Monthly Web Magazine August 2014
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トピックス
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■■■■■ 東北の夏 瀧山幸伸
順に、秋田竿灯、弘前ねぷた、五所川原たちねぷた、青森ねぶた、黒石ねぷた
8月初旬、台風の影響で西日本は天候不順のため、久しぶりに東北を回った。
この時期の祭りははずせない。
写真やテレビ品質のビデオに比べ、夜の祭りの「映画品質」の撮影は易しくない。
今回は納得の撮影になるだろう、と高速を北上していたのだが、三脚に取り付ける映画用の雲台を忘れたことに気がついた。
これがなければスムーズなカメラワークが不可能だ。
仙台のカメラ屋に某中国製の在庫があったので、やむなく寄り道して購入した。
日本の口コミサイトには良いことづくめだったが、それほどの性能ではなかった。
やはりハリウッドのプロ仲間で話題にならない製品は値段なりだ。
とはいえ、結果的には以前のビデオカメラ時代に比べ格段に良い映像が撮れた。
映画用の機材では、カメラもさることながら、レンズの差のほうが大きい。
青森各地のねぶた、ねぷたは、当初広角の単焦点レンズで撮影していたが、全く迫力が出ないので、70-200mm F2.8の望遠レンズに終始した。
以前、高山祭りの夜は、85mmF1.8と200mmF2.8の単焦点レンズをとっかえひっかえ撮影したが、このズームレンズは便利かつ素晴らしい絵が撮れる。
ねぶたの迫りくる情景は臨場感たっぷりだ。
秋田の竿灯の最終日は大雨の中での開催となった。
明るいねぶたに比べ、地明りで竿灯を操る男たちが主役なのだが、現場はとても暗く、以前撮影した動画にはノイズが残る。
かといってテレビのように照明を使えば雰囲気が台無しになる。
ここでは明るい標準レンズ50mmF1.4を使い、これまた臨場感あふれる雰囲気の良い映像が撮れた。
もちろん音にもこだわった。超大型の太鼓が発する驚異の音圧にも耐える最新式の録音機とマイクを使用した。
これまたハリウッドのプロが使っているもの。
一部のねぷた行進のスピーカーが発する音がひずんでいるのは残念。音にも気を配ってほしい。
何かと費用のかかる映画取材だが、結果はまずまずといったところ。
大きな問題は、このような劇場品質の映像を再現する巨大スクリーンと大音量にふさわしい場所がないこと。
そのような場所を探すか、自ら造ることもジャパンジオグラフィックのミッションだ。
その前に先立つものを確保しなければならないが、これは根本的な大問題。
■■■■■ 夏休み 大野木康夫
私が通っていた中学校の夏休みの歴史の宿題に、「京都の社寺を回ってレポートを書く」というのがありました。
この社寺の数がけっこうなもので、記憶では、必ず回ることになっていた社寺は、東寺、東福寺、三十三間堂、清水寺、銀閣寺、二条城?、金閣寺、龍安寺、仁和寺、大覚寺、広隆寺、天龍寺など、大仙院、泉涌寺、上賀茂神社などはそこを回るか他の寺を回るかは任意になっていました。
先生の意図は、「京都にいるのだから、社寺に興味を持ってほしい。持てなくても将来、観光案内程度はできるようになってほしい。」といったようなものではないかと思います。
後ほど、この宿題をもとに、「京都、奈良の二泊三日の観光プランを作って提出する」という宿題を課された記憶があります。
みんな、交通局の一日乗車券で市バスや市電(まだ走っていました。)で回ったり、炎天下を徒歩で回ったりして、大変な思いをしていたようですが、寺社や鉄道に興味があった私は、楽しい宿題だったと感じていました。
その影響もあって、今も1日で多くの寺社を回っているのかもしれません。
今では、体がついていかなくなって、無理はできないようになっていますが。
7月21日の撮影では、大阪府南部の寺社のうち、普通に公開されているものを回りました。
実は寝坊して4時頃出発する予定が5時過ぎに出発したので、訪問した寺社は10箇所と、密度の割には少なくなりました。
8月1日から家族旅行で飛騨に行きました。
家族旅行では撮影上の制約は多い(あまりシャッターチャンスを待てない、三脚や交換レンズを使えない)ですが、楽しく過ごせました。
荻町で、集落の南端の撮影ポイントに行くことができたのはラッキーでした。
夏休みといえば、子どもの国語の宿題で、百人一首の前50首のうちから1首を選んでレポートを書くというのがあり、蝉丸を選んだというので、逢坂関跡についていって写真を撮影しました。
謡曲や歌舞伎舞踊などのよけいな知識を吹き込みましたが、どんなレポートに仕上がることやら…
2007年5月の連休に倉敷児島の田舎家から、阿波池田を経て、美馬町脇町と土柱へ行った。
ジャパンジオグラフィックの通信員になる前の年で、コンデジでのんびりと写真を撮っている。
僅か7年前のことなのに、細部を覚えていない。年をとると記憶の風化が本当に早い。
午前6時ころ、マリンライナーでJR児島駅を出発した。瀬戸大橋を越え、坂出で特急しまんとに乗り換え、吉野川を渡ってJR阿波池田駅に着いた。
阿波池田の町並み。ここは脇町と並ぶ「うだつ」の町である。
この家は後で調べると高校野球史の残る名監督故蔦文也氏の自宅だった。
町並み(続き)
阿波池田にいたのは1時間足らずで、8時前にJR普通に乗り込み、ツツジのきれいな駅を経て、8時40分頃穴吹駅に着いた。そこから徒歩で吉野川に架かる穴吹橋を渡った。
1時間歩いて、八幡神社に着いた。地図で見るとちょうど3kmくらいである。そのすぐ横が旧長岡家住宅(国重文)である。シャガとフジの花が目を楽しませてくれる。
脇町の町並みを見て、吉田家住宅を見学した。最後に名物のそばを賞味した。
さて、不思議なのはこれからである。デジタル写真のプロパティを調べるとそばを食べたのが、11時13分で、土柱を眺めているのが11時41分である。脇町の東端から土柱までは約6kmもある。しかも、車で行ける阿波インターチェンジ駐車場から土柱に至る山道は徒歩で10分くらいかかる。バスの路線はなさそうだから、タクシーに乗ったのだろうか。そばを食べ終わったのが11時16分で、直ちにタクシーを捕まえたのが11時20分、そして11時30分には麓の駐車場に着いたのだろう。全く覚えていない。
とにかく、土柱まで見ることができた。最後の白い花を撮影したのが12時22分
12時55分には穴吹駅に戻り、阿波池田行普通に向かっている。土柱と穴吹駅の距離も約6kmである。やはり、タクシーを使ったのだろうが、記憶はない。
いずれにしても、花盛りの旅で楽しかったようだ
竹原の家並みには、棒瓦と格子窓等の家廻り、さらに家中にも工夫を凝らした意匠に出合える。
一軒一軒こしらえが異なっている。二階の虫籠窓や武者窓。一階の平格子、出格子。蔵や門の窓の格子など様々である。
台風も過ぎ去って梅雨のような重い雲ののしかかる空模様になってきた。
毎日のように送られてくるSpaceNewsに今夜はSupermoonの文字があって、これは見なければと思っていたが満月は雲の中で見損ねてしまった、しかし次の日の夜はかろうじて雲の切れ間から見ることが出来た。
スーパームーンは満月が月の軌道の近地点(ペリジ点)に来た時の状態で、月と地球の距離が近くいつもよりかなり大きく月が見える現象だ。満月の翌日でもペリジ点からは17時間位過ぎている位で月との距離はまだそれ程広がってはいないはずだ。
見た目十分大きいように見える、大きいはずと思ってみるからもあるかもしれないがなんだか大きい。
スーパームーンとなる満月とペリジ点が一致する位置関係は1年におよそ1回はあることになるようだが月の楕円軌道の形そのものが8.8年周期で回転しているため細かくは1年と48日で次のスーパームーン状態が出現するとされる。2013年は6月13日、2012年は5月6日、2011年は3月19日だった、今年は8月10日(10日夜から11日早朝)で来年は9月28日ということになる。
現実には満月の時の近づき方がペリジ点に満月が来た時の近づき方の90%まではスーパームーンと称することになっていることから、前後1月くらいはスーパームーンと呼べることが多く、今年であれば7月12日と9月9日の満月もスーパームーンとなっている。
2011年のスーパームーンは東日本大震災の引き金となったとの説がネットを巡っているが、本当のところはどうなんだろうか。今回も青森沖でマグニチュード6.1の地震が起こっていて確かに起こりやすくなる要素の一つではあるような気もしている。
スーパームーンという言い方はほんの30年前にはじまったという。こんなことは太古の昔から繰り返しおこっていたはずだが、日本の古典にも月の見かけの大きさが変わるとした表現を見たことがない。月の大きさが変わるなどとはおよそ考えられなかったのだろう。
しかし不気味に大きな月を感じる時は何度かあった。多分心理的に大きく見えているのだろうと思っていた。
物理的に本当に大きく見えるとなるともっとほかにもそんなことがあるのではないかと思ってしまう。
時々、時間の進みがやけに遅く感じる時がある。心理的なものと思っているがもしかしたら時間が局所的に伸び縮みしているのかもしれない、本当にそんなことが起こっているのではないか、そう思うと面白い。
人の感じることは大体が現実そのものである、そうなのだろう。
暇つぶしのように考えをめぐらしていると時はすぐに過ぎていく、もう8月も半ばだ。
故郷で一人暮らしていた母が入院したのが昨年の11月。
それまでいくら同居を勧めても頑として受け入れず、一人暮らしを続けていた母でした。
我々夫婦にとって、すでに家内の両親は亡くなっており、最後に残った親で心に懸かる親でした。
その母も七月末に突然旅立ってしまいました。享年85歳。
しばらくは葬儀やいろいろな手続きに忙殺され、ただただ時間に追われてましたが、亡くなって20日が過ぎ、落ち着きが戻り喪失感に苛まれています。
故郷の町の病院に入院したのは、雨戸をあけるときに頸椎を圧迫骨折したのが理由でしたが、後で聞いたことによると、入院は内科で整形外科ではなかったようです。
老人の圧迫骨折は痛み止めの治療以外なく、整形外科での入院はできなかったようです。
約二か月この病院に居りましたが、この間はいくらかは自分自身で動くこともでき、私たち夫婦もさほど深刻に考えることもなく、定期的な見舞を繰り返していました。
元々、私たちの誘いも拒み自宅での一人暮らしに固執していた母ですから、入院中も当然に早く自宅に帰ることを強く望みました。
在宅介護を手厚くしても、自宅で一人暮らせる状態であったのか今でも疑問が残っていますが、本人の意思が固く、今年の一月半ば過ぎに退院し自宅に帰りました。
ところが、一週間で又自宅で転倒し、救急搬送で元の病院へ。
これからがとても大変なことになりました。
病状は股関節骨折でした。ただ年齢から手術は困難らしくどうするかでトラブルとなりました。
病院側からは手術ができず痛みの治療をするだけなら、入院はさせられないすぐに介護施設に行くよう指示されました。
この話がされるまでもすでに4〜5時間、救急搬送された母はストレッチャーの上に放置されたままです。
ともかく入居する介護施設が見つかるまで入院を考えましたが、それも受け入れてもらえず仕方なくまずショートステイで受け入れてもらえる施設に入りました。
結局、7〜8時間、母は冷たいストレッチャーの上で痛みと闘いながらの忍耐を強いられました。
まだ難題は残っています。ショートステイで受け入れてもらえるのは四日間、そのうちに母の恒久的な身の振り方を決めなければなりません。
いろいろと考えましたが、家族での介護は困難との結論で入所可能な介護施設を探し四日の内に契約まで進めなければなりません。
当然、多岐に渡る十分な検討ができないまま、入所を決めました。
やっとのことで、長く入居できる施設に入りましたが、母は短時間の内にあちらこちらと移動したため環境の変化に適応できず認知症の症状はないにもかかわらず、譫妄が酷くて自分の所在が正しく認識でない状態で、当初はいささか手を焼きました。
その内、その施設にも慣れ、施設のスタップの皆さんとも気持ちが通じたのか穏やかでゆったりした半年を過ごすことが出来ました。
自宅で暮らしていた時にお世話になった方々も施設を訪ねて下さり、施設内で友達も出来ていて自分だけでの移動は完全にできなくなっていましたが、上手に時が流れているようでした。
私たち夫婦もそんな母を見て、一安心していたのもこの頃です。
ところが、7月中旬になって施設担当医から黄疸がでている指摘があり、施設近くの国立病院に入院、検査の結果、末期癌でステージⅣとの診断でいろいろと手を尽くしたものの、治療は緩和ケアーができるのみという状況でした。結果、入院後10日あまりでこの世を去ったのでした。
私と家内のふたりで最後を看取りましたが、眠るように静かな最後だったと思います。
入院してから、あまりにもあっという間の出来事で心残りがないとは言えません。
昨年の11月に入院した故郷の病院でも軽い黄疸は出ていました。いきなりステージⅣにはなりません。
その時に発見していればと考えるが当たり前、でも発見していて厳しい治療を行うことが母のためになったのでしょうか。心は乱れるばかりです。
こうして、私たち夫婦の最後の親が旅立ちました。
親の介護・老人医療の問題の一端を垣間見た私たち夫婦は、それを自分自身の問題でもあると理解しています。母が身を持って教えてくれたのでしょう。
今も喪失感を抱えています。これから私たちにできることは、母を思い出すことだけです。
合掌。
■■■■■ 「春夏冬中」 ゆはらきみこ
新宿区のお蕎麦屋さんで見つけました。「飽きない」「空きない」なども含まれている「商い中」つまり営業中という、よくある看板ですね。絵とか文字をしゃれて遊ぶ「判じ物」と呼ばれています。
「判じ物」の起源は平安時代。和歌などに二段三段の謎かけをして遊ばれました。江戸時代に入ると庶民的な遊びの要素でシャレも取り入れられました。また文字が読めない庶民や子どものために絵画化したものも多くあったそうです。板に輪を描いて「湧く」つまりお風呂屋さん。歯の絵の下に猫を逆さに書いて「箱根」。絵は謎かけも多かったそうで、この絵、圀は八方ふさがり。現在では□に斜めの線をいれて「マス」と見せて「ます」の文字を省いている看板も多くあります。
音の不具合から読み替えられたものには櫛屋→「十三屋」と表したものがあります。(くし、のく=九(苦)やし=四(死)が苦労や死を連想するということから、九+四で十三、で「十三屋」と読ませたようです。
スルメ」を「あたりめ」と記した呑み屋さんもあります。これも「する」は「博打で負ける」ことを意味する言葉や窃盗の「スリ」につながるのであまり縁起の良い言葉ではないことから 縁起の良い「あたる」に置き換えて「あたりめ」。同様に「すり鉢」は「あたり鉢」。
隠語のようなものでは質屋さんの七を分解して「一六(いちろく)銀行」。焼き芋屋さんを栗よりうまい(栗より上等)ということで9プラス4で13。十三里。商売敵があちらよりさらにうまいということで十三里半という看板もあるそうですが、半だけ足したことが奥ゆかしくおかしいです。最も一里を足すと意味として嫌われる十四の死が入ってしまうので、半をプラスすることが妥当であったのかもしれません。
「一斗二升五合」もかなり有名ですが、一升ビンは1.8リットルの方がわかりやすくなっていますし、一斗は18リットルのことですから、現在すぐにわかる計算は難しくピンとこない判じ物になっているかもしれません。
ちなみに一斗は、五升の倍で、「ご商売」。二升は、一升升(ます、枡とも書く)という、米を測る器具2つ分で「ますます」。 五合は、一升の半分で、半升、つまり「繁盛」というわけで、「ご商売益々繁盛」というシャレになります。
昔のことですが、田舎暮らしに憧れて群馬の山奥に農家を見に行ったことが有りました。廃屋に近い家で急な段々畑のさらに坂道を上がったところにありました。住んでいた人が逃げ出したような印象の家でしたし、このような廃屋があちらこちらに目に付きました。このとき見つけた看板は「酒屋は七里、天国一里」でした。酒屋に行くより天国が近い高地ということなのでしょうか。この看板だけは撮っておかなかったことが今でも残念です。
判じ物のような文字遊びは英語にも多くあるようですが、英語は「豚10」分かりません。
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Japan Geographic Web Magazine
https://JAPAN GEOGRAPHIC/
Editor Yuki Takiyama
yuki at .jp (Replace at to @)
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