Monthly Web Magazine June. 2015
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トピックス
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■■■■■ 棚田にのめりこむ 瀧山幸伸
春の連休に九州の棚田を全て調査し終えて、その後も新潟、長野、静岡、愛知、岐阜の棚田を廻っています。
収録した棚田や段畑は、全部で333か所、そのうち、棚田百選に選ばれている所134か所中100か所を収録しました。
かつては「棚田は全国どこにでもあるから」と、積極的に調査や撮影をしていませんでしたが、最近のめりこんでいます。
棚田がなぜ美しいのかというと、視覚聴覚もさることながら、なつかしい記憶が蘇り、心にも美しいからでしょう。
視覚
・立体的な景観だから美しい
・地形に沿った畦の曲線が美しい
・地形に沿った坂道の曲線が美しい
・石垣、畦の花などが美しい
・周囲の森、山、谷と水路、遠方の山が美しい
・農家や小屋が美しい
・季節と時間の変化が美しい春夏秋冬、朝夕、昼夜の変化が美しい
・目障りな電柱や擁壁、近代建築がない
聴覚と皮膚感覚と味覚
・車などの雑音がなくて美しい
・水の音が美しい
・鳥やカエルなどの鳴き声が美しい
・そよ風の音やひんやりとした感じが美しい
・耕作物や山菜などが美味しい
・水がおいしい
文化
・農家の人々と棚田との調和が美しい
・農家の人々が親切で素朴
・農家の人々のリズムがゆったりとしている
この美しい棚田を空から記録することも始めました。以下の写真はドローンで撮影したものです。
巷ではドローンの危険性が騒がれていますが、素人が場所と目的をわきまえないで使う道具ではないと思います。
静岡県浜松市浜北区 久留米木の棚田
長野県大町市 重太郎の棚田
長野県長野市中条 栃倉の棚田
■■■■■ 棚田の俯瞰撮影 大野木康夫
最近、棚田の撮影を始めました。
棚田は、下から見上げると当然ながら田として認識ができないので、撮影スポットは高所から俯瞰できるところとなります。
ネットなどで俯瞰できる場所を探していくことになりますが、わからなくて現地で探すこともあります。
■ 畑の棚田(滋賀県高島市)
集落の上の山肌沿いを通る林道に撮影スポットがあります。
集落入口に車を停めて歩いていくと20分ほどで着きます。
遠く琵琶湖や伊吹山系の山々まで見渡せる絶景が広がります。
■ 毛原の棚田(京都府福知山市)
棚田の最上部に展望所がありますが、その上部に地元の方に教えていただいた「モデルフォレスト展望所」があり、その上の松林のところから全体を見渡すことができます。
獣害対策の柵のゲートを開けて少し上ったところです。
■ 上世屋の棚田(京都府宮津市)
上世屋は山村ですが、集落の上の道路から展望すれば、棚田の向こうに海が見えます。
耕作されている棚田とともに、耕作されなくなった棚田も見ることができます。
■ 新井の棚田(京都府伊根町)
新井は、伊根の舟屋集落の東の半農半漁の集落です。
集落北側の棚田は圃場整備されていますが、集落南の海沿いの傾斜地の棚田が撮影スポットとして知られています。
沖合に見える島は右手(南)の大きい方がオオミズナギドリで有名な冠島、左手(北)が沓島です。
■ 袖志の棚田(京都府京丹後市)
袖志は丹後半島の先端、経ケ岬のすぐ西側の海沿いの集落です。
経ケ岬の展望台から棚田を遠望できます。
棚田の中ほどにある林の西側の道を登っていけば、棚田の向こうに経ケ岬を望むように撮影することができます。
どの棚田でもそうですが、獣害対策の電気柵に注意が必要です。
これからも機会があれば棚田の俯瞰撮影に挑戦していきたいと思います。
内容は、全国各地の山林で使われた前挽き鋸の製造実態を伝える関連資料1274点で、重要有形民俗文化財は全国で216件、滋賀県内で初めてです。
「前挽鋸製造用具と販売用具・信仰用具など」
滋賀県は、京都・奈良・東京に次いで国宝や重要文化財を多く所有する県です。しかし、重要有形民俗文化財の指定が今回始めてとは驚きでした。
近江は古来においては、都の造営や大寺院の建築に大量の材木を供給してきました。甲賀周辺地域は古くから良材の産地として知られ、東大寺や石山寺造営の用材を供給し、「甲賀山作所」の杣山に比定されています。甲賀には東大寺が経営する「甲賀杣 こうがすま」もありました。
また、2005(平成17)年、甲南町地先の新名神高速甲南インターチェンジ工事現場から、伐採時期が飛鳥時代(年輪年代630〜80年頃)と特定された加工痕の付いた木材が多数発見されました。長さ5m余。太さ直径80cm余の丸太材です。甲賀の杣の実在を示す有力な手がかりです。
「畔之平遺蹟」
さて、今回の資料は、前挽鋸の製造の各工程で使用する用具や出荷から販売、職人の信仰に関する資料などが、甲賀を中心に体系的に収集されたものです。
斧・鑿(ノミ)についで、鋸は古墳時代から使われ始め、横挽きのものでした。建築の製材用の縦挽き鋸は15世紀に入ってから使われだしています。
その後、17世紀後半には二人使いの横挽製材鋸が、18世紀中頃には一人使いの縦挽鋸と移っていきます。製材技術が年々大変革を遂げてきました。
江戸時代に入ると職人技術の黄金時代がはじまり、これまで万能的であった大工道具も建具職・家具職などと分化し、木工関係職人の用途にあわせて、専門的・単能的な多くの種類に分化していきます。 前挽鋸の全盛期がここに始まります。一人使いの大型製材鋸(前挽)の出現です。
前挽鋸は、江戸時代中頃、京都・大坂・三木(兵庫県三木市)、そして甲賀で独占的に生産され、需要が広まりました。 関連資料です。
「六孫王神社権現社新縁起 坤」(六孫王(ろくそんのう)神社(京都市南区八条町)所蔵)「引用」
元禄15年(1702)に描かれた絵巻物で画面は社殿造営の場面である。前挽鋸(まえびきのこ)を用いた挽割製材による正確な製材,台鉋による部材表面の美しい切削など,近世の大工道具の充実した様子を伺い知ることができる。元禄14年建立の一連の社殿は京都市指定有形文化財として現存している。
葛飾北斎 「富嶽三十六景 遠江山中) 遠江(現静岡西部)の「大鋸挽き」の光景 1831(天保2)年ころ「引用」
甲賀の林業の盛んな地域性が、江戸時代中期からの前挽鋸の製造につながり、明治以降は甲賀の地場産業、甲賀産前挽鋸が全国的に流通しました。
北海道開拓記念館(現・北海道博物館)には、甲賀産の前挽鋸が数多く展示されています。1899(明治32)年頃始まった根釧原野開発時の鉄道枕木づくりに使われたものです。その他、海外にまでも販売されたようです。
甲賀市で5月23日、今回の国指定をうけて、記念講演と元木挽き職人の技披露実演が開催されました。
元木挽職人の86歳になられた田中新次郎さんが、長さ2m、直径40cmほどの杉の丸太を縦に挽き、製材にする熟練の技を披露されました。
「木は真直ぐでなく、ねじれて育つ。1本1本年輪や木肌を見て、筋を見極めてから挽く」と話されました。「鋸からしばらく離れると、刃先から伝わる微細な振動が握っている手に伝わる感覚が戻らない。人が触るとクセがとられる」 錦織選手のラケットに対する思いと全く同じで、経験の深さと仕事への誇りをヒシヒシ感じました。
使われた道具の中で「スミツボ」が懐かしかったです。ユニークな形状には意味があり、職人にとって重要な工具でした。独特の墨の香りを久しぶりに味わいました。
講演は、「製材技術と道具の歴史−木の建築を作る工程と製材」なる題目で、渡辺 晶氏のお話でした。渡辺氏は(財)竹中大工道具館に長く所属され、現在は建築技術史研究所を主宰され、一貫して建築技術史の研究に携わっておられます。『大工道具の日本史』など著書も多いです。
木造建築の道具にポイントを置いた変遷のお話で、ノコギリだけでも奥深く、初めて耳にする内容ばかりでした。
桜町遺跡(富山県) 高床式建築 約4000年前 縄文時代中期 クリ材 直径60cmの丸材に打製石器で貫通させた穴がある用材が使われている。「引用」
平等院・国宝(宇治) 1052(永承7) 床材12cm前後の厚みがある 打割製材 厚い材しかできず、そのまま使う。
慈照寺東求堂・国宝(京都) 1486(文明18) 大型縦挽製材鋸(大鋸 おが)の普及で薄板の製材が可能となり繊細な書院造が広まる。
スペースの関係で省略しますが、「たかが道具、されど道具」よ〜く分かりました。
『伝統的な日本の木の建築は、手道具であるカンナ・ノコギリなどの「引き使い」という日本独特の職人の技術による技法で建てられており、ユネスコの世界無形文化財に登録されて不思議でない』の言葉が印象的でした。機械化され、電動化された工具からは技法に多様性が生まれないというお話でした。
各地の寺院や・神社をカメラで追っておりますが、宮大工さんの造られたものとして詳しく見ておりませんでした。今回渡辺さんのお話を聞き、大工手道具の歴史・技術の変遷と、国宝・重要文化財の建造物との深い関りが分かり、見る観点がまた新しく加わりました。
引用などの参考資料≪講演会資料、甲賀市史、大工道具の文明史、高野城遺蹟報告書、京都市文化観光資源保護財団レポート、他≫
■■■■■ 「宝満山 金の水」 末永邦夫 source movie
今年、facebookで福岡県筑紫野市 宝満山で「金の水」の現象を見たとの報告が出ていました。
それで、約8年ほど前に撮影してたのを思い出し、約2分ほどに編集してみました。
現象の記録としてご報告します。
太宰府市と筑紫野市にまたがる宝満山。
山頂から本道寺へ下ると約8合目に「金の水」という水場があります。
その名前の由来は年に1度、岩窟の岩の隙間から太陽光線が差し込み、水が流れる岩場に光が当たり、金色に輝く瞬間が有ることからつけられたそうです。
2007(H19)年5月、たまたまその現象に出会う事ができました。その時の記録です。
「金の水」の全景、水場の岩窟の岩場に当たる太陽光線、ハート型に金色に輝く「金の水」の現象
■■■■■ 梅雨の晴れ間に 田中康平 source movie
梅雨に入った。平年並みかやや早いくらいの入梅だが、少しばかりおやと思う。
今年はエルニーニョ現象が高まりつつありメリハリの無い梅雨を予想していた。
エルニーニョではペルー沖の赤道付近の海水温が上昇するが、これはフィリピン沖のいつもは温度の高い海水がたまたま起こる西風で東へ吹き寄せられるため起こるためと説明されており、このため日本の南の海域の海水温が例年よりやや低くなり、南から押し寄せる暖かい大気の勢いが弱まり、梅雨前線が北上しにくくなり勝ちとなるはず、という長たらしい連鎖を普通は予測することになるのだが、今回はどうやらそうでもなさそうだ。
日本の南の海水温は大して下がっていない。やはり南の海がやや温暖化してきているのだろうかと思う。原因はなんであれだ。
ともかく北の大気は冷たいままだからぶつかり合う日本上空の梅雨前線付近では雨の降り方が強くなりがちで陽性の梅雨となりそうだ。
梅雨の時期は晴れ間を縫って出かけると、かえってすがすがしい五月晴れに出会える。
6月の初めの、これは間違いの無い晴という晴れ間に唐津の七ツ釜あたりを巡ってみた。福岡からは1時間半くらいで到達できる。
呼子、七ツ釜、加部島と一渡り廻って名物の呼子のイカも堪能して、もう一箇所くらいと波戸岬に向かった。名護屋城のある半島部の突先の岬だ。
海中を見ることの出来る玄海海中展望塔というのがあるというのがやや気になっていた。
気持ちのいい岬の草原の端に海中展望塔はあった。
陸地からコンクリートの橋のような部分を歩いて塔を降りるようになっている。
陸地の入り口に切符売り場があって女性が一人居るだけであとは施設があるだけだ。エレベータもない。
ふーん、大してものでもないか、少しは魚もいるかなと思って階段を降りていく。水面下7mくらいの海底部らしい所に着く。
平日とあって他に客は居ない。底には楕円形のしっかりした覗き窓がぐるりと廻っている。
みると驚くばかりの魚が窓の向こうに見える。
クロダイや何やら名前は良くは解らないが堂々たる魚がどの窓からも見える。水族館より明らかに多い。
勿論施設としては海の中の塔だけで廻りに魚を囲う仕掛けがあるわけでもなんでもない。
見ていると次第に魚から見られていると感じ始める。
魚にしてみれば狭い部屋の中に閉じこもった人間を面白がってぐるぐる廻りながら眺めているということになるのだろう。
魚にとっての”人間園”となっているのだろう。
魚世界の観光名所になっているのかもしれない。
緑の地球に共に生きている、と実感させる。
動物園や水族館などは出来るだけ止めて自然にある地球の仲間としての生き物を普通に眺める施設が本当は望ましいのだと感じさせるし、それは実現可能なのだとも思わせる。
動物園や水族館でいつも感じる痛々しさがここには無い。
見世物となって生涯を終える生き物を見るのはつらい。
地上へ戻るとあちこちから元気のいいホオジロの声が聞こえる。
のんびりしたハート型の草原から前に広がる晴れ渡った玄界灘の眺めが心地いい。
陽性の梅雨はその晴れ間が楽しい。いい季節というべきなのだろう。地球を楽しむべきなのだろう。
本年3月1日に全面開通した常磐高速道路を利用して宮城県に出かけました。
これによって、東日本大震災による東電福島第一発電所の事故のために帰還困難区域や居住制限区域
(区域の名称の定義は下図参照)を車で通過することができるようになりました。
宮城に出かける目的は、我々老人にできる震災支援、ちょっぴりのお金を東北で費やす事。
大川小学校に代表される被害の厳しかった石巻の現状確認。
そして、常磐道での帰還困難区域や居住制限区域の通過でした。
自宅のある柏ICから常磐道に入り、2時間あまり、広野のJビレッジの看板が見えたあたりから帰還困難区域は常磐道も二輪通行禁止の立て看板が目立ち出し、車を運転していてやはり緊張してきます。
続いて、その位置の放射線量を計測した表示版がいくつも出てきます。(空中線量の測定と理解しました。)
最初は0.2μSv/Hr程度であったものが、帰還困難区域では最高5.6μSv/Hr、単純に計算すると49mSv/年の放射線量、そこを車で通過するだけでもいささか危険を感じ不安になります。
常磐道は大熊・双葉・浪江の各町と南相馬市の帰還困難区域を通過しますが、震災直後のまま屋根瓦の崩れた家、自家用車がきちんと庭に止められたまま無人となった家が続いています。
もちろん、一般道を移動する車もなく、田んぼはすでに雑草ではなく、背の低い灌木育っています。
帰還困難区域の周辺の居住制限区域では動いている車は散見できるものの、いたる所に黒いビニールに包まれた除染のために除去された汚染土が置かれています。
その量の多さには驚くばかりです。しかもその汚染土が住宅の周囲に山積みされている光景を何度も見せられます。
これでは、ここに戻っての生活再建など夢のような話で、いつになったら元に戻るのかなんて考えられない状況です。
現実をこの目にして、絶望さえ感じるほどに打ちのめされました。
その日はこの後、仙台近郊でゴルフをして、作並温泉に宿泊。
もちろん、夜は大酒をいただきましたが、朝の常磐道の光景に皆が意気消沈していてお酒の廻りが遅かったように感じました。
ともかく、被災地でちょっぴりのお金を費やすという目的は果たすことができました。
そして、石巻へ。
石巻では、英国のウィリアム王子も訪れた日和山公園から震災復興の様子を確認しました。
旧北上川の河口から中瀬まで
墓だけが残る景色
津波が押し寄せた地域には未だ何もないと言って過言ではありません。大震災から4年が過ぎたというのに、整地されただけで人の生活の色は全く感じられません。
いろんな工事は行われているのですが復興・復旧という言葉とはかけ離れた現実を見せつけられた気がしています。
ここ日和山公園で大震災の津波を体験した60歳台の男性にお会いしました。
ご自宅が旧北上川の河口近くにあり、そこで津波に巻き込まれたそうです。
「二階の屋根が下に見えたので12〜3mの高さに自分がいたことを記憶している。」
「我家を訪ねてくる予定の孫は地震で学校から避難し、自分の家には来られず助かったが、妻と多くの友人が亡くなった。自分一人、生きていても何の意味もない。」
返す言葉が見つかりませんでした。
東日本大震災から丸四年以上が経過しましたが。被災地以外の国民の心からこの大震災の記憶は随分と薄れているのではないでしょうか。
しかし、被災地では記憶ではなくまだまだ現実そのものです。日常なのです。
もう一度、震災直後の被災地と被災者に寄り添う心を思い出して下さい。そして、被災地と被災者のために何ができるか考えてください。
帰路は東北道経由で帰ろうと考えていましたが、思いを深く心に刻むために再び常磐道を通って帰りました。
■■■■■ 「踊り子」の特急券が買えない? 野崎順次
JR特急「踊り子」は東京と伊豆を結んでいる。なぜ「踊り子」かというと、かの有名なノーベル賞作家川端康成の「伊豆の踊子」にちなむからである。
東京から伊豆に行くには、新幹線で熱海まで行けば、あっという間である。
それなのに、いまだにこの特急が残っているのは、熱海で乗り換える手間が省けるという単純な理由のためと思われる。
個人的には是非一度乗ってみたいと思っていた。
大阪から横浜の娘の家(最寄駅はJR東戸塚)に行き、1泊して翌日戻る。切符は、北新地駅のみどりの窓口で、ジパング倶楽部会員として往復を買った。
のぞみ以外の特急券と乗車券が3割引きになるのでお得である。
使える回数に限りがあるので、1回でできるだけ長距離にした方がよい。
しかし、ジパング倶楽部と今回の話は直接には関係ないようだ。
往路はJR三島で途中下車して伊豆箱根鉄道三島駅(隣接している)から伊豆長岡に行き、韮山反射炉を見学する。
それから三島に戻り、「踊り子」で大船まで行くのだが、その同じ「踊り子」が伊豆箱根鉄道に乗り入れており、伊豆長岡から乗れることが分かった。
そのまま、大船まで乗って行ける。
しかし、伊豆長岡から三島間の特急座席指定券はジパング倶楽部の往復券には入らない。
盲腸のような付けたりとなるので、別に購入する必要がある。
伊豆長岡から三島までの座席は、三島から大船までと同じにしておきたい。
そこで、同じ窓口で頼むと、JRの窓口では扱えないので、現地の伊豆箱根鉄道の駅で買ってくれと言われた。
今の時代に、他社乗り入れ区間のJR特急指定席券がみどりの窓口で買えないとは。
おそらく、インターネットでも買えないのでは。
と、思いつつ、当日になった。
JR三島で降りて、新幹線から在来線の地下道を進み、いったん、JRの改札から出て、すぐ横の伊豆箱根鉄道の窓口に行く。
行きしの三島、伊豆長岡間普通乗車券は自動販売機で誰でも買える。当たり前だ。
窓口で、伊豆長岡から三島までのJR特急指定席の話をすると、拒絶反応があり、伊豆長岡駅の窓口でないと、買えないという。
不思議である。何でやねん。ごねて大声で叫んだろか、と、思ったが、理性が勝って叫ばない。
予定通り、伊豆長岡駅に着いて、韮山反射炉を撮影して、少し早目に駅に戻ってきた。
窓口に行って、JR三島から大船まで踊り子指定席特急券があるので、伊豆長岡・三島間も同じ席の特急券を購入したいと、くどくどと説明する。
すると、特急券はいらない、乗車券だけでよいという。それだけである。どうも、伊豆箱根鉄道区間のJR踊り子特急券は存在しないらしい。
それにしても、妙である。現地で聞けと2回言われて、現地で要らないと言われた。
■■■■■ 看板考「特賞!猿一匹」 ゆはらきみこ
所在地:岐阜県高山市昭和館内
こんな時代があったのか! としか言えない。おおらかというか、いい加減というか、こうでなくちゃいけないというか、メチャクチャというか……昭和30年代の当時は暮らしにくかったのか、暮らしやすかったのか、つがいでもらった動物を飼えるほど豊かな時代だったとは思えないし、と看板の前でしばし考えてしまいました。
動物は私たちのものでは無いのに、とはいいつつも牛肉豚肉美味しいと食べているし……、動物がみたかったら現地に行けばいいのに、動物園なんかに閉じ込めて、とは思いつつも動物園があれば行ってみたいし……。
人間は何てエゴなんだろうかと、看板の前でしばし考えてしまいました。
ちなみに、カバヤの屋号は動物のカバからとっているそうです。
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Japan Geographic Web Magazine
https://JAPAN GEOGRAPHIC/
Editor Yuki Takiyama
yuki at .jp (Replace at to @)
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