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滋賀県多賀町 多賀大社

Tagataisha,Taga town,Shiga

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February 23,2024 大野木康夫 source movie


高宮の町

      

多賀大社一の鳥居(滋賀県指定有形文化財)

               

多賀大社門前

 

多賀大社境内入口付近

        

神門から社殿群

           

March 3,2024 

門前

 

鳥居付近

     

太閤橋

    

神門

         

社殿群

                   

奥書院(滋賀県指定有形文化財)

                                                

奥書院庭園

     

 


March 21, 2019 野崎順次 source movie

滋賀県犬上郡多賀町多賀604番地

多賀大社

古くから「お多賀さん」の名で親しまれる滋賀県第一の大社です。

日本最古の書物「古事記」によると、この二柱の大神は神代の昔に、初めて夫婦の道を始められ、日本の国土、続いて天照大神をはじめとする八百万(やおよろず)の神々をお産みになられました。

 生命(いのち)の親神様であることから、古く「延命長寿・縁結び・厄除け」の神様として信仰を集め、鎌倉時代から江戸時代にかけては、武家や民衆にも信仰が広まり、多賀大社の分祀社は全国239社を数えます。

 春のしだれ桜、秋の奥書院の紅葉なども見事で、近辺には彦根城や湖東三山、琵琶湖などの名所にも恵まれ、年間約170万人の参拝者を迎えています。

(多賀大社公式ウェブサイトより)

パンフレットと現地説明板

   

多賀大社西参道入口から入ると、日向神社、夷神社、般若院跡と並ぶ。

            

右手は、太閤蔵、鐘楼、大釜などがある。

        

多賀大社正面の拝殿・神楽殿

            

寿命石

平安の昔、東大寺の再建を命ぜられた俊乗坊重源は当社に参詣、二十年の寿命を授かりました。寿命石はその由緒を伝える石として延命を祈る人が耐えません。

(多賀大社公式ウェブサイトより)

   

その他境内

        

県文 奥書院

                      

国名勝 奥書院庭園 桃山 池泉鑑賞式

天正十六年、太閤秀吉は米一万石を事納し、母大政所の病気平癒を祈りました。太閤橋や奥書院庭園は、その奉納によって築造されたと伝えています。

(多賀大社公式ウェブサイトより)

さて本庭は面積百三十五坪を有し、客殿から北部一段下に見下ろす位置に作庭されていて、下方に俯瞰する庭というのは極めて珍しい。

池庭は東西にやや細長く、北方中央に出島があるが、これはもとの中島であろう。東部にまた一島がある。これは鶴島と思われる石組がある。東部に自然石の石橋が架かるが、これまた桃山期の手法を語り、その北部に枯滝石組が剛健な手法で、桃山期を語っている。昭和三十二年小宮博康氏が修理した時、北方の流付近からも蓬莱式の石組が出現した。

(重森三玲「日本庭園歴覧辞典、昭和49年」多賀神社庭園より)

                         

その他庭園

                    

社務所廊下の参拝絵馬(一部)

   

御神門あたり

         

町文 そり橋

       

鳥居あたり

  


Nov.17,2018 瀧山幸伸 

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奥書院と庭園(名勝)

                                                                                                                                                                                     


Apr.22.2016 中山辰夫

犬上郡多賀町多賀

多賀大社古例大祭(馬頭人祭)

多賀町へは近江鉄道多賀大社前駅で下車、歩いて10分余りで多賀大社に着く。近江鉄道は120年を迎える。のどかな田園風景の中を走ることで有名である。

多賀大社前駅

   

多賀大社

 

鈴鹿山脈のふもと、芹川と犬上川とに挟まれた地域に多賀町は開けており、中でも多賀町多賀はその中心で、多賀大社の門前町として古くから栄えた所である。

多賀大社は『古事記』にもその名が現れる湖国第一の古社であり、寿命長寿や縁結びの神社として知られている。交通は便利でないが、年間200万人が訪れる。

多賀大社の信仰圏は広く、「伊勢へ七たび 熊野へ三たび お多賀さまは月参り 」と謳われるほどであった。

武家による寄進も盛んで、近江源氏佐々木氏(六角・京極)をはじめ織田信長や豊臣秀吉、徳川家光が社殿の大造営を行ったなどが今に伝えられている。

多賀神社の古例大祭—馬頭人祭は、こうした由緒ある神社の祭礼として、現在も信仰を集めている。

大祭は、毎年4月22日に行われ、地元では「多賀祭り」と呼ばれ、また騎馬多数の供奉が行われることから「馬まつり」とも呼ばれる最もにぎやかな祭り。

神社の記録によると、起源は鎌倉時代とされ、江戸時代には賀茂祭と並び称されるほどの有名な祭りとだったといわれる。

古例大祭(多賀まつり)

鎌倉時代の記録にも残る多賀大社でもっとも重要なイベントで、五穀豊穣を祈る恒例の豪華な祭礼である。参加者も多く、町あげて多賀大社一帯で行われる。

近郷の有力者の中から祭りの主役である馬頭人が選ばれ、馬上から祭りの指揮をする。 

大祭当日のお渡りは、馬頭人(ばとうじん)、御使殿を中心に、氏子や崇敬者の騎馬供養が40数頭、神輿(みこし)や鳳輦(ほうれん)の供養者など、実に500人に及ぶ行列で、湖国の春祭り第一の名にふさわしい祭典絵巻が奉納される。

    

【断り】大祭の開始に間に合わなかった。以下の画像には参考に一部引用を含める。

大祭当日のお渡りは、

Am8:30 早朝拝殿前で神輿に神移しが行われ、神馬に神輿を三周させる。終わると宮司以下多数の供養人を従えて、神輿・鳳輦(ほうせん)が太閤橋上を渡り、ここから東北3km余りの栗栖の調宮「ととのみや」に向かう(引用)

 

Am10:30頃、栗栖(くるす)の「調宮(ととのみや)神社」に向かうが、馬頭人と御使殿は別途、犬上川の下流に向かい、賓台(ひんだい)と呼ばれる河原で御幣合せの儀式を行った後、本社前で合流する。

神輿・鳳輦(ほうせん)・騎馬40数頭を中心とした行列が、多賀大社の奥宮である来栖の調宮(お旅所)神社へ向かう渡りが始まる。(引用)

 

伊邪那岐大神が、御神木のある杉坂山から麓に下った際、疲れて「くるし」といったことから、村の名は栗栖と名付けられたとされ、ここに宮を作り、しばらく休んでから多賀に移ったので、栗栖の調宮神社は、今も旅所とされている。「調宮」とは、伊邪那岐大神が体調を整えたことから名付けられた名と伝わる。

Am12:00 調宮神社に到着。調宮神社では、豊作をもたらす神様の力がこもる富の木と呼ぶ桂の小枝を鳳輦・神輿・及びお供する皆の冠に付ける。(引用)

  

この間に馬頭人・お使殿は、犬上川で豊作を祈る御幣合式をおこなう。

Pm12:50 調宮神社出発してきた道を引き返す。

Pm14:00 多賀大社前で主役である馬頭人と御使殿など一行と合流し、10万石の大名行列といわれる列次をつくり、町内尼子の「打籠の馬場」へ向かう。

※ 画像は後に羅列する。※

Pm14:30 お旅所「打籠の馬場」に到着 打籠(うちこめ)の馬場の会場周辺 休憩は八幡神社

       

ここでも「富の木渡し」と呼ばれる行事が行われる。馬頭人・御使殿は栗栖の神幸に供奉しないために、ここで富の木渡しの行事がある。(引用)

Pm16:15行列がお旅所を出発して本社へ還る「本渡り」が行われる。

到着後「夕日の神事」が斎行され、お祭りが終了する。

本社前から絵巻通りを、お旅所「打籠の馬場」へ向けて進む行列である。

14:00頃スタートの行列を待つ絵馬通り。14:00少し前までは人の姿はまばらである。が急に現れ、通りは人であふれる。

        

40頭の騎馬行列は見応えあり。まだまだ後に続く

         

神輿が道幅一杯に暴れながら通る

          

主役は馬頭人

    

馬頭人付、など

         

見物客はさまざま

園児

    

お年寄り

    

一般

    

鎌倉時代から引き続がれる祭礼は、約40頭の馬を引き連れた行列で、神輿を中心に時代装束の奴(やっこ)や雅楽の舞姫、護衛の随身、騎馬の女武者ら約500人の行列が門前町を練り歩く。多賀大社への信仰の篤さを感じる瞬間である。


Nov.26,2014 瀧山幸伸 source movie

A camera

                                                                                            

B camera

                                                                                                    

             


Aug. 2010 撮影: 中山辰夫

多賀町多賀604

祭神:伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)

祭礼:古例大祭 4月22日 万灯祭:8月3〜5日

      

多賀大社への参詣ルートは、

中世から近世にかけては御代参街道をたどり高宮宿から一の鳥居をくぐり、多賀集落に入る参拝であった。

昭和初期からは近江鉄道で多賀大社前駅に降り、昭和の一の鳥居から門前町を通って参拝した。

近年は、国道306号線から自動車を利用しての参拝が圧倒的となった。

参拝道が変わると街道筋の様子も徐々に変化する。だが地元民の頑張りで昔ながら雰囲気が今なお感じられてホットする瞬間がある。

  

江戸時代から全国に流行した伊勢から多賀までの代参の道は、滋賀県内で三重県境に近い土山から峠をこえて、日野、八日市、小幡から中山道に入る道が選ばれた。この道が御代参街道である。

寛永8年(1631)には秀忠の病気平癒祈願のため伊勢神宮と当社に春日局の代参が行なわれ、この代参に当たって整備されたのである。

御代参街道は別名に市場道ともいい、近江商人の道でもあった。

金を出し合い、年番で伊勢参宮する伊勢講は代参の名残である。その代参はお伊勢さんの両親を祀る多賀大社でも行なわれた。

犬上川にかかる高宮橋を渡ると高宮の集落に入る。高宮には江戸時代宿駅があった。

多賀大社の一の鳥居は、当社から約4kmも離れた高宮宿のほぼ中央にある。

この鳥居は寛永年間(1624〜44)の当社造営時に造立された。高さ7.65m、柱間5.8mで県指定有形文化財に指定されている。

扁額は青蓮院門跡の御染筆とされる。鳥居の横には当社不動院の常夜燈がある。他に道標もある。表参道口としての風格がある。

鳥居前の賽銭箱は当社にお参りできない旅人のもので、多賀信仰と高宮宿の深い関係がわかる。

鳥居の存在する高宮は当社の門前町として長年にわたり重要な役割を果たしてきた。

  

高宮宿を出て一の鳥居をくぐり、多賀大社の門前町に入る手前に二本の巨木が立っている。一対のケヤキの大木である。

飯盛木(いもろぎ)

県指定自然記念物

高宮と多賀を結ぶ旧街道筋にこの二本のケヤキの大木がある。古くから飯盛木(いもろぎ)と呼ばれ近江名木誌にも記されている。

男飯盛木(上木)と女飯盛木(下木)とされ親しまれている。

女木は樹高15m、幹周9.7m、男木は幹周6.32m、樹高15m、樹齢は600〜1200年と推定される。

男木と女木の由来は大きさによるのでなく、かつて男木は幹が3本に分かれており(現在は1本)女木は二股になっていたことによる。

飯盛木の由来は、養老年間(717〜723)に元正天皇が病気の時、扶(しで)の木で杓子を作り強飯を盛って献上した残りの枝を地にさしたところこのような大木になったとか、この巨木で杓子を作り食事をだしたところ平癒したという縁起からである。他に、多賀領と敏満寺領の境界にあることから神域などを意味する「神籠 ほもろぎ」が転じたものとする説がある。

江戸時代には巨木が12本あって、高宮からの参詣道にも何本か立ち並んでいたとされる。多賀大社まではもうすぐとの目印だ。

    

近江鉄道は湖東平野に御代参街道の跡をなぞるように、明治33年(1900)開通した。主な駅をあげても、水口、日野、五個荘、八日市、高宮、多賀と、かつての街道筋の町名が並ぶ。近江鉄道多賀大社前駅で降りる。但し路線は無人駅が多い。

駅前には大きな鳥居が建つ。この鳥居は昭和13年(1938)に信者から寄進されたもので、「昭和の一の鳥居」と呼ばれる。

高さは10.61mで高宮の鳥居より高い。平成14年12月に新しくなった駅舎。コミュニテイハウスも同時に完成し、多賀に関する展示を行なっている。

最近になって、駅前広場に石のモニュメントが作られた。石の門をくぐって願いことを書いた絵馬を貼ると・・・願いが叶う?

駅前から大社までは歩いて約10分。お土産屋の並ぶ街道筋を進む。

   

近年は、国道306号線から自動車を利用しての参拝へと変化した。

車の駐車場から表参道までは歩いてもわずかである。途中に延命地蔵尊、真如寺が並び建っている。

絵馬通りには多賀の名物、特産品店が軒をならべる。それらを見やりながら大社へ向かう。

      

多賀大社は、一般に「お多賀さん」と呼ばれ、近江は勿論京阪神地方の人々にも親しまれてきた。

年間約300万人もの参詣者や観光客が全国から訪れる。

古来、延命長寿・縁結びのご利益があると信仰されてきた、天照大神の両親である伊邪那岐命・伊邪那美命を祀っており伊勢神宮とのゆかりも深い。

4月の祭礼は鎌倉時代から伝承されている馬頭人の渡御が一番豪華で、江戸時代には京の賀茂の祭りと並び称されるほどだったという。

8月の万灯祭も豪華である。

境内は広く約56,000㎡、社前を流れる渓流を石橋で渡り、神門をくぐると砂利を敷き詰めた前庭に出る。

その正面に入母屋造の拝殿と流造の本殿が建つ。三代将軍家光によって立派に建築された社殿は、その後の災害で焼失し、現在の建物は、いずれも昭和7年(1932)に再建されたもの。

神門からは広い境内が一望できる。

        

開基年代は明らかでないが、「延喜式神名帳」にも小社として名を残す古社である。

鎌倉時代には犬上郡の惣社として崇敬され、弘安の役(1281)には、蒙古群の撃退祈願がここで行なわれたと社伝が伝える。

室町時代に入り、坊人・勧進坊主・与力・使僧らの活動が信仰圏の拡大を生み、全国的な講組織による多賀信仰へと発展する。

彼らが勧進活動に携帯したものは、勧進帳や牛王法印のほか、薬、多賀杓子、神像、曼荼羅などである。

甲賀の薬売人が、多賀大社の長寿延命の神徳を絵解きしながら全国に売り歩いたことからも、広く知られるようになり、多賀講と呼ばれる講組織が甲州・信州・尾州・勢州・濃州・紀州・備州にみられた記録が残る。

このような全国的な多賀信仰が「お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる」「伊勢へ七たび、熊野へ三たび、お多賀さんへは月参り」という俗謡をも生み出した。

いよいよ多賀大社の境内へ進む

 

大鳥居

昭和4年(1929)、桜川(蒲生町)出身の函館の宮本竹之進の寄進。

   

石橋「太閤橋」

県指定文化財

石造、9本の石柱により支える。長さ5m

車戸川にかかる。昭和7年(1932)改修。太閤秀吉が寄進した米一万石によって築造したとされる。母大政所病気の平癒祈願である。

古記録には「神幸高橋」とか「輪橋」などとも呼ばれていた。

現在の橋は石製であるが、寛永年間の大造営の際に建造されたものである。それ以前は木製の橋であったとされる。

祭礼の折、神輿が渡る。高くなっているのは表通りから拝殿がみえないように目かくしの為でもある。

       

神門

檜皮葺で左右に約40mの築地塀がのびている。かつては桁行二間余、梁行一間半、左右に随身と獅子狛犬を配した楼門であったという。

        

杓子絵馬掛け

    

神馬舎

大正12年(1923)、川瀬出身の酒屋、小林庄平(鎌倉市)の寄進。現在の木彫神馬は昭和60年馬頭人奉仕の夏原平次郎氏の寄進。

  

絵馬殿

大正8年、アメリカに移住した935人の寄進

     

手水舎

昭和6年(1931)、大阪の薬商小西九平衛の寄進

    

授与所

「壽」の焼き印で知られる「お多賀杓子」と「莚字柏葉」の神紋紙に包まれた「莚寿おこし」が手に入る。

   

能舞殿

昭和7年(1932)の竣工 正月3日の翁始めは京都茂山社中が奉仕する。

多賀大社には能面59面、狂言面13面が伝わり、正月の翁始式では「翁三番曳」「屋島」「福の神」が奉納される。

       

拝殿・幣殿・本殿

流れ造り。昭和の大造営により昭和7年竣工。3殿が並び、すべてが天候に左右されることなく移動できるように回廊がつながれている。豪雪地であったことによる。全体の建築は均整が取れ美しく、雄大である。

拝殿中央の建物のみが江戸時代(寛永の造営)のもの。檜皮葺の廻廊に囲まれ、静かな佇まいをみせる。

国家神道時代を代表する建築物。旧の官幣大社 本殿の屋根の上に丸太のようなものがあるのがカツオ木と言い、両端に天に向かって広がっているのを千木という。尚棟木の下には下魚がある。

拝殿と幣殿の間の庭を中坪という。清浄な小砂利がすがすがしい。右手が幣殿、中央が神楽舎、左手が拝殿である。

            

荘厳な森に囲まれる参集殿

参詣者の便宜をはかり、食事や宿泊の施設を備え、結婚式場でもある。また、ゲートボールの宮司杯、育成会のボーイスカウト事業も行い、社会参加の面も持っている。

    

奥書院

県重要文化財

桁行14.0m、梁間8.9m、一重、寄棟造、南側・西側は庇付、桟瓦葺

安永3年(1774)の新築と類推されている。

平面は近年の現在の半解体修理で、「三十六歌仙の間 10畳間」に西へ「4畳間」「8畳間」と続いて北と東側に縁が回り、南面中央には梁間2間の室が接続して、屋根はT字型の寄棟造であったことが判明した。

        

奥書院庭園

国名勝:指定昭和10年(1935)

縁側と庭との高さが他の庭では見られないほど離れており、池は南岸が直線で、他は曲線を描き、自然石の橋がある。

池泉鑑賞式庭園で、正面奥に不動三尊石を組み鶴亀の出島を配し、枯れ滝の下には、力感溢れる石橋を渡している。

一帯に豪華な石を配し、桃山時代の様式をとどめている。

        

襖絵

   

鶴の間

群れ遊ぶ鶴を配した襖絵があることからいわれる。落款はないが狩野派のしかるべき人の手になったといわれる。

    

各界名士の絵馬

奥書院廊下に掲げられた絵馬の一例

        

延命石

絵馬殿前の松の根元にある。

治承の昔(平安末期)平家の軍によって焼かれた東大寺の再建を命じられた俊乗坊重源の延命祈願。20年の寿命を得て満願。

この石に笈(おい)を置いてお礼参りをしたという社伝。神紋のいわれであり、当社で延命の「延」を「莚」とするいわれである。

以来、延命の信仰を集め、豊臣秀吉も母の大政所の長寿を祈って参詣しており、秀吉が納めた長寿祈願文が残っている。

    

太閤秀吉祈願文

天正16年、母大政所の病気に際し祈願文。「余の儀3ケ年、然らずんば2年、げにげにならんずんば30日にても延命候うように」

大政所はしばらく病小康を得られ、秀吉は一万石を寄進。この寄進により太閤橋、庭園、太閤蔵を築造。

以後秀吉の信心は石田家、徳川家、井伊家に受け継がれてゆく。

 

鐘楼・梵鐘

県指定文化財

天文24年(1555)の鋳造。寄進者の中に浅井長政の幼名猿夜叉の他に122名の名前が刻まれている。

佐々木氏、尼子氏、高宮氏などこの当時(戦国)の有力豪族の名前もあり、信仰心の強さがうかがえる。

鐘身は156.2cmで、天文以前の鐘では五指に入る。

     

太閤蔵

    

紙本金地著色調馬厩馬図

国重要文化財:江戸時代

六曲屏風は、風俗資料として貴重で、馬の生き生きとした表現は、桃山風を伝える江戸初期の様式を示す。

無理町時代末期、岩佐又兵衛の筆による。

 

紙本著色三十六歌仙六曲屏風

県重要文化財

永禄12年(1569)の墨署銘が残る。

多賀参詣曼荼羅

多賀大社には桃山時代と江戸時代の二幅の紙本著色多賀大社参詣曼荼羅が伝わる。参詣曼荼羅は坊人が多賀信仰を広め、信者を増やし勧進をうけるために持ち歩いたもので、大社の創立や由来から霊験談などと共に名所案内までを絵説したとされる。

 

信玄の厄除祈願

武田信玄は25歳の厄年に際し、当社に黄金を奉納し、厄除けを祈願している。

多賀大社文書については、136点が県指定文化財である。その中には京極導誉、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉などの時の権力者から手厚い信仰と保護を受けていた記録が残るとされる。

  

四季の祭礼

1月3日 茂山社中による神事能が奉納される翁始式がある。

古例大祭の御使殿(おつかいでん)と馬頭人(ばとうにん)を定めて差符(さしふ)が授けられる差定式が行なわれる。

この他4月の大祭までに十数回の関連祭事が行なわれる。

2月節分祭

3月17日祈年祭

4月22日古例大祭

鎌倉時代に始まったとの記録が残る。多賀大社での神事の後、約4km離れた栗栖(くりす)の調宮神社(ととのみや)へ向かう御幸神が行なわれる。馬頭人を先頭に行列が続き、富の木を持ち帰る儀式があり、神社東方の4株が集まったカツラが使用される。

6月第二日曜日御田植祭

県内の子女約70人が早乙女としてお田植唄と踊りに合わせて田植えを奉仕する。

8月3〜5日万灯祭

初詣に次ぐ参詣者で賑わう。境内と門前町は一万数千個の献灯で美しく彩られる。郷土芸能や近江猿楽などが演じられ、昔の夏の夜を思い起こす、懐かしさを感じさせる祭りである。

9月9日古例祭

規模は小さいが神輿が担がれ、収穫の喜びと次の年の豊作を願う古知古知相撲が境内で奉納される。

11月23日新嘗祭(にいなめ)

初穂米を本殿に奉納し、豊年使が豊穣感謝の祭詞を奏上する。

     

万灯祭

                

絵馬通り

多賀大社の門前にある表参道絵馬通り。通り沿いには、多賀の名物、特産品店が並び、個性溢れる看板も訪れる人を楽しませてくれる。

       

糸切餅

鎌倉時代、文永・弘安の役で蒙古船団が博多湾へ攻め込んだ時、暴風が吹いて船団は敗退するが、その暴風は全国の神社仏閣が祈願した神風であることを伝えるために人の心を表したものとする故事を語る門前名物。

蒙古船の旗印だった赤青3筋の色帯が美しい。

米粉を練って蒸し、こねたものにアンを包み、赤と青二本のスジが入れられた三味線の糸で切ることから名がついた。

参拝客のお土産として欠かせぬものになっている。

  

千代結び

糸切餅と並ぶ多賀名物にお菓子といえばこの千代結び。君が代の歌詞の「千代に八千代に」にあやかり末永く夫婦円満であることを祈願して作られた。

かぎ楼

国登録有形文化財

多賀大社の門前にある。横は西参道である。

映画のロケにも使われる元禄時代に建てられた木造三階建ての伝統的純和風の料理旅館。

 

参考資料《歴史と文化 近江、郷土資料辞典、総覧日本の建築、パンフレット、滋賀県の地理、多賀大社その周辺、他》


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