Monthly Web Magazine July 2021
■ ちょっとした違和感 瀧山幸伸
今に始まったことではないが、明治以降、日本と外国との文化の違いで評価がこうも違うのかという事例として、鳥居の連続いわゆる千本鳥居がある。
外国からの観光客は鳥居の本質を理解するわけもなく、ただ単に見慣れない形状と色のアーティスティックなモニュメントが連続する姿を愛でる。
伏見稲荷大社はその代表例で、テーマパークのようにふざける観光客が真摯な参拝者の顰蹙を買っているのを目にしたことがあった。残念ながら最近では日本の若者も外国人と同じ価値観を持っているようで、鳥居くぐりが遊び目的となっているようで、ちょっとした違和感を感じる。
山口県長門市の元乃隅神社も外国人の評価で人気が出た。この神社は訪問の度に娯楽施設化が進展しているように感じられる。
近いうちに日本中に神社型テーマパークが複数現れるのではないかと憂慮しているのだが、よくよく考えると憂慮する必要もなさそうだ。寺社仏閣にとどまらず世界中の大規模な宗教施設の歴史をひもとけば、その宗教の教義を具現化し、より多くの信者と資金を獲得するためにはテーマパーク性は必要不可欠な要素である。
そう考えれば違和感も嘆きも危惧も無用なことかもしれない。
■京都大阪からJR特急で鳥取県若桜へ、郡家駅で乗り換え0分! 野崎順次
鳥取県八頭郡若桜町若桜の街並み(旧若桜街道若桜宿)が重要伝統的建造物群保存地区に選定されることになったので、令和3年6月5日に尼崎から日帰りで出かけた。
関西から一番早いJR特急は、スーパーはくと1号で午前7時57分三ノ宮発、10時2分
郡家着である。ここで若桜鉄道に乗り換えるのだが、その出発時間が同じ10時2分なのである。すなわち、乗り換え時間が0分である。しかも乗り換え不可なら、次の電車は11時59分(土日祝)だからほぼ2時間待ち。2時間かけてきて、2時間待つことになる。
駅の構造は平屋でプラットフォームは三つ、改札口の方から①と②は智頭・津山・大阪方面および若桜方面、③が鳥取方面である。スーパーはくとは③フォームに着くので、その先頭車両後方のドア(前方にドアなし)から出て、先の踏切を渡り、2番フォームの若桜行きに乗ることになる。
さて乗り換えられるか?
YAHOO知恵袋に「ナイス」な解答が出ている。
「郡家駅は島式ホーム1面2線なのでスーパーはくと到着の向かい側です。時刻表では0分でも実際は15秒単位でダイヤを作成しているので、15~30秒程度の乗り換え時間があるものと思われます。
ナイス!」
「郡家駅でスーパーはくとを降りたらその目の前に若桜線(若桜鉄道)が止まっているはずです。
スーパーはくとからの乗り換え客が乗るのを待って、若桜線は発車するはずです。
若桜線は本数が少ないので、乗り換え客を待たずして発車することはないと思います。(でないとタクシーとかに客が吸い取られますから…)
ナイス!」
さらに、私自身の記憶では、以前にスーパーはくと1号で鳥取に行ったとき、郡家駅で隣の若桜駅電車(一両)を見ると、駅員か車掌さんが人待ち顔でこちらを見ていてようで、待ってくれるのではないかと漠然と思っていた。
念のため、事前に若桜鉄道郡家駅に電話をすると、若桜観光協会の人が出てきた。「乗り換えられますか?」と聞くと、気の毒そうに「踏切の遮断機が下りるので、だめです。」とのこと。現地に行って分かったが、JR郡家駅の構内の一角に若桜観光案内と若桜鉄道切符売り場を兼ねたコーナーがあった。そのスタッフが電話に出たようだ。
さて、6月5日、郡家駅に10時2分に着いた。先頭車後方のドアから降りて、撮影機材の入った重いキャリーバッグを引っ張って小走りに踏切に向かった。すると、何と遮断機が上がった。踏切を渡り始めると途中で遮断機が下りてきて、しゃがんでくぐる際にこけてしまった。2番フォームの駅員さんが助けに来てくれたが、その時、若桜行き一両列車が動き出した。
結局、乗り換えられないのである。とはいえ、次の11時59分まで待つわけにはいかない。実は事前に調べてバスがあることを知っていた。10時36分郡家駅前発日本交通バスで若桜へ向かった。
「関西から若桜に来てほしくないのか」と郡家駅構内の若桜観光協会の人に文句を言うと、その電車は鳥取発で鳥取・郡家間はJR線路を使っている関係で、どうもJRが時間を決めている様子。しかし、郡家駅からは若桜鉄道の線路だし、次の電車まで充分すぎる間隔があるので、出発をせめて2分遅らせることに問題はないと思うが。
大阪の会社の近くに鳥取県大阪事務所があるので、そこにも文句を言っておいた。去年に同じ苦情を聞いたことがあるらしい。
郡家駅で若狭10時02分発の電車をどうして10時04分発に変更できないのか、誰か教えてほしい。案外、単に「やる気がないから」というのが真相なのかな!?
■ 「資料 旧国宝建造物指定説明」から(前号の続き) 附 苔の季節 大野木康夫
前号で、滅失した旧国寶について書きましたが、一部訂正があります。
原資料は昭和57(1982)年12月刊行ですので、それ以降に滅失した以下の旧国寶ついては滅失の記載がありません。
前号の執筆の際には、当初、記憶に基づいて橿原神宮拝殿、金山寺本堂を含めて記載しましたが、記憶違いがあるかもしれない(実際に大恩寺念仏堂を失念していました。)と思い、消去したつもりでしたが、金山寺本堂を消し忘れてしまいました。
その旨、通信員の酒井氏から御教授いただいたので、この間に、国指定文化財等データベースのデータと照合を行い、確認したところ、原資料刊行以降に滅失した旧国寶は、酒井さん御教授のとおり3件でした。
大恩寺念仏堂(愛知県) 屋根からの出火により滅失(失火として分類)
橿原神宮拝殿(奈良県) 神楽殿として移動の後、失火により滅失
金山寺本堂(岡山県) 失火により滅失
また、園比屋御嶽石門(沖縄県)については、戦災により大破し、いったん指定解除となりましたが、修復後、文化財保護法に基づいて重要文化財に再指定されています。
もう少し細かい部分では、台徳院霊廟(東京都)のうち1棟(奥院玉垣)、文昭院霊廟のうち2棟(奥院宝塔、奥院中門)、有章院霊廟のうち奥院宝塔は戦災を免れたものの指定解除となっています。
また、前号で名古屋城のうち22棟が戦災で滅失と書きましたが、「御殿」として包括されるものを個別に数えていたため、滅失したのは9棟でした。
以下に訂正後の滅失件数を記します。
風水害による滅失(1件)
日吉神社東照宮橋(滋賀県)
放火による焼失(6件)
普光寺毘沙門堂(新潟県)、延暦寺大講堂、延暦寺大講堂鐘台(滋賀県)、鹿苑寺金閣、妙心寺鐘楼(京都府)、松山城のうち3棟(愛媛県)
失火による焼失(7件)
長楽寺本堂(千葉県)、祐福寺塔婆、福寿院塔婆、大恩寺念仏堂(愛知県)、醍醐寺五大堂(京都府)、橿原神宮拝殿(奈良県)、金山寺本堂(岡山県)
落雷による焼失(3件)
延暦寺横川中堂(滋賀県)、大鳥神社本殿(大阪府)、法輪寺三重塔(奈良県)
山火事による焼失(1件)
醍醐寺経蔵(京都府)
飛火による焼失(9件)
福山城(松前城)のうち2棟(北海道)、重蔵神社本殿(石川県)、金櫻神社里宮境内中宮本殿、同東宮本殿(山梨県)、清水寺大日堂、同寺塔婆、興禅寺表門(長野県)、寶臺院大方丈、同院霊廟(静岡県)
戦災による焼失(65件、うち1件は修復後に重要文化財に再指定)
伊達政宗霊廟、伊達忠宗霊廟感仙殿、仙臺城大手門、同城隅櫓(宮城県)、東照宮社殿(茨城県)、浅草寺本堂、同寺塔婆、本門寺仁王門、東照宮本殿、台徳院霊廟のうち9棟、崇源院霊牌所、文昭院霊廟のうち18棟、有章院霊廟のうち18棟、厳有院霊廟のうち8棟、常憲院霊廟のうち8棟、日枝神社社殿、表門(旧薩摩装束屋敷門)、増上寺開山堂、表門(旧備前池田侯江戸上屋敷表門)(東京都)、気比神宮本殿(福井県)、大垣城(岐阜県)、五社神社社殿、諏訪神社社殿(静岡県)、七寺堂本堂、高岳院本門、性高院表門、熱田神宮海上門、熱田神宮鎮皇門、本遠寺楼門、名古屋城のうち9棟、東照宮社殿、猿面茶屋(愛知県)、観音寺本堂、大寶院本堂、西來寺奥殿(三重県)、四天王寺東大門、願泉寺書院・同茶室(大阪府)、西宮神社本殿(兵庫県)、松生院本堂、和歌山城(和歌山県)、岡山城天守、同城石山門、蓮昌寺本堂、同寺三重塔(岡山県)、廣島城天守、福山城天守、同城御湯殿(広島県)、永福寺本堂(山口県)、東禅寺本堂、宇和島城追手門、松山城のうち11棟(愛媛県)、湛浩庵(福岡県)、福濟寺本堂・前堂及廻廊、同寺青蓮堂・中門及廻廊(長崎県)、沖縄神社拝殿、首里城守禮門、同城歡會門、同城瑞泉門、同城白銀門、尚家霊廟(圓覺寺伽藍)、尚家霊廟(崇元寺)、末吉神社社殿、園比屋御嶽石門(修復後に重要文化財に再指定)、沖宮本殿、辨嶽石門(沖縄県)
(都道府県別)
北海道 1件
宮城県 4件
茨城県 1件
千葉県 1件
東京都14件
新潟県 1件
石川県 1件
福井県 1件
山梨県 2件
長野県 3件
岐阜県 1件
静岡県 4件
愛知県12件
三重県 3件
滋賀県 4件
京都府 4件
大阪府 3件
兵庫県 1件
奈良県 2件
和歌山県2件
岡山県 6件
広島県 3件
山口県 1件
愛媛県 3件(松山城は放火と戦災で一部ずつ滅失)
福岡県 1件
長崎県 2件
沖縄県10件(うち1件は修復後に重要文化財に再指定)
合計 91件
また、滅失とは関係ありませんが、現在は建造物に分類されている海龍王寺五重小塔、元興寺極楽坊五重小塔(奈良県)は、明治34(1901)年8月2日付けで旧国寶に指定されたようです。(当時は建造物は「特別保護建造物」に指定されていた。)
2月続けて同じネタで書くのもどうかと思うので、最近再訪した西芳寺(…)について、6月現在の拝観について書きます。
西芳寺は、かなり以前から完全事前申込制での参観になっています。
参拝申込は、2か月前から1週間前必着で往復はがきで申し込み、返信ハガキを受付で提示して入山します。(参拝冥加料1人3,000円以上)
現在は、前日までのオンライン申込もできるようになっています。(参拝冥加料+諸費で1日4,000円)
以前は、午前、午後の開門でしたが、現在は原則午前のみの開門だそうです。
入山後、本堂で集合して参拝(写経や祈願札の作成、奉納など)を行い、その後順次庭園を拝観するようになっていましたが、現在は、受付後、個々に本堂で参拝(写経、奉納)し、その後庭園を拝観します。
なお、現在は上段の庭(枯山水の石組など)は非公開となっており、下段の庭のみの拝観となっています。
いずれにせよ、少人数の参拝で、2時間弱、庭園の眺めを堪能することができ、非常に贅沢な時間を過ごすことができます。
今年6月の参拝時の写真
8年前の参拝時の写真
8年前は拝観できた上段の庭
苔つながりですが、苔が印象に残った訪問地
平泉寺境内(福井県勝山市)
■ 幻の廃線跡 =忘れられた隧道遺跡を行く= 酒井英樹
まずは先日発生した熱海伊豆山の土石流災害において被災者に対しお見舞いを申し上げるとともに現地で災害対応をされている方々のご活躍に感謝の意を申し上げます。
JRで大阪天王寺から奈良駅へ向かう関西本線(通称:大和路線)、沿線の車窓はほぼ開発された住宅地の風景が続く。
しかし、風景が一変する場所がある。
大阪と奈良の府県境、一級河川大和川本川沿いを縫うように線路が敷かれている。
「亀の瀬」と呼ばれ、今までの風景を拭うような少し都会を一瞬だけ忘れさせるちょっとした渓谷がある。
ここで電車は大和川を2度跨川する。
亀の瀬の直下流の跨川橋(第四大和川橋梁)
鉄橋の上に鉄橋がのる二重構造(トラスの上にプレートガーター)の珍しい橋
跨川した先に停車場があり、利便性がある場合(例えば一級河川淀川本川をJR東海道線は梅田に停車場(大阪駅)を造ったことで右岸→左岸→右岸と2度淀川本川渡る)は例外として、現地には橋と橋の間はそのようなものはない。
治水上河川内には極力、川の水の流れを阻害する構造物は避ける必要がある。川の流れに対してなるべく直角方向に橋が架けられているのもそのため。
亀の瀬に架かる2つの橋も例外ではなく、そのため列車は大和川を渡る前に急カーブを強いられ、オメガ形状になって線形が非常に悪くなっている。
大和川の対岸(南側)から見た亀の瀬
大阪市内へ30分ほどの地の利、両側から宅地開発の波が押し寄せ来ているのもかかわらず、「亀の瀬」は開発の波に飲まれることなくまたその兆しを見せずにいる。
これらには理由がある。
少し前までこの場所で「地滑り」と呼ばれる土砂災害を防止するため、世界的に見て大規模な工事が行われてきた。
古都奈良を擁する奈良盆地は四方を山に囲まれている。
降った雨のほとんどは大和川に集まり、唯一の出口である亀の瀬を経て大阪湾へと流れる。
今は表面上何もないように見えるが、昭和の初め亀の瀬で大規模な地滑りが発生した。
北側の斜面が少しづつ(1日数センチ)滑り、谷を流れる大和川を閉塞した。
このとき北側にトンネル(亀の瀬トンネル)を設けた鉄道も巻き込まれて鉄路が遮断された。
地すべりで壊れた亀の瀬トンネル入り口
地すべりで閉塞した大和川の掘削工事状況
復旧された線路は斜面が再び動き出しすことを考慮して北側を避けて廃線として新たに南側に迂回したため、大和川を二度わたることになった。
北側のトンネルの入り口付近は廃線と共に撤去されたが、土砂とともに滑って行方の分からなくなった亀の瀬トンネルの一部は所在され忘れ去られた。
国(当時の建設省)直轄で本格的に始まった地滑り対策。
平成に入って地質調査中に存在は知られながらも、永らく行方が分からなかったトンネルの一部を偶然発見された。
今回、発見されたトンネルの一部が残っているということで、かつて地すべり対策の全体計画に携わったこともある身として、初めて発見されたトンネル跡を訪ねた。
地下水を排水するために設けられた巨大なトンネルを通り、
連絡路として設けられたトンネルを経て
かつてのトンネルに到着。
線路などの路盤は撤去されて存在しないが、80年以上前のまま煉瓦造の馬蹄型断面のトンネルが往時のまま十数メートルほど残されていた。
SLの排煙跡も
今日、亀の瀬は平穏そのままである。
かつての工事で、直径6.5mで深さ最大約100mに達する鉄筋コンクリートの杭を数十本並べて設置して地すべりを抑止し、地滑りの主な要因の地下水を排水して抑制する地下トンネルを所狭しと幾重にも巡らしている。
現状のままでは安全率の計算上、地滑りはほぼ起きないと思われる。
しかし、近年の降雨状況を鑑みると、ご多分に漏れず大和川の亀の瀬付近の流加能力は低く、ボトルネック化している。
昭和57年豪雨時のように上流の市街地が浸水する恐れが多い。
これを防ぐために大和川の川幅を広げると安全率が低下し再び地滑りが発生しかねない。
防ぐためには計画では現在とほぼ同じだけの杭を設置しなければならない。
地滑り防災事業??それとも地滑り・・・亀の瀬が再び動き出している・・。
■ アオバズクが 田中康平
春の渡りが一段落するこの時期の野鳥で見ておかなくてはと思うのは幾つもあるが何故か今年は外れが多い。
6月はアカショウビンを求めて英彦山深倉峡まで出向いたが空振りだった。サンコウチョウも福岡市内のよく出現するポイントに訪れてみるが観れない。コアジサシも海の中道に行ってみたが数羽が飛び交うだけで営巣はみれない。梅雨入りが例年になく早かったせいもあるのだろうか、いつもソ少し違う。
せめてもとアオバズクを求めて那珂川市の古い神社、現人神社に出向いた。アオバズクが来るという神社は幾つかあるが確実に毎年見れているのはここくらいだ、他は居るのは判っているが見つけるのが難しいところが多い。糸島の博物館前の並木にも来ていたが去年博物館に電話するとセンダンの木が切られてしまってもう来てくれないですよとあり期待できないようだ。
アオバズク(学名:Ninox
japonica)は東南アジアで冬を過ごし夏は東アジア一帯で繁殖し生まれた子供を連れて冬また東南アジアに戻る、これを毎年繰り返している。類似の種としてインドを中心に生息するNinox
scutulataとフィリッピンを中心に生息するNinox randiの種が世界的にはあるとされているが( IOC World Bird List
)、見た目で区別するのは難しいらしい。沖縄にはリュウキュウアオバズクと呼ばれる渡りをしないアオバズクがいるがこれはNinox
japonicaの亜種とみなされているようだ。
出かけてみると、親鳥(恐らくオス)があたりを見張りように高い枝に止まっている、ヒナはまだ姿がない。ヒナが生まれ少し育つと親に並んで枝に止まるようになり7月の終わり頃にはこの地を離れる。ゆっくり南へと島伝いに戻っていくのだろう。
アオバズクの多くが決まった古い神社の大木に毎年現れることから世代を継ぎながら同じ木に子孫が渡り続けているようにみえる、生きた文化財のような気がしてくる。
写真はアオバズク、最後は神社の風車。
今月で南北朝~室町前期の1300年代を終りにしようと、少し詰め過ぎました。
■ コロナウイルスワクチン接種 川村由幸
やっとのことで7/7に二回目のコロナウイルスワクチン接種が終了しました。
居住している自治体ではなく、自衛隊の大規模接種センターを利用しました。そのためワクチンはモデルナ製です。
会食はもちろん避けておりましたが、週1~2回の東京通勤が避けられず、同じビルの他の事務所での感染者発生情報などに接するとやはり不安は大きいものでした。
一日でも早くと考えておりましたので、自衛隊を頼りました。一回目の接種が完了した時点で居住自治体の接種券は未着でしたから、居住自治体の同世代よりひと月以上早く接種終了した形となりました。
ちなみに居住自治体での接種予定の我が老妻はまだ一回目の接種も済んでおりません。
副反応としては、一回目が接種部位がいくらか痛んだ程度で他の症状はありませんでしたが、二回目は接種部位の痛みと共に37℃前後の熱が出ました。今もいくらか熱っぽい感じがしています。
元々平熱が36℃を切ることもある低体温体質なので、あまり発熱には強くありません。今日一杯我慢すれば元に戻りそうです。
しかし、今回のワンチン接種は混乱の極みですね。
自治体によって接種スピードに大きな差がでているようですし、職域接種の混乱は滑稽にさえ見えます。
ワクチンの供給量は約束通りに供給されているにもかかわらず、このような混乱が発生する理由が理解できません。
愚息も7/10前後に一回目の職域接種の予定がキャンセルされ、次の予定は立っていないようです。
政治家は選挙ばかりを気にかけ、官僚のpowerは見るも無残なていたらく状態のせいでしょうか。
最初に戻れば、ワクチン開発の遅れが最大の問題点でしょうか。日本が医療先進国なんて嘘っぱちなのが良く判りました。
緊急事態宣言中に会食に没頭する医師会会長の感染防止の長広舌に従う人など居りません。
このような緊急事態でやはり頼りになるのが自衛隊、自衛隊が運営する大規模接種での接種ミスは全く聞きません。
空気を打った、量が少ない、希釈をミスした、なんとこれは個人の意思もあったようですが4回接種したというのまでありました。
まだまだ混乱は続きそうです。
■ 看板考 No. 100 「広貫堂」 柚原君子
所在地:東京都台東区浅草
♬ 越中富山の反魂丹
♬ 鼻くそ丸めて萬金丹
♬ それを呑む奴アンポンタン
上記の俗謡は江戸時代のお伊勢参りが盛んな頃、お伊勢参りのお土産は万能薬・萬金丹か伊勢白粉(おしろい)でした。今でしたら赤福となるところでしょうが、当時は歩いて江戸に帰らねばならないので、あまり荷物にもならず傷まないお土産として上げる方も戴く方も喜ばれた萬金丹だったのでしょうね。
富山にも同じ万能薬として反魂丹がありましたが、知名度では負けていましたので、置き薬で有名な富山の薬売りが、歩いて全国に広めた俗謡といわれています。ライバルの萬金丹を『鼻くそ』とおとしめているところが笑えます。
富山の置き薬は「配置売薬」といわれるもので、配置するきっかけは1690(元禄3)年。富山10万石の2代目藩主・前田正甫(まさとし)が江戸城に登城した折、岩代三春藩の藩主・秋田輝季が腹痛を訴えて倒れたところ、前田正甫が持参していた「反魂丹」を与えると、腹痛は治まり諸大名がその効能にびっくりして我が藩にも届けて欲しい、と所望したそうです。しかも、薬が欲しいばかりか自分の藩内でも販売したいとのことで富山の薬の諸国行商が大いに盛んになり、以来、昭和初期でも行商人が14160人いた、という記述があります。(エーザイ製薬薬博物館要約)
当該看板は、明治9年、売薬人たちが共同出資して製薬会社「広貫堂」を立ち上げます。そのときのものです。その15年後には富山の薬の配置販売員育成のために「共立富山薬学校」も設立されていますが、のちにこの学校は富山大学薬学部となります。
時代劇の十手持ちの下げている印籠の中にも萬金丹か反魂丹が入っているようで、町娘(美人だった)が気絶したときに印籠から出して含ませていた映像をみたことがあります。美しい町娘はアンポンタンには見えなかったので、印籠の中に入っていたのは反魂丹だったのかもしれません。
昔々、富山の薬売りが田舎の我が家にも来たことがあります。お土産はきれいな紙風船。膨らませて、破れないように、破れないようにポンポンと撥(は)ね上げた記憶があります。
■ おばちゃんカメラマンが行く ナキウサギ総括@然別湖 事務局
然別湖近辺でナキウサギが観察できるのは5ヶ所程度ある。東ヌプカウシヌプリの風穴地帯、駒留湖近くのガレ場、西ヌプカウシヌプリのガレ場、白雲山山頂のガレ場、東雲湖のガレ場。ここ数年は暖冬の影響なのか姿を見ることが難しかった。今年は意を決して東ヌプカウシヌプリに登山した。汗だくで急斜面を登ること1時間半、やっとの思いで現地に着いたが、暑さの故か出てくる数が少なく、しかも広いガレ場をモグラたたき状態に神出鬼没するので思うように撮影できなかった。心残りのままとぼとぼ下山。
数日後、道路わきの駐車場で軽い気持ちで待っていると、若い個体が30分おき程度でちょろちょろと出たり入ったりを繰り返し、おばちゃんでもかわいい姿を簡単に撮影することができた。ここ10年のナキウサギ探しの苦労はようやく終止符が打てそうだ。
★今月のニャンコ
旭山動物園のマヌルネコ 斜め45度目線のツンデレネコ
マヌルネコの好物はなんとナキウサギだそうで、複雑な思いだ。
■■■■■■■■■■■■■■■■■
Japan Geographic Web Magazine
Editor Yukinobu Takiyama
info at japan-geographic.tv (atを@に入れ替えてください)
■■■■■■■■■■■■■■■■■
All rights reserved 無断転用禁止 登録ユーザ募集中