MONTHLY WEB MAGAZINE Dec.2011

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トピックス

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■■■■■ 瀧山幸伸

■ 月食

12月10日夜、月食を観察しました。Japan Geographicは「楽しく学ぶ教育サイト」「学校に行かなくても幼稚園から大学院クラスまでの勉強ができる」ことを目指していますので、月食のようなコンテンツは必須です。

が、撮影はずいぶん苦労しました。微速度撮影(タイムラプス)のムービーを見ると月が欠けていく様子が手に取るようにわかります。このような教材は本来ならば学校の先生が自ら作成するべきものででしょうが。

「世界遺産日光の秋」

11月初旬、世界遺産日光を訪問しました。百か所近くある世界遺産日光の登録建物は皆国宝あるいは重要文化財に指定されています。

神仏分離が行われ、東照宮、二荒山神社、輪王寺と別れましたが、日光のスピリットは一体です。今回は輪王寺の大猷院と慈眼堂を中心に調査しました。全体索引の、60番から67番までと、72番から92番までです。

慈眼堂廟塔では地震の影響で石像の首が無残に折れてしまいましたが、居合わせた文化財保護担当者の話では修復は可能なようです。

いつもはごった返す大猷院は信じられないような静けさで、廟所本来の幽玄な雰囲気を漂わせていました。

日光を訪問するたびに、細部にわたる建築や意匠の技が発見され、自分の眼がいかに節穴で何も見ていなかったことか、悔いの繰り返しです。

78 大猷院霊廟 夜叉門

  

「 今年の紅葉」

今年の紅葉は物理的には美しくありません。特に山が美しくなく、いつもは紅葉するケヤキなどは褐色の枯葉で風景を損じているとも言えますが、今年はひとしお紅葉がいとおしかったですね。

この秋訪問した紅葉の中でのおすすめは、福島の観音沼、新潟の名水竜ケ窪長谷川家、長野の金峰山渓谷、茨城の花園神社、花園渓谷、栃木の蓬莱山唐沢山、埼玉の中津川渓谷平林寺、東京の六義園、神奈川の三渓園、滋賀の金剛輪寺、京都の酬恩庵一休寺などです。いつもとは違って静かに過ごせました。

紹介順

            


■■■■■ 今年の紅葉は…大野木康夫

京都の紅葉シーズンも終わりを迎えようとしています。

今年は夏に雨が多く、気温も高かったので、紅葉が鮮やかになる条件がそろったのですが、11月に入って気温が高くなってしまい、時期が遅れて色付きはもうひとつになってしまいました。

例年真っ赤に染まる木々も、赤や黄色、橙色と色とりどりになり、見方によっては風情があるようにも思えますが、来年は真っ赤な紅葉になってほしいです。

11月から12月にかけて撮影した紅葉のうち、御所・離宮関係のものと、地元山科のものを集めてみました。

桂離宮(11月28日撮影)

モミジは広い庭園内に点在しており、あまり多くないのですが、ところどころ鮮やかに色づいていました。

京都御苑(12月2日撮影)

苑内にはモミジ、イチョウが点在しています。

特に九条池や建春門東側のモミジ、凝華洞跡の大イチョウはきれいでした。

仙洞御所(12月2日撮影)

11月の参観申込が外れて12月に当選したのですが、かえって見ごろに参観することができたので幸運でした。

紅葉山を中心に、おびただしいモミジの木が茂っており、どちらを向いても赤と橙色といった感じでした。

修学院離宮(12月5日撮影)

こちらはもう少し早い方がきれいだったと思いますが、それでもなんとか紅葉の終盤を見ることができました。

浴龍池を周回したときに雨が降ってしまい、鏡のような水面に映った紅葉を見ることがかなわなかったのは残念でした。

御所や離宮に行く日は、好天に恵まれず、写真を撮っても何か暗い感じになってしまいました。

写真の腕が未熟なのもありますが、機会があればもう少し明るい写真を撮ってみたいです。

地元山科の紅葉から4箇所を取り上げます。

毘沙門堂(12月3日撮影)

今年のJR東海のキャンペーンポスターになっていたので、例年よりも遠方から来る方が多かったようです。

12月に入って、ポスターの色と同じような状態に色づきました。

日向大神宮(12月4日撮影)

紅葉の穴場として知られるようになりました。(知られた時点で穴場というものかどうか疑問ですが。)

まあまあの色付きでした。

随心院(12月4日撮影)

京都新聞の紅葉だよりに載っていますが、モミジは本堂脇の池の周り、勅使門脇の鐘楼の辺りと大師堂くらいです。

好天だったのですが、本堂脇は真逆光で難儀しました。

本願寺山科別院(12月4日撮影)

通称西御坊、正式には聖水山舞楽寺といいます。

子どもが通っている小学校の近くにあり、通りかかったときにふと見ると、境内のイチョウの木が夕陽に映えて綺麗でした。

自宅の紅葉(12月7日撮影(笑))

 


■■■■■ 赤目四十八滝 中山辰夫

久しぶりに訪れた赤目四十八滝、紅葉には少し早かったようです。大雨の後だったので水量が多く、その分、次々と現れる滝の

雄雄しい動きに圧倒されました。

岩場の歩道面が滑らかに踏み均された3kmの道は、平坦も有れば、凹凸もあり、上り下りの坂もあって起伏に富んでいる。

が、その割には歩きやすかった。

ほとばしる滝の水煙や木々の重なりで出来た暗がり。そこにモミジの赤・黄・緑が散在し、時にはストレートな光線が輝きを与える。

感激の場面が次々と続く。

その情景を目で確認し、あわててシャターを押す。全行程の間、止め処もないほどシャッターチャンスが続き、この素晴しい光景を

多くの人に伝えたいという思いがこみ上げてくる。

興奮おさまらない帰りの乗り物の中で成果を見る。・・・「???」 脳裏にある残像の景色と余りにも違いすぎる。景色の写り具合

に嘆きが高まる。

今年は真紅のモミジを求めて多くの場所を訪れました。行く先々でのモミジの色づき加減は我慢できます。だが、写っている景色

と自分の印象に残っている実像との大きな乖離を見ると疲れがドット出てきます。

30数年前、清水寺から持ち帰った自生の新芽が育った我が家のモミジ。これが色づく頃が京都・滋賀の見ごろと判断できます。

後は写す”術“を一歩進めて、 もう少し実像に迫った写真が残せるように務め、来年再訪して今年のリベンジをと誓いました。

我が家のモミジ


■■■■■ 霜月の色 川村由幸

 

今年も残すところ一か月、毎年思うことですが月日の流れの速いこと。

過ぎた一か月を振り返ると何も出来ずに時間だけが猛スピードで経過してしまったような

むなしさを覚えたりします。

今月のweb-magazineは冬が近づき、味覚も感覚も研ぎ澄まされる晩秋霜月の色を探してみました。

なんと言っても、この晩秋の高く真っ青な空に残った柿の実や咲き残りのコスモスの色は

霜月を代表する色です。

構図がおなじで、左側を重たくするクセが私にはあるようです。

青い空をくっきりとオレンジやピンク色が切る取る様はとても気持ちの良い風景です。

毎年11月末に家内とシクラメンを求めに栽培している園芸農家を訪れます。

いつも同じ園芸農家に行き、二鉢のシクラメンを買い求めます。

そのシクラメンは年を越して4〜5月まで花を楽しませてくれていて、我が家にはなくてはならないものです。

私にとってはシクラメンの赤・白・ピンクも霜月の色です。

この千両は我が家の庭にあります。いつも11月にこのように身が赤く色づきます。

お正月の飾りに使用するため、家内は少し早めに枝を切り花瓶に挿して保管しています。

理由は、これから冬がやってくると小鳥たちの餌が不足し、この千両は小鳥たちの格好の餌食となり、

実は下に落ちる間もなく食べ尽くされるのが例年だからです。

残すはやはり紅葉でしょうか。我が家の近くにある大洞院という寺にある大イチョウです。

イチョウの紅葉の黄色は落葉してからも地面を黄色に染め、二度楽しめます。

でも紅葉から落葉までがとても早く、紅葉するとすでに落葉が始まっているのがイチョウです。

色とは関係ありませんが、これも霜月の風景です。

左の画像の中央部分を拡大したのが右の画像です。

もう朱色と言ってもよい熟れた柿の実をすずめがついばんでいます。静かな晩秋の風景です。

これ以外にも、道端の満天星の赤や畑の端に咲く白い小菊も霜月の色でしょう。

晩秋も春ほどではないにしろ、彩の豊かな季節と言えるようです。


■■■■■お台場 柚原君子

とても気持ちの良い秋晴れの日に、お台場に行きました。

「ホテルグランパシフィックLE DAIBA」23Fのレストランでランチをしながら写真を撮りました。東京タワーとスカイツリーが一緒に見えて、そして振り返れば富士山も見え(当日は雲があってだめでした)、優しい曲線のレインボーブリッチの下を大小さまざまな船が通る、というまさに絶景のポジションでした。 続き

  


■■■■■ 足尾再訪 田中康平

足尾地域に最初に訪れたのは凡そ40年前のことだった。会社に入って初めて買ったスバル360に乗ってあちこち走り回るのが楽しくて、山道も面白かろうと鹿沼から未舗装の柏尾峠越えの山道を足尾へ向かった。

やっとの思いで峠を越えて始めて現れてきた足尾の赤茶けた禿山の連なる景観の不気味さは忘れられない。

少しばかり傾きかけた日差しに木が一本も無い三角形の山が幾つも赤く谷を囲んで異様に居座っている、見たこともない隔絶された様な世界にたじろいだ感じを覚えている。

話には聞いていた足尾の鉱毒事件のすさまじさを目の当たりにした思いだった。

その後何度か足尾を訪れている。次第に植林が進み山の緑が戻ってきているがまだその不気味さは覆われきっていない。

11月の終わり、ひさしぶりに野鳥を見に足尾の久蔵沢を訪れてみた。日光から足尾トンネルを抜けて暫く下ると間藤の駅へ向かう十字路がある。

ここを右へ折れて狭いガード下を抜けると足尾の旧鉱山町に出る。近代遺跡として発電所跡や古河橋には案内板が置かれているが、それよりも朽ちて行く精錬所を含む鉱山の町の景観全体が日本の近代化を支えた足尾銅山の必死さを未だにどこか漂わせていて感じるところがある。

三川合流ダムから久蔵沢へ入る。サルの集団が道横の岩の上に陣取り鳴き声をあげている。サルを支えるほどに山の緑が戻ってきたともいえるがまだまだだ。

人間のしわざも自然の中の一つのコマに過ぎない。鉱毒で緑が全て失われた景観も自然の一つの相でそれが人間と言う生物の努力でまた緑を戻しつつあるのもまた別の自然の一相なのだろう。

足尾には人を含む大きな自然の転がり行く様を眼前に見せてくれる奥深さがあるようだ。

 


■■■■■ イアン・ダセックの母方祖先、マレー家の人々 野崎順次

英国人イアン・ダセック氏(Ian Dussek、72歳)は、トリニダッド産天然アスファルトの輸入で知り合った40年来の友人で、13年位前に引退したが、今でも親交がある。10年前には英国アスファルト産業に長年貢献したとして、女王陛下から大英帝国勲章(OBE)を授与された。クラシックレーシングカーの熱烈な愛好者で、特にHRG名車の権威である。この分野での著作もある。古き良き時代の伝統を残す温厚な英国紳士であるが、商売では狡猾な面もあった。

彼の父方の祖先はヤン・ラデイスラフ・ドウシーク(Jan Ladislav Dussek、1760-1812)というボヘミア人作曲家・ピアニストで、イギリス・ピアノ楽派の基礎を築いたことで知られ、今でも彼の曲のCDが人気を呼んでいる。

イアン・ダセックは優れたストーリーテラーでもあり、いろいろ面白い話を手紙でくれたが、今回は母方のマレー家の話をしょう。

曽祖父のジョン・アイヴァー・マレーは1824年に生まれた。長じてエディンバラ大学で医学を学び、軍事外科で表彰された。1846年、中国にわたり、広東で病院を経営し、1852年には上海に行き、香港北部に最初の西洋系病院を自費で開業した。彼は自然史に非常に興味があり、英国の大学や博物館に多くの標本を送っている。

1855年にクリミアに旅行し、クリミア戦争の間、バラクラバの病院の副医院長を務めた。その後、英国に戻り、1858年に北京の英国大使館の一員として派遣されることになった。しかし、インドでの暴動のため、計画が変更になった。彼は香港に直行し、植民地軍医総監となり、病気と消毒に関して多くの開拓的業績を上げた。

1859年には日本を訪れ、当時の英国領事、ハワード・ヴァイン大尉に依頼されて英国人居住地の選択を助けた。それが発展して現在の横浜市街になった。そのころ、インドにも旅している。

香港で彼は大変な金持ちになり、海岸沿いの広大な土地を購入した。彼の専門は性病の予防と治療で、明らかに名医であった。米国海軍の艦隊軍医によれば、「公娼の登録と検査と云うシステムから派生する利点に、私は感動を覚えた。我々が訪れるほとんどの港で水兵は梅毒に感染した。特に日本がひどく、感染力が強烈であった。しかし、香港滞在中に感染したものは皆無に近かった。」また、英国海軍副監察官によれば、「私自身の経験から判断して、マレー氏独特の検査方法のお陰で、梅毒はほとんど消滅した。使用される器具の性能が見事で、子宮頚を含む各部位が迅速に完全に観察でき、しかも女性に対して僅かの痛みを与えない。」これらの業績により、彼はあらゆる国からメダルを授与されたようである。おそらく、それらの国の大使の治療もしたのであろう。

1861年、マレーは結婚し子供をたくさん作った。ただし、その子供たちで結婚したものは非常に少なかった。イアン・ダセックの祖父は末っ子で男と女の二人の子供があった。その男の方(イアンの叔父)に子供はなく、女の方(イアンの母)はたった一人(イアン自身)を育てただけだった。

香港でマレーは1年に2万ポンド稼いだ。当時としては極めて巨額である。彼は贅沢三昧にふけり、ある時などはディナーの後でテーブルクロスの四隅をつかんで窓から放り投げた。決してスマートな話ではない。その中にはセーブル磁器ディナーセットやとびきり上等のクリスタルグラスが入ったままだった。

1871年頃、マレーは帰国を決意した。財務顧問たちは、彼の香港の莫大な資産と香港上海銀行の大量の株券を売り払うように助言した。そして、全額をコーンウォールの錫の鉱山に投資させた。これはよくいって大失敗、より正確には詐欺であったろう。大半の財産を失った。その後、ヨークシャーのスカボロで医院を開業し、結局、1903年に亡くなった。たとえ、マレーがお金を持ち続けていても、末っ子であるイアンの祖父まで、回ってこなかっただろう。人生ってそんなものだ。

1952年、イアンが13歳の時に亡くなった祖父は、非常に興味深い人であったが、残念ながら、彼の人生についてイアンに語ることはなかった。彼はずっと香港銀行に勤務し、上海、福州など中国の数都市を転勤した。マレー半島にも旅したことがあり、イアンの母はペナンで生まれた。祖父は第一次世界大戦の終わりに英国に戻り、ケント州ブロムリーに住んだ。若い頃は英国の著名な政治家の私的スパイ網の一員であった。英国情報部に勤めた後に作家になったジョン・ブカン(代表作「39階段」)もそのメンバーだった。ブカンの小説のいくつかは事実に基づいていると、祖父はイアンに語ったそうだ。

マレー家は魅力あふれる一族だ。曽祖父の妻のお母さんは予知能力があり、未来を予言した。一族の祖先はスコットランド史にまでたどることができる。祖先の一人は国境を越えて羊泥棒をしたため捕まった。捕まえた領主は、こう云った。「おまえは明日絞首刑になるか、我が娘と結婚するか、二つに一つだ。」娘を見ると、非常に醜かったので、いったん刑を受けることにしたが、最後の瞬間に気が変わって結婚した。その後、順調に幸せに暮らしたという。


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Japan Geographic Web Magazine

編集 瀧山幸伸

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