JAPAN GEOGRAPHIC

Monthly Web Magazine Aug. 2017

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■■■■■ Topics by Reporters


■ 知床ホエールウォッチング 瀧山幸伸

ホエールウォッチングは難しい。天候に恵まれない、船の空席が無い、相手は気まぐれと、なかなか機会に恵まれなかったが、10年越しの念願が叶い、このたびようやくマッコウクジラとイシイルカを間近に見ることができた。

マッコウクジラは船の周囲をぐるぐる悠々と泳ぐ姿が見られ、乗組員でも滅多に見ないという。三頭のダイビングを見ることもできた。

目の前を泳ぐのはもちろん、船に近づいてくるクジラの迫力は文章や写真では表現できないので、詳しくはリンク先のページで動画を見ていただきたい。

    


白石踊体験ツアー 大野木康夫

岡山県笠岡諸島の白石島の盆踊り(白石踊、重要無形民俗文化財)は毎年8月のお盆に行われますが、近年、7月に体験ツアーが行われており、ここ数年参加したいと思っていましたが、地元の行事や同窓会の準備と重なって行けないままでした。

今年は、重なる予定もなく、天気もよさそうだったので、日帰りで参加することにしました。

ツアーは笠岡港に17時集合なので、朝から岡山県備中地方の重文建造物を回りました。

妙本寺吉川八幡宮(吉備中央町)、鼓神社、葦守八幡神社(岡山市北区)

    

守福寺(岡山市北区)すっかり破れ寺になってしまっており、不気味でした。

   

宝篋印塔(倉敷市)、旧矢掛本陣石井家住宅旧矢掛脇本陣高草家住宅(矢掛町)、遍照寺多宝塔(笠岡市)

矢掛宿では公開が3時に終わる高草家住宅に入ることができませんでした。

    

それなりに楽しく過ごして笠岡港に着き、ツアーの受付を済ませて貸し切りの高速船で白石島に向かいました。

体験ツアーは晴天では浜辺で踊りますが、雨天だと屋内になるので天気が気になりましたが、晴天でホッとしました。

   

白石島には40分ほどで到着し、会場の浜辺に向かいました。

   

最初に、一番簡単な踊り方の講習会で櫓の周りを2周ほどみんなで踊りました。

   

模範演技として、島の子どもたちの踊りがありました。

音頭取りも子どもで、真剣に踊ってくれました。

白石踊には13種類の踊りがあり、今は6種類が踊られていますが、踊りの輪の中に異なる種類の踊りが混ざるのが特徴なので、見ていて面白く感じました。

       

保存会の方の模範演技は、衣装を着けて踊られます。

夕暮れの浜辺での盆踊りは幻想的でした。

         

模範演技後は、体験本番です。

ツアー参加者も一緒になって踊りましたが、私は最初の講習会と回り方が逆だったので、応用が利かずに半周ほど戸惑ってしまいました。

そのうち慣れて楽しく踊ることができましたが、浜辺での慣れない踊りで、1時間も踊ると膝に違和感を覚えてリタイアしてしまいました。

ツアー参加者も、毎年参加されている少数の方を除き、徐々に少なくなっていき、最後の方は地元の方が本番に向けて練習をされていたり、楽しく踊っておられるのが目立ちました。

     

9時前に体験は終了、船で笠岡港に戻り、京都の自宅に帰ったのは1時前でした。

強行軍でしたが、楽しかったです。


信楽焼雑報 中山辰夫

狸の里・信楽への最寄駅は信楽高原鉄道信楽駅。信楽高原鐵道は、信楽・貴生川間14.7kmを結ぶ地域に密着したローカル鉄道です。

   

信楽駅前には高さ5.3mの大タヌキが浴衣姿で観光客を出迎えます。今も信楽はタヌキ抜きでは語れません。

  

信楽焼=タヌキの置物とされますが、その歴史は古くありません。昭和の初めに窯元「狸庵(りあん)」の初代、藤原鉄造さんが夢の中で「タヌキを造れ」と告げられ、昭和の初めに制作したのが始まりとされます。全国的に広く知らるようになったのは、1951(昭和26)年の昭和天皇行幸の際に、日の丸を持ったタヌキを並べて歓迎したことからです。

信楽焼のルーツは鎌倉時代に常滑地区から移ってきたとされ、14世紀に入ると信楽独自の技術が開けたようです。

江戸時代は京焼の一大生産地となり、明治以降は製紙用の糸取鍋や耐酸陶器、外装タイルなど、時流に応じたものを造って今に至っています。

  

現在では傘立て・衛生陶器・建築用タイル・日用用品など、生活に根ざした陶器も造っています。タヌキの生産は勿論継続されています。

信楽焼と岡本太郎との関りは古く、大阪万博のシンボル「太陽の塔」の背面に描かれた「黒い塔」は信楽で焼かれた陶板、国会議事堂の中央塔屋(1993平成5年)のテラコッタなどは信楽のメーカーによる陶板で出来上がっています。最近では2004(平成16)年9月にオープンした奈良県明日香村のキトラ古墳壁画体験館「四神の館」の古墳壁画も信楽のメーカーによる陶板で出来上がっています。これらの実績で、陶板は多くの建造物に採用されています。

  

形になるものであれば何でも作るという信楽焼魂がこの地域には有るようです。

今年の4月に「日本六古窯」として瀬戸焼、常滑焼、信楽焼、丹波焼、備前焼、越前焼の六古窯の産地が日本遺産として認定されました。

ピーク時の五分の一に生産額が減少した地元では、これを契機に信楽焼の魅力を再認識し、世界に向かって発信したいと燃えています。

  

電気の要らない加湿器を開発したメーカー、3m90cmという世界最大級の陶板製造技術を確立したメーカー、信楽焼陶器浴槽を開発したメーカー、県立高校で始めたアート留学制度などの新しい動きが目を出しています。産地・窯元・企業が一体となって新たな製品や用途に挑み続けるたくましさに期待します。

最後に、新しい動きの一例として、信楽のメーカーと東京のデザイン会社が共同開発した「KIKOF・キコフ」を紹介します。

感性を持った人と組んだ新たな挑戦として、今後の動向が注目を浴びています。

特長は八角形をベースに直線のみで構成されたデザインが特徴のカップや水差し−直線が持つ「硬さ」と陶器の持つ「軟らかさ」が融合した、独特の味わいを醸し出した製品です。

       

KIKOFのHPより引用 http://kikof.jp/

 

紙のように薄くてごく軽い陶器

湖面の色ヲイメージした4色、琵琶湖の朝・昼・夕べ・月夜に映える湖面の色、をイメージした配色

淡く刻まれた刻印—「670.25」は琵琶湖の表面積、底面仕上げは落ち着いたマットブラック

信楽のある甲賀市は、忍者と信楽焼が日本遺産にダブル認定されました。

忍びの里 伊賀・甲賀〜リアル忍者を求めて〜

きっと恋する六古窯〜日本生まれ日本育ちのやきもの産地〜

 

信楽高原鉄道はPRに一役協力しています。

   


■ 日光東照宮 陽明門  川村由幸

44年ぶりに修復され、3/10に竣工した日光東照宮陽明門を撮影してきました。

とは言っても、那須でゴルフをして湯西川温泉で温泉と宴会を堪能した後、立ち寄った日光です。

ついでではありましたが、修復完了ということで当初から寄るつもりではあったのです。

   

残念ながら雨降りでした。寛永時代の極彩色に戻っているのですが、太陽がないとどうしてもくすんで見えてしまいます。

それでも細部を見れば、その色彩の鮮やかさは鮮明です。

   

ただ、今回の修復には批判もあるようです。特に三猿の彩色が以前に比べ稚拙にみえるとの意見が多いようです。

修復によって彫刻の表情に変化が発生することはままあることでしょう。前回修復の44年前の職人がそのまま揃いませんから必然と言えば、必然でしょう。

  

上の左が修復後、右が修復前です。いかがでしょうか、やはり左は子供の書いた絵のような印象がありますかね。

ただ、貴重な文化財を未来に残してゆくためには、修繕・修復は避けて通れません。

職人は後継者不足があるのでしょうから、才能のあるものを選別なんてできず、伝承するという人に引き継ぐのみなのでしょうね。職人の技量を保つことさえ困難な時代なのだと思います。

次の修復では、良い表情の三猿となるように祈るばかりです。

ところで、左の画像は2010年に私が撮影し、Japan GeographicにUPしていたものです。こうゆう比較もJapan Geographicのおかげで簡単にできます。

Japan Geographicの価値を又再認識しました。


■星を写す 田中康平

福岡に戻ってきて、これはあきらめかなと感じることがいくつかあるがその一つが星があまり見えないことだ。都会の都心に近く夜空が明るいということもあるが、そもそもからりと晴れるということが少ない。関東の特に冬は凍てつくような寒さもあるが乾いた夜空が美しかった。こちらは対馬海流の暖流のおかげと思うが冬でも湿っていてカラカラに晴れるということが殆ど無い、晴れてもどこか薄雲を感じる。

そんな訳で天体写真を撮ろうかという気になるのは月食位なものだったが、最近ふとしたことで赤道儀機能が簡単にカメラに付加できる装置というのがペンタックス用に売られているのに気付いた。2011年に発売されているからもう6年もたっている。ペンタックスの手ぶれ防止機能を利用して5分間位天空の回転を追従して星を静止状態で撮り続けることができる、GPS搭載でどこでも空にカメラを向けさえすれば自動的に計算して追従してくれるというものだという。弱い星の光でも時間をかければ捕らえられるかもしれない。

手持ちのK-5カメラには問題なく適合するようだし気になる価格も2万円以下でカメラの機器としては高くない。早速ネットで発注すると3日ほどで届いた。O-GPS1アストロトレーサーという。

曇りの日が続いたがどうにか雲が切れた夜、早速試してみた。西の空に向けるが時々薄い雲が横切ったり街の明かりが明るかったりで目視ではほとんど星など見えない、かろうじて木星が沈みかけているのが解るくらいだ。三脚にO-GPS1を付けたカメラをセットして120秒解放で作動させる。ISO100,F5.6,レンズは18mmとした。写せた写真を少し画質調整してトリミングしたのが添付写真だ。星座表と突き合わせると「かんむり座」と「へび座」あたりが撮れていて、星座図にある一番小さな6等星よりもさらに小さい星も写っている。こんなに星が見えていたんだと再認識させられる。

いままで手が届かないと思っていた世界がここにあったかと思わさしめる。条件が良ければ天の川も写せるかもしれない。これはなかなかの代物だ。

技術の進歩は手の届く世界を明らかに拡大している、そう思うことが目に付くようになってきたこの頃だ、長生きせねば。

O-GPS1をカメラの上部に取り付けた状態 

 

星空撮影結果(6等星以下の星も写っている)

 

撮影領域に対応する星座図、最小は6等星

 


■ 夏の風物詩 蒲池眞佐子

山口市徳地の奥では、土用の丑の日でも鰻を食べない地方があるらしい。

テレビの番組で調査隊のコーナーがあった。

昔、近くの杉河内村で大鰻がとれた。大きかったので、周辺の7か所の村に分けられ、鯖村にも全戸配られ、皆鰻を食べた。ところが、その夜から腹痛を起こす人が続出し、3日後に7か所に及び半分近い村民が死亡した。

鯖村では食べた大鰻は山を守る神の使いだったと考え、造林の神様を祭る地元の三島神社へ参拝し、その後鰻を食べることをしなくなったということらしい。

現在でもこの地方の人は鰻を食べないらしい。

土用の丑の日に鰻を食べる習慣についての由来は諸説あるが、讃岐国出身の平賀源内が発案したという説がよく言われている。

鰻屋が商売繁盛するために「本日丑の日、鰻を食べるべし」と店先に貼ったところ、人気になり、他の鰻屋も真似るようになったといいうものだ。

現代のバレンタインデーに女性が男性にチョコレートを送る、というものにも近いものを感じる。こちらも諸説あるが、バレンタインデーにチョコレートを渡すのがいいのではと最初に考案して実践したのは、一説に大田区の製菓会社メリーチョコレートカムパニーの原邦生であるとされている。

いろいろな説があって面白い。

夏のイメージにはいろいろあるが、花火もそのひとつだ。

先日「はなびーる電車」というものに乗って花火大会に行ってきた。

ビールとお酒、地元特産のちくわとしらすかまぼこがつまみとして配られ、開催地域のミスが乗車し、乗客と撮影会、現地では確保されたスペースでまた飲みながら花火を見る。

混雑した中を汗だくで見に行くことを考えるとちょっとした贅沢気分を味わえた。

          


■ 欧州出張で食べたもの、飲んだもの  野崎順次

5年ぶりにロンドンに出張した。7月22日(土)に関空発、パリで身内に会って、24日(月)にユーロスターでロンドンへ移動、仕事が終わった週末29日(土)にベルファストに行って、31日(月)ロンドンに戻り、8月1日ヒースロー発スキポール(アムステルダム)経由で2日(水)に関空に帰ってきた。いろいろな事情や思わぬ不都合があって、ストレスの多い旅ではあったが、よく歩き、よく飲んで、よく食べた。

かつてのカメラ小僧時代には、食べたものを克明に撮影したが、己が高齢者になると、食事の相手によっては撮影を控えなければならない。だいたい、疲れがたまっているので、邪魔くさくなる。それでも、いくつか撮影したので、記録しておきたい。

関空からパリ(CDG)の機内食。昔ほどうまいと思わないが、妙に楽しみである。アペリティフにブラディーメリー、食事中には赤と白ワイン2本を飲んだ。

 

パリに着いた直後の夕食には評判のカニ飯を食べに行った。Le Grand Bol という店の黒糯米炒蟹(Crabe Saote Auriz Gwant)、ついでに小籠包も。とても美味しかったが、カニの肉をせせりだす「かにフォーク」があればなと思った。老人の差し歯と部分入れ歯では、ワイルドに殻が噛み割れない。

  

翌日は歩きくたびれたので、ホテルの隣のレストランに行った。北駅の真ん前で Cafe du Nord である。ここらは海鮮料理を出す店が多く、代表的な名物は生ガキである。だが、私はカキが嫌いで、生でも、揚げても、燻製にしても受けつけない。そこで、私としては定番のシュリンプカクテルとムール貝にした。まあまあだが、ムール貝は季節外れなのか身が小さい。

  

7月24日(月)ユーロスターでロンドンへ移動した。車内軽食である。

 

その夜、ホテルの近くの中華料理店 Green Cottage でソフトクラブのサラダと海鮮蒸し焼きそばを食べた。カニが大好きだが、ソフトクラブは初めてだ。殻ごと食べられる。

 

26日(水)のホテルの朝食、フルイングリッシュブレックファストである。これが食べきれるときは、時差ボケや疲れが治まり、体調が回復基調を示す兆候である。この日は半分食べ残した。

  

英国のビールはいろいろなタイプがあるが、ロンドンでよく飲んだのは English Beer で銘柄は London Pride である。価格は1パイント(568ml)グラスで£4.50くらい。日本の単純苦みでキンキンに冷やしたラーガービールに比べて、味にまろやかさと深みがある。

28日(金)昔馴染みの伝統的英国人に会いにロンドン郊外、Surrey のパブに行った。しっかりものの奥さんが最近急死されたので、そのことに触れないとしたが、向こうから奥さんの思い出話ばかりするので、あいづちしかできない。私が注文したのはbeef 何とかで、出てきたのはハンバーガー風だった。後で聞くと、そのままかぶりついてもかまわないそうなのだが、上のパンをはずし、肉を下のパンごと切って食べた。柔らかい赤肉で分かりやすい味だった。

 

28日(金)の夕食はロンドンの中心部Green Park駅近くのイタリアレストラン Al Duca である。お世話になった英国人夫妻を招待してロンドン最後の晩餐である。といっても、むこうにレストランの選定と予約をお願いして、支払いはこちらということ。私が食べたのは、日本語で簡略化すると、生ハムとメロン、ビーフリブステーキ、メロンタルト。選んで貰った赤ワインも非常に良かった。3人で£129.49(約2万円)だったから、ロンドンではとても安くすんだといえる。

    

29日(土)、ガトウィック空港から北アイルランドのベルファストに飛んだ。ホテルの地図はあるもののベルファスト市内交通についてはほとんど調べていなかったので、行き当たりばったりである。大きなトランクはロンドンのホテルに預けてきたから、荷物はカメラ、三脚の入ったリュックサックひとつ。とにかく、アイルランドといえばギネス(黒ビール)である。市街地中心部で降りて、少し歩くと、市庁舎があり、その裏の小さなホテル(ten sq hotel)のバーに入って、1パイントグラスを二つ注文した。10分くらいで飲み干すとバーテンが驚いていた。向こうのひとはちびちびと時間をかけて飲み、バーやパブでの会話や瞑想を楽しむのであるが、旅人の私にそんな余裕がない。バーの奥の席で数人の若い女性が騒いているので、写真を撮らせてもらった。顔だけじゃなく、body も見せてよと頼むと、立ち上がって腰をくねらせてくれた。

   

その夜、ホテルの近くのFrench Village で、スープ、黒パン、フィッシュアンドチップスを食べた。魚はタラではなく、Haddock だった。薄味の白身の魚をパリっと揚げてタルタルソースをつけるのだが、組み合わせがだるい。ネギ入りポン酢が合うのでは?ちなみにこのレストランでは酒類を提供しない。その代わり、持ち込み自由である。隣のおばさんグループは袋の中から取り出したシャンパン、ワインを飲みまくっていた。

   

翌日、ベルファスト中心部を歩き回った。スマホの万歩計は2万歩を越えた。途中でギネスを飲みに入ったパブは、極彩色の女性下着が満艦飾だった。決して変態バーではなく、ちょっとしたおふざけなのである。スタッフの派手な女の子に洗濯屋みたいねというとニコッとしてた。

   

ベルファスト最後の夜はあっさりとしたものが食べたくなった。ホテルの近くに桜という日本料理屋があるが、海外で独りの時は日本料理を食べないことにしている。その隣の隣に Lee Garden という中華料理店があるので、ワンタンメンを食べた。薄味で何の工夫もないが、予想通りの味でホッとする。ちなみにこの店では英語のない漢字だけのメニューを持ってきた。中国人と思われたのだろうか。

  

最後に、ベルファストで飲んだギネスは、やはり違う。味わいと深みがある。それに予想していたよりもよく冷えている。パブでもホテルのバーでも1パイントが£4.20だった。ロンドンに戻って、パブでギネスを飲んだが、一味まずかった。 

それから、英国人から聞いた話、スイカに(レモンではなく)ライムを絞ってかけると味が広がって(develop)とても美味しくなるそうだ。


■ 看板考 No.56 「安中宿原市高札場跡」を示す看板  柚原君子

 

所在地:群馬県安中市原市

すでに存在しない「文部省」を名乗る看板です。

字体も旧字体ばかりかと思うとそうでもなくて、説明の「説」や「処」、火気の「気」は常用漢字ではなく旧字体です。

1949(昭和24)年に内閣告示された『当用漢字字体表』に基づいてこれまで使われてきた画数の多い漢字が略字や俗字に変更されていますが、1981年制定の『常用漢字表』(2010年改定)は主として印刷文字の面から検討され明朝体活字の一種を用いて字体例を示し、これを「通用字体」と呼んでいます。

しかし、通用字体は(狭義の)新字体をすべて踏襲し、1981年と2010年に追加された字種のうち、新字体に準ずるものが採用されて、さらに、1981年には、当用漢字では『燈』だった字体を簡略化し、『灯』を通用字体にした……そうです。

(参考:Wikipedia)

しかし旧字体を使ってはいけない、とはされていないので、人名や地名は旧字体のまま今でも多く残り、私たち日本人はいいのですが日本語を学ぶ外国の方は大変なようです。

そういえば糸は昔は糸の字が2本並んだのが糸だったし、虫などは虫を3つ積み上げて虫と読んでいたし、芸などは文藝春秋さんの社名にある「藝」という難しい字。書くには面倒かもしれないけれども、ちゃんとした「藝」の字には執拗の執が入っていたのでしつこく積み上げなければ物にならないのが藝のように納得できた。旧字体のいいところはいっぱい有ったのになぁ、と看板の前で思いました。

この看板のもう一つの面白さはお上目線だなぁ、と思えるところ。

「説明」と書かれているのも面白いです。はいはい、大体このような木の看板は説明ですよね。平凡な平民には敷居の高い看板なのでした。


■ おばちゃんカメラマンが行く@青森県東通村尻屋崎  事務局

寒立馬とその生息地として県の天然記念物に指定されている尻屋崎に行く。

台風が接近していることもあり、潮風が強く海岸の波は音を立てて打ち寄せていた。

寒立馬を灯台付近で発見できるのではないかと、予想外に大きな糞を頼りに探したが発見できず。

自然放牧のため、どこにいるか馬次第ということで、年期の入った土産物屋のおばさんにもわからないらしい。

 

本来の目的である、国の史跡の浜尻屋貝塚へ行く。

約600年前の中世の漁村遺跡でアワビの貝塚層が発見された。

今は埋め戻されて貝塚らしいものは何もないが、中国製の陶磁器や古銭、北方系の骨角器が出土したことから、当時の交流の広さや裕福さをうかがい知ることができる。

 

馬、馬と念力を入れてしぶしぶ帰路につくと、最後の最後に居るではないか、寒立馬たち。

しかも集団でわき目も触れず草を食んでいる。

がっちりとした体格で、ことごとく造作が大きい。立派なたてがみと尻尾をなびかせてバリバリと草を食んでいる。

まつ毛も長く、目も口も鼻も大きいが愛らしい。長いずんぐりした胴と短い脚に大きなヒズメで、どったんどったんと跳ねたりする。

とてもおとなしく、近寄っても動じない。冬吹雪の中、じっと寒さに耐えて立っている姿が想像できる。今年生まれた子馬もいるようだ。

     

ところがこの寒立馬達にはいろいろな事情があるようだ。

藩政時代から南部馬を祖とし、のちに交配により軍用馬(田名部馬)として働き、戦後さらに交配により農用馬(肉用馬)に改良された。

所有者の東通村は、青森県畜産農業協同組合主催の市場で、主に仔馬を食用としてセリにかけているそうだ。

村は財政難で、野放しとはいえ越冬のための飼料代や管理人の人件費を捻出しなくてはならず、それこそ苦肉の策らしい。

原子力発電所の誘致の影響が直接馬達に及んでいるのではないかと考えてしまう。

性格が穏やかで忍耐強く、生まれてから個々に名前を付けられ可愛がられてきた馬たちのことを考えると心が痛む。

子供を売って集団を維持するとは、おしんの時代ならいざ知らず、一時代前の発想だ。

観光用でも農用でも経済的に自立し、自然に馬の一生を全うしてほしいと心から願っている。

こんな活動もあった。

寒立馬を守る会 https://www.kandachime.info/


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Japan Geographic Web Magazine

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Editor Yukinobu Takiyama

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