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京都府京都市左京区 金地院

Konchiin,Sakyoku,Kyoto city,Kyoto

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京都市左京区南禅寺福地町86-12 金地院茶室 重文 近世以前/住宅 江戸前期 寛永5(1628) 三畳台目茶室(八窓席)、水屋の間より成る、こけら及び桟瓦葺 19360420

京都市左京区南禅寺福地町86-12 金地院本堂 重文 近世以前/寺院 桃山 桃山 桁行26.3m、梁間19.6m、一重、入母屋造、こけら葺 19000407

京都市左京区南禅寺福地町86-12 東照宮 本殿・石の間・拝殿 重文 近世以前/神社 江戸前期 寛永5(1628) "本殿 桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造、檜皮葺 石の間 桁行三間、梁間一間、一重、両下造、本瓦葺 拝殿 桁行三間、梁間二間、一重、正面千鳥破風及び軒唐破風付、本瓦葺" 19560628


Nov.17,2020 瀧山幸伸 

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A camera

                                                                   

 

B camera

                                                                                               


Sep.26,2020 野崎順次 source movie

蹴上駅から金地院山門へ
    


特別名勝金地院庭園 鶴亀の庭 枯山水 小堀遠州作
                   


東の庭園から東照宮参道
              


国重文 東照宮(本殿、石の間、拝殿)
       


石段を下りて開山堂
      


萩の花
    


Jun 2020 柚原君子

                                                                                                     


Mar.15,2015 中山辰夫 

京都市左京区南禅寺福地町86−12

宗派:臨済宗南禅寺派 本尊:は地蔵菩薩。

南禅寺塔頭の一つである。

応永年間(1394-428)足利義持が北山に創建、足利氏の盛衰に合せ衰退の一途をたどった。1605年(慶長10)崇伝和尚により現在地に移され再興された。

1626(寛永6)年頃より新金地院の大工事(新金地院作事)が行われ、現在の寺観(山門、方丈、庫裏、東照宮、庭園)が完成する。

方丈は重文で、狩野派による襖絵は有名。茶室八窓席(重文)は、鶴亀の庭(特別名勝)枯山水庭園とともに小堀遠州作で名高い。

東照宮(重文)は1625(寛永5)年の造営で権現造り様式、家康の遺髪と念持仏とを奉戴し、拝殿天井の鳴龍は狩野探幽の筆、36歌仙の額は土佐光起の筆である。

八窓席茶室の襖絵は長谷川等伯筆で、「猿猴捉月図」及「老松」は有名である。

金地院へ行く道は色々あるが、特にお勧めは地下鉄東西線の「蹴上駅」下車からのルートである。車の往来が激しい三条通りに面して、入口の頭上に「雄観奇想」と隷書体で書かれた、赤レンガ造のトンネルにでる。「ねじりまんぽ」と称され、琵琶湖疏水のインクラインの有名なスポットである。

桜のシ−ズン、この周辺は見事な景観である。それをくぐり抜けると、今までの騒音や喧騒がうそのような静寂さに包まれた地域となる。この辺りは別荘が多い。

    

その一つの「何有荘 かいうそう」が右側にある。明治に廃された南禅寺の塔頭の跡地に築造されている約6千坪の大庭園。

庭師七代小川治兵衛(通称植治)作庭による日本庭園である。工事中であった。

     

次に、両側を白壁の塀で囲まれたやや広い通りとなり、左側に東照宮の楼門が目に入り、やがて金地院の大門に至る。

   

境内地図 「引用:金地院 淡交社」

 

大門

    

境内案内

  

庫裏

    

明智門

「明智門」は、安土・桃山時代、1582年、明智光秀(1529-1582)が母の菩提のために黄金千枚を寄進して大徳寺に建立した。

金地院にあった唐門が豊国神社に移築されたため、大徳寺から1887(明治19)年に買得し、現在地に移築した。桃山時代の唐門である。

    

方丈

国重要文化財

一重、入母屋造、書院造、こけら葺。桁行26.3m、梁間19.6m。

江戸時代、1611(慶長16)年、伏見城の遺構を移したものとされ、将軍を迎えるための御成御殿として使われたとされてきたが、1626(寛永3)年の「新金地院作事」の時に新築されたものともいわれる。狩野探幽、尚信兄弟の筆になる襖絵は400年を経過した今も華麗で色褪せていない。

方丈正面に「布金道場」と大書した額は山岡鉄舟(鉄太郎)の筆である。

         

襖絵は狩野探幽、尚信兄弟の筆。

 

茶室「八窓席」

国重要文化財

方丈北側の小書院にある。 1627(寛永4年)小堀遠州作

「京都三名席」(ほかに大徳寺孤篷庵「忘筌」、曼殊院「八窓軒」)の一つに数えられている。

窓が八つあったことから名付けられた。茶室の襖絵、長谷川等伯筆「猿猴捉月図」及「老松」の絵は有名である。

開山堂

東照宮北門の石畳の段を木々に囲まれながら下りると開山堂の前に出る。その前面に石橋を渡し、東山連峰を借景とした「鶴亀の庭」の白砂の広がりが見える。

崇伝長老の塔所である。後水尾天皇の勅額を掲げる。左右両脇に十六羅漢像が安置してある。

            

東照宮

国重要文化財

本殿と拝殿を石の間でつなぐ、京都で唯一の権現造の建物で、家康の遺言で1628(寛永5)年に造営された。

楼門

                

参道周辺 

手水舎や鳥居が設けてある。手水舎や鳥居が設けてある。

    

御成門(御透門)

屋根が改修中である。

             

東照宮拝殿

黒塗である。家康公の座像を祀る。

           

三十六歌仙と金扇

三十六歌仙の額を四方に掲げる。絵は土佐光起筆、和歌は青蓮院尊純親王筆。近年落剥の度合い激しく、黒田正夕画伯の手で謹写された額である。

徳川将軍の旗印である金扇馬印、金色銅製であるが、今は金色が剥げ落ち、時代の変遷が分かる。     

天井画

狩野探幽筆になる鳴龍

    

本殿

本殿と拝殿は石の間で繋がれている。本殿は朱塗りの極彩色が施され、日光東照宮のような華やかさがある。

本殿には家康公の遺髪と念事仏とを奉載し、主に京都所司代が参詣するのを常とした。        

庭園

国特別名勝

1630(寛永7)年、小堀遠州の作。桃山時代の風格を備えた江戸初期の代表的枯山水で、古来より名声高い庭である。砂紋は大海原と舟を表す。

          

金地院の方丈前庭は「鶴亀の庭」として有名。右手が鶴島。左手が亀島。中間には巨大な平面石が置かれる。禅寺としては珍しく豪快で華やか。

庭いっぱいに鶴亀が向かい合う姿を表現。前面の白砂は大海原と舟を表す、鶴島と亀島の中間に郡仙島を象る石を置き、その奥の正面崖地には蓬莱連山を表わす三尊石組を配し、来訪者の萬世を寿ぐ祝儀の庭として非常に格式の整った蓬莱式枯山水庭園とされる。

           

表門

南禅寺側にある

  


January 4 & 8, 2015 野崎順次

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京都府京都市左京区南禅寺福地町86-12

臨済宗南禅寺派 金地院

(Konchi-in Temple, Sakyo-ku, Kyoto City, Kyoto Pref.)

金地院は応永年間に大業和尚が足利義持の帰依を得て北山に開創した禅寺である。慶長の初め崇伝長老が南禅寺塔頭に移建して現在に至る。本尊には地蔵菩薩を奉安す。金地院崇伝は徳川家康に近侍し、天海僧正と共に幕議に参画し自らは天下僧録司として社寺の事を掌り、寺門繁興、威勢頗る盛大であった。世に寺大名と称したのは金地院の別称である。また、崇伝長老は「黒衣の宰相」とも呼ばれ畏怖尊敬を一身に集めた名僧で、寛永3年、後水尾天皇から円照本国師の号を賜った。

(金地院パンフレットより)

1月3日、京都南部が60年ぶりの大雪だというので、その翌日に出かけたが、それほどではなかった。また、雪解け後の1月8日に庭園を中心に撮影した。

地下鉄の蹴上駅からレンガのトンネル「ねじりまんぽ」を抜ける。

            

パンフレットと現地説明板

     

大門から明智門

              

大門から明智門(雪解け後)

   

弁天池

   

弁天池(雪解け後)

      

東照宮楼門、石鳥居、御透門

               

国重文 東照宮 本殿・石の間・拝殿 江戸前期 寛永五年(1628)

本殿 桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造、檜皮葺

石の間 桁行三間、梁間一間、一重、両下造、本瓦葺

拝殿 桁行三間、梁間二間、一重、正面千鳥破風及び軒唐破風付、本瓦葺

                              

石段を下りて

    

開山堂

       

特別名勝 金地院庭園(鶴亀の庭)

崇伝が徳川家光のために作らせた。作庭には小堀遠州があたった(遠州作と伝えられる庭は多いが、資料が残っている唯一の例)。庭師は賢庭と伝える。桃山時代の風格を備えた江戸初期の代表的枯山水庭園として知られる。方丈から見て右手に鶴が左手に亀が配されており、鶴の背には常緑樹亀の背には落葉樹が植えられている。また、鶴と亀の間にある長方形の石は東照宮を拝むために設けられたものである。造営当時は庭から東照宮が見えたと伝えられる。庭内に広がる大刈り込みが圧巻。

(ウィキペディア「金地院」より)

                  

鶴亀の庭(雪解け後)

                   

国重文 本堂(方丈) 桃山

桁行26.3m、梁間19.6m、一重、入母屋造、こけら葺

                 

方丈(雪解け後)

      

南禅寺側の門

 

国指定文化財等データベース

金地院パンフレット

ウィキペディア「金地院」


May 6,2014 大野木康夫 source movie

ねじりまんぽ

  

東照宮の門

 

入り口から明智門

     

明智門から東照宮へ

      

東照宮

                           

方丈

                 

鶴亀の庭

         


Sep.2013 後藤玉樹

別の機会に譲るとしていた唐門移築の経緯をお伝えする。豊国神社を紹介する各種HPでも簡単に紹介しているので、そちらもどうぞ。

なぜ豊国神社かというと、同社は、明治に入ってその再興が天皇によって命じられ、同18年、方広寺大仏殿跡地に遷座されたのが現社殿であるが、この時、南禅寺金地院より唐門が持ってこられ、それが現在の国宝唐門である。

一方、唐門を持っていかれた金地院では、大徳寺本坊方丈の正面に建っていた唐門「明智門」を買い受け、それを境内に移築した。これは大徳寺唐門で述べたとおり。大徳寺の記録によると、その唐門は天正10年(1582)、明智光秀から大徳寺へ寄進された銀子により建てられたという。残念ながら今のところ文化財指定は受けていない。

それはともかく、現在、金地院で明智門の建っている場所は庫裏の式台ほぼ正面で、住職の話によると、国宝唐門の跡地とは違うという。その跡地とは、冒頭の境内図写真のC地点(Aは通用門である大門、Bは明智門)あたりで、特別名勝の鶴亀庭園を前にする方丈(本堂)へ通ずる御成門であったという。今その参道沿いには弁天池が築造されているが、それは国宝唐門が行ってしまった後のことである。

金地院は、次回述べる二条城と繋がりがある。豊国神社へ行った国宝唐門は、元をただせば二条城からもらって来たもので、また、鶴亀庭園は小堀遠州による作庭だが、二条城の二之丸庭園も同じく彼の作庭、しかもどちらも特別名勝に指定されている。そして二条城の今見る姿は、天皇を迎える行幸に併せてのことで、遠州が総奉行を勤めて完成した。時期的には二条城の後に金地院となるが、いずれにしろ遠州50歳前後、現代で言えば脂の乗った年齢である。大名でありながら各種作事に優れ、作庭はもとより建築普請、茶の湯、華道等、当代一流の文化人であった。

なぜ二条城の唐門が金地院へ行ったかというと、黒衣の宰相ともいわれた金地院崇伝の尽力があって二条城行幸が成ったともいえ、その恩賞の意味からといわれている。その唐門がなぜ、さらに豊国神社へ行ったかについては浅学のため不明であるが、一つの考えとして、伏見城遺構との伝えもあることから、豊臣家と縁のある建物をということかもしれない。が、そうであるなら厳正さに欠ける。遺構説自体は正しいと思うが、その伏見城は徳川時代の城であって、豊臣時代の木幡山伏見城は、関が原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いにおいて灰燼に帰したはず。それを承知の上でのことかもしれないが、真相は別にあるかもしれない。

因みに、遠州の特別名勝はもう一件あり、大徳寺本坊の庭園で、前回報告した大徳寺唐門と本坊方丈に挟まれた、白砂広がる枯山水庭園である。彼が担当したのは、矩折れに方丈の東側面に回った部分というが、いずれにしろ、その広々とした空間は、貴人を迎えるに相応しい、まさに南庭の趣であった。

参考までに。特別名勝とは記念物関係における指定項目で、名勝は庭園や景勝地その他、史跡は古墳や城跡その他、天然記念物は今さら説明は不要と思うが、この3種類が指定の対象である。特に重要なものには「特別」を冠し、特別名勝、特別史跡、特別天然記念物という。建造物でいうところの国宝と同義。ただ注意したいのは、特別が付いていない場合、これだけでは国指定か地方指定かが分からず、どちらの指定であるかを示すのが本来であるが、一般的には、付いていなくとも国指定であることが多い。

一方、建造物や美術工芸品は、有形文化財としての重要文化財という言い方をし、略して重文ともいうが、特に価値の高いものを国宝という。国宝もそうだが、単に重文あるいは重要文化財といえば国指定のことである。地方指定の場合は、○○県指定(有形)文化財となる。ただ、例外的に県指定の場合でも重要文化財といっているところがあり注意を要する。

また、有形文化財があるということは無形文化財もあり、これは演劇や音楽、工芸技術等の形のないものが対象で、それを演じる個人または団体が指定を受ける。個人の場合がいわゆる人間国宝で、姿ある人間なのになぜ無形かという理由はこれでお分かりかと思う。その人物個人に価値があるのではなく、身に備わった技術や技能に価値が認められたということである。そして彼らによって生み出された形ある美術工芸品は、価値が認められれば、やがて有形文化財の指定を受けることになろう。

さらにもう一言。国宝と重要文化財の違いについて。日本の場合、文化財指定の基準は厳選主義である。価値の高いものから順に国宝、重要文化財、都道府県指定、市町村指定というピラミッド構造となっている。ただそれだけでは、まだ価値のはっきりしないものや、将来的に価値が高まってくると思われるものまで消滅の運命を辿ることになるので、歯止めをかける意味で登録文化財制度が近年施行された。日本の文化財が、欧米と比べ一桁二桁少ないといわれるのはこのような事情からで、欧米では幅広く、日本での登録制度的な指定を行っているとのことである。それはともかく、多くの無冠な文化財があってこそ、指定文化財の価値が明らかになるのであって、指定されたもの以外なくなってしまえば、その価値をいくら我々が力説したところで、特に後世の人々には空しい言い訳でしかないだろう。オンリーワンにしてはいけないのである。突飛な例で不適切かもしれないが、世界最古の木造建築である法隆寺もしかり。今日まで残ったのは太子信仰の賜物で、まさに奇跡であるが、ただ当時にあってはどうだったか。法隆寺は、太子一族である上宮王家による氏寺で、四天王寺や大官大寺といった、国家の威信をかけた官寺とはそれなりの違いはあったのではないか。現に「日本書紀」は、その創建にまでは触れていないという。それだけの文化力が当時はあったということを、今の我々は想像するしかない。

本題に戻って「違い」であるが、実務的にはそれはない。文化財の修理をする場合、国指定であれば国から補助金が交付されるが、その補助率は所有者の財務状況に応じて決められ、国宝か重文かで区別することはない。手続き上も同様である。ただ一点、これだけが異なる。文化財保護法第37条にあるように、国指定文化財にき損が発生して保護する必要が生じた場合、重要文化財であれば、国は所有者に必要な措置を取るよう勧告することができるが、国宝ではさらに踏み込んで命令も出せるのである。これに背くのは当然、犯罪である。

これもまったくの余談だが、世界遺産登録には国宝かそうでないかが関わっている。古都京都、古都奈良の文化財の場合であるが、国宝級ということも基準になったという。国宝建造物がないのに多数含まれているのは、京都では西芳寺天龍寺龍安寺金閣寺は特別名勝、奈良では平城宮跡は特別史跡、春日山原始林は特別天然記念物、東大寺に正倉院が含まれているのは、世界遺産登録に向けて正倉院が国宝指定を受けたからである。原則、宮内庁に管理されているものは文化財指定を受けない。特別史跡と特別名勝をダブルで受けているのは金閣寺銀閣寺三宝院(醍醐寺)平城宮他、全国で9箇所あるが、さらに国宝を加えたトリプルなのは銀閣寺三宝院と、厳島神社の3箇所のみ。障壁画では、二条城のように建物は国宝、障壁画は重要文化財というのは他に7件、三宝院大徳寺方丈も含まれるが、その逆は大徳寺聚光院一件のみ、両方とも国宝というのはない。

(次回は二条城を予定)

 

案内板の赤丸Aは通用門である大門、Bは大徳寺から来た明智門、Cは豊国神社へ行った国宝唐門の跡地。国宝唐門の移築は、豊国神社の遷座が完了する明治18年までのことで、それ以降、

境内下辺中央を占める弁天池は築造された。奇しくも、同年より琵琶湖疏水の開削は始まり、同23年に完成している。金地院境内は高低差が見られるが、園路に沿うように水路が巡らされ、それによって弁天池の池水は満たされている。それ以前はどうだったかを考えるに、東山の主峰である大文字山からの谷水を集めた、鶴亀庭園と開山堂に挟まれて下手へと流れる池が唯一だったという。弁天池が造られたことによって、景観も大きく変わったことが伺える。

           

簡素な向唐門である明智門。大徳寺の説明では天正10年(1582)、明智光秀の寄進による銀子百枚で建てられたというが、本能寺の変を起こした年で、変は6月2日未明発生、天王山の戦いで討たれたのが6月13日深夜、文書に記された日付は6月19日。

唐門は、説明を受けなければ見逃してしまうほどに簡素だが、確かに細部の意匠は桃山時代を彷彿とさせる。まず、柱の木太さと、その上に載る大斗の控え目さ。このアンバランス加減は、これ以降では中々お目にかかれない。大斗の足元から肘木と呼ばれる部材が四方に延びるが、横方向と前後方向とで長さが違う。力学的な理屈には適っているが、このような発想は直ぐには思いつかない。それぞれの彫刻も、何を表現しているかがよく分かる、つまり写実的であるが、大徳寺唐門と同様、この時代の大きな特徴といえよう。天正10年が事実なら、聚楽第遺構の可能性が高い大徳寺唐門とほぼ同年代であり、遺構が少ないこの時期にあって貴重な存在といえるが、それにしても、この明智門が元は大徳寺本坊方丈の正面にあり、現在の大徳寺唐門が、ここに移築されるまでは塔頭の総門であったという事実は、明智光秀や太閤、あるいは影の主役である千利休等と大徳寺との関係を詮索するに興味深い。

因みに、大徳寺と戦国武将との関わりは大きい。聚光院は千利休、総見院は織田信長、弧篷庵は小堀遠州、高桐院は細川幽斎、龍光院は黒田如水、興臨院・芳春院は前田利家・まつ、黄梅院は織田・毛利・小早川・蒲生と、調べてみれば枚挙に暇がない。

    

規模の大きな方丈建築である。有料で見学できるのであるが、離れの書院や茶室が対象で、方丈内の部屋に入れないのは残念である。撮影も禁止。狩野探幽・尚信兄弟の障壁画があるというが、正直、広縁から覗くだけではうす暗くてよく分からない。上段の間も同様である。書籍に載る写真で鑑賞するしかない。そこに写る上段の間は、下段の間より半間狭く、少し窮屈な印象である。他に類例を探せば、文化財では二条城黒書院と勧修寺書院があるだけで、いい構えとは思えないが珍しい。余計なことだが、ウィキペディア等の解説では、慶長16年(1611)、伏見城より家光により賜ったものというが、家光わずか7歳のことであり、家光が将軍を継ぐことが決まったのは元和になってからというし、実際に将軍に就くのは元和9年(1623)である。どのような根拠であろうか。

    

鶴亀庭園を編集ソフトで合成したのが最後の写真。サンヨーのパノラマビューイックというソフト。デジカメのバンドル品であったが、別個に購入した。非常に優秀で、継ぎ目位置で少し破綻はしているが、我慢できる程度と思う。これだけの技術力がありながら、販売はすでに終了している。庭園に関しては素人なので、詳しくは解説本を参照していただきたい。


Nov.2008 瀧山幸伸 source movie

        

     

      

                                                

             

                                


Mar. 2006 瀧山幸伸 source movie

     

東照宮

             

方丈庭園

        

    


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