Monthly Web Magazine Mar. 2020
■ 滝で骨折! 恐怖の予言が現実に 瀧山幸伸
先月号のウェブマガジンで、いつかは滝で転落するかもしれないと書いた。「そのうち他人事ではなく自分がそうなる確率はかなり高い」「事故があっても自己責任だ」と、呑気にダジャレまでかましていたが、なんと一か月もたたないうちに自分が骨折事故に遭うとは。
現場は、和歌山県古座川町の、清流古座川の源流域にある植魚の滝。なぜこの滝に行ったかというと、熊野ジオパークのポスターに絶景風な写真が登場していたからだ。
続きは植魚の滝のページへ。
■ 南近江の山城石垣めぐり 大野木康夫
新型コロナウイルス感染の拡大に伴い、人が集まるところはなるべく避けるようにするということで、最近は山城巡りをしています。
お城巡りは、草や木の葉が茂っていない冬季から早春がベストシーズンとなりますし、以前に写真を撮影せずに巡っていた時と違って、インターネット上に、いろいろな方が巡った訪問記がアップされていて大変参考になります。
3月2日は、南近江の石垣が残っている山城を中心に回りました。
1 佐生城(佐生日吉城)・東近江市
観音寺城がある繖山(きぬがさやま)の北端、JR能登川駅の近くの佐生山(標高158m)に位置する観音寺城の支城で、六角氏の宿老であった後藤氏によって築かれたそうです。
永禄6(1563)年、後藤賢豊が観音寺城内で六角家治に暗殺されると(観音寺騒動)、多くの重臣が観音寺城内の出城型の屋敷を引き払い、5年後に観音寺城も織田信長に攻められて落城しますので、この城もその前後には廃城となりました。
小さな単郭の山城ですが、南側と西側に相当な規模の高石垣が残っています。
2 長光寺城(瓶割山城)・近江八幡市
観音寺城の南西に位置する瓶割山の山頂に築かれました。
元は観音寺城の支城ですが、織田信長が南近江に侵攻した後、柴田勝家が守っていましたが、永禄13(1570)年に六角氏の反攻に遭います。
この時、水の手を絶たれた勝家が、残った水を将兵に分け与えた後、槍の石突で水瓶をすべて割って反撃に出て六角勢を撃退したので、「瓶割り柴田」の異名がついたという逸話(史実かどうかはわかりません)が有名です。
かなりの規模の山城で、山頂近くには高石垣も残っていますが、山中にはまだ未発見の石垣が眠っているかもしれないそうです。
3 星ヶ崎城・竜王町
古来からの交通の要衝である鏡を見下ろす鏡山の北端に築かれました。
六角氏の配下であった鏡氏の居城であったようですが、記録がありません。
道の駅から気軽に登れる位置にあり、主郭には高石垣が残っています。
4 小堤城山城・野洲市
星ヶ崎城と同じ鏡山の一角、希望が丘文化公園の北側の山上に位置しています。
15世紀末に、六角氏の被官であった永原氏によって築かれたようです。
中世の山城ですが、驚くほどの規模の石垣が築かれており、大変興味深いです。
5 三雲城・湖南市
六角氏の被官で甲賀郡内に勢力を張っていた三雲氏が野洲川沿いの平地を見下ろす山上に築いたものです。
阿星山の近くで、大きな岩が点在するなど、山岳密教との関連が考えられます。
主郭や虎口の周辺に石垣が残っています。
1日で山城5本を訪問しましたが、佐生城と三雲城は近くまで車で行くことができるので、楽に訪問できます。
また、残りの3城も、比高は大したことがないので、なんとか回ることができました。
南近江の城は、岩山に築かれることが多く、寺院の建築の際に発達した石積み技術により、全国に先駆けて石垣が築かれていたようです。
石垣は防御のためという意味もあったかもしれませんが、むしろ岩盤の上に建物を建築するときに行う土盛に対する土留めの意味もあったかもしれません。
いずれにしろ、現在まで残る石垣は、景観的にも文化史的にも貴重なものであると思います。
■ 五百井神社(いおのいじんじゃ)の倒壊~復興 と 所有の文化財 中山辰夫
五百井神社(滋賀県栗東市下戸山20 主祭神:木俣神) は安養寺山の南麓にあり、夏は緑、冬は雪と豊かな自然の中に鎮座する地域の守り神です。
栗東市には45件の国重文や国登録文化財、17件の県指定・選択文化財、74件の市指定文化財があり、五百井神社にも2件の県指定文化財があります。
神像の「木造男神座像」と令和元年12月に指定された「「黒漆金銅装蔓柏文鞍」で、いずれもごく最近に指定を受けました。
その五百井神社は社殿によると、仁寿(851)年に正六位上を授けられたとされ、千年以上の歴史があるとされる古社で、延喜式にも記載がある式内社です。
古くは「蘆井(いおのい)神社」と記され、日本書記に登場する近江国の豪族藘井氏と関連付ける説もあります。中世頃から「五百井神社」と呼称され出した。
その由緒ある五百井神社が2013(平成25)年9月の台風18号の豪雨により発生した山崩れで、本殿や拝殿が呑み込まれ壊滅的な被害を受けました。
旧社殿
天井川の金勝川が度々氾濫する事情で社殿はこれまでも大破を繰り替えしてきました。平成の災害で1858(安政5)年に再建された社殿が消えました。
倒壊後、地元氏子の総意で復興を決め、2017(平成29)年から工事に着手、2019(令和元)年6月に竣工式を迎えました。
現在の新社殿 本殿と拝殿を一体化する以外は、被災前の姿が再現されました。
祭礼は5月5日 地域の子どもたちが神輿行列を行い、復興に勢いを付けました。
蘆井(いおのい)の水 安養寺寺山から湧き出る清水
四季を通じて絶えない泉。神社は金勝川が平野部へと流れ出る位置にあり、祀る神も御井神で、水との係わりが深い。
「あふみなる いほの井川の水すみて ちとせのかげの みえわたるかな」と鎌倉後期の『夫木和歌集』に見られる。金勝川の旧名「蘆井川』に由来する説がある。
被災後、土砂に埋もれた神像を探し出す作業が行われ、「木造男神座像」と「木造狛犬」が発見されました。ご神体をみるのは地元の人もはじめてでした。
木造男神座像 平安時代の作 一木造 像高:33.8cm 2015(平成27)年に滋賀県指定文化財として登録されました。
像は平安後期の表現様式を伝え、官人が朝廷に出仕する正装姿で、眉根を寄せた半眼に口を真一文字に結ぶ。
五百井神社は仁寿元年(851)に正六位上、永治元年(1141)に従五位下の神位をそれぞれ授けられており、六位の朝服として定められた深緑色や五位の朝服として定められた浅緋色と、袍に残された彩色の一致がみられる点が注目されます。災害をきっかけに表に出て価値が明らかになった珍しいケースです。
同時に、今まで存在が知られていなかった14世紀末から15世紀初めの木造獅子・狛犬 1対も発見されました。
「黒漆金銅装蔓柏文鞍 こくしつこんどうそうつるかしわもんくら」 2019(令和元)年12月、栗東市指定文化財から滋賀県指定文化財に登録されました。
在地武士の青地氏が奉納された馬具とされ、平安時代に流行した表現方法を用いて鎌倉時代に造られたもの。後世に修理された形跡がなく、造られた当時のままの姿を残す貴重なものとされます。
境内地
標高234mの安養寺山(別名 和田山」の西山麓の所在しており、中腹までが神社所有林となっている。境内地は老杉・ヒノキの大木がしげる。
安養寺山の山頂には神の降臨する聖地が残され奥宮がある。急坂な山頂がのしかかるように本殿裏の樹林間に見える。治山工事が施されました。
大杉 樹齢1000年ともいわれる
五百井神社のある下戸山は、古代豪族小槻氏の本拠地として、古代栗太郡の中心的な地域で、砥山庄と呼ばれていました。
平安時代末期には鳥羽上皇の中宮美福門院の新塔建立に仏燈供料所として寄進され、その後青蓮院も門跡に伝領されました。砥山庄と呼ばれたこの荘園は室町時代後期に上砥山と下戸山にわかれ下砥山の原形となりました。
室町時代末期より青地庄の一部となり、守護佐々木氏の分流である在地領主青地氏の勢力下で庇護されてきました。今回の再建にも、青地氏直系の子孫にあたる方が中心的な役割を果たされたようです。
直ぐ近くにある「小槻大社」も青地氏と関りが深くその保護下にありました。青地氏は小槻大社の祭祀権を独占し、各氏子村に榊本衆と呼ばれる家臣を置き祭礼の執行や村の経営に当たらせてきました。現在もその末裔が神事元として中心的な役割を果たしています。
小槻大社 栗東市下戸山200 (既報)
国重要文化財指定の本殿・木造男神坐像2躯 が重要文化財に指定されています。
大社の県指定文化財であった祭礼「小杖(小杖)祭り-(花笠踊り)」は、草津市の7地域に伝わる「サンヤレ踊り」と一体の「近江湖南のサンヤレ踊り」として、国の重要無形民俗文化財に3月にも指定されるようです。
参考文献≪栗東の歴史・広報栗東・栗東の文化・栗東歴史博物館―小地域展、神仏います近江、下戸山自治会ニユース、他より引用≫
■ 茨城県自然博物館 川村由幸
我家から真壁等桜川市に撮影に出かける折に、この博物館の道路案内標識を幾度も見かけていました。
一度訪問してみたいとの思いがやっと実現しました。
所在地は坂東市の菅生沼のほとり、公園と呼べる広大な屋外施設も併せ持つ施設です。パンフレットにも「ミュージアムパーク」の冠名が施されていますが、その名の通りの施設です。
出かけたのは2/23三連休の真ん中で新型コロナウイルスの影響が出始めていましたので、空いているだろうと予測して出かけました。
予測は見事に外れ、三連休のパワーが勝り、多くの見学者が訪れていました。
そうなると今度は感染が心配になりだし、見学は取りやめてこのまま帰宅することも頭をよぎったのですがマスクをつけて入館。
この日は「さくら展」という特別展示があり、入館料\750でチケットを購入、まず最初はマンモスとその奥にヌオエロサウルスの骨格標本が続き、そのスケールに圧倒されて見学が始まりました。
その後は ①進化する宇宙 ②地球のおいたち ③自然のしくみ ④生命のしくみ ⑤人間と環境 ⑥観察コーナー ⑦茨城の自然と展示は続きますが、これはと思う展示はありませんでした。
東京国立博物館を見学していますから、比べていけないのは解っていても物足らなさを感じてしまいます。
特別展のさくら展も見学しましたが、これで入館費が4割アップでは割に合わない気がしました。
そんな中でも上のDNAの模式展示はなかなかに美しく、博物館というよりも美術館の趣きでした。
さらに茨城県立であることからか茨城の自然のコーナーがあり、これには好感を持つことができました。
ただ、もう一回行くかと問われたら、肯定的な回答は難しいかもしれません。小学生の教材としては、とても有効な展示だとは思いますが。
最後に70歳を過ぎた私は入館料を余分に支払ってしまいました。70歳以上対象の割引があったにもかかわらずそれを利用しなかったのです。
■ メジロが多い 田中康平
今年の身の周りの野鳥で気がつくのはメジロがいつもの年より多いことだ。2月から3月にかけて梅の花や早咲きのサクラの蜜を吸うメジロが楽しくもある早春の景観を作っている。メジロは北海道では夏鳥、東北以南では留鳥で世界的には東アジアに分布する。メジロの仲間(メジロ科)としては東アジアから東南アジア、中・南部アフリカに広く分布するがヨーロッパやアメリカ大陸には生息しない。インド洋の孤島モーリシャスやレユニオン島にもそれぞれ固有のモーリシャスメジロやレユニオンメジロが報告されている。どちらかといえば熱帯の鳥のようではある。その意味では地球温暖化の恩恵を受けやすい鳥かもしれない。温暖化も楽しむべきところのある気候変動ととみれば怖がることもないような気がしている。
写真は順に 1-3:2月1日自宅、4,5:2月19日油山市民の森、6-8:2月20日自宅、9:3月1日自宅そばの公園、10-14:3月3日初御代桜-那珂川市
「おひな様を鑑賞しながら、大内文化・明治維新の面影を残す町並みをお散歩してみませんか?」 をキャッチフレーズに「やまぐち大殿ひなさんぽ」祭りが行われている。
祭りといっても、一か所に集まるのではなく、あちこちに雛飾りが飾られており、散歩がてらに見て回る、というものだ。 こちらはアトリエa.p.rのおひな様。お城の中の雛壇が豪華。
と思ったらこっちにも、あっちにも。ということでガラス越しに撮ってみた。 人の家の中なので、ガラスにべったり張り付くわけにもいかなかったので、反射でちょっと見ずらいものになってしまった。
萬代家主屋にも古い時代のおひな様、昭和3年のものが玄関で迎えてくれる。萬代家は江戸時代から醤油製造業を営んでいた豪商。 この建物は、茶室として明治22年頃に建てられ、その後主屋に改修された。
こちらは座敷の立派なおひな様
近くの大殿地域交流センターにもおひな様
山口ふるさと伝承総合センターでは誰も人がおらず、ひっそりとした中、階段を上ると迎えてくれた4台の雛壇飾り。そのゴージャスさは目を見張るものがあり、これだけ集まると、夜には人形たちのお囃子が始まるのではなかろうか、とも思ってしまった。
こちらは座敷のおひな様
ひな人形にもいろいろな顔があり、時代とともに違っている。 それを見るのも楽しい。
そういえば、私の実家にも7段飾りのものがあったが、母が出すたびに、面倒だの、場所をとる、だの、早くしまわないと嫁に行き遅れるなど愚痴ってたなぁ、とつまらないことを思い出してしまった。そういう思い出を思い出せたのもこの祭りのおかげだ。
2月29日(土)はうるう日、天気は曇りのち雨であるが、カメラと三脚をかついで奈良に出かけた。春日山の山畔を北上し、奈良市街地を横切り、最後に佐保山の小円墳に至るコースである。
最初は軟弱にもタクシーに乗って、JR奈良駅から若草山東南麓の春日山遊歩道の入り口に行った。ここから吉城川の上流、水谷川沿いに遊歩道を歩く。太いツタのような枝がのたくりまわる原生林である。昔、この奥で縊首死体を見つけたことがあり、それ以来近づいたことがなかった、と急に思い出した。
少し行った左手の上に六角形の石柱の頂部に如来の東部を丸彫りした「洞の仏頭石」がある。室町中期、花崗岩。他に類がない形式である。その横に倒れたままの板状石に薄肉彫りされた「洞の地蔵石仏」がある。鎌倉中期、安山岩。
若草山山麓に戻る。閉山中で近寄れないが、中の小さな祠の横に大きな自然石に等身大の地蔵菩薩が彫られている。「若草山線刻地蔵石仏」室町後期、安山岩。近世では秀作である。
閉山中に加えて、新型コロナ肺炎の影響で、観光客が異常に少ない。京都よりも影響が大きい感じである。手向山八幡宮を通って、東大寺三月堂、二月堂の前に出た。松明が置かれていたので、お水取りのことを思い出した。明日からである。例年のように盛大になるのだろうか。
正倉院の裏を進み、奈良奥山ドライブウェイの手前を左に上がると、知足院の山門が見える。本堂の裏山に大和最美の定評があるという五輪塔がある。このあたりはまったく人けがない。
ところが、本堂の上は崖崩れと金網のフェンスで行けない。庫裡の方へ戻り、大きく右に回って道なき道を進んで、やっと石塔群らしきものが見えたが、再びフェンスがあって行けない。元に戻り、山門の左側から回り込み、いったん下ってから登るとやっと石塔群にたどり着いた。雨が降ってきた。傾斜地で小石を踏むと滑る。
「知足院五輪塔」室町中期、花崗岩。風・空輪を失っているが、地輪の作りが見事で、温和な五輪塔である。
次に行くのは転害門近くの浄国院だ。「浄国院弥陀石仏」鎌倉中期、花崗岩。正面いっぱいに二重光背形を深くほりくぼめ、来迎相の弥陀立像を厚肉彫する。
境内には石仏が多数まとめられている。
次が最後の謎のねずみ男である。ここで疲れが頂点に達し、足がすっすっと前に出ない。仕方なく、タクシーを捕まえ、法蓮佐保山三丁目のバス停で降りた。少し北へ歩くと左手に小径があり、頂上に那富山墓がある。現状は径11
x 7.8m、高さ1.5mの小円墳で大黒ヶ芝古墳とも呼ばれている。
この周囲に隼人石という石彫が4個あって、それぞれに頭部は動物、体部は人身といった奇妙な像が線彫りしてあるそうだ。外から何とか見えるのは1個だけだ。頭はネズミで、体はふんどし姿である。古墳末期の作という。
参考文献
清水俊明「大和の石仏」1974年、春近書店
川勝政太郎「新装版 日本石造美術辞典」1998年、東京堂出版
■ 看板考 No.85 「さだまさし……案山子」 柚原君子
さだまさしさんのファンになってかれこれ50年が経ちます。さださんの多くの歌に人生で何度か救われています。コンサートに通ったこと数知れず。傷心の時然り、失恋の時然り、死別の時も悲しみの時も。喜びの時も。コンサート会場の片隅に座っている自分の後ろ姿が色々な思い出と共に見えるようです。
そんなわけですから、新聞に「まさしく」とか「だまされた」とか「まださきのはなし」などの見出しがでると、さだまさしか!!と反応してしまいます。
だから八戸のえんぶり撮影時に”さだまさし”の文字を見つけたときは、思わず駆け寄ってしまいました。
本八戸の駅周辺だけのようですが、商店の窓ガラスやシャッターに言葉が貼り付けてあるのです。そのお店に親しみが持てるような内容で一つひとつが面白おかしく、つい店の奥をのぞきたくなります。
見つけた看板本体には、さだまさしさんの『案山子』の歌はこの八戸の三八城公園で作られたもの、らしい……と書いてあります。
ちなみに、案山子←あんざんし、ではありません。「かかし」と読みます。
歌詞はこんな感じ
♪元気でいるか 街には慣れたか 友達できたか
♪寂しかないか お金はあるか 今度いつ帰る
♪城跡から見下ろせば 蒼く細い河 橋のたもとに造り酒屋のレンガ煙突
♪この町を綿菓子に染め抜いた雪が 消えればお前がここをでてから 初めての春
♪手紙が無理なら 電話でもいい 「金頼む」の一言でもいい
♪お前の笑顔を 待ちわびる お袋に聴かせてやってくれ
歌詞の中の城跡は近所の三八城。雪とかとか細い川とかも当てはまります。さて橋のたもとの造り酒屋とは、とキョロキョロしながら同行した友人と二人盛り上がりました。
事の真意は後ほどにするとして、案山子の字の成り立ちはおもしろいです。案山子は畑に立つものです。畑には作物を狙って獣や鳥が来ますので追い払わなければなりません。その方法は魚の頭や毛髪を焼いてその臭いを「嗅がし」て追い払う手段にしたそうで、案山子の元は「嗅がし」。
では何ゆえ「案山子」の字が当てはめられたかというと、「案山」とは低い山のことで割合平らな、つまり畑が多い場所。そこにポツンと置かれた人形、つまり子、それをあわせて案山子と。一つの説ではありますが、これも……らしい話ですね。
さてさて、八戸の方には申し訳ないのですが、長年のファンである当方、ちょっと訂正を。
『案山子』の曲の原風景は津和野。アルバムの写真は琵琶湖。「お金はあるか」「金頼むの一言でもいい」という歌詞はバイオリンの腕を磨くために長崎より東京都葛飾区の中学に一人で転校してきた少年のさだまさしが、親の仕送りを待つ心境も反映されているのです、という話をコンサートの時に何度か聞いたことがあります。
まっ、しかし、さださんのファンですから“贔屓”目にみて、この看板には親しみが持てます。ちゃんと……らしい、と語尾は濁してありますから。
看板はそもそも、見る人を立ち止まらせる効果があってこそ看板です。……らしいという使い方と共に、看板の勝ち!……かな?
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Japan Geographic Web Magazine
Editor Yukinobu Takiyama
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