Monthly Web Magazine Oct. 2015

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トピックス

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■■■■■ 中山道69次資料館 瀧山幸伸

中山道は東海道よりも昔の風情が残っており、古道歩きをする人がますます増えています。

長野県軽井沢町の西端、追分宿のはずれにあるこの資料館は、岸本館長自ら調査した膨大な資料を、自費建設の資料館で展示しているもので、ここへ行けば中山道の全てが理解できます。

岸本館長は地理好きで、徳島の高校で地理の先生を続けながら中山道歩きに魅了され、リタイア後に中山道の要所、追分に引っ越して来られました。

『中山道69次を歩く』というすばらしいガイド本を出版し、さらに病が高じて、2005年春に自費で資料館を開館されたものです。

館内の資料もさることながら、館の前庭に自力でこしらえたミニ中山道は、ご本人の知識の結晶ゆえに興味深いです。

前回は2005年春、館のオープン直後に訪問したのですが、10年を経て再訪したところ、ますます血気盛んでした。

今回は、すぐ近くのご自宅にある庭園を見学させていただきました。

やはり自力で、ふるさと四国ゆかりの「ミニ四国ジオラマ庭園」や「諏訪湖ジオラマ庭園」、「琵琶湖ジオラマ庭園」などを作られたのです。

さすが地理の先生ですから、縮尺や方位、ランドマークの設置など手抜かりはありません。

ご自宅なので奥様も植栽などで協力されたそうです。こんな変人に奥様がいらっしゃるのが不思議、奥様が協力するのはなお不思議だと感心しましたが、よくよく考えると自分も同類でした。

私も「ジャパンジオグラフィックミュージアム&アカデミー」を作りたい!

資料館と岸本ご夫妻。追分は中山道と北国街道が分岐する交通の要所です。戦国時代だったら岸本さんは軍師として活躍されたでしょう。

 

四国ジオラマ庭園内の竜馬像。像は真南を向いています。

 

諏訪湖ジオラマ庭園。両端に諏訪大社が鎮座し、「御神渡り」が盛り上がっています。

 

琵琶湖ジオラマ庭園とミニ伊吹山、伊吹山からの展望。

 

 


■■■■■ 忍阪(おっさか)石位寺の三尊石仏 野崎順次 

「やがて薄暗い厨子の中に、仄かに白く浮かび出た三尊石仏を拝した瞬間、これ程にも美しい石のみほとけがあるものかと、暫し声もなく見入るに相違ない。

(中略)

かかる霊像が遥かに今の世に伝えられていることは、何物にも増して尊い。」

川勝政太郎「大和の石造美術」天理時報社 昭和17年

「この石仏の魅力は三尊の美しい顔にある。微笑を浮かべた目、小さくひきしまった鼻と口、その口もとには朱の色を少し残して美しく、聖少年のおもかげに接した思いがする。三尊の小柄な顔立ち胸や腕、腹や足もとなどはほどよく肉づけされ、新鮮でみずみずしい童子のような自然美をそなえている。

脇侍の直立したポーズには、飛鳥仏のなごりを感じるが、飛鳥仏のような古拙的な堅い表現は見られず、童顔と写実的な体躯は、やがて訪れてくる天平写実への開花を待っているような石仏である。自鳳期は石仏にかぎらず、このような美しい仏像が作られた時代だった。」

清水俊明「大和の石仏」創元社 昭和49年、表紙が三尊石仏

「ほのぼのとして暖かいものがある、美少女といったかんじであろうか。」

晩年の川端康成の言葉。

このように多くの石仏研究家、愛好家が絶賛する最古最秀の「伝薬師三尊石仏」である。高さ115cm 、幅123cmばかりの丸みを帯びた三角形の砂岩に半肉彫りされている。薬師とされてきたが、製作された奈良前期には未だ仏像の様式が定まっていなかったので、何仏とはいえない。この三尊石仏の由来と沿革を調べてみた。

奈良前期白鳳時代(644〜710)に製作された。長谷寺の銅盤法華説相図の三尊仏とよく似ているという。額田王の念持仏として作られ、近くの粟原寺(おおばらでら)にあったが粟原川(おおばらがわ)の氾濫で流されてきたという伝承がある。写真は粟原の里と粟原寺跡。

また、大陸渡来説もあり、百済の弥勒石像が飛鳥寺、元興寺などを経て忍阪(おっさか)に来たというがあるが、百済の仏像とは様式が違うようだ。

いつ、この地に来られたのか、分からない。花崗岩よりは軟質の砂岩だが保存状態が極めて良好である。野ざらしになっていた期間は少なかったのだろう。

元禄2年(1689)、石位寺本堂が建立されたらしい。

大正5年(1916)、寺の庭に放置されていた三尊石仏を関野貞東京帝大教授が白鳳期の石仏と鑑定し、堂内の厨子に安置されるようになった。戦前の国宝指定を受けた。

昭和25年(1950)、戦後の文化財保護法の施行に伴い、改めて国重文に指定された。

昭和45年(1970)、無住の寺となる。この頃、村人の管理が始まる。

昭和53年(1978)、本堂(薬師堂)が建て替えられた。

昭和55年(1980)頃、石仏は秘仏で非公開となる。

平成22年(2010)、村人が一般公開を決め、桜井市に事前に申し込めば拝観できることになった。

私が最初に拝観したのは、昭和55年ころだから、秘仏として非公開になる直前だったようだ。古墳めぐりのついでに寄ったのだが、村の方がおられて拝ませていただいた。深い感動を覚え、写真を撮らせてもらった記憶があるが、ネガが見つからない。私は若い時から丹念にネガを整理しているのだが。

最近、再び拝観したくなった。あのように素晴らしい石仏がこの世に存在するのが不思議なくらいと思い起こしたのである。事前に桜井市観光課(phone 0744-42-9111)に申し込んだ。「9月27日(日)に行きたいのです。私独りなのです。お手間を取らせたくないので、他の方々の予約時間に合わせますが。」というと、その日は他の予約がないので、いつでもいいことになり、午前11時にした。現地のご担当はM区長さんで念のため携帯番号を教えてもらった。桜井駅からのバスが2時間に1本で、9時20分発で9時29分に忍阪に着く。奥の谷を散策してから石位寺を訪問することにした。

奥の谷はなるほどいいところだった。静寂そのものといいたいが、あいにく草刈り作業の方がおられて、とぎれとぎれに機械の音がする。

少し早めに石位寺に着いた。おばさんとおじさんがおられ、「11時の方ですね。早かったですね。」といわれた。おじさんにM区長さんですかと聞くと、区長さんは草刈りに行って、代わりだという。というか、まさにそのおじさんが石位寺のご担当らしい。先刻の奥の谷で草刈りに向かう村人二人とすれ違ったが、そのうちの一人がMさんだったようだ。また、その後、大阪の団体の予約があり、私の後に20数名来るとのこと。

もちろん、写真撮影禁止である。撮影機材の入っているリュックを手前のベンチにおいて、収蔵庫に向かった。40年前と変わらぬ、いやいや、1300年前とあまり変わらない清冽なお姿に再び感動した。テープの説明を聞いてから、15分くらい私一人にしてくれた。来てよかったとしみじみ思った。その後、資料、写真、絵画などを見せていただいた。

なお、このあたりの地名の漢字には注意を要する。地名は「忍阪(おっさか)」、街道が付くと土篇になって「忍坂街道」、舒明天皇陵は「押坂内陵(おさかのうちのみささぎ)」となる。歴史的な変遷の結果だろう。また、「粟原寺(おおばらでら)」、「粟原川(おおばらがわ)」は「栗(くり)」ではなく、「粟(あわ)」である。ネットでよく間違っている。

参考資料

桜井市観光情報ウェブサイト

忍阪の風ウェブサイト

Don Panchoのホームページなど


■■■■■天然記念物の撮影 大野木康夫

暫定通信員にしていただいた5年前の10月以来、文化財指定の建造物を中心に投稿してきましたが、最近は天然記念物も撮影するようになりました。

9月には滋賀県の天然記念物を数箇所撮影しました。

北花沢のハナノキ(東近江市)

ハナノキは木曽川流域などに自生するカエデ科の樹木で、滋賀県のものは自生の最西端ということで天然記念物に指定されたということです。

  

南花沢のハナノキ(東近江市)

北花沢と並んで、自生の最西端ということで指定されたようです。

落雷や腐食によって主幹が失われていますが、木としては存続している状態です。

  

熊野のヒダリマキガヤ(日野町)

日野町東部の山間の集落に自生しています。

ヒダリマキガヤは天然記念物指定の3本の他、所有者の希望により指定されていないものが1本あります。

偶然、道を尋ねた方が、指定されていない木の所有者の家の方でした。

実の筋が左巻になっているのが珍しいということで指定されたものです。

これも巨木ではなく、熊野神社の境内の杉などの巨木の方が、撮影対象になりやすいと思います。

   

平松のウツクシマツ自生地(湖南市)

ウツクシマツはアカマツの変形で、地表近くで枝が放射状に分かれ、細いブロッコリーのような形です。

湖南市の美松山の南西斜面に群生しています。

園芸栽培品種の多行松(傘松)とは違うということです。

    

了徳寺のオハツキイチョウ(米原市)

醒ヶ井宿の了徳寺にそびえるイチョウの大木ですが、一部の実が葉から生じるということで天然記念物に指定されたものです。

花や実は葉が変形したものということでしょうか。

少し気味が悪い気もしますが。

  

ここまでは天然記念物指定の樹木で、今までも撮影対象としていたものですが、別のものも撮影してみました。

別所高師小僧(日野町)

天然記念物の指定基準は「岩石、鉱物及び化石の産出状態」、「生物の働きによる地質現象」ということで、地学の領域に属するものです。

「高師小僧」とは、アシなどの湿地の植物の根や枝の周囲に、地中の酸化鉄が固着し、根や枝が腐ってできたパイプ状の鉄の塊です。

愛知県豊橋市南部の高師原で産出されたので「高師小僧」と呼ばれるようになったということです。

まずは産地である日野町別所地区の水田を訪問しました。

元は山林だったところを開墾し、水田にしていった過程で高師小僧が多数出土したということです。

国道307号からのアプローチ

   

石碑

 

これだけでは何もわかりませんので、出土した高師小僧が展示されている日野町南比都佐公民館を訪ねました。

ロビーの郷土資料展示コーナーに、大きな高師小僧が展示されていました。

 

管理の方が高師小僧をケースから出してくれました。

「アシなどの回りに固まってできた」ということから想像していたよりも、大きなものでした。

    

高師小僧は地学系の天然記念物としては撮影しやすいものでしたが、地層(断層以外)などは、草が茂っていたりすればどう撮影すればよいか想像もつきません。

「綿向山麓の接触変質地帯」(日野町)などは、撮影してもわかりづらいかもしれませんが、また挑戦したいと思います。


■■■■■ 宮古島で遊ぶ 田中康平 

10月初旬に初めて宮古島を訪れた。どこを回るかきっちりとは決めていかず、天気が良ければ浜へ、曇ったら鳥を見て雨が降れば博物館やとにかく建物の中で過ごせばいいと思っていた。実際の天気は曇りの予想が少し外れて全て晴れ、全く夏の雰囲気だった。予定通り透明度の高い海を毎日泳いだ。宮古島を満喫した気分だった。

浜を巡りながら鳥も見て文化財も見るというスタイルだったが、思いの外行くべきところが多くて、帰ってから写真や資料を整理しながら改めて宮古島について調べてみると、見逃した所ばかりが気になってくる。とにかくのんびりすればいいと事前の調べはこれくらいでというところで止めていた、それが良くなかったのだろう。

例えばビーチでは、見直してみると東洋一という評価すらある与那覇前浜ビーチにはいかず次に有名とされる新城(あらぐすく)海岸も行かずじまいで、何をやっていたのだろうと思ってしまう。巡ったビーチが良くないということは全くなくそれぞれに素晴らしいのだが、次の機会には前浜と新城にも行かねばとどうしても思う。しかしこの2つの浜も、トリップアドバイザーの外国人の書き込みにそれほどでもないというニュアンスを見つけるとどこか気が安らいだりもする。

文化財は大したものはないとの先入観念がどこかにあって、これ位か、と帰ってきて改めて宮古島市の歴史紹介サイトを見ると、見落としたものがこんなにあったのかと悔しい思いで驚く。水道が整備される前の共同井戸の遺跡があちこちにある、島の生活の歴史そのものが残っているようだ。先島ののろし台跡もあちこちにあり、来間島のものなどは訪れた展望台のすぐ脇にあったことがわかる、あれこれ見落としていた。石組みなども残っているようで見損ねたくやしさがある。

島の神社にあたる御嶽(うたぎ)も島内のあちらこちらにあったようで、宿から歩いて行けるところにさえあったと後で分かる。そればかりか、2万年以上も前の人骨が出土した洞窟も宿の近くであったことも後で知り、何ということかと思ってしまう。

鳥もサシバの国内最終渡りポイントだとは知っていたが、これほどまでに10月上旬では早すぎるとは感じていなかった。1羽見たかどうかで終わった。

後で知るとなんだということばかりだ。しかし、こうだから旅は面白いとも思えている。これは是非また行かねばならない、そう固く思い始めている。宮古島、面白い島だ。

写真は順に、1.空から見た宮古島の浜、2.宮古島の透明な海、3.宮古島の海中、4.シギラリゾートののどかなビーチ、5.サンゴ礁の海、6.野鳥(チュウシャクシギ)、7.中世の墓(知利真良豊見親(ちりまらとぅゆみゃ)の墓)

   


■■■■■ 仕事のついでに 川村由幸

肺炎の入院からずっとスッキリしない体調が続いています。

退院して10日ぐらい後に又熱を出して病院へ、大事にはなりませんでしたが

9月中旬の検査では医師も不安なのか、肺炎完治のお墨付きはいただけず、10月に再検査となりました。

そのせいで、自分の思いのままの行動は制約され仕事以外は外出も儘ならない暮らしをしています。

当然、プッシュシャッターシンドロームで人差し指に痙攣がでています。(そんな病はありませんが)

そんな中、運よく仕事で愛媛に出張ができたのです。三連休直前でしたが、新居浜での仕事が完了した後、松山に一泊しプッシュシャッターシンドロームの治療にあたりました。

撮影に訪れたのは松山城内子

当初、松山市内で道後温泉本館、石手寺などを廻ろうと考えていましたが、松山城で朝一番にもかかわらず大勢の観光客に出会い方針変更しました。

松山城は平山城で天守は高くありませんが美しい城です。

    

複雑に入り組んだ通路と石垣、その石垣も未だにその強固堅牢さを誇るようです。

一説によると、この城を築城した加藤嘉明は城の完成直前に会津に転封となっていますが、その理由があまりにも強固堅牢なこの松山城を築いてしまったためとも言われています。

現存12天守で今年松江城が国宝となりした。現在5天守が国宝、もちろん基準はあるのでしょうが次に国宝となるのはこの松山城のような気がします。

もう一つ、この松山城のおもしろいところは天守に至るまでに通過する多くの門です。

      

上の画像の門の内、3つが重要文化財に指定されています。ここにないものが1つ指定に入っていますから門だけで4つの重要文化財があり、隠門という城を攻めてきた敵の背後を襲うための門まであります。

全体で21件の重要文化財を持つ博物館のような城なのです。

撮影を終えて、駐車場に戻ってみると観光バスで一杯、天守の向かう一の門でハングルが飛び交っていたのも頷ける状況に道後温泉本館の撮影を諦めて、内子に向かうことにしました。

内子には今から13年前に一度訪れています。まだJGの通信員になっておらず、文化財の撮影に興味を持っていない頃で画像もほとんど残っていません。

初めての訪問のつもりで歩いてみました。

   

  

重要伝統的建造物群保存地区に指定され、重要文化財の建造物が内子座をはじめとして4件、漆喰の白壁の続く街並みは車の通りの少なく落ち着いて撮影ができました。

ただ、道幅が狭く建造物を正面から撮影するとほとんどの場合、全体を撮影することができませんでした。

  

そして、松山の混雑がうそのように観光客も少なくのんびりと街並みを見て歩くことができました。

内子への方針変更は正しかったようです。

ここで、ランチにたいめしをいただきました。お米と一緒に鯛を炊き込んだものではなく温かいご飯の上に、漬け汁につけた鯛のさしみをのせ、さらに卵黄をのせていただく鯛のづけ丼のようなものですが、これが絶品でした。

帰りの飛行機にはいささか早い時間でしたが、松山にもう一度戻る気分にはならず、ここから松山空港に直行し、帰京しました。

やっと体調も普段に戻りつつありますので、これからはプッシュシャッターシンドロームにならないよう撮影に出かけたいと考えています。


■■■■■  湖北・桂浜園地の彼岸花 中山辰夫

高島市今津町桂浜

高島市の今津

今津の桂浜園地は琵琶湖沿いに設置された散策路状の公園です。彼岸花が群生しており、その数は約1万本と耳にしました。(NHK放送)

桂浜園地の彼岸花は、草地は勿論、松林の末の足元にも点在して咲いています。

琵琶湖湖岸に向かって咲いており、砂浜からは葛籠尾崎や竹生島も見えます。今津港は往古から竹生島巡礼の乗船場で、近い距離にあります。

日の出の景観も素晴らしく多くの人が訪れています。

誘われるままに、朝4時に出発して朝日を待ちました。初めての撮影でよくわかりませんが、曇っていたのが残念でした。

大野木さんや野崎さんはいつもこんな早い時間に出かけて撮影されているんだとあらためてご苦労の程を知りました。そしてとてもできないと悟りました。

快晴であればもう少し見られる画像になったかと思いますが、もう二度と行きません。

 


■■■■■ 看板考 「馬首印 ハサミ 研磨」 ゆはらきみこ

 

2009年撮影

東京都墨田区駒形

今回は叫びたくなって、眠れなくなる看板です。

6年位前に撮った看板。馬首印のハサミを研ぐ、という仕事かと思って、すごくおもしろいわけでもないので、そのまま放置。しかし写真整理のためにしかと見入ってみたら……馬首印は赤色で目に付くように描いてあります。

しかし、「馬首印」は兼松日産林業が出している「マッチ」の商標のことであり、ハサミ研磨との関連が位置付けられません。マッチで火をつけてお呪いをしてからハサミを研ぐ方法もあるのかと思いましたが、それはまさかですよね。

ハサミを兼松日産林業が出しているわけでもなく、もしも研磨機の販売元だったら兼松日産林業代理店って書くのが普通ですよね。なんとしても関連付けたいとマッチの炎のようなメラメラが燃え立ったのですが、ネットサーフィンあの手この手で検索を入れても、結果はお手上げでした。

ハサミ 研磨 の横の目立つ赤色でついている「馬首印」って何? もしもマッチのことならナンデソウナルノ!と叫びたい。今夜は眠れません。


■■■■■ おばちゃんカメラマンが行く 事務局スタッフ

■おばちゃんカメラマンが行く @諏訪大社秋宮

七五三の季節。境内は観光客にまじって晴れ姿が彩りを添える。

「お母さんおうちに帰りたいよ。」

「じゃあ写真一枚撮ってね。」おきまりの集合写真だ。

「ありがとうございます。」の後、この集団がざわつく。

全員マイカメラ持ち、さらに携帯がバッグから出てくる。

お姉ちゃん中心に被写体がぐるぐる変わる。

お姉ちゃん、おばちゃんカメラマンに助けを求めてるかのようにちらちらと目で訴えかけてくる。

ごめんね、おばちゃんは、おばあちゃんサイドなの。無理〜

帰り際に振り返るとやっと一巡したようだ。何だかんだで小一時間。

願わくば振出しに戻らないように〜

一億総カメラマン。福祉目的でシャッター税をかけたら10回1円でもみんなハッピーになれるのに(@_@)

オッとそうなると我が家は破産してしまうのだった。

■おばちゃんカメラマンが行く @万治の石仏 

あの頭はどうなっているのだろう?落ちるのかな?誰もがまず思うはず。

首が伸びたとか伸びないとか・・・?

来る人来る人お参り作法通り3回まわる。

顔の長さが65㎝。ざっと楕円周を計算する。これはいける!?

背面が登ってくださいとばかりに良いスロープをしている。

見た目よりも急で、四つん這い状態からこっそり頭の上にまたがる事ができる。

見晴らしはすこぶる良く、足が耳のところでちょうどいい具合に収まる。

風が強いのか罰が当たりかけているのか グワンとぐらつく(-_-;)

慌てて御頭に覆いかぶさり、ずるりと降りる。

・・・・・妄想は尽きず、最後はお腹に筏のような擦り傷がベロンとできた。

 


 

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Japan Geographic Web Magazine

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Editor Yuki Takiyama

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