JAPAN GEOGRAPHIC

持続可能都市(サステイナブルシティ)に関する研究 (モデルタウン「J-town2010」の研究)
Study of Sustainable City


端島(軍艦島)から産業都市型サステイナブルシティのヒントを探る
Case study of Industrial City Hashima,Hints for Sustainable City

瀧山幸伸  初稿 Aug. 2010 


 

大都市が生き残るためにはどうすればよいのだろうか。前回の「田園都市」に続き、今回は大都市の原点「産業都市」にハイライトを当て、未来の「産業都市型サステイナブルシ
ティ」のあり方を模索する。

例えば、狭い都心部でサステイナブルな再開発を行うにはどうすればよいか。あるいは、ウォーターフロントの開発において、20 世紀型の用途規制が撤廃されたらどのような都市が創れるのか。工業専用地域や空港港湾など、規制が厳しかった地域で、端島のように一種の特区として都市が創れるのであれば、稼働中の産業資産のメリットを活かした都市を開発することができるのではないか。
極端な例だが、緑のない都心部で交通騒音や雑踏などに悩まされながら住むよりも、緑が多く温浴施設や運動場などの福利厚生施設もある工場や港湾施設の隣に住み、職住近接のほうが良いと考える労働者もいるのではないか。
あるいは、鉱山や外洋客船や軍事基地などを例に、セルフコンテインド(自給自足)でオートノマス(自律的)な産業都市、「未来の産業都市型サステイナブルシティ」を創るため
にはどのような機能が必要だろうか。


1. 「日本一住みやすいまち」と呼ばれた高密度産業都市のサステイナビリティ


端島は、石炭産業の終焉と共に 1974 年に閉山し、無人島に戻った鉱山都市だ。2009 年には「九州・山口の近代化産業遺産群」の一つとして世界遺産候補に暫定登録され、廃墟の衝撃的な風景ゆえにマスコミにも登場する機会が多く、修学旅行でも人気が高い。
産業型大都市の縮図であり、島国日本の縮図でもあるこの島は、全体が産業プラントのシステムであり、都市問題のメカニズム解明が比較的容易なので、この島を題材として「産業都市型サステイナブルシティ」のありかたについて考察してみたい。


(1) 地理

端島は長崎港から 17.5km、対岸の野母半島から 4.5km の位置にある。

図 1 端島の位置(wikipedia)

東西 160m,南北 480m,総面積は 6.3ha であるが、埋め立て以前は三分の一の面積であった。
東側 40%は炭鉱の作業場で、西側 60%の 37,500 平方メートルが居住その他の区域となっていた。この区域に、建築面積 12,400 平方メートル(建ぺい率 33%)、延床面積 66,300 平方メートル(容積率 177%)、(注:分母には道路公共用地等全て含む)の施設が凝縮し、最大人口約 5,300 人、居住部分の人口密度は 1,400 人/ha と、人口密度では世界最高であった。(資料 1,資料 2)

写真 1 端島の模型 西側 (長崎港での展示)

写真 2 閉山時の航空写真(国土地理院)

図 2 建物配置図 (wikipedia)

端島が軍艦島と呼ばれるのは形から来るものだが、規模も人口も原子力空母エンタープライズと同じである。首都圏で比較すれば、人工島の海ほたるは面積 3.6ha、建ぺい率 25%、容積率 120%で、平成 19 年には日々17,000 人が利用したが、住民はゼロである。ここの絶景を楽しみたい人は、もしホテルや住宅があれば泊まったり住んでみたいだろう。(資料3)

写真 3 海ほたるの俯瞰写真(日建設計ホームページ)


端島は 1974 年の閉山後、解体されずにそのまま放置されたため、日々荒廃が進行している。厳しい自然環境の中で特に鉄筋コンクリートの腐食崩壊が甚だしい。

写真 4 端島 西南側 2009 年の姿 (wikipedia)

写真 5 端島 北東側 2006 年の姿左から、端島小中学校(70 号棟)、65 号棟、病院(69 号棟)(wikipedia)

写真 6 30 号棟 2009 年の姿 (wikipedia)
日本最初の鉄筋コンクリート集合住宅 1916 年(大正 5 年)建築


写真 7 1945 年建築の 65 号棟(左)と小中学校 2009 年の姿 (wikipedia)

 

(2) 歴史

端島での石炭採掘事業は江戸時代の 1810 年(文化 7 年)に遡るが、それ以前から漁民が細々と採炭していた。1890 年(明治 23 年)、端島炭鉱の所有運営権が鍋島孫太郎(旧鍋島深堀藩主)から三菱へ移り、その後約 100 年にわたり三菱の重要な収益源であり続けた。
この島の石炭は高品質で、主に八幡の製鉄所(1901 年操業開始)の製鉄原料として利用された。


図 3 明治後期の姿 (wikipedia)

写真 8 昭和初期の姿 (wikipedia)中央の建物は 30 号棟

 

(3) 端島のサステイナビリティ

端島について耳にするキーワードは多い。日本一の人口密度、住みやすさ、濃密なコミュニティ、鍵をかける必要が無かった、端島銀座の賑わい、屋上農園、屋上保育園、小
中一体、空中渡り廊下、映画館パチンコなどの娯楽施設や病院を持っている島、寺院・神社と祭り、ゆりかごから墓場まで、墓地と公園以外全部あった町、日本最初の鉄筋コンクリート住宅、格安の公共料金、電化製品の普及、給水船・海水淡水化、24 時間眠らない町、三菱の町、そして、ゴーストタウン・廃墟だ。
本考察はドキュメンタリーやルポルタージュではないので、これらのキーワードをランダムに取り上げたり恣意的にフォーカスすることは避けたい。田園都市型サステイナブルシティの章で、都市がサステイナブルであるためには、「環境、エネルギー、食糧、健康安全、産業(特に知財)、教育文化、多世代近居とコミュニティ、タウンマネジメント」など、自
然環境・人文環境・社会環境がサステイナブルである必要があると述べた。この観点から、環境アセスメントの手法を応用発展させて、端島のサステイナビリティを検討してみよう。

今日の環境アセスメント手法は、計測や予測が科学的に可能な自然環境分野を主としたものであり、都市や地域のサステイナビリティの全体像を総合的に評価する手法は未だ確立していない。
そこで、サステイナビリティに深く関与する「セルフコンテインド/オートノマス」の基本理念に基いて、今までは評価が難しかった人文科学・社会科学的要素も積極的に取り入れ、
総合的なサステイナビリティ項目の評価を試行する。
評価項目は、人の活動(フットプリント)が地球に及ぼす影響(グローバルフットプリント)を測るという視点に立ち、今までの環境評価項目であった、大気(悪臭、振動騒音、
日照、温室効果ガス)、水(上下水、地下水、表層水)地形地質、生態系、景観、廃棄物等に加えて、全ての材の出入り(食糧、生活生産資材、エネルギー)、健康安全、世代とコミュニティ、教育文化宗教、産業活動、タウンマネジメントなどの人文科学・社会科学的環境要素を総合評価する。

これらを大項目で括ると、
・持続可能な環境と健康安全
・持続可能な産業と労働生産
・持続可能なインフラと資源
・持続可能なコミュニティ と生活の場

となるので、この項目に沿って考察する。


A. 持続不可能だった環境と健康安全 ~厳しい自然環境


写真 9 嵐の端島 (長崎港での展示)


都市の環境負荷は、その土地の自然環境に大きく制約される。端島の気象、特に台風時の波浪の脅威は激しい。大波に巻き込まれた石や材木が凶器となって護岸など
を頻繁に破壊する。西側からの波の飛沣が堤防どころか島全体を越えんばかりに大量に降り注ぐため、従来の木造住宅に代わり鉄筋コンクリートの集合住宅が建築さ
れたのだが、この塩分が鉄筋の腐食を促進させるため、頻繁に補修改築が行われた。
このような環境では鉄筋コンクリート住宅はライフサイクルの環境負荷が高い。鉄とコンクリートの文明を謳歌した 20 世紀型産業都市、使い捨て都市の末路の実験場
であったとも言える。
なぜ端島に日本最初の鉄筋コンクリート造りの集合住宅が建築されたのか。狭小な土地、厳しい自然環境に対抗するための防水防火性能もさることながら、鉱山技師
の技術に支援されたことは否定できない。世界初の鉄筋コンクリート住宅は、オーギュスト・ペレによるパリのフランクリン街アパートで、1902 年とされる。アドルフ・ロースによるウィーンのロースハウスが 1910 年、ル・コルビュジェがドミノシステムを提唱したのが 1914 年であるから、1916 年に建築された 30 号棟は時代的には相当に野心的であるが、坑内で山留支保工として鉄筋コンクリートを日常利用していた鉱山技師の技術があったから、このような高層住宅を建築できたのである。
日照や通風や緑は当初から問題であった。集合住宅はかなり高密度であり、低層階では十分な日照が得られず、通風も悪く、かつ悪臭もかなり漂っていた。だが、当時の大都市の住宅密集地と比べればどちらが良かったとは断言できない。
緑がほとんど無い島で、生物多様性は望むべくもないが、公共空間に多数設置された緑化スポットと屋上は、スペースと日照の点で唯一緑と接することが可能なチャレンジであった。屋上での農園は土の搬入と塩害に悩まされた。緑に癒されることが難しい都市生活者にとって、屋上緑化は古くて新しい問題である。ただし、緑化スポット、花壇、鉢植えなど、下町の路地と同様な緑との付き合い方は成功しており、緑の絶対量は不足していたが、緑とのふれあいを体感する効用は大きかった。
人が感じる緑の豊かさは、絶対量ではなく緑とのコミュニケーションの質と密度である。この島を題材とした映画「緑なき島」は部外者の先入観に訴えるように歪曲された表現である。


B. 産業とインフラ

・持続不可能だった資源とエネルギー

端島の石炭産業が持続不可能だったことは自明なのでここでは省略する。電気ガス水道などのユーティリティはどうであろうか。住民は三菱丸抱えの社宅に住み、家賃、電気ガス水道代含めて月額 10 円だったから、電気、水の節約インセンティブは働かない。
電力は産業用に必要であるため当初からふんだんにあったが、石炭火力である。電力が使い放題で、世帯の高収入にも支えられて電化製品の普及は日本最高レベルであったが、サステイナブルとは言い難い。
上水は、島に水源が無いため、明治 23 年に石炭火力による海水蒸留を始め、配給制限により一人一日 8 リットルの使用量だった。昭和 7 年の給水船導入で 100 リットルに増えたが、水チケットによる配給制限があった。それが昭和 32 年本土からの海底給水管が完成してからは 280 リットル。これは当時の長崎市民の使用水量 230 リットルを上回る。下水は水が貴重な時代には海水希釈して直接海に放流していたため、海水の汚染により赤痢などの疫病が蔓延することもあった。ただし、風呂はほとんどの住民が共同浴場を利用していたので、この点は環境とコミュニティの両面から評価されて良い。それを未来の都市に導入できるかは、ライフスタイルの多様化の点で疑問ではある。
資材はどうであろうか。島の廃棄物のうち、生活ゴミは海に投棄していた。これまたサステイナブルではない。食糧や生活資材に関しては、水と同様ほぼ全てが島外からの調達である。食糧に関しては未来型都市では植物工場という案もあろうが、前提となる再生可能エネルギーの確保において、太陽光、風力、波力どれも難しいので実現は厳しい。

結論として、エネルギー、上下水、生活資材分野では、端島という都市は環境負荷が高かった。この島に新たに未来型のサステイナブルシティを創ることも難しい。


写真 10 日給社宅(16 号棟から 20 号棟)屋上での屋上農園 (資料 1)


写真 11 30 号棟の吹き抜け (資料1)

写真 12 日給社宅 (資料 1)


・持続可能だった輸送システム ~自動車とエレベータが無い社会

この島には自動車交通が無く、各集合住宅には最後までエレベータが無かった。もちろん通勤の環境負荷も社会的負荷も無かった。移動運搬に要する環境負荷は抑制されているのみならず、そのことがコミュニティ醸成においても非常に有効に機能したし、救急車も必要ない。この点は大いに評価されるべきで、未来の産業都市型サステイナブルシティのヒントがある。余談だが、日本初のエレベータ付き集合住宅は「お茶の水文化アパート」で、1925(大正 14)年竣工、森本厚吉(北海道帝国大学教授)とヴォーリズの設計である。


C. 持続可能だった先進的コミュニティ

・学ぶ点が多いコミュニティのサステイナビリティ

社会文化面ではどうであろうか。もし産業が持続していれば、この島のコミュニティのサステイナビリティは先進的で、学ぶ点が多い。
元島民が、「離島後に住んだ大都市のアパートよりもはるかに住みやすかった」という表現には様々な理由がある。短視眼的には物欲面、はるかに格安な生活コストに比べて当時の一般世帯の 10 倍ほどの世帯収入があったという裕福感は否定しないが、はたしてそれだけであろうか。
平成 15 年に県立長崎シーボルト大学の藤沢研究室が行った元島民へのアンケートが興味深い。(資料 4) 数字の裏側に隠れている理由を探ってみると、「住みやすい」
という言葉の裏にある、人間の高度な欲求を満たす要因が見える。生活費が安い、モノがふんだんにある、という基本的な欲求から、安全安心への欲求、コミュニティへの帰属欲求、コミュニケーションによる認知欲求、自己実現の欲求へと、「住みやすさ」の欲求次元も多様だ。その中で、近所付き合いや狭い空間での遊びなど、多世代複合のコミュニティが濃密であったことは特に注目したい点だ。
その理由として、企業が一元的に土地を所有し、開発し、運営する都市のメリットが挙げられる。具体的には以下の点だ。

・居室まで含め全施設が公共物あるいは運命共同体の性格を持っていたこと

・「職住近接」で、コミュニティでの父親の存在が大きく、家族ぐるみでコミュニティ付き合いができたこと

・ほとんど皆顔見知りであったこと

・鉱山は共同作業が非常に重要であり、連帯意識が非常に高かったこと

・住宅の居室が狭い代わりに、建物内の共用スペースが通常の共同住宅(20%程度)の倍もあったこと

・建物敷地内通路や屋上が積極的に共用スペースとして解放されていたこと

・通路は自動車が通らないので共用スペース的に多目的に利用されたこと

・共同浴場で活発なコミュニケーションがなされたこと

・多くの公共施設、娯楽施設、店舗(青空市場含め)が密集していたこと

・神社と祭りが特別な意味合いを持っていたこと(安全を最も重視していた鉱山では神社への崇拝が顕著であり、端島神社は島の頂点に立ち景観的にもランドマークとなって精神的なシンボルを形成していた)

・娯楽が限られている中でイベントの影響力が大きかったこと

・多世代同居の幸せ感があったこと (退職すると島から退去しなければならないので、それを避けるために積極的に養子縁組を行い、多世代が同居したそうである)

「自動車が通らない」という事実だけ取り上げても、子供にとっては「道路で遊べて住みやすかった」だろうし、母親にとっては「子供が交通事故に巻き込まれる心配が無くて住みやすかった」のであろう。これらの各種「住みやすい」という価値感、幸福感が、端島に住んでいた人々のアイデンティティの醸成に寄与していることは否定できない。
戦後最盛期の端島と、ロナルド・ドーアが「都市の日本人」(資料 5)で実地研究した頃の東京の下町とはほぼ同時代であり、これらを人文・社会科学的に比較考察することは非常に興味深い。コーホート分析をすればさらに興味深い結果が出るだろうが、当時の子供の多さに由来する賑やかさは端島だけの傾向ではない。

写真 12 昭和 30 年代後半の室内 ホームバーとステレオとテレビが裕福感を演出している(資料1)

 

・教育のサステイナビリティ ~コミュニティ自ら教育に責任を持つ

端島での教育の歴史は、教育のあるべき姿を考えさせられる。明治 26 年に「社立」の尋常小学校が開設された。小中学校の一体化も狭い敷地ゆえの当然の結果だが、問題は幼稚園と保育園だった。端島では共働き世帯が多いためその要望が強く、昭和 12 年に社立幼稚園が日給社宅屋上に開設されている。その後、寺の本堂利用を経て、昭和 27 年に 65 号棟の屋上に新築されたが、屋上では「前例が無い」ということで国の規制に抵触し、補助金取得に苦労したそうである。
この島の教育システムが特別進んでいるわけではないが、この島には保育と学校と職場とコミュニティと家族と個人との境目が少ない。コミュニティと教育と職場が非常に緊密な関係となっていることは、教育と文化のサステイナビリティにとって非常に重要な要素である。例えば、記憶の伝承、知の伝承について考えてみよう。元島民が、離島した後も自分たちのアイデンティティを保ち続ける上で非常に重要な役割を果たしているのが「アルバム」だという。そのアルバムには、学校・職場・地域・家族・個人のイベントが混在しているが、共通体験から醸成された「共有価値」が多く存在する。未来の都市においては、都市の統合デジタルアーカイブスが、学校とコミュニティと個人とをつなぐパブリックメディアとして重要であるみならず、文化や技術などの知財を伝承するためにも大変重要である。それはマルチメディアの墓碑銘ともなり、次世代に道徳観や宗教観を伝える教育メディアにもなりうる。


2. ゴーストタウンが語る産業都市のサステイナビリティ


(1) ゴーストタウンからのメッセージ

端島は産業都市の典型であり、例外ではない。世界の近代産業遺産を見てみれば、産業都市の脆弱さは痛いほど理解できる。(資料 6 )
世界の大都市のほとんどは、産業の複合化で本質が見えづらくなっているが、基本的には産業都市である。産業都市のワーストケースはゴーストタウンだが、なぜゴーストタウンになったのかを知ることが産業都市型サステイナブルシティのありかたを探求する参考となる。

ゴーストタウンもいろいろだ。産業競争での敗北、資源の枯渇、災害、戦争、汚染、社会システムの変化等々。フランスの世界遺産、アルケスナン王立製塩所は競争に耐えられなくなって棄てられたが、天才的設計家の手になる都市は美しく、リゾートや教育文化など違う目的ならば都市が復活できたのではなかろうか。災害に見舞われたためゴーストタウンとなった例は多い。チェルノブイリの原子力発電所があったプリチャピは 5 万人の人口を擁した電力産業都市だったが、事故に見舞われてゴーストタウンとなった。将来も相当の長期にわたって立ち入り禁止となるであろう。SF 映画で頻繁に登場する「大都市のゴーストタウン化」は、ショッキングな原因が引き金となっているが、そのようなことは絶対に起きないと言い切れるだろうか。

写真 13 アルケスナン王立製塩所 (wikipedia)

ゴーストタウンは海外に多数あるが、ゴーストとは言えないまでも厳しい状況にある国内事例も多い。例えば、佐渡金山石見銀山院内銀山別子銅山阿仁鉱山小坂鉱山など、最盛期には数万人規模の鉱山都市がゴーストタウン化した。多くは資源の枯渇と競争での敗北だ。鉱毒事件で有名な足尾銅山は古河グループなどを生み、日立鉱山は日立・日産グループを生んだが、現地は閉山し廃れている。赤平夕張三池などの炭鉱も、富岡製糸場も、産業としては終わっている。
その中で、常磐炭鉱のリゾート事業への転換、北九州のエコ関連事業への転換などは生き残りの成功例だ。何が産業都市の勝敗を分けたのだろうか。常磐炭鉱は、温泉という鉱山の厄介者を観光資源に転用するという幸運に恵まれたが、映画「フラガール」に見るように畑違いの分野への転換は産業にとっても従業員と家族にとっても痛みとリスクを伴う。
北九州は、工場施設と技術者という重要な知財が維持されていたため、静脈産業への転換が容易だったことと、地理的な水運の利便性が幸いした。特に技術者の活用という点は、産業にとっても住民にとっても幸せな方向であり、都市のサステイナビリティにとって重要なキーワードである。



(2) ゴーストタウンにならないために


ゴーストタウンにならないためにはどうすればよいか。自然環境(地の利)と社会環境(人の理)を味方につけなければ産業都市は生き残れない。あたりまえのことだが、産業
都市成立時(そこに都市を創ると決めた要因)の原点に立ち戻ってそれを再確認しておきたい。


・自然環境

自然災害はかなり明確に予測できるのだが、人々の認識は薄く、都市の悲劇はそこにある。
自然災害(洪水、地震、噴火、暴風、津波、水源枯渇、海面上昇、地盤沈下、熱波、寒波、大火災)は都市の存在を脅かす最も明白な脅威であるが、環境アセスメントでは防災はメインテーマではなく、開発規制当局のガイドラインを無条件に是認しており、リスク評価は行わない。日本では都市の防災計画やパンデミック対策は環境とは所管官庁も違う。これでは都市の寿命を議論する数百年から数千年に及ぶタイムスパンでの注意が払われない。
パンデミックは大都市は明らかに不利である。ヨーロッパではペスト大流行に伴う都市崩壊があった。あるいは、頻繁に発生する洪水であるが、河川の治水工事は 50 年 100 年確率で設計する。すなわち 50 年か 100 年に一度、その都市は洪水に見舞われるということである。それを避けるためには、洪水が起きない所に都市を創る必要がある。地震、津波、火山の災害も同様である。
地震は地域が限定されているが、世界的な問題は海面上昇である。CO2 による海面上昇を危惧するのであれば、五千年前の縄文海進に学ぶ必要がある。当時は海面が約 15m も高かったのだから、サンゴ礁の島国が数十センチの海面上昇で水没することを心配するのは当然として、世界の臨海型大都市は次回の縄文海進にも備えなければならない。これに耐えられない都市はアトランティスの運命となるということである。大気質、土壌、音、水質、動植物のサステイナビリティに関しては、ある程度直感的に予測が立つのでそれなりの対策がなされている。


・社会環境

産業構造の変化に柔軟であれば都市は生き残れるのか。経済合理性だけが産業都市の存続基盤を支えているわけではない。これからのグローバル社会では、人々の価値観の変化など、産業構造の変化のみならず、その背景となる社会構造の変化に対応しなければ都市は生き残れない。
かつて、例えば南北戦争は産業構造の変化に伴う奴隷問題(社会問題)と南北間の労働者確保競争であり、それが都市の盛衰を決定づけた。アヘン戦争の結果生まれた上海、もっと古くは東インド会社やシルクロードで生まれた交易都市も、塩野七生が描くところの社会構造の変化が重要な転機となった。古代ローマの奴隷暴動も今日の労働争議も、階級闘争のリスクという点では似たようなものだ。今日の環境問題も社会構造の変化であり、CO2削減に不利な産業は生き残れない。反社会的な企業の製品がボイコットされるなども、社会構造の変化であり、これが都市の存続を脅かすこともありうる。大都市は戦争やテロの標的にもなる。戦争、紛争、宗教や文化の対立、疫病、エネルギー枯渇、食糧枯渇、産業構造変化、犯罪、道徳の低下、課税、社会的規制などの変化で都市の存立が危なくなる。

社会環境の変化ということでは、アメリカの禁酒法が良い例で、酒好きな人は州(住み慣れた町)を捨てるということもあった。今日の喫煙問題ではどうだろうか。田園では喫煙
の規制は緩いが、大都市ではますます規制が厳しくなっている。もしも喫煙者のための都市(あるいは非喫煙者のための都市)があり、この都市ではどこでも自由に喫煙が可能(どこでもスモークフリー)であれば、多くの喫煙者(非喫煙者)がそこに住み働きたいと願うであろう。課税・福祉の変化はさらに明白である。日本では地方税は同じだが、世界では違う。法人にとっても個人にとっても税の額とサービスの格差が都市の盛衰を左右することが起きるであろう。大都市での環境税なども社会に与える影響を慎重に吟味する必要がある。


3. 産業都市型サステイナブルシティの未来

大都市間のグローバル競争という言葉が頻繁に使われるが、大都市東京においても、金融センターで生き延びる絶対的な有利性があるのか、製造業や情報産業で生き延びられるのか、医療や高度技術で生き延びるのか、あるいはコンテンツで行くのか。現在は「日本語」という非関税障壁があるが、かつて金融の国際化がそうであったように、グローバルスタンダードの英語を使うことで海外からの低コスト労働力までが自由化された時、日本の大都市はどうなるのか、考えるべき点は多い。
再度明確にしておきたいことは一点のみだ。産業都市型サステイナブルシティの未来は、その都市自体が「セルフコンテインド/オートノマス」でなければ、外部環境の変化に翻弄されるリスクが高い、という点であり、島国日本の脆弱性を克服するカギはここにあると思われる。江戸時代の鎖国を再び指向するわけではないが、産業都市の未来のワーストケースシナリオを想定して徐々に構造転換し、非常時でもミニマムサバイバルできるような備えを怠らないようにしておくことが重要である。
資源の少ない日本の産業都市の活路は、人的資源(知財)の高度活用であり、このような産業都市の構造変化にあわせ、そこに住む人々のライフスタイルも、省資源かつ知財指向に変化する必要がある。エネルギーと食糧が自給できれば最低限の暮らしは確保できるのだから、化石燃料の文明から決別して再生可能エネルギー技術で世界をリードし、安全で高付加価値な食料を生産するシステムを確立する。それは都市のサステイナビリティの根源でもあると同時に、世界が繰り返す悲惨な戦争を避ける道であり、日本のナショナルセキュリティーに直結すると言える。

<参考資料>

資料 1 軍艦島実測調査資料集 追捕版―大正・昭和初期の近代建築群の実証的研究 阿久井 喜孝,滋賀 秀実 東京電機大学出版局; 第 3 版 2005/03
資料 2 軍艦島 海上産業都市に住む―ビジュアルブック 水辺の生活誌 阿久井 喜孝 岩波書店 2004/10
資料 3 海ほたる
http://www.nikken.co.jp/ja/projects/index.php?JOBNO=T920310&SEL=BLD&BLD=400
資料 4 元島民アンケート結果
http://www.gunkanjima-wh.com/hasimaank.htm
資料 5 「都市の日本人」 ロナルド・P・ドーア 岩波書店 1962
資料6 産業遺産
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A2