JAPAN GEOGRAPHIC

Monthly Web Magazine   July 2023


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■蟇股あちこち 39 中山辰夫


今月は大阪府下の、積川神社(重文・1603)、聖神社(重文・1604)、船守神社(重文・1609)、願泉寺(重文・1663)です。
織田信長と石山本願寺との戦火で大阪泉南地域から和歌山にかけての寺社はほとんどが焼失しました。
1580年、石山本願寺が信長と和解、信長から引継いだ秀吉や秀頼の手でこの地域の寺社が再興されました。
特に願泉寺は、本願寺の一大拠点・貝塚寺内町の中心でした。今回の寺社は全て再興されたものです。


積川神社 つがわ 

大阪府岸和田市積川町350

本殿保存修理工事2016年に実施

延喜式式内社で、和泉国五社(大鳥神社・泉穴師神社・聖神社・積川神社・日根神社)の一社です。河川の合流する地を指して積川と称したとされます。
平安末期以降は特に朝廷の崇敬篤く、当社への寄進や奉幣使のあったことが伝わっています。
    
この地域の社寺は、織田信長と石山本願寺抗争の際に全て類焼し、秀吉、秀頼が再興しました。
積川神社の彫刻は、豊臣秀頼が再建した近接の社殿-泉穴師神社本殿、聖神社本殿、奈賀美神社本殿―などより一日の長があるとされます。

■拝殿 木材表面をそのままで使用、 向拝中央部に蟇股
        

■透塀と中門 千鳥破風 中央部に板蟇股
      

■本殿 国重文 再建:1603 三間社流造 正面千鳥破風付 総向拝付 彩色 西面 檜皮葺 豊臣秀頼が再建 
   
身舎正面三間、背面五間、側面二間、庇三間 浜床・浜縁付 組物出三斗 中備蟇股 間嵯斗 手狭 妻二重虹梁大瓶束 
内陣は五座に区画され、背面よりみると五間社です。内部には境界を設けていません。三間社五座は殆ど見受けないです。
身舎は細長い平面の建物。向背の出を多くして調和を図っています。

蟇股は妻飾~向拝~身舎軒下に配されています。

□妻飾
二重虹梁大瓶束絵様、中央に蟇股。室町後期から桃山時代に多く見られます。近接神社でも見られます。
二重虹梁に若葉の彫刻は稀な手法です
向かって右側
    
南妻の蟇股の彫刻は波に菊の花に筆が添えています。鎌倉から桃山時代に多くの実例があります。

向かって左側
    
北妻の蟇股には波に貝類を配しています。水に因んだものとして描かれています。

□向拝
    

向拝の蟇股
正面側(南・中・北) 中央の蟇股は「笑顔の龍)とされる彫刻、彫り師のユーマアが感じられます。
「笑顔の龍)とされる彫刻、彫り師のユーマアが感じられます

      
背面側 (南・中央・北)
   

□身舎
   
身舎の蟇股
   

□脇障子「欄間」
薄い板に透彫彫の彫刻、しかも表裏異なった図柄です。
       

■境内社の蟇股
若宮社・菅原社
  

積川戎
    

 

 


1604年 聖神社本殿
大阪府和泉市王子町916

聖神社は信太山(しのだ)の山上にあります。信太大明神とも称します。
平安時代初期より国史に現れ、859年には官社に列し、「延喜式」には小社として記載されています。
戦国時代から武家の崇敬が篤かったとされます。現在の本殿は、1604年の再建とされ、豊臣秀頼が片桐且元に命じて造営させた伝承があります。
本殿はじめとする遺構は、桃山時代の代表的意匠に溢れています。
比類のない構成、彩色を伴った豪華絢爛たる装飾、規模の大きさ、などで特に注目されています。

蟇股を軸に見て行きます 

拝殿
      

2017年から2020年(令和2)年にかけて30年ぶりに実施されました保存工事で、本殿の色彩が見事によみがえりました。規模雄大です。
各部絵様繰形、軒廻斗栱、内外に施されている彩絵などいずれも桃山時代の代表的意匠に溢れtrています。

本殿 国宝 建立:1604年 桁行三間 梁間五間 一重 一間の向拝付 入母屋造 桧皮葺 桃山時代の代表的な意匠に溢れています
    
向拝に千鳥破風、および軒唐破風を取り付け、大棟と千鳥破風に千木・堅魚木をおき内部宮殿の壮観さと相対しています。
軸部は全て丹塗りとするほか、細部を極彩色とし、瑞雲・草花・波・七宝、などの文様を描いています。
このあたりの特色は大阪府南部の諸社にほぼ共通する手法です。

補修後~補修前の本殿正面~背面~向拝~向拝蟇股
        
二重に架けた虹梁のそれぞれ蟇股を入れています。上部は鳥、下は蟠龍です。狭い輪郭内に巧みに納められています。虹梁の上には雲、下は波出、これも龍に対応しているとされます。
蟇股1
 
近世になると人物を主題とした建築彫刻も現れました。それには仙人、二十四孝などが見られます。この仙人は鶴に乗って雲間を翔っています
蟇股2
 
筏に乗って棹で漕いでいます。彫刻がこのように種々あって、これだけを見ても楽しいです。蟇股の下、頭貫の浪に兎がいます
本殿の蟇股3
 
鯉に乗った仙人で、「琴高」という仙人。彫刻も巧みですが、同時に蟇股の輪郭、特に上部の曲線に桃山の特徴がよく出ていまといわれます。
   

境内社―三神社と滝神社の本殿は本社本殿と同じく1604年の建立で、極彩色と華麗な装飾は桃山時代の特徴を示しています。
 

三神社
社殿は三間社春日造檜皮葺。三間社(正面柱間が3間)の春日造は全国的にも珍しいです。
     

滝神社 国重文
社殿は一間社の春日造 檜皮葺。向拝は軒唐破風。
   

追記
聖神社本殿内部
 
外観はさほど変わった所は見られませんが、内部は一転して珍しい形式です。即ち、内陣を床高く造り、その中に精功な宮殿を置いています。まるで神座が三重に保護されている感じです。

 

 


1609 船守神社
大阪府泉南郡岬町淡輪4442

淡輪の氏神になっている船守神社は、911年60代醍醐天皇の勅命により創建されたと伝えられています。
本殿は慶長14年(1609年)の再建で、国の重要文化財に指定されている。
境内にある樹齢800年とされるクスの木(大阪府天然記念物)は、4本の幹が1本になった珍しいクスで、ご神木です。
樹勢は旺盛で、こんもりとした樹冠は、大きな森のようです。
■アプローチ
    

■拝殿と蟇股
        

■拝殿 国重文 再建:1609 三間社流造、正面千鳥破風及び軒唐破風付、檜皮葺
      

□破風の蟇股
  

□向拝と蟇股
       
□向拝周辺
    

■身舎の周りに蟇股が配されています。
□正面側
     

□向かって左側
       

□向かって右側
        

 

 


1663 願泉寺本堂
大阪府貝塚市中町5-1

願泉寺は、浄土真宗本願寺派の寺院。かっては本願寺派の本山でした。行基が建てた庵家がは始まりとされます。
1467~9年に本願寺の法主蓮如が教義を説いたのが始まりで、1545年に根来寺から右京坊「ト半斎了珍」を招き、1550年に庵寺を再興しました。
これにより本願寺派の貝塚道場が成立、1555年大坂府下の大坂本願寺下の寺内町となりました。
貝塚道場及び寺内町は1577年の織田信長の雑賀攻め(紀州征伐)の際に全焼しました。石山合戦が終わった1580年に道場が復興しました。
1583年本願寺法主顕如が貝塚道場に移りここを本山にしました。1585年までの2年間、貝塚御坊と呼ばれ、本願寺教団の一大拠点になりました。
1602年の本願寺東西分裂以降も東西兼帯でした。本堂は1663年に再建されました。
明治以降も東西両本願寺に属していましたが、1951年本願寺派寺院隣現在に至っています。

境内
   

■表門 国重文 再建:1679 四脚門 切妻造 本瓦葺
    

□正面冠木長押上に龍の彫刻 1690年、岸上和泉守の弟子、和泉嘉右衛門の作 一部の彩色が復元されました。
      

□その他の細部
      

□門扉
     

■目隠塀 国重文 本瓦葺の築地塀 目隠塀や筑地塀はともに鐘楼の国重文の附(つけたり)です。伽藍構成上の重要な建造物です。
  

■井戸屋 市指定文化財 建立:1818 吹放し形式 切妻造 本瓦葺 大工棟梁・岸上六兵衛が建立 
      

■太鼓楼 国重文 建立:1719 二重・二階建て 入母屋造 本瓦葺 太鼓を備ていえます
   

■鐘楼 国重文 建立:1702 青松寺より移築(1948年) 銅鐘は1224年に鋳造されたもので、大阪府指定文化財です。
    

■経蔵 市指定文化財 B建立:1688 土蔵造 宝形造 本瓦葺
   

■本堂 国重文 再建:1663 桁行27.8m 梁間27.0m 入母屋造 本瓦葺 向拝付 装飾性に富む本堂建築の美が見栄えます。 
大工棟梁は、現貝塚市三ツ松出身の岸上和泉守貞由と伝わり、貝塚寺内や近隣の人々から寄進を受けて建設されました。
     
外陣廻りの蔀戸が古風感を醸し出しています。

□妻飾
  

蟇股は内陣手前の矢来に「二十四孝」の彫刻、外陣と広縁の境界部に鳥類の彫刻、外陣内部に植物の彫刻が配されています。

□向拝周辺 蟇股はありません
       

手挟
     

欄間彫刻
      

□外陣と広間の境部 鳥類の彫刻 山鳩、鷺(さぎ)、雀、オシドリなどさまざまです

                      

外陣内部
  

本堂には二十四孝広告が配されています。二十四孝は、中国古来の有名な親孝行であった人々の総称です。貝塚以外でも多く彫られています。
本堂内には、内陣・外陣の境と矢来の北面・南面の蟇股、矢来の虹梁上の狭間に、24話分の彫刻が配されています。

□外陣・内陣
   

□本堂平面図
 

□二十四孝 1 ・ 2 ・ 3
   

□二十四孝 4 ・ 5 ・ 6 ・ 7
    

□二十四孝 8 ・ 9 ・ 10 ・ 11
             


■書院 市指定文化財 座敷四間と茶室 江戸中期の建造物 寺内町の成長であった「卜半役所」の一部、紀州藩主の参勤交代の際の宿泊施設
 

■社務所
  

貝塚市
 


貝塚御坊は願泉寺を中心とした寺内町でした。大坂本願寺の支城ともいえる所で、本願寺の南西約30㎞の所にありました。

石山合戦は元亀元年1570年に始まった。大坂本願寺が石山本願寺と呼ばれるようになったからです。

元亀元年(1570年)から天正8年(1580年)まで戦われた織田信長と大坂本願寺による石山合戦によって伽藍が焼失するが、慶長2年(1597年)に豊臣秀吉により伽藍が復興され多宝塔が再建される。多宝塔は大阪市内最古の木造建造物である。


 

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