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京都府京都市左京区 南禅寺

Nanzenji,Sakyoku,Kyoto city,Kyoto


Sep.2015 中山辰夫

南禅寺塔頭

南禅寺は臨済宗南禅寺派の本山である。江戸時代には末寺数700カ寺を越えたが、明治維新の合廃寺で減少し、現在は430カ寺である。

主として、関東以西の22都道府県に散在している。

境内は、江戸時代には10万坪を越えたが維新後縮小し現在は約4万5千坪で、その中に勅使門・三門・仏殿(兼法堂)・方丈・書院・庫裏・僧堂、鐘楼、別院南禅院の主要伽藍と11カ寺の塔頭が並んでいる。塔頭・光雲院が境内外にある。

現在の塔頭は13ケ所。塔所が多く含まれ非公開の処も多い。境内域が広く、庭園も見ごたえがある。

配置図

 

金地院−常時公開

開山:応永年間(1394〜1427) 創建:南禅寺第68代住持・大業徳基禅師 創建地:洛北・鷹ケ峯

慶長10年(1605)南禅寺第270代住持となった以心崇伝禅師により、三門の南西に位置する現在の地に移築された。

          

方丈は1611(慶長16)年に伏見桃山城の一部を徳川家光から賜り、移築したものと伝わる。入母屋造、杮葺の書院建築。襖絵は狩野探幽と尚信の筆。

方丈庭園の南側高台には東照宮、方丈の西南の角には以心崇伝を祀る開山堂が建てられている。

方丈の前に広がる方丈庭園は小堀遠州の作で鶴亀の庭と呼ばれている。

都泉名所図会あり

南陽院(高源室豊田毒湛の塔所)−普段は非公開−イベントに合わせて公開あり

1908(明治41)年当時の南禅寺の名僧を慕った京都の富豪から寄贈されたお寺。 結婚式などの利用が可能。

南陽院の表門をくぐり抜け、石畳を歩き続けると中門がある。

中門の先には方丈があり、それを囲むように苔の庭園がある。またさらに進むと池があり、池の周囲には灯籠や植え込みも多く、きれいに整備されている。

本堂の西に池泉式の庭園がある。庭園は小川治平衛の作庭による石庭。

      

真乗院(香林宗簡の塔頭)−非公開

南禅寺境内三門の南西にある。

室町時代、1450年、南禅寺第139世・香林宗簡(こうりん そうかん)により創建された。真乗院は香林の塔所。

応仁・文明の乱(1467〜1477)後、現在地に再建された。1473(文明5)年に亡くなった応仁の乱・西軍の総大将・山名宗全の墓地がある。(支援者であった。)

      

露地庭は縁側近くまで水が流され、植栽、蹲踞、燈籠が見られる。

谷崎潤一郎は終戦後京都に居を構えた。南禅寺門前の家は奥の八畳間の下を白川が流れていて気に入っていたが、狭いので真乗院の一室を書斎として借り、のちに糺の森近くの広い屋敷に移ったといわれる。

天授庵(開山大明国師無関普門の塔所)−常時公開

天授庵は、南禅寺中門から本坊庫裏へ真直ぐに続く参道の右手に建つ塔頭である。

開山:1340(暦応3)年、南禅寺十五世住持・虎関師が、第1世・大明国師無関普門禅師を祀る南禅寺の塔所として天授庵が開創された。

塔は「霊光」、庵は「天授」と名付けられた。庭園も同時に作庭された。

応仁の乱の兵火を受け荒廃したが、1602(慶長7)年に細川幽斉が援助して方丈・正門・旧書院・塔などが再興された。

         

本堂は入母屋、杮葺屋根。中央に開山大明国師木造、一隅に幽斎夫妻を始めとする細川家歴代の位牌が安置されている。

本堂の襖絵32面は長谷川等伯晩年の作。

庭は1340(暦応3)年の創建当時の儘とされる枯山水の本堂前庭(東庭)と鎌倉末期から南北朝時代の特徴を備えた池泉回遊式の書院南庭2つがある。

方丈前の枯山水「淵黙庭」には二条の敷石が目に付く。敷石は方形の板石の角と角を合わせて敷いた幾何学的模様で、正門より方丈へ至る部分は創建当初のものとされる。

書院の前には築山と園池が展開している。出島を配して東西大小の二つの園池が区切られている。

正因庵−非公開

南禅寺の山門南東にある。

南北朝時代、至徳年中(1384〜1386)、徳叟周佐(とくそう しゅうさ)は正因庵に退隠する。その没後、徳叟の塔所になる。

正因庵は五山文学者を輩出した。江戸時代、1796(寛政8)年、正因庵の客殿を南禅寺に移し、臨時の衆寮とした。

     

南禅院−常時公開

南禅院は、南禅寺境内、琵琶湖疏水が流れる水路閣近くに建つ。この地は南禅寺発祥の地である。

創建の詳細は不明。鎌倉中期に亀山法皇の離宮禅林寺殿の持仏堂を大明国師に下賜され寺院となった。

室町初期の1393年(明徳4)に南禅寺ともども火災焼失。1402年(応永9)に南禅院の一部が再建され、1420年(応永27)に北山御所宸殿を移築して再興されたが、応仁の乱により数十院の塔頭共々ことごとく焼失し衰退する。江戸初期になって祟伝(1569-1633)により再建された。

江戸中期の1703(元禄16)年第5代将軍・徳川綱吉の母・桂昌院らにより、現在の書院などが再建されている。

          

庭園は、京都の三名勝史蹟庭園(ほかに天竜寺庭園、苔寺庭園)の一つに数えられる。

「都林泉名勝図会」図会あり

高徳庵(最勝院)−(駒道智大僧正を祀る)−常時公開

創建や変遷の詳細は不明とされる。鎌倉時代天台宗の駒道智大僧正が、神仙佳境といわれたこの地に隠棲されたことに始まるとされる。

第90代亀山天皇がこの地に離宮(南禅寺の基)を開いた際に、僧正を土地の鎮守・護法神として祀ったとされる。

高徳庵は明治の末年まで、南禅寺の寺務所の地で最勝院般若殿と呼ばれていたが、1917(大正6)年夢窓国師の塔所・上生院の地である現在の場所に移転した。

本堂は駒大僧正を祀り、駒ヶ滝はその奥の院となる。

        

帰雲院(二世創建・南院国師規庵祖円の塔所)−南禅寺最初の塔頭寺院 非公開

           

規庵祖円禅師(南院国師)は弘安9年(1286)第1世・無学禅師が遷化すると、31歳で南禅寺第2世の住持となる。その後十有余年の歳月を費やし、一宇もなかった南禅寺の仏殿、法堂、三門、僧堂など建立整備に後半生を捧げられ、亀山法皇始め多くの修行僧の育成に努められた。南院国師を特に「創建開山」と称し開山大明国師と同格に崇めるのが南禅寺の古規慣例となっている。国師は正和2年(1313)53歳で遷化され遺骨を帰雲院の宝篋印塔に納められた。

それ以来700百余年祀っている。寺院は応仁・文明の乱(1467-1477)後、衰微する。元禄年間(1688-1704)に再建されたが、1945(昭和20)年焼失した。

現在の堂宇はその後に再建されたもの。

都林泉名勝図会あり

正的院−非公開

鎌倉時代の1332(元広2)年に南禅寺11世・元翁本元(げんのうほんげん)が亡くなりその塔所として、弟子により建立された。

        

正的院を過ぎ大寂門をくぐると真直ぐな道となる。左側は南禅寺の境内である。右側には聴松院、慈心院が並ぶ。

 

聴松院−(大鑑禅師清拙正澄の塔所)−非公開

南禅寺の北、牧護庵の北東にある。現在本堂は閉鎖されており、西門から入る摩利支天堂のみ一般開放されている。本尊:摩利支尊天

              

1483(文明15)希世霊彦(きせいれいげん)が、焼失した清拙正澄の塔所・善住庵(ぜんじゅうあん)を再興し、その名を聴松院と改めたのが始まりとされる。

細川氏の菩提寺。清拙正澄(せいせつしょうちょう)は禅宗大鑑派の祖であり、聴松院は南禅寺の塔頭でありながら他宗派の本山でもある珍しい寺である。

本尊の摩利支尊天は、清拙正澄が中国・元から持ち帰ったものとされ秘仏になっており、その特徴が伝えられているだけ。

摩利支尊天は猪の背中に乗って移動するといわれており、狛猪がお堂を護っている。

「都林泉名勝図会」図会あり

 

江戸期の元禄時代より、名物の湯豆腐を寺で供したという。

現在の無鄰菴の地にはかつて、豆腐茶屋「丹後屋」と「瓢亭」が並んで営業していた。ほかに「中丹」「奥丹」があった。

現在、聴松院の一角で営業を続けている「奥丹」は、近代になり再興されたものという。

なお、「奥丹」では、江戸時代、1635年に創業、当初の屋号は「奥の丹後屋」としている。 

     

「都林泉名勝図会」図会あり

慈氏院−(義堂周信(44世)の塔所−非公開

通称「だるま寺」と呼ばれる。開山:1385年 開祖:義堂周信周信は京都五山を代表する学僧 再興:1694(元禄7)年大名・蜂須賀綱矩

現在は、山門・本堂・書院・庫裏がある。境内の達磨堂には、珍しい立像の達磨大師像が祀られている。

        

牧護庵−(五世仏燈国師約翁徳倹の塔所)−非公開

鎌倉時代の1318(文保2)年に、後宇多天皇の勅により約翁徳検((やくおうとくけん)が南禅寺5世となり、その没後の1320年に塔所として牧護庵が建てられ、南禅寺塔頭となった。

平成4年(1992)に彫刻家・杉村孝作のわらべ地蔵100体ほどが庭のあちこちに納められ、「わらべ地蔵の庭」と呼称され親しまれている。

このでは、門前の石柱の上にあるお地蔵さんや数例のみを並べる。なお、杉村孝氏のわらべ地蔵は三千院の有清園にもある。

「都林泉名勝図会」図会あり

光雲寺(開山無関普門ゆかりの門外塔頭)

境外塔頭で南禅寺北ノ坊町にある。

無関普門禅師が東福寺住持に選任される前、暫く滞留した寺である。

寛文年間(1616〜73)年、後水尾院中宮の東福門院が英中禅師に命じて現在地に建立したのに始まるとされる。

当寺は東福門院が大壇那として建立した寺であった関係から、幕府及び幕府関係者からの援助はもとより、朝廷の崇拝も篤かった。

二百十世住持英中玄賢は板倉氏の出身であったので京都所司代の後援もあって現在地に再建された。

                  

しかしその後衰微し、現在は仏殿、方丈、鐘楼を数える。

「都林泉名勝図会」図会あり

 




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