JAPAN GEOGRAPHIC

Monthly Web Magazine May 2017

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■■■■■ Topics by Reporters

■ ノラネコの天国? 瀧山幸伸

国内外のメディアが離島のノラネコを取材して、「ノラネコの天国」とか、「ネコが支配している島」と呼んでいる。

自分が考えるノラネコ天国は、愛媛の青島、福岡の相島、宮城の田代島、岡山の真鍋島、香川の本島といったところか。

     

ネコ好きの人は当然ながら、学術的にも興味深い。学術と言っても動物学的な見地ではなく、ネコと人とのかかわりを地理学?社会学?民俗学?的に考察することだ。

それらの地域のネコと住民との関係は、歴史的瞬間を切り取っているようなもので、未来永劫に続くものではなく、人口動態とネコの数(ネコ口?)動態との特殊な関係は、貴重な記録だ。

ネコと人との関係はその島の地理と歴史と産業を抜きにしては説明できない。青島と田代島の動画に住民の方へのインタビューがあるので、興味ある方は視聴していただきたい。ネコが増え住民が減ったのは比較的最近のこと。産業構造の変化と過疎化老齢化だけではなく、それ以外の要因もある。ある島では一部住民による虐待があったり、ほとんどの島では避妊処置がなされるようにもなった。

住民の生活が成り立ってこそのネコの生活であり、いったんその環境が崩れると、ノラネコ天国に明日は無いかもしれない。来年はおろか、10年後に今の姿が見られるとは思えず、Japan Geographicとしては地理学的な立場で学術研究の記録として残しておきたかった。

ネコ見物の観光客のおかげで離島航路が廃止を免れたり、観光振興に役立ったりと、地域おこしの一戦略としては有効なようだから、とやかく言うこともないのだが、生態学的に見れば、彼らが地域本来の生態系を乱しているのではないかと少し心配だ。

いっそのこと、ペットのテーマパークと考えればいいのだろうか。実際、広島の大久野島はウサギのテーマパークと化している。かつての毒ガスの島だけに、ウサギの天国とは皮肉なめぐりあわせだ。

 


■ 可憐なり、ナラノヤエザクラ   野崎順次

ナラノヤエザクラ(奈良の八重桜)という八重桜のあることを知った。ほとんどの桜の花が散ってから、最後に小ぶりの可愛い花をつける。その繁殖力は脆弱で、樹勢は弱く、短命である。奈良以外の場所に移植するとほとんど育たない。ところが、なんと、奈良を代表する花として、奈良県花、奈良市章・市花になっている。歴史は古く、天平時代に遡るようだし、平安中期には、伊勢大輔(いせのたいふ、女流歌人)が「いにしへの奈良のみやこの八重ざくらけふ九重ににほひぬるかな」と詠んでいる。そう、小倉百人一首に選ばれている。

大正10年頃に東大寺知足院裏山で再発見された樹が天然記念物に指定されたが、既に枯れてしまった。実に頼りない八重桜であるが、今年も奈良公園のあちらこちらで咲いているという。

あまり調べもせずに、4月30日に奈良県庁の東側とか、興福寺国宝館の裏(北側)や北円堂と南円堂の間に行ったが、目についたのは(後で調べると)普賢象桜だった。ぽったりとした八重桜で、花ごと落ちて、鹿が食べていた。

  

今度は下調べをしてから、連休の5月4日に奈良を再訪した。まず、転害門と正倉院の間である。全部が全部ではないが、ナラノヤエザクラの幹には、「八」という札がつけられているという。あった!ソメイヨシノを見慣れた眼には貧相な樹である。が、花は可憐で清楚で品がある。

    

正倉院の裏の塀沿いに2本、転害門からのT字路の南西角に数本ある。

    

戒壇院の東にも数本まとまっている。

    

花のクローズアップ。小ぶりで真っ白から淡いピンクに移ろう様子が実にいい。繰り返すが、可憐で清楚で品がある。

    

参考資料

ウィキペディア「ナラノヤエザクラ」

ウィキペディア「伊勢大輔」


■安徳天皇西市御陵墓  蒲池眞佐子

御陵墓伝説地や御陵墓伝説参考地が全国あちらこちらにある中、山口県下関市の山奥、豊田湖畔にも安徳天皇西市御陵墓があります。

宮内庁管理のこの地はひっそりとしており、すぐに豊田湖を見ることができます。

調べてみたら、近くのバス停の名が「天皇様」、1時間に1本のバスが走っています。

地元の人たちに大事にされているんだろう、と伺えます。行ったときには入口にある大きな桜が満開でした。

とにかく、歴史的なところは交通の便の悪いところが多く、交通機関が頼りの私は調べまくって断念するもしくは徒歩で頑張るの2択が厳しい限りです。

〇説明書きより

屋島で大敗した平家は、瀬戸内海を西に壇ノ浦まで走り、ここを最後の決戦場として戦いにのぞんだが、原氏の急追には、抗しきれず、またもさんざんに敗れ、将兵の多くは海中に没した。

また、先帝(安徳天皇)や三種の神器までもがご入水となった。

ときに元暦2年(1186年)三月二四日のことである。

源義経は朝廷から、ただちに先帝と神器を無事に取り戻すという条件で平家の追討を許されていたので、このご入水は大失策であった。

義経は、ただちに先帝と神器捜索を命じ、神器の一つの御鏡は先帝の御座船で発見されたが、宝剣と御玉はなかった。

さいわいにして御玉は箱に納めてあったので、海上い浮かんでいるのを拾い上げたが、宝剣は先帝とともに海中にあるため、長門国一円の網引海人を招集して、付近の海を大捜索をした。

網を引いているうち、三月二八日、大津部三隅荘沢江浦から来ていた海人の網に先帝のご遺体がかかったが、宝剣は発見することはできなかった。

源義経は「尊体ハ御座ナガラ宝剣ナキ事都ニ奏セバ義経ノ失策デ密ニ山陽道も隔地に埋葬ルベシ」と伊勢三郎義盛に命じ、地吉の丸尾山(今の安徳天皇御陵墓)の南側の上に埋葬し、奉った。

そうして、朝廷へは「旧王(安徳天皇のこと)ノ御事ハ分明セズ」と報告している。

これが、後世の人びとをして幼帝に対する痛ましさのあまり、安徳天皇の御潜幸説となり、各地に御陵墓や伝説地が生じた所似である。

以上のように、安徳天皇のご遺体を極秘のうちに地吉の丸尾山に埋葬し葬ったため、当時の記録には残っていないがこの御陵の形は立派な天皇の墳墓である。

丸尾山は前方後円墳の形をしているから安徳天皇のお墓というものもいるが、誤りである。

現在は、上円部がややくずれているが、丸尾山の南の森には上円下方の御陵が築かれていたもので、昭和二年十一月三十日、宮内省から「安徳天皇西市御陵墓参考地」と指定された。 

                  


■ 宇治城陽の史跡巡り 大野木康夫

大型連休中は色々用事があってなかなか撮影に行けなかったのですが、最終日の5月7日に少し時間ができたので、宇治市・城陽市の史跡をいくつか回りました。

隼上り瓦窯跡(宇治市)

7世紀前半頃の瓦窯跡で、蘇我氏が飛鳥に建立した豊浦寺で使われた瓦を作っていたそうです。

昭和57年、宅地開発中に発掘され、昭和61年に史跡に指定されました。

埋め戻されて公園として整備され、4本の窯跡の形をなぞってツツジが植えられています。

   

宇治川太閤堤跡(宇治市)

宇治川は、かつて宇治橋下流からすぐに巨椋池に流れ込んでいましたが、文禄3(1594)年、豊臣秀吉が伏見城を築城した際、琵琶湖からの水運を確保する目的で槙島堤を築いて北流するよう付け替えを行いました。

史跡は京阪宇治駅のすぐ北西に位置しており、平成19年に発掘され、平成21年に史跡指定されたものです。

発掘時の写真を表示したパネル

 

現在の様子

  

向かいにある莵道稚郎子陵墓

かつては円丘だったものを、明治22年に陵墓に定められたときに前方後円墳の形になったそうです。

  

久津川古墳群(城陽市)

5世紀ごろに順次築造された、南山城最大の古墳群ですが、宅地開発により多くが失われ、残ったもののうち4基が史跡に指定されています。

うち、久世小学校古墳は小学校の中庭にあるため、訪問しませんでした。

俯瞰するために鴻巣山運動公園に行きました。

連休最後の日で、多くの親子連れでにぎわっていました。

    

芭蕉塚古墳

平成28年に追加指定されました。

周囲がイズミヤ大久保店の駐車場になっています。

久津川古墳群中、車塚古墳と並んで規模が大きい前方後円墳で、首長の墓と考えられています。

  

墳丘の上

  

久津川車塚古墳

丸塚古墳と共に、昭和54年に史跡に指定された規模が大きい前方後円墳です。

JR奈良線が敷設された際に後円部の東側が削られています。

  

墳丘西側

  

前方部

  

後円部

中央部が大きくへこんでいます。

  

丸塚古墳

住宅地の中に取り残されるように残る帆立貝型古墳です。

規模が小さいため、首長ではなく配下の墓ではないかと言われています。

  

芝ヶ原古墳(城陽市)

久津川古墳群の支群である芝ヶ原古墳群のうち12号墳が平成元年に史跡に指定されたものです。

前方後方墳の出現期の古墳です。

  

正道官衙遺跡(城陽市)

宅地開発に伴い、昭和48年に発掘されました。

当初は大規模な寺院ではないかとされていましたが、規模、構造から、久世郡衙の中枢部分に比定されました。

現在では住宅地内の公園として利用されています。

  

平川廃寺跡(城陽市)

奈良時代後期の大規模寺院の跡です。

指定区域は、伽藍中枢部の塔及び金堂の基壇跡です。

  

史跡は地味ですが、訪問準備の位置の特定、実際の訪問時の周囲の環境の意外性など、興味深いのでまた折を見て回ってみたいです。


■連休は「新緑の爽やかさ」と「旬の花めぐり」を体感して楽しむ 中山辰夫

連休は「新緑の爽やかさ」と「旬の花めぐり」を体感して楽しむ 中山辰夫

今年の連休は快晴に恵まれました。毎年5月連休は孫たちの来襲を受け、自分の時間がもてず、合間を見て近郊の祭りを見物するのが精一杯でした。

孫たちの成長もあって、今年は「滋賀県立希望ケ丘文化公園」に出かけました。

文化公園は、滋賀県のランダマーク「三上山」の麓にあって、諸設備が完備されています。自宅から車で15分ほどの距離にあります。

 

公園は、東西約4km、南北約1km、面積416ヘクタールに及ぶ総合文化公園で、豊かな自然に恵まれています。

駐車場が満車で園内の混雑が心配でしたがノープログレム、広場は余裕たっぷりで、新緑の爽やかなスペース内を動きまわって楽しい一日となりました。

   

春日大社 本殿左側の「砂ずりの藤」−樹齢700年以上と右側にある藤

   

春日大社神苑「萬葉植物園」の藤−藤の園には 20種類、約200本もの藤の木が栽培されており、目の高さで観られます。

   

長谷寺 ボタンは勿論、山吹、シャクヤク、花蘇芳(はなすおう)、ツツジなどが境内をかざっています。

     

室生寺 シャクナゲ−3000本ともいわれるシャクナゲに加え、花蘇芳(はなすおう)やつつじが咲き乱れています。

       

大和路は車の渋滞もなく、適度な時間をかけて各社寺を巡ることができ、満開のお花にも合えて満足でした。孫の成長に合わせて自分の時間が戻ってきます。


■どんたくパレード 田中康平

博多どんたくは昔からイメージが今ひとつピンとこなかったところがある。どんたくとはオランダ語のzontag(休日)がなまったものといわれるが響きがどこかいなか臭いなあと思っていたこともある。

祭りは舞台とパレードからなる。市内各所の舞台の多くはよく知らない人が芸を披露していていてしばらく見るともういいかという気がしていた。パレードもただ見るだけでそのうち飽きていた。他所から大勢の見物客が訪れる催しだがどんたくとはどこか自分には合わないような気がしていた。

50年ぶりに故郷に戻って暮らし始めてどんたくを見直すと昔より面白くもあるような気がして少しは見方も変わったが、どこかに昔の心象が拭えないところがあった。

これはどんたくに参加してみるか、パレードに参加してみるのがいいかもしれないと思っていたところへだれでも参加できるパレード隊募集が博多町屋ふるさと館という博多の昔を展示している展示館から出されているのを「市政だより」の隅に見つけてこれだとばかりに応募した。参加費2000円で法被はレンタル、しゃもじとタオルはもらえて踊りは教えてくれる、ということで当日の5月4日に櫛田神社の近くにあるふるさと館を訪れた。結構大勢集まっている、百人近いくらいの数だ、市民以外に観光客にも呼び掛けているようだ。外国人もいる。受け付けも法被を着た留学生らしい若者がたどたどしい日本語で応じてくれて、ちょっと面白い。

  

受付が終わり、まずは揃って櫛田神社へ出向きお祓いを受ける。博多の祭りといえば櫛田神社だ、博多山笠もここだ、いかにも雰囲気が出てくる。その後1時間半くらい踊りの練習を近くの中学校の体育館で行う。校庭では別のパレード隊のバトントワラーズも練習したりしてそれらしい祭りのざわめきがある。踊りはとにかく2曲覚える。1km位踊りながらパレードすることになっていて一応踊れないとさまにならない。

集合場所の冷泉公園に各パレート隊が集結して順に出発地点へ向かう。

   

動き出したかと思うとみるみるスタートラインが近づく。どこか雰囲気が昨年参加した福岡市民マラソンのスタートに似ている。踊りながらスタートラインを超えて真っすぐ天神へ向かう。沿道にはたくさんの人の顔があって皆こちらを向いている、その中をゆっくりと踊りながら進むというのはなかなか悪くない。パレード中に写真位写せるだろうと思ってデジカメを首から下げていたがとても写す余裕はないし写さなくとも誰か写してくれるだろう位の気になって 音楽に合わせてにこやかに手を動かし体を振り続ける。本当に思ったよりいい気分だ、この祭りは参加してこそ面白い祭りの様だ。曲に合わせ体が自動的に動くようになった頃はもうゴールまじかだ。

    

無事市役所前のゴールに至って解散となる。

余韻がしばらく残る。来年も参加するか、そんなことも考えながら祭りの賑わいが続く天神の街に浸っていた。


■ 2017年の観桜 川村由幸

最近の暖冬傾向から、ここ三年の桜の開花が早かったことから、2017年の観桜の日程を早めに設定してしまいました。

今年は平年並みの開花となり、観桜に出かけた4/12〜13福島・宮城では開花直後で訪ねるべき桜がありませんでした。

そんな中、探し当てたのが「白石川堤一目千本桜」と花見山でした。

白石川堤一目千本桜は宮城県の大河原町から柴田町の白石川堤に3km超の桜並木が続いています。

染井吉野が主で樹齢が90年を超える古木が多数あり、それは見事な桜並木でした。

   

柴田町側の白石川河川敷の駐車場に車を止め、大河原町に向かって堤防を歩きます。

まだ5分咲きでしょうか、日当たりの違いで開花の状況が随分と異なっておりました。

それでも、幹の太い古木が堤防を覆うように枝を張り巡らし堤防の道は桜のトンネルのようでした。

   

また、ここは堤防の直ぐ脇を東北本線が走っています。電車と桜、マニアを呼びそうです。

私は今まで、これだけ長く続く桜並木を見たことがありませんでした。一目千本をこの目で実感できました。

しかし、よる年並み大河原町までの全てを歩きとおすことが出来ず、途中で挫折しました。

後悔することは解っていながらも、身体がついていかないのです。

ただ不思議なのはなぜここの染井吉野だけ開花が早いのでしょう。ご存知の方が居られましたら、ご教示ください。

この後、高速のS.Aで昼食を済ませて福島花見山に。

過去に二度、滝桜が満開のタイミングで花見山を訪れています。評判ほど美しいと感じることがありませんでした。

でも今年は違っていました。

   

花見山公園全体がビンクに染まっています。まだ染井吉野は2〜3分咲きでしょうか。

とにかく色彩に溢れています。初めて花見山の美しさに接することが出来た気持ちになりました。

花見山は、染井吉野が満開になる前が良いのですね。

   

桃の花ではありませんが、この時の花見山は桃源郷と呼ぶに相応しいと思いました。

ところが、公園内に入り山を登り始めるとこの色彩の氾濫が消えてゆくのです。山の木々が周囲の視界を

奪ってしまいます。花見山は外から遠望するのがその楽しみ方のようです。

2017年の観桜はこの二箇所のみです。

しかしながら、その美しさはとてもレベルが高かったと感じています。白石川堤一目千本桜は再訪間違いないと思います。

苦肉策で訪問したところが大きな感動を与えてくれました。


■ おばちゃんカメラマンが行く @小城市 事務局

小城の桜岡公園は「桜の名所百選」に選ばれており、今回訪れた時も桜が満開で、絶景を観ることができた。

しかし驚くべきは羊羹屋さんの多い事だ。

小城市は人口5万人ほどの小さな市だが、ここに羊羹製造販売店が20数軒集積している。小城羊羹製造同業組合なるものまであり、まさに町を挙げての産業だ。

歴史はとなると元祖とか初祖とかお店により複雑な事情があるのだろうが、そもそもは、桜岡公園の前で地元の白小豆や白いんげんに紅色をつけた「桜羊羹」が始まりらしい。

しかしその後の鎖国時、長崎の出島から佐賀を通って小倉へと続く長崎街道を海外の品物や技術が京、大坂、江戸などへと運ばれていったが、特に砂糖や菓子の技術などが小城の町に定着した。今ではシュガーロードと呼ばれ菓子作りに革命が起きたといわれている。

東京や京都と違う点は、外側が砂糖でシャリっと硬くなる昔ながらの製法の「切り羊羹」を作っており、この作り方自体が全国的に見ても珍しく、いまでも小城に残る伝統製法だ。

練る、流す、切り分ける、竹皮に入れ経木で巻く事で独特のシャリ感が出る。銀紙に包まれた密封式のものより日持ちはしないが、食感は独特だ。

最近は羊羹をチョコレートでコーティングしたチョコレート羊羹などという新商品も出ており、若者たちに人気があるようだ。

連れ合いに「おばちゃんはすぐ食い物に走る」と言われるが、この羊羹タウンの歴史とこれからの発展に大いに興味がある。早速新商品を買い求め、頂いた。想像通りの美味だった。

  

追伸

羊羹と言えば新潟月潟の「なし羊羹」を思い出す。

国の天然記念物の類産梨を使った羊羹だ。

食べられる「国の天然記念物」は宮古島のヤシガニと富山のホタルイカぐらいか?

貴重な羊羹だ。味はなんとも微妙だったが。

   


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Editor Yukinobu Takiyama

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