MONTHLY WEB MAGAZINE Sep.2011
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New contents in Aug. 2011
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今月のおすすめスポット
Recommended destination of this month
トップページに掲載されているおすすめスポットはほんの一例です。
季節のおすすめは、年月別索引を見てお好みで選んでください。
興味の分野が決まっている場合は、分野別の索引が便利です。
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トピックス
Topics
■ 北海道の秘境湖に暮らすナキウサギ 瀧山幸伸
この夏休み、重苦しい話題から逃れ大自然に癒しを求めたいと思いました。大震災騒動で打撃を受けた観光業に少しでも貢献できるようにと、北海道と東北を回りました。
北海道では、「秘境湖」なるものをメインの訪問先に選びました。その秘境湖、三本指に入るのは、オコタンペ湖、豊似湖、東雲湖だそうです。
これらの湖は、通常の観光客を寄せ付けない立地に護られ、素晴らしい生態系が残っています。湖水と自然景観の美しさは言うに及ばず、魚、草木、陸生動物、鳥などの森羅万象が清らかで生き生きと美しく輝いています。
豊似湖と東雲湖はナキウサギの生息地です。残念ながら豊似湖では巡りあえませんでしたが、東雲湖では、自然に溶け込むように静かに2時間近く待ち、ようやく2匹のナキウサギに対面できました。写真では鳴き声を出す瞬間しか捉えられませんが、ハイビジョンビデオでは愛くるしい動きと鳴き声が記録できました。大雪山のナキウサギ生息地はヒグマの繁殖地ですのでとても危険ですが、こちらはやや低い危険度です。それでも訪問はおすすめしません。
安易な訪問の筆頭は、やはり知床でしょうね。カムイワッカの湯の滝壷に入浴し、運よくヒグマが出没しなければ知床五湖全てを散策でき、クルーズ船も運がよければヒグマとオジロワシに出会えるということで、安易過ぎますが十二分に自然にふれあえます。
そして、イザベラ・バードの「日本奥地紀行」に登場する樽前山は、アイヌ文化という点でも、天然記念物の三重式火山という点でも別格の大自然です。
■ 船幸祭 中山辰夫
大津三大祭の一つ、建部大社の「船幸祭」が8月17日に行われ、御輿を乗せた御座船が瀬田川の川面をゆっくりと往復しました。
午後4時からの神事に続き、氏子の男たち、女性、子どもが担ぐ御輿4基が建部大社から瀬田の唐橋まで担ぎ運ばれ、2隻の御座船
に乗せられ、唐橋をくぐって川を下り、4km下流の瀬田川洗堰手前の御旅所で神事が行われました。
船が唐橋まで戻ってきた8時頃には花火が次々と打上げられ、その中、御輿は陸に揚げられ、唐橋一帯を往来して大社に戻りました。
船幸祭は、建部大社の祭神である日本武尊が船団を率いて東征したといういわれにちなんで行われています。大正4年(1915)に
大正天皇の即位を祝う御大典の記念行事として再興された由。唐橋を真っ赤に染める夏の風物詩、規模は縮小気味だが続けて欲しい。
夏の暑さに負けて夏の祭典参加はすべて来年へ持ち越しました。でも来年行ける保証は何もない・・。やはり“今”しかない?!
■ 夏の撮影結果 大野木康夫
この夏は、いろいろ撮影しましたが、なかなか投稿できずに手元にたまった状態になってしまいました。
すでに投稿したもの、これから投稿するもの、しないものもあるかと思いますが、7月、8月に撮影したもののリストです。
滋賀県
大津市
春日神社、不動寺、富川磨崖仏、日吉東照宮、西教寺、聖衆来迎寺、地主神社、明王院
長浜市
竹生島、大通寺、五村別院
近江八幡市
長命寺、旧西川家住宅
草津市
新宮神社、烏丸半島ハス群落
米原市
観音寺
京都府
京都市北区
賀茂別雷神社
京都市左京区
瀧澤家住宅、由岐神社、三千院、勝林院、来迎院、松ヶ崎題目踊、大文字送り火
京都市東山区
青蓮院、知恩院、八坂神社、祇園甲部歌舞練場、法観寺、六道まいり、清水寺、(奉納)上鳥羽六斎念仏、(奉納)中堂寺六斎念仏
京都市中京区
祇園祭、京の七夕
京都市山科区
徳林庵(四ノ宮地蔵)
京都市南区
吉祥院六斎念仏
京都市伏見区
法界寺
八幡市
石清水八幡宮
城陽市
荒見神社、久世神社、水度神社
久御山町
雙栗神社
京田辺市
酬恩庵、法泉寺
木津川市
海住山寺、五輪塔(長尾共同墓地)、浄瑠璃寺、白山神社、岩船寺、十三重塔(千日墓地)
和束町
天満宮
奈良県
奈良市
興福寺、円窓、旧奈良県物産陳列所、東大寺、正倉院、手向山八幡宮摂社住吉神社、春日大社、奈良国立博物館
早く整理して投稿したいと思います。
2011年8月27日、この日は兵庫県加西市北条町で石仏をできるだけ多く見て回りたいのですが、夕方前には倉敷市の田舎の家で用事があります。
幸か不幸か、マイカーも免許も持っていないので、旅はJRか私鉄の電車頼みです。
今回はJR加古川線粟生駅と北条を結ぶ北条鉄道が1時間に1本しか運行していないので、行きも帰りも乗り遅れないようにしなければなりません。
また、道に迷うと時間のロスですから、ロケーションの把握が大切です。
石仏がお寺にある場合は正確な住所が分かるので調べやすいのですが、路傍の場合はピンポイントで地点を知っておく必要があります。
事前にネットで各種訪問記を読み、MapFan、Googleマップ(地図と航空写真)、Yahoo地図で二重三重に調べました。
事前に位置特定が困難だったのは、玉野石仏と朝妻墓地でした。
前者は玉田医院の南方200m、後者は朝妻公会堂の裏手ということが最も正確らしい情報でした。
午前6時半に兵庫県尼崎の家を出て、阪急神戸線、JR神戸線、JR加古川線、北条鉄道を乗り継いで、午前9時7分に北条町駅に着きました。
帰りの電車が12時42分に出るので、手持ち時間は3時間半です。
いよいよ行動開始です。道に迷わなければ、少なくとも5か所は回れるはずです。うまくいけば7〜8箇所も。
09:07 北条町駅着、キャリーバッグを観光案内所に預かってもらう。
09:15 電動レンタサイクルを借りて出発
09:22 羅漢寺到着、前回の撮り残し、撮り直しなど写真42枚、ショートビデオ3本撮影
09:33 出発
09:35 小谷石仏到着、15枚撮影
09:45 出発
10:07 山伏峠石仏到着、28枚撮影
10:13 出発
10:20 玉野薬師堂到着、20枚撮影
10:25 出発
10:30 玉野石仏到着、写真21枚、ショートビデオ2本撮影
10:35 出発
10:43 朝妻墓地到着、32枚撮影
10:49 出発、途中でスポーツドリンク500cc補給
11:09 大日寺到着、28枚撮影
11:13 出発
11:19 春岡寺到着、16枚撮影
11:21 出発、途中のコンビニで冷たい麦系飲み物850㏄補給
11:48 玉丘史跡公園着、30枚撮影
12:00 出発
12:15頃 北条駅着
12:42 電車で北条駅を出発してJR粟生駅を経由してJR加古川に向かう。
今回、北条町に滞在した時間は3時間35分でした。その内訳は、行き帰りに駅前あたりにいたのが計35分、石仏観賞撮影が計61分、自転車走行が計119分です。
平均すると1箇所に6分間いて20枚の写真を撮影しています。自転車に乗っていたのは約2時間で走行距離は約20㎞でした。天候は晴れ、気温は33℃くらいで暑かった。
かなりあわただしい行程ですが、順調に回れ、最後には予定になかった玉丘史跡公園にも行くことができました。
効率よく回れた理由は、
事前調査が充分で大きく道に迷わなかった。当日の勘もさえていた。
独りだった(困った時に自己責任で即座に意思決定できる)。
三脚を持っていかなかった(羅漢寺では使用禁止)ので素早く手持ち撮影できた。
被写体(石仏)が小さいので、アングルに迷いなく撮影できた。
電動サイクルは楽で、特に上り坂が苦にならなかった。
北条駅前にコインロッカーが無く、パソコンや書類を入れたキャリーバッグを観光案内所で預って貰いました。
そのお礼という訳ではありませんが、帰りに「加西市史別巻 加西の石仏」2000円を購入しました。
早速、五百羅漢の記述を読みましたが、「誰がいつ作ったか分からない幻の素朴な石仏たち」というよくある観光文句ではなく、石仏の構成や製作年代について合理的な説明があり、やはり専門家は違うと感心しました。
ただ、五百羅漢の中核となる釈迦三尊など五尊像などの製作年代が慶長16〜17年(1611〜1612)銘で明らかに江戸時代初期なのに、桃山時代となっていました。
「徳川家康が征夷大将軍に任命されて江戸幕府を開いたのが慶長8年(1603)ですから、江戸時代初期とすべきではないでしょうか。」と加西市史編集室に問い合わせました。
その後、加西市市史編集室を通じて執筆者の先生からご丁寧なお返事をいただきました。
「さてお問い合わせの件ですが、一般に歴史の時代区分は1603年からが江戸時代とされていますが、美術史では大阪城落城の1615年までを桃山時代としています。従って歴史で言うところの安土桃山時代はなく、室町幕府の崩壊から大阪夏の陣までを美術史で桃山時代と呼んでおります。」
また、今後のために昭文社の都市地図「加西市」を購入しましたが、今回行ったところだけでも、山伏峠石仏の位置が200mほど西の山中にぶれていたり、大日寺が大日庵と誤記されていたりして、信頼性に欠けるようです。
最後に反省事項です。やはり、三脚は必要です。ビデオ撮影をもっと意識しましょう。そして、ゆったりと観賞してからおもむろにカメラに手を伸ばそう。
当ビデオは、保存会が太宰府市民遺産に認定されるまでの活動状況を保存会のご協力を得て、まとめたものです。
年のはじめ、正月7日に太宰府天満宮で行われる鷽替(うそかえ)神事。その時、参加者が持ち寄るのが「木うそ」です。
太宰府の木うそは、万治年間(1658〜1661年)制作と伝承される絵図が「天満宮御一代記・絵本菅原実記」に記され、また太宰府天満宮の鷽替神事は、貝原益軒が貞享(じょうきょう)二年(1685)「太宰府天満宮故実」の中で「正月七日の夜はまず酉の時ばかりにうそがへといふ事あり」と紹介しており、400年近い歴史を持っています。続き
一寸程の小さい木うそ(豆木うそ群)
太宰府木うそ保存会の研修風景
■夏の終わりの静けさ;真岡・井頭公園 田中康平
宇都宮東隣の真岡市にある井頭公園(いがしらこうえん)は野鳥の公園としても有名で3月頃の季節にはツアー会社によって東京からバードウオッチングツアーが催されるほどだ。
トラツグミが時々現れカモ類も時には珍しい種類が混じったりもする。
しかし夏場はバード・ウオッチングには不向で静かな公園となる。
今は水辺にはガチョウ、見上げればカワウとゴイサギとコサギが飛び回りいささか趣が無い。
電力対策の木金休み土日出勤でウイークデイの休みに訪れるととりわけ人気(ひとけ)がなく静かだ。
静かなところだけがとりえとなるがそれで充分なようにも思える。
クリの実も太ってきた。去年ほどではないが暑かった夏もそろそろ過ぎつつあるようだ。
■となり町散歩−印西市編− 川村由幸
先月の野田市に続いて、柏市に隣接する印西市の文化財を紹介します。
印西市はもともとの印西市に印旛村と本埜村が昨年の3月に合併し、現在の印西市となっています。
今回紹介するのは、重要文化財の小仏堂(三間堂)が3件で、旧印旛村と本埜村にあったものが各1件、
もともとの印西市のものが1件です。
千葉県には今回紹介するのと同様の重要文化財の小仏堂が7件あり、その内の3件が印西市に残されています。
印西市は、吉高の大桜でも一度紹介しています。これも旧印旛村です。
それでは小仏堂を取材した順に紹介します。
まず、泉福寺観音堂(旧印旛村)からです。
とても細い道を入った小学校の裏手にそのお堂はありました。
一見して取手竜禅寺の三仏堂が頭に浮かびました。
建造もともに室町時代後期ということで、時代背景も建築様式も同一のもので、似ていて当然と言えるのでしょう。
傍の小さなお堂にも花が手向けられており、いまも近隣の信仰を集めていることを想像させます。
栄福寺薬師堂(旧本埜村)は北総線の印西牧の原駅の先をほんの少し南に下ったところにあります。
ここも狭い道をどんどんと進み、発見できずに不安になったころ、突然視界が開け、赤いお堂が目に飛び込んできます。
このお堂は室町時代中期の建造で千葉県では建立時代の明確な最古の木造建築物です。
正面の向拝は江戸時代に後から付け足されたもののようです。朱に塗られている所が他のお堂との最も異なる外観の特徴です。
境内も人の手が常に入っているようで清掃も行き届いており、気持ちよく参拝することができました。
最後が宝珠院観音堂です。ここが最も迷いました。
先に紹介した二つのお堂は、ともかく路が細くともお堂の近くまで車でいけました。ところがこのお堂は
なかなか発見できず、結局近くのお寺に車を置かせてもらい徒歩で探してやっと目的のお堂にたどり着きました。
栄福寺薬師堂にもありましたが、お堂の正面に立つ柱はなんなのでしょう。
徒歩でないと境内に近づけない場所にあり、いまでも幽玄さが十分に保たれています。観音杉と名づけられた大木もあり、
心静かに、室町のお堂と向き合うのも心落ち着くものでした。
今回、印西市の三つの重要文化財のお堂を紹介しましたが、関心しましたのはいずれのお堂もきちんとメンテナンスされ、
保存の状態がとても良好だったこと。そして近隣の住民の信仰心が深いためか周囲の環境も清潔でとても気持ち良く
取材ができたことです。
ただひとつ残念に感じましたのは、土曜日の午前中の取材でしたが私以外の見学者・参拝者には会うことがなかったことでしょうか。
■ 看板考「梶田氷室」(東京都墨田区) 柚原君子
昭和30年代初め、父が東京の下町に大衆食堂を開店したその二、三日前のこと。木製冷蔵庫が厨房の隅に据えられた。表ではリヤカーに積んできた氷の塊の弧をのけて、氷屋さんがシャシャシャ!という音をたててのこぎりを引いていた。くぎ抜きのような大きな鉄製の道具で綺麗な長方形になった氷を引っ掛けて地面に降ろすと、大きなタオルで包んで抱えて家に入り、新品の木製の扉を開けて、ガシッガシッと音を立てて木製冷蔵庫の上部に収めた。
当時電気冷蔵庫はとても高額で、父は買えなかったのだろう。冷蔵庫というよりは保冷箱に近いその大きな木製の冷蔵庫はかなり長く厨房にあったような気がする。
子どもの頃、父には内緒で冷蔵庫の氷の上に手ぬぐいを置いて、首に巻いてみた記憶がある。ある日、手ぬぐいを置こうと思ったら、父のタオルが置いてあってあわてて引っ込めた。衛星管理上冷蔵庫の開け閉めを厳しく言われていたから、子ども心に大人はずると思ったが、ちょっぴり父をかわいくも思えた。ここ数年続く酷暑の夏には保冷剤を入れたタオルを首に巻くように推奨されているが、すでに50年も前に巻いていた私の(多分父も)“ドヤ顔”を思い出してしまう。
木製冷蔵庫はその後に、霜がたくさんついて常時かき出さねばならない、便利だけれどちょっと厄介な電気冷凍冷蔵庫が入り、姿を消した。そしていつの間にか氷屋さんは来なくなり、町の氷屋さんの仕事もめっきり減ったのか、何故だかどこも同じ様にもんじゃ焼き屋さんを兼ねるようになっていった。
昔、氷はとても高価なもので、身分の高い人しか口に入らなかったそうだ。朝廷に差し出す蔵氷・賜氷の制度があったそうで、奈良の氷室神社はその流れ。
江戸時代になると土蔵造りの氷室が市中にも作られるようになり庶民に氷が提供されるようになった、とある。
おもしろいのは<年寄りの冷や水>という言葉が生まれたのはこの氷がらみとのこと。江戸市中で冷や水を売る水屋があった。水は玉川上水より汲んだ水。それに氷を浮かべただけだったので、衛生面から高齢者がおなかを壊したそうで、ここから<年寄りの冷や水>という言葉が生まれたそうな。
……でも、無茶なことをする、という意味合いで使われる<年寄りの冷や水>と、高々氷を浮かべた水を飲むことが、大胆さに通じるのというはいささかオーバーな気がしないでもないが、発展途上国を旅行するのに水道水をのめるのか、となると、矢張りソノヨウナ無茶ハデキナイ、となる。
氷室と書かれた懐かしい看板を墨田区に見つけた。……やはりお好み屋さんを兼ねていました。
Japan Geographic Web Magazine
編集 瀧山幸伸
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