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Monthly Web Magazine (Sep.1, 2009)

 

■■■ 「小西増太郎ストーリー」 野崎順次

ロシアの文豪トルストイが心から愛した青年が二人いた。

一人は「ジャン・クリストフ」、「魅せられた魂」などで知られるロマン・ロランであり、もう一人が日本人、小西増太郎である。

小西増太郎(1861-1939)は岡山で生まれ、家業は米を搗いたり、綿の実の油を搾る水車小屋であった。

青年になって、当時、製塩業で繁盛していた野崎本家に奉職したが、キリスト教に目覚め洗礼を受け、東京のニコライ神学校で学んだ。

その後、野崎本家当主武吉郎の援助を得て、ロシアに留学、明治25年(1892) トルストイと出逢い、中国の老子道徳経の露語共同翻訳に従事した。

その時、トルストイ64歳、増太郎31歳。

小西増太郎、明治20年(1887) 

渡露直前

増太郎は、尾崎紅葉、徳富蘇峰、徳富蘆花などと親交が深かった。

明治29年、徳富蘇峰がトルストイに会いに行きたいというので、紹介状を書いた。

蘇峰はトルストイから増太郎への聖書を持ち帰った。

増太郎宛の聖書は、ロシア教会の福音書で、トルストイは小西のために、322ページの聖書を一読し、最重要部分に赤線、重要部分に青線、否定すべき部分に黒線を引いていた。

その後、増太郎は破格の待遇で野崎本家に再奉職したが、あきたらず、同志社大学、京都大学で教鞭をとった後、実業界に身を転じた。

昭和14年(1939)12月10日、野崎本家当主甲斐太郎と春子夫妻に会いに行く途中、新宿駅にて心臓麻痺で倒れ、死去。

昭和41年(1966)、日本で初めて大がかりなトルストイ展が東京や大阪で開催され、上記の聖書も展示された。

ちなみに、小西増太郎の長男は、戦後、プロ野球で松竹ロビンスの監督や、さらにNHKラジオの野球解説者として活躍した、「まあ何といいましょうか」の小西得郎さんである。

参考文献太田健一著 「小西増太郎・トルストイ・野崎武吉郎 交情の軌跡」2007年吉備人出版

突然ですが、神戸の町中にある相楽園の池泉回遊式日本庭園と、JR奈良駅で遭遇した美しいご婦人です。

ご婦人はグレース・ケリーとキャンディス・バーゲンを足して三で割ったような(たとえが古い)。

そういえば、阪神と近鉄がつながって、三宮から奈良まで直通電車が走るようになりました。

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