宮に奉納した。(国重文)地場産業である数珠玉や和ろうそくの生産工程器具、各種産業に使用された用具や道具を展示する民俗資料室と中庭をはさんだ歴史民俗資料館には、近江町人の帳場風景や日常生活が再現されている。

       

歴史民俗資料館

 

昭和54年(1979)に開館された。商家を利用した資料館で、近江商人の帳場風景や日常生活の様子が再現されている。

商人の生活資料館として見ごたえがある。

                    

旧西川家住宅 国指定重要文化財

 

重文の西川利右衛門は、江戸初期から町内屈指の八幡商人の居宅である。

西川家は寛永16年(1639)以来江戸の蚊帳仲間に名を連ね、蚊帳・畳表などを商いし、幕末の頃まで盛んであったが、明治の中頃没落した。昭和57年(1982)市に寄贈された。新町通りの重要な町並景観の一翼を担っている。部屋数20を越える豪邸で、八幡商人の文化的素養の高さや交際の広さがわかる資料が展示されている。

3階建ての土蔵と共に豪商の財力が伺える。

詳細は「旧西川家住宅」で別途掲載済み。旧伴家住宅市指定文化財

平成16年に資料館の一部として開館された。

       

伴家の祖は大伴氏で、安土城下で商人となり、やがて八幡町に移住し伴庄右衛門名を改め、扇子や蚊帳、畳表などを商った。

近江八幡が天領となった時期から行商を始め、寛永年間(1624〜45)に江戸日本橋に出店し、西川家など「御三家」と並ぶ大店を構えた。

屋号は扇屋といい、『西鶴織留』の『本朝町人鑑』に京都や大坂での繁盛ぶりが活写されている。

5代目の伴蒿蹊(1773〜1806)は、36歳で隠居した後京都に出て国学者となり、「近世畸人伝」など多くの著作があるが、店の主人と使用人が守るべき処世訓をまとめた「主従心得草」は、近江商人の家訓の典型として現代でも広く知られている。

         

当館では、毎年2月から3月にかけて開催される“近江八幡節句人形めぐり”に、八幡商人宅に伝わる雛人形の数々を一同に展示する。

雛人形に添えられた小物「ミニチュアの箪笥や長持などなど」も展示する。

西川家住宅

近江八幡市新町2丁目県有形文化財:建造物:指定 1983年3月28日

西川庄六家は新町通りの東側にあって、旧西川利右衛門宅の向かい側にある。非公開である。

当家も近世の八幡を代表する商家のひとつである。当家所蔵の鬼瓦に天明5年(1785)のへら書銘があって、主屋はこの頃立てられたものとされる。

江戸時代中期に建てられた主屋は、一部2階建てである。

街路に沿って屋寝つき、板張りの高塀を配し、座敷との間の庭には松を植える。

「みこしの松」は離れ座敷に高塀をたてて配する。三代目西川利右衛門の弟が分家し、代々西川庄六を名乗ってきた。

明和7年(1770)には江戸で開店し、蚊帳・真綿・繰綿・扇子・砂糖などを商った。

   

見越しの松・うだつ

永原町通りや新町通りなどの市内に残る古い商家の町並みには特徴がある。

その新町通りの江戸末期から明治にかけて建てられた豪商の邸宅には、防火用の壁である「うだつ」を屋根にあげている。

また、家並みの塀越に「見越しの松」が植えられ、通りにひときわ風情を添えている。

  

今も生きる近江八幡商人スピリッツ「日本経済新聞 平成22年」

 

参考資料《パンフレット、近江文化財教室、近江八幡市史、その他》


May 1994 撮影:高橋久美子

 

近江八幡YMCA会館

  

旧ヴォーリズ邸

     

日本キリスト教団近江八幡教会

      

八幡小学校

 

八幡堀

        


May 2004 瀧山幸伸 source movie

世界一の商いをしていた江戸日本橋。その商家の系譜には大きく近江商人と伊勢商人とがある。「買い手よし、売り手よし、世間よし」の三方よしの理念を持つ近江商人は、ここから全国に雄飛した。

近江八幡の隆盛は、天正12年(1584)豊臣秀吉の甥秀次が領主になった頃に遡る。秀次は、楽市楽座の設定、八幡堀の開削、諸国から商人を寄せ集めるなど、わずか5年の城主期間だが積極的に町の経済発展を図った。

八幡商人は、天領となった後、全国へ行商に出かけた。早くから江戸日本橋に店を構え、「八幡の大店」と称された。特に西川甚五郎、西川庄六、森五郎兵衛は御三家と呼ばれるほどの実力を誇った。彼らが扱った商品は、畳表、蚊帳、数珠、灯芯などだ。

西川の創業は1566年、江戸に店を構えたのは元和元年(1615)、一方、伊勢商人だった三井高利が江戸に店を構えたのは延宝元年(1673)。400年以上に及ぶ商人の系譜は三井よりも長い。

今やこの街は単なる古い商都ではなく、物語の街だ。映画やテレビがここをロケ地として物語を作り出す。

この町はまた、ヴォーリズが愛し、多くの作品を作ったことでも再評価されている。 ヴォーリズは、小泉八雲の松江のように、この古い街を愛した。時を経て今頃ようやく社会が彼を取り上げるようになってきた。

物語と人物に無縁の街は人の心に生き続けられない。町おこしを図る現代の城主すなわち行政の長や街づくりの関係者は、この街から多くのヒントを得ることができるだろう。

近くの五個荘、日野にある近江商人の住宅街も素晴らしい。時間があればぜひ訪ねてみたい。

資料:国土地理院

 

資料:近江八幡市

 

八幡堀の北側は八幡城の武家地の面影を残している。

日牟礼八幡宮 

 

和菓子 「たねや 日牟礼の舎(ひむれのや)」 伝統的な町家を再現した。

 

八幡堀

琵琶湖は裏日本との物資輸送の重要な交通路で、近江八幡は、大津、堅田と並び琵琶湖の三大港だった。八幡堀は全長5キロに及ぶ琵琶湖との接続運河であり、琵琶湖就航の船はほとんど近江八幡に寄航しており、このために近江八幡が大きく栄えることとなった。

堀と周辺の修景は見事で、石垣、つた、水辺の植栽、両岸からの樹木など、それぞれが美しく、全体的にも見事に調和した美しさを演出している。さらに加えて、両岸の土蔵、倉庫などの歴史的な建築物の街並も美しい。

水面近く低い位置を散歩する遊歩道も整備されており、「絵になる連続景観」として、景観のシーケンスを楽しむことができる。歩いても、船に乗っても、移動するに従って微妙に変化する景色が美しく、ここをロケ地に選ぶ映画やテレビドラマが多い。

この景色はまるで映画のセットのようでもある。遠景近景のズーム、水平垂直方向のパンチルトにも耐えられ、どのカットも美しく仕上がる。監督やカメラマンには魅力的なロケ地だ。

佐原、柳川、倉敷、潮来、日本橋など、和風で売るべき水辺空間の演出には良いお手本だ。

現地訪問時にはぜひ船に乗ってみよう。思い出を作りたい人と一緒に。

土蔵と堀が美しい街並を作る

  

高木は大きく枝を伸ばし、水際の草花は目隠しとしても機能している。これらが景観にアクセントを与え、季節感も演出する。

    

堀と船 

これがベストではないが、他の地域のお手本となる。景観と調和する船のデザインと運行方法、例えば、速度、エンジン音、アナウンス音、看板、幟など、細かい配慮が必要だ。エンジンに馬力があり早ければ良い、というものではない。ディズニーランドやサンアントニオを真似る必要は無い。船運は地域特有の文化なのだから。

願わくば、小型の和船にして、船頭さんに棹さして運行してもらえばありがたいのだが。

     

堀沿いの遊歩道 上を歩くもよし、水際を歩くもよし。早朝も夕暮れ時もまた良い。

  

城下町から白雲橋を渡り商人町へ

 橋を渡った正面は白雲館。明治10年建築の八幡東学校を保存修復し、観光案内所やギャラリーとして活用している。

 

商人町

八幡堀の南側が商人町となり、その街並は新町通りを中心に現在まで脈々と続いており、国の伝統的建造物群保存地区に指定されている。

町屋の多くは切妻造り、桟瓦葺き、平入りで、格子が美しく、高級で洗練された造りだ。

旧西川利右衛門家 (国重文)とその付近

西川家は寝具で有名な日本橋西川の源流。隣は呉服の森五郎兵衛(近江屋三左衛門)。日本橋森五(近三)ビル(都の歴史的建造物)の源流。

      

旧伴庄右衛門邸 

 

この町では犬ものんびりとしている。

 

新町浜付近

 堀がL字型に折れ曲がる地区。この付近は道路から堀に緩やかな傾斜となっており、開放的な景観が展開する。階段に腰掛け、時の過ぎるのを忘れて景色を眺めてみたい。読書や描画にも良い空間だ。

  

浜脇にある、べんがら調の構えと花の装飾が美しい店

 

でっち羊かん

丁稚が里帰り(薮入り)にお土産にした羊かん

 

ヴォーリズと近江八幡 (資料:近江八幡市)

ヴォーリズは明治38年(1905)英語教師として滋賀県商業学校(現在の八幡商業高校)に赴任。布教に熱心なあまり、2年後には教師を辞めざるを得なかった。一方、建築家としての才能も持っており、近江八幡YMCA会館を手始めに、手がけた建築物は国内外に2千にも及ぶ。

「建築物の品格は、人間の人格の如く、その外観よりもむしろ内容にある」と考えるヴォーリズの洋風建築は、どれも実に機能的に優れたもの。

 さらに、製薬会社の近江兄弟社を設立。その事業で得た資金をもとに結核療養所(現ヴォーリズ記念病院)や近江兄弟社学園、図書館を開設するほか、出版活動にも取り組んだ。

 昭和16年(1941)、日本国籍を取得、昭和33年(1958)近江八幡市名誉市民第一号となったのち、その6年後、84歳で生涯を終えた。 

 ヴォーリズによる建築物は、現在、近江八幡市内に20棟余りが現存している。そのほか、代表的なものでは、大丸大阪心斎橋店や東京山の上ホテル、主婦の友社、関西学院大学、神戸女学院大学、東洋英和女学院など。

 「八幡は日本の中心であり、世界の中心である」と言い、伝道活動、教育、医療、福祉事業と、あらゆる分野で活躍した。

まとめ 近江八幡商人は、その地理的優位性と自由経済の波に乗り、全国津々浦々に行商のダイレクトマーケティングを行った。「辺鄙なところは競合が少ないから商機あり」という論理だ。

「三方よし」の理念とともに、現在まで脈々と、近江商人の家訓が遺伝子として伝わっている。

 同じように、地理的優位性に着目し、戦略的にビジネスを展開したのは豊田佐吉だ。

三河の地はどのような時代になろうとも必ず通過しなければならない交通の要衝だと認識し、絶対に拠点移動などを許さなかった。

それが現代トヨタの隆盛の遺伝子となっている。彼の源流は、信長の天下取りだろう。

地図を見れば、東名名神、第二東名、新幹線、全ての交通路はこの地を通過せざるを得ないことが容易に理解できよう。そして中部空港は日本の真ん中に立地している。中部は広大な後背地を利用し、ますます発展するだろう。

 逆に、地理的資源が無い町はつらい。広い土地が無く、痩せている。川は氾濫する。交通も不便で、歴史的にも重要な拠点ではなく、富国強兵政策など特殊な要因で発展した町は停滞気味だ。

 都市が栄え、国が栄える基盤が無い環境で行うまちおこしや国おこしは難しい。カントが自然地理学を研究し、フンボルトが風土と経済の関係を追い求めたように、正しい理念は客観的で冷静な分析の上に形成される必要がある。近年では、ケネディが「大国の興亡」で無駄な防衛費と国の滅亡の関連を説いている。軍備に限らず、行政での経済合理性の限度を超える出費は経済を滅ぼす。

 ミクロで考えてみても、都市間競争、都市内競争において、その地理的優位性をしっかり分析しないと、中長期的に没落を見る地域になりかねない。建物は60年以上のライフサイクルだ。将来のダイナミックな変革をしっかりと予測し、時代遅れの邪魔者、お荷物となるような街づくりを避けることが大切だろう。天の理(理念)と地の理(資源)が無い環境で街づくりの浮いた議論をすることは厳に慎みたい。

 

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