Monthly Web Magazine Feb. 2016

Top page Back number


■■■■■ 出水に旅する 田中康平

1月の終わりにツルを見に出水平野まで出かけたが、せっかくだからと出水の武家屋敷群にも足を延ばした。

9年前に訪れた時は天草から教会でも見ながらとぶらぶらしながらフェリーで渡ってきたせいもあって時間切れでそこまでは回れなかった。リベンジということもある。

武家屋敷群の名は聞くが出水城というのは耳にしない、どうなっているのだろうかと思いつつナビに導かれて目的地に近い駐車場に至る。

の武家屋敷の趣とはだいぶ違って道が広いし真っ直ぐだ。玉垣が道の両側に残っているので恐らく道の幅は当時のままなのだろう。

公開されている竹添邸・税所邸を訪れる。見学は無料でボランティアと思われる方が説明してくれるが、何人もの地元の方が雛人形の飾りつけをし、地元の中学生たちに説明したりもしている。にぎやかだ。

気になった出水城は勿論あって武家屋敷群の直ぐ北側の小山がそれだが、この武家屋敷群が城の一部として機能するように作られているという、ここも城ということになる。

広い道路は馬場として騎馬訓練に使用するためらしい。薩摩の北の守りのかなめの場所であり、秀吉の死後天下が乱れることを見越して整備してきたらしい。そう聞くとこれは本物だ、との気がしてくる。

屋敷の屋内で大弓が打てるようにも工夫してあったり、攻め込まれた時に隠れる場所が用意してあったり、家自体が戦闘を考えて作ってある。

各地に再建された城はどうにも戦闘のイメージの沸かない平和な感じがするものが多いような気がしているが、ここはそうではないようだ。

領主の使った館跡は小学校になっていた。同じような光景を秋月でも見た、秋月では城跡が高校になっていた。

次の時代を担う人をまず育てねばという明治の心が伝わってくるようだ。そしてその熱意は今に引き継がれていることがこの場所でも感じられる。

明治中期には一時ゼロまで落ち込んだツルの渡来も多くの地元の人の熱意で現在の一万羽を越えるまでの渡来地となった。訪問した時も東干拓地の小屋には熱心な地元の方がつめていた。

先の見えない時代だが、ちょっとした旅でも地元の熱いあるいは温かい心に触れるとまだ日本も捨てたものではないと思わさせてくれる、そんなところがいい。

写真は順に 1.出水武家屋敷の広い道路 2.武家屋敷内部 3.今は小学校となっている領主の使った屋敷の門 4.出水のツル

All rights reserved 通信員募集中