Monthly Web Magazine July 2023
ニューカレドニアを「天国に一番近い島」と紹介したのは森村桂。かれこれ50年も昔のことだ。いやいやタヒチのボラボラ島だとか、フロリダのキーだとか、やはり片岡義男のハワイだとか、文筆家はもとより一家言ある人は勝手なことを言う。ハワイには1年半住んだが確かに天国感はある。ヘミングウェイのフロリダキーもわざわざニューヨークからキャンピングカーで訪問したが、これまた文豪に愛されるのも納得の楽天地だ。
何を言いたいかというと、「天国」の定義というか価値観の評価基準が個人によって異なるからカオスの結果となるのだ。いわゆる「絶景」がインスタグラムの影響でカオスと化しているのと同じかもしれない。
壱岐をジャパンジオグラフィック的に評価すると、自然、水、花、文化、食の価値観を重視する人向けに天国としての評価が高くなる。
自然や水や花の代表は、辰の島に自生する天然記念物の海浜植物群落だが、わざわざこれを見に来るのは私や植物研究家などごく少数で、ほとんどの人はダイナミックな白砂の浜とエメラルド色の海や蛇ケ谷の海食地形に狂喜の声を上げる。島の周囲には美しい海岸が点在しており、見るだけでなくその場に立ったり泳いだりと体験型の「絶景」が好きな人にはまさしく天国だ。とにかく猿岩はおかしくもかわいらしい。
文化の代表は、弥生文化の原点でもある原の辻遺跡や一支国博物館、数多くの古墳群、中世のいわゆる蒙古による残忍な襲撃の史跡、そして秀吉の無謀な朝鮮出兵の勝本城跡、戦跡の黒崎砲台などなど。文化の分野ではハワイにはエビの養殖遺跡など少しだけしかなく、太平洋の島々とは比べ物にならない圧倒的な天国感だ。
そして食の分野では、豊富な海産物、魚はもちろん、特に採れたてのウニやアワビは絶品だ。壱岐牛にも海産物にも合う壱岐焼酎は醸造法も麹も独特で、麦焼酎の既成観念を覆すほどまろやかで深みがある。各宿泊先では「俺の同級生がやってる蔵だ」とかで焼酎談義が盛り上がり、試飲したり蔵見学をしたりと、結果的に持てないほどの焼酎を買ってしまった。
「私にとっては」どの島も天国に近いのだが、壱岐島は間違いなく天国に一番近い島だった。二番目は甑島と五島列島と隠岐諸島と天売島が競り合っている感じかな?
今月は大阪府下の、積川神社(重文・1603)、聖神社(重文・1604)、船守神社(重文・1609)、願泉寺(重文・1663)です。
織田信長と石山本願寺との戦火で大阪泉南地域から和歌山にかけての寺社はほとんどが焼失しました。
1580年、石山本願寺が信長と和解、信長から引継いだ秀吉や秀頼の手でこの地域の寺社が再興されました。
特に願泉寺は、本願寺の一大拠点・貝塚寺内町の中心でした。今回の寺社は全て再興されたものです。
明治30年(1897)に「古社寺保存法」に基づいて特別保存建造物の指定から126年・・5615棟(令和5年5月現在)の建造物が重要文化財(古社寺保存法での特別保存建造物、国宝保存法での国宝を含む)に指定された。
しかしながらこの内、第二次世界大戦末期の戦災による焼失などにより滅失で指定解除された建造物は242棟となっている。
重要文化財指定解除後、跡地に再建したものもあれば更地のものも存在している。
そこで、かつて重要文化財建造物のあった場所を訪ね、その現状をかつての雄姿と共に紹介していきます。
今回は岡山市北区にある天台宗に属する古刹の金山寺。
金山寺山門
奈良時代の天平勝宝元年(749)に報恩大師が孝謙天皇の勅命により開創し、創建当時は法相宗に属した。延久元年(1069)焼失し、平安時代末期の康治元年(1142)に現在地に移された。
嘉応年間(1169-1170)に宋より帰国した栄西により護摩堂などが建てられ宗派も天台宗に改められた。この時に院号を遍照院とした。鎌倉時代には将軍家の祈祷所となっている。
金山寺書院
御成之間
戦国時代の文亀元年(1501)金川城主の松田元藤は金山寺に対し自身の信奉する日蓮宗への改宗を迫った。寺院側はこれに応じなかったため、元藤は寺院を焼き払い堂宇は灰燼に帰した。
その後、本堂は圓智(豪円)が宇喜多直家の援助を得て、天正3年(1575)に再建した。
金山寺護摩堂
焼失した本堂と同じ天正3年(1575)の再建
本堂は大正13年(1923)に『國寶保存法』の元での國寶(現法『文化財保護法』の重要文化財に相当)に指定されていたが、平成24年(2012)12月24日に火災で焼失した。
原因は当初報道では本堂で常に使用していた蝋燭の火とされていたが、火災当時住職が不在であり、原因は特定できていない。
炎上中の金山寺本堂
本堂は桁行5間、梁間6間、一重、入母屋造、本瓦葺。正面1間向拝付きの南面する建物で、四周に濡縁を回す。
金山寺本堂(平成5年撮影)
金山寺本堂(平成23年撮影)
内部は、前面2間通と両側面1間通が外陣、中央後方の3間4面が内陣、前面2間通の外陣部は吹放しの時期があり、海老虹梁、長押等の彩色に風蝕がみられた。
金山寺本堂平面図
間仕切りの欄間や大虹梁等に施された彫刻、彩色は絢爛たる桃山様式の特色が発揮されている。
金山寺本堂(外陣)内部
本堂の跡地には仮本堂が建っており、残念ながら現在のところ本堂の再建はなされていない。
金山寺本堂 跡地
再建計画がありいずれ再建されると思われる。
再建の設計には焼失前の詳細なデータが必要となる。
その際、JAPAN GEOGRAPHIC
にある数多くの本堂の写真が役立つ時が来るのではと思いたい・・。
平成24年の金山寺本堂の火災による解除以降現時点まで、重要文化財建造物(彫刻は平成25年8月10日に愛媛県松山市の宝厳寺の木造一遍上人立像が焼失解除の例あり)の指定解除はない。
焼失した 宝厳寺 木造一遍上人立像(愛媛県松山市道後)
今後も金山寺本堂の重文解除が最後になることを祈りながらも、不測の事態に備え出来うる限りの写真を今後に残せれば・・と撮影を続けていければと思う。
■旧新橋停車場跡 田中康平
6月の下旬に東京で同窓会が2つあって東京に久し振りに遊びに行ったが少し空き時間があったので、汐留の旧新橋停車場遺構を見に行ってみた。汽笛一声新橋をと唄われたあの新橋駅だ。1872年/明治5年開業と国内では最も古い鉄道遺構ということになる。。
行ってみると今の新橋駅からはずいぶん海寄りにあるとの印象を受ける。1914年東京駅開業に伴い汐留駅と改称、貨物専用駅となり電車専用駅だった烏森駅が現在の新橋駅となったということのようだ。旧新橋駅からの新橋汽車線路は少し南西に行ったところで電車線と隣り合うようになって延びていて、芝離宮のあたりでは鉄道線と芝離宮の関係は今と同じということの様だ。開業当時線路は高輪のあたりで何と海上に出て新たに設けられた築堤の上を走っている。この高輪築堤が高輪ゲートウエイ駅工事に伴って発掘され保存される方向となっているようだ、こんなことは戻ってからネットで学んだ。驚くべき先人の努力の跡は記憶し保存するに値する。
旧新橋駅の遺構の多くは埋め戻され現在目にできるものは復元駅舎と地下の遺構の僅かばかりだが明治の始まりという時期の意気込みというものを感じることができてなかなかいい。
添付は順に 01:旧新橋停車場復元建築正面部 02:同後方部、現代的ビルに囲まれた様がいい 03:復元ホーム 04:復元線路 05:起点標識 06:駅舎基礎石積み 07:正面階段最下段遺跡 08:出土した鉄道遺品 09:新橋停車場平面図(展示物) 10:遺構説明図(展示物)
■実家の始末 川村由幸
私の故郷は千葉県香取市で両親は亡くなるまでここに住んでいました。そこには両親が建てた築60年にもなる古い住宅が残されています。今、社会問題となっている「空き家」です。もちろん、家の中は住んでいた時のままです。
その「空き家」に香取市から注意喚起の文章が届きました。
適切な管理を促す文章ですが、老朽化した実家の画像と解体処理等を促すパンフレツトが同梱されていました。
実は私自身も実家の始末はしなければと考えていて、後に残った母親が亡くなって七回忌を迎える年に解体をすべく業者から見積もりを取り、高額に驚いてどうしようかと迷っているうちにコロナウィルスの来襲で動きがストップ。
そのまま、今となっていたところに届いた注意喚起でした。
コロナ禍も大きな障害で無くなった今こそ、止めていた動きを再開しようと心に決め、今回はいくつかの不動産屋にこの「空き家」の処理の検討を依頼しました。
ネットから依頼したのですが、直ちに不動産屋3社からコンタクトがあり、現地物件の確認に実家で不動産屋3社と別々に会い、話を聞きました。
3社の内2社は現状のままでの買取を提案。1社は空き家を解体して更地にした上で、土地売却に動いても香取市自体に土地の需要が少なくスピーディな処理は出来ないと消極的な対応でした。
「現状のままの買取」とは、家の内外とも今の状態のまま、売却後の瑕疵の問題も一切なしというもので、今の私にはベストな選択と考え、これで進めることとしました。
香取市からの注意喚起が私の所に届いたのは私が固定資産税を支払っているからで、実家の所有者になっているわけではなく所有者は今でも父親のまま。所有者を私に訂正しないと実家の処理は具体的に何も進みません。
早速、司法書士事務所に処理を依頼。これには、10万円以上の費用と1ヵ月を超える時間が必要とのこと。
この間に買い取ってもらう価格の詰めをしようと不動産屋と交渉。
当初は実家の処理には金銭の負担が発生するだろうと考えていたものが、一切の負担はなくいくらかでもプラスになる形で売却価格が決定しました。まずは一安心、あとは相続処理を待つばかりです。
でもこれで終わりではないのです。私たち家族全員の本籍地が処理をしようとしている実家の住所にあるのです。
この本籍地の移動というのが、移動すればするほど関係する自治体の数が増え、後々手続きが面倒になる要因となるようです。
本籍地は記号のようなもので、そこに他人が住んでいようと全く関係がないもののようです。移動せずそのままでも全く問題ありません。
今は移動すべきかどうか悩んでいる最中です。確かに自分の本籍地が誰か他人の所有物というのはあまり気分の良いものではありませんから。
なんとか、実家の処理には目途が立ちました。母親が亡くなってからずっと気なっていた懸案の一つが片付こうとしています。
次は父と母の眠る墓地の処理が私の故郷に残る最後の懸案事項です。
■ 私のそば尽くし 野崎順次
うどんもそばも好きだが、食べる回数となるとそばが断然多い。関西人として、うどんには思い入れがあるから、食べるにはそれなりに値打ちのあるうどんを食べたいと思っているのかもしれない。そばはどんなんでも気楽に食べる。細いから、多少気分の悪い時でも、入りやすいのかな。
上等のそばはやはり関東が多い。上野あたりだったかな。3番目は浦和のワシントンホテル斜め向かいの「手打ち蕎麦 しば田」で食べた「梅おろし」。梅干しらしきものはなく、ぬるぬるした黒い粒が酸っぱかった。1500円。
グルメ杵屋レストランの「割烹そば 神田」が、新型コロナ全盛期に大阪第一生命ビル地下に店を出した。1000円~1500円あたりでサラリーマンには高価である。どれもなかなかの味でそば湯もねっとりとしてたが、客が少なく、2年くらいで撤退した。
京都府木津川市の山奥、浄瑠璃寺門前「あ志びの店」のとろろそば。舞茸が存在感を発揮してた。
中級の普通の味のそば、大体は関西で、だし汁が薄味である。500円から850円。青い葉っぱの乗った冷しそばはJR尼崎駅北側「基やぶ」のごぼ天そば。
大阪駅前第一ビルの「うどん・そば・食事処 三起」は安くて美味しくて量があり、老若男に人気が高い。私が食べたのは、かやくそば、きざみそば、ざるそば定食。
立ち食いそば、関東の濃いだし汁が菊菜天やごぼう天に合う。
大阪駅前第一ビルB2の「つるつる庵」、この10年間、主な種類のそばが350円でしかもそばが少しましになった。写真は山菜そばにサービスの天かす入り。すごく空腹な時にかき揚げを2枚入れてというと、大将が「体に悪いで」といったが、それでも食べた。油ギトギトで嫌になった。写真は海老天とかき揚げ。
たらふくセット、おでん定食とかつ丼セット。おでんの方はJR尼崎駅前キューズモールのそば割烹の店。かつ丼の方は忘れた。
ちなみに、私の数少ないそば体験で最高の店は、兵庫県三田市母子の「母子そば座敷 いまきた」である。味もいいが香りがよかった。しかし、主人が今年の1月に亡くなって休業状態らしい。
■「父の遺言」 柚原君子
縁あって親子として暮した長い歳月の中から受け取る遺言が有る。
★
二十歳のときに母の弟にあたる叔父からお見合いの話があった。叔父の家は大きな傘屋さんを営んでいて、そこに出入りしている26歳の営業マンが、なかなかに誠実な人なのでどうかということだった。どうする? と父が私に訊いた。私は「まだいい」と言った。保育者になる学校を卒業したものの、家業の大衆食堂の人手が足りずに店を手伝っていた長女の私。その労働力を重宝もしていた父は「そうか」、と言っただけだった。
二年が過ぎた。
★
叔父がふたたび縁談を持ってきた。「以前の人なんだけど。どお? 将来は独立したいから商売屋さんの娘さんを探しているそうだけど、逢ってみない? 」
三年越しの縁談である。
★
地下鉄「人形町」の出口を、トントントンと駆け上っていったら叔父とYさんが立っていた。Yさんは上背のある男前で目に張りがあって声が柔らかくてとても素敵な人であった。
私は自慢ではないが不細工な顔を持って生れ落ちた。美男子にこの私ではつりあわない。これはだめだな、と思った。それで私は断わられてもともとの感じで、取り繕うことなく自然に振舞った。敬語と静かな声で話すYさんを横目に、私はよく笑いよく食べ、上品ぶらずに普段どおりにしゃべった。そして食後のコーヒーのあと、おおよそお見合いらしくもないとどめで「かっちゃん(私たちは叔父をそう呼んでいた)、ちょっとお手洗いに行きたい」と言いつつ、Yさんに会釈をして、前を横切った。
★
「明るさと快活さと、物怖じしない元気さが良い」という返事が、かっちゃん叔父さんのところに来て、私たちは付き合うようになった。人並みなデートも人並みな長電話もして半年後に式を挙げた。一年後には商売を独立させて、子供が二人生まれて、自営業を拡大した。社員が増え、パートさんが増えて軌道に乗った矢先の夫の早逝。夫42歳、私36歳、結婚生活13年と一ヶ月だった。
葬儀が終わり、8歳と10歳の子供を抱えた私に、
「何があっても笑っていなさい。そのうちにきっといい事がやってくる」
と父は言った。
★
人生の前半に悪いことが重なる運命を持って生まれてきたのか、36歳で夫と死別した後に、引き続いて私はがんを罹患している。がんは夫との死別後の生活が何とか立ち直り、笑顔も板についてきた頃だったから、神様は非情なことをなさると気落ちした。辛い治療や死の世界に連れていかれそうな恐怖、それに片親さえ亡くしてしまうかもしれない子どもたちと、生まれてきた甲斐さえないような自分自身への憐憫に、うなだれるばかりだった。
その後、笑うことなどもうないと思っていたけれども、人生はなかなかにして捨てたものではなかった。
がん治療が落ちついて日常生活に戻ったとき、あとは再発をどう防いでいくかという模索になった。生き方の基本から直していかなければ、がんはまた再発するだろう。
私なりに考えた。がんの原因であるストレスによる免疫異常をクリヤーしていくには、笑いの効用でキラー細胞を増殖させて、そやつにがん化した細胞を喰いまくってもらって免疫力を高めていくほかに手はないだろうと。そして、ストレスを回避するためには、とことんマイペースの行動をしようと。
よく笑うこと、ストレスからさっさと逃げることを徹底的に自分に義務付けた。楽しい人とだけ付きあう。落語に行く。面白い話がなければ自分から探しにいく。うるさがられようとも大きな声でおなかの底から笑う。
おかげさまでこの年まで来た。不細工なのは昔から変わっていないが、まあともかく笑顔をいつも絶やさない女にはなれたと思う。
★
そういえば、夫が亡くなったときに父は
「何があっても笑っていなさい。そのうちにはきっといい事がやってくる」
と言ってくれたが、その昔、夫とのお見合いに出かける私の背にも父は同じような言葉を投げかけたのだった。
「おまえは器量があまりよくないから、笑っていなさい」と。
年頃の娘によくもずばりと辛辣なことを言えたものだが、不細工を唯一カバーできるのは<笑顔>であると判断して、娘の人生を一歩前に押しやろうとしてくれた父の判断は正しかったことになる。
過ぎて来た人生において、いついかなるときもすぐに笑えたわけではないが、笑おうとした努力に対しては父も冥界から拍手を送ってくれるのではないかと思う。
「笑っていなさい」の言葉は、私の中で父の遺言として生きている。この言葉は心の中に住まわせてあるので相続税もかからない。ありがたい。
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