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金銀銅などの鉱山と文化財

■  「銀」の歴史を学ぶ文化財巡り  瀧山幸伸

世界的な銀の歴史は金とほぼ同様に古く、カッパドキアやシュメールの文明に遡る。その後ギリシアでは銀鉱山が千年ほど続き、ローマ時代には銀が貨幣はもちろん装飾や食器などに広く利用された。日本へは中国から朝鮮経由で製造技術が伝わったがあまり利用されることはなかった。対馬銀山は日本最古の銀山と言われ日本書紀にも登場し、世界的にも銀山として認知されてはいたが産出量は少なかった。

銀は主に貨幣や計量による決済手段として利用されてきた。中世の15世紀から16世紀にかけて中南米の銀鉱山が開発され、大量の銀が流通するようになる。その後はさらに貿易決済の需要が高まり続け、南蛮貿易からイギリスの東インド会社に移行すると明との貿易収支のアンバランスからアヘン戦争を引き起こすまでになった。

日本でも16世紀1527年から岩見銀山が開発され、世界的な流通に組み込まれることとなった。岩見銀山の産出量は17世紀には減少して行く。今は歴史の姿が良く残り、史跡としてはもちろん素晴らしいが、美しい街並が重伝建・重文建築として残っている。

  

佐渡は金だけでなく銀山としても優れていた。鶴子(つるし)銀山がその代表で、16世紀から戦後まで続いた。相川にあるので金山とともに訪問したい。

生野銀山は16世紀中頃から発展し、明治には政府直轄となり、1973年に閉山した。

   

延沢銀山も16世紀中頃から発展し、岩見、生野と並び日本三大銀山と呼ばれた時代もあったが1689年の崩落で閉山した。そのころ温泉が湧き、今では銀山温泉として有名だ。鉱山跡の探訪は楽しい。

 

院内銀山は17世紀(1606)からの開発だが、江戸時代を通じて日本最大の銀山だった。他の銀山は幕府直営だったが秋田藩が運営していたためか、伊賀出身の芭蕉が隠密として偵察に行ったのが奥の細道の真の目的だとの説がある。19世紀以降大いに繁栄し、城下町秋田を超える人口15000人で出羽の都と呼ばれた。明治に入り古川が近代化を行い盛り返したが戦後閉山した。この遺跡を訪問する人は極めてまれで、共同墓地や金山神社などは夕暮時にはぞっとして怖いくらいで、背後に誰かいるような気配がする。廃墟好きな方向けだ。

  

小坂鉱山は明治以降に発展した鉱山で、20世紀初頭には銀の生産量が日本一となった。当時の繁栄の象徴だった旧小坂鉱山事務所と芝居小屋の康楽館が国の重要文化財として残っている。

 


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