Monthly Web Magazine Oct. 2023
■ 矢中家住宅 瀧山幸伸
つくば市の旧矢中家住宅が重要文化財に指定されたので早速調査に出かけた。皇室を迎えられるほどの高品質な造りは、埼玉の遠山家住宅と比較されるが、こちらは建築に関係する人のみならず多くの人に「住まいはこうあるべし」あるいは「住まいはこうなってはいけない」というヒントを与えてくれる文化財だ。ヒントは大きく二つある。
一つ目のヒントは防湿と断熱のハードに関する点だ。これに関しては住宅関連の技術者には当然のことだが。施主の矢中龍次郎は外壁防水防湿材などを開発した実業家であり、発明家でもあった。彼は主力商品での課題や知見を参考に日本の高温多湿の風土に対応した防湿性通気性の良い家を造ることに注力し、住宅の大敵となる湿気を防ぐためにパッシブな換気システムを徹底的に取り入れた。古来より格言となっていた「すまいは夏をむねとすべし」の典型であり、それはそれで間違ってはいないのだが、窓には多重サッシを施しているものの寒い季節には冷たい風が地下室や床下から部屋の天井に抜けていくので、とにかく寒い住まいだったと聞く。施主の死後40年間ずっと無住だったとのことだが、筑波おろしの直撃を受ける住宅で風通しが良すぎる住まいは家族には厳しいものがあったのだろう。今日の木造住宅は防湿目的で床下全面および外壁内部に防湿材や断熱材を施工したり床下換気口を多くとることにより防湿と断熱の整合を図っているのだが、当時は国交省管轄のつくば建築研究所もない時代だから、矢中の徹底した実験住宅があったからこそ今の住宅の仕様ができあがってきたといえる。
二つ目のヒントは、住宅の宣伝でよく耳にする「家族が主役の住まい」や「家族全員の幸せにつながる住まい」とは何か、あるいは多世代にわたり住み続けられる住まいとは何かという、ソフトに関する点だ。この家は矢中本人の快適性を徹底して追求しており、矢中以外の家族のための快適な居住空間はほとんどなく、家族それぞれの住み心地や全員の団らんの場を提供する目的は重要視されていない。昔流の発想ではこれがあたりまえだったのだろうが、新宮の西村家住宅を造った西村伊作とは真反対の実験目的と結果になっている。
「快適な住まいとはどうあるべきか」は、ピアノと暖炉があってネコと暮らせればいいという絵に描いた幸せのような単純な話でもなく、安全や健康などのハードはともかく、家族の団らんは当然として教育やプライバシーなどのソフトまで理想を追求すると実に奥が深い。世界遺産となっている住宅に住みたいかと聞かれれば、NOだ。
■お東さん 大野木康夫
真宗本廟東本願寺は京都市の下京区、烏丸七条の北西に広大な敷地を有する浄土真宗大谷派の本山です。
京都の方は「お東さん」と呼んでいます。
江戸幕府草創期の慶長年間に、浄土真宗(一向宗)の力を恐れた徳川家康が、大谷派を分立させて現在の場所に本山を整備させて以降4度の火災に見舞われ、その都度再興されています。
現在の伽藍は元治元(1864)年の禁門の変の際の大火(どんどん焼け)の後、明治期を中心に整備されたものです。
令和元年に御影堂など6棟が重要文化財に指定されましたが、このたび、令和5年9月25日に、境内北部の殿舎群など14棟と附指定7棟が追加指定されるとともに、境内北西部の「内事」と呼ばれる門主の居館3棟が別に指定されました。
新たに指定された建造物は非公開のものも多いですが、撮影できる範囲で撮影してみました。
既指定の建造物6棟
御影堂、造合廊下(附)、二筋廊下(附)
堂内撮影禁止なので厨子(附)は撮影できず。
阿弥陀堂、御影堂門、阿弥陀堂門
堂内撮影禁止なので宮殿(附)は撮影できず。
鐘楼(修理中)、手水屋形
追加指定された建造物
大玄関及び大寝殿、宮御殿
宮御殿は御影堂北側の廊下部分から屋根の一部が見えるだけです。
議事堂、表小書院
北側の寺務所門から見えます。
菊門、玄関門
寺務所門、内事門、十三窓土蔵
築地塀6棟
阿弥陀堂門南方、御影堂門南方、御影堂門北方
菊門北方、玄関門北方、寺務所門西方
新規指定された内事の建造物
日本館、洋館
日本館は内事門から北側が見えます。洋館は新町通側の高い石垣の上から一部がのぞいています。
ここまでが限界ですが、今年の京都冬の旅で殿舎群が特別公開され、通信員の野崎さんが非公開の建造物の一部を撮影されています。
【野崎さんの投稿から】
能舞台、白書院、桜下亭
その他、宝蔵(阿弥陀堂の西)、黒書院(御影堂の北西)、内事の鶴の間(日本館と洋館の間)が指定されています。
附指定では百間廊下、渡廊下(白書院)、便所(桜下亭)が撮影できませんでした。
西本願寺でも殿舎群は撮影禁止となっていますが、門主のプライベート空間という扱いなのかと思います。
個人的には、京都駅で列車を鑑賞する合間に、阿弥陀堂や御影堂でよく休憩をしていたことが思い出されますが、最近、あれだけいたドバトの姿を全く見ないのが気になります。
これだけの建造物を集中して撮影するのは楽しかったので、また、殿舎群が公開されることを待望しています。
今月は京都です。教王護国寺(東寺)と醍醐寺と御香宮神社です。いずれも有名な社寺ですから説明不要です。
御香宮神社は重複ですが、補足分を含めています。十二支の蟇股が配されています寺院大光寺も含めました。
■失われた建造物 =重文跡を訪ねて= 吉志部神社本殿 酒井英樹
明治30年(1897)に「古社寺保存法」に基づいて特別保存建造物の指定から126年・・5615棟(令和5年5月現在)の建造物が重要文化財(古社寺保存法での特別保存建造物、国宝保存法での国宝を含む)に指定された。
しかしながらこの内、第二次世界大戦末期の戦災による焼失などにより滅失で指定解除された建造物は242棟となっている。
重要文化財指定解除後、跡地に再建したものもあれば更地のものも存在している。
そこで、かつて重要文化財建造物のあった場所を訪ね、その現状をかつての雄姿(古写真)と共に紹介していきます。
今回は大阪府吹田市の千里丘陵南西部に位置する吉志部神社。
吉志部神社
吉志部神社は朝鮮半島からの渡来系民族である難波吉師氏の氏神として創建された。
応仁の乱などの兵火を受けた後、天文2年(1534)に中興された。
吉志部神社拝殿
本殿は慶長15年(1610)に吉師一族の子孫である吉師家次と一和の兄弟の勧進で地元大工によって再建されたことが知られている。
7間社(正面の柱間が7間)流造、檜皮葺という大規模な本殿でありながらも、天保4年(1833)建築の覆屋内に収まっていたため、色彩等が保存されていた。
正面柱間は4尺(約1.2m)の等間隔で、中央間のみ5尺(約1.5m)と広くし、千鳥破風と軒唐破風を備える。
焼失した吉志部神社本殿(『戦災等による焼失文化財 文化庁』より)
柱間にある中備(蟇股)には虎や唐獅子などの彩色彫刻が施されている。
本殿は平成5年(1993)に重要文化財に指定されたが、平成20年(2008)5月23日未明に放火とみられる火災により拝殿(大正時代建立)・覆屋とともに焼失した。
同年2月に韓国ソウルにある崇礼門(通称:南大門)が放火されたのに続く文化財への放火事件として大きな話題となった。
しかし、現時点でも吉志部神社の放火犯は未検挙(平成30年公訴時効)のままである。
跡地には櫻井敏雄博士の監修のもと、平成23年(2011)に完成した拝殿・覆屋とともに吉志部神社本殿は再建されている。
再建された吉志部神社本殿は文化庁の指導のもと施工されたこともあり、焼失前の本殿を踏襲している。
また、蟇股彫刻は建設当初の色彩が施されている。
再建された吉志部神社本殿
吉志部神社本殿正面蟇股彫刻(復元)
吉志部神社には数度訪れている。
しかし、焼失した吉志部神社本殿は覆屋に覆われていたため、撮影がすぐには叶わなかった。
撮影のために覆屋内部の撮影許可の内諾を得ていたが、撮影日時が合わず時間が経過してしまい焼失してしまったため撮影が間に合わなかった苦い経験がある。
覆水盆に返らず・・なるべく早め早めの撮影を・・と思いながらも・・今回の吉志部神社本殿の公開と取材日程が合わずに・・時間を費やしてしまった・・もどかしさを覚えている自分がここにいる。
■雑草とAI 田中康平
毎日インスタグラムにその日撮った写真を1枚投稿している、野鳥か昆虫、庭の花などが殆どで結構続けられている。
今年の夏はことのほか暑くてあまり出かけず野鳥も少なくてちょっと苦労した日もあるがそんな時は庭の雑草でもなんでも投稿することにしている。調べなおすと新しい発見があってそれなりに面白い。
例えば庭の植木鉢の隅に出てきた雑草と思しき草があった、牧野富太郎によれば雑草という草はない、というのだが、写真に撮って調べると、ハキダメギク、と判明する。何ともひどい名前だが、牧野富太郎の命名だ。牧野はこの草を世田谷のゴミ捨て場で発見したためそう名付けたと言われている。ほぼ「お前は雑草だ」といわんばかり名のようで、牧野も人間だと思ってしまう。
この花もインスタにアップした。つい先日やはり庭のポッドに雑草と思しき草が穂をつけていて、写真に撮ってGoogleレンズで画像検索する、この検索にはAIが仕込まれているようで、以前の画像検索とは比べ物にならないくらい植物や昆虫の名前をほぼ正しく答えてくる。
今回の答えはカズノコグサ(やはり牧野命名)だった、ちょっと違うところもあるような気がしたが他にいい候補がないのでその名でインスタにアップした。翌日になってやっぱり違うような気がして手持ちの図鑑をぱらぱらめくっていくとカヤツリグサの仲間のコゴメガヤツリがほぼ当たりと気付く。葉の付き方がこれだ。
あわててインスタの説明を修正する、何しろインスタは後々まで残る。Googleレンズがこの名前をヒットしなかったのはAIの限界を示しているのだろう、ネットにあまりアップされていないものは学習の範囲から外れてしまう、常識的なことなら引っかかるがそうでないものは外れる。
こんなことがあるとAIの検索はギリシア哲学にいうドクサ(通念)そのものだということを思い出す、プラトンは真の知識(エピステーメー)を探求すべしとしていたがそうなのだろう。面白いのはチャットGPSにあなたの答えはドクサですか?と聞くとその通りと答えるあたりだ。
便利な時代になったがそれだけに本当だろうかとよく考えることが求められる時代にもなったようだ。
写真は順に、1:私のインスタグラム、2:ハキダメギク、3:コゴメガヤツリ
彼岸花が満開とのネット情報を見て、権現堂公園を訪ねました。
曇り空でしたが、深紅の絨毯が広がっていました。ここは過去にも訪問していて、その時より花の密度も面積もグレードアップしているように感じました。
彼岸花は曼殊沙華とも呼ばれていることは皆さんご存じと思いますが、その地方地方でいろいろな呼び方をされているようです。
ただ、その呼び名は死にまつわるものが多いようで、呼び名からは不吉な連想が付いて回る花です。
ただ、ここのような深紅の絨毯をみれば、その鮮やかさに圧倒され不吉さは感じません。
そして、深紅の絨毯の中に白い彼岸花がほんの少し咲いていて、とても良いアクセントになっています。
右の画像のピンクの彼岸花を今年は見ることが出来ました。ピンクを見るのは初めての気がします。
広範囲に咲く、赤い絨毯をめぐりながらシャッターを切る。朝のひととき、楽しい時間でした。
早めの時間の訪問でしたから、見学の人々も少なく、落ち着いて撮影ができました。
落葉した桜の木の間を埋め尽くす彼岸花、一つの絶景です。開花状態は最も良いタイミングでした。
自宅から車で1時間あまりの移動でこれが見れるなら、なんか得をした気分になりました。
厳しい暑さからやっと解放され、赤い花に癒された時間がチョッピリ幸せでした。
■ 当尾でちょっとマニアックな石仏探し 野崎順次
9月18日 木津川バス JR加茂駅発09:44 → 9:51 下手口
森八幡宮の裏山に神福寺跡笠塔婆(鎌倉時代)がある。この地の大男の伝説にちなんで、ずんどぼうの笠塔婆とも呼ばれる。これまで2回、笠塔婆にたどり着こうとして失敗した。1回目は森八幡宮の西側の道なき道を登ろうとした。2回目は森集落からの正しいルートだったが、夏草が茂っていて見過ごしてしまった。今回は道筋が一番詳しいYahoo地図と位置の記載があるGoogle
Mapを用意し、さらに「石仏みーつけた」というサイトで森八幡宮の南から回り込むルートを動画で見ておいた。というわけで今回は万全である。
下手口バス停から約15分で森八幡宮についた。近くの家で見かけた動物はヤギだった。
コバエが多い地域なので、モスキートネットと長袖軽パーカを用意してきたが、結局、暑苦しいので使わなかった。コバエを手で払いながら、森八幡宮の南の道を東に歩いた。道は明確だが、雑草が多く、あまり使われていないなあと思っていると、目の前からキジバト2羽が飛び立った。道のど真ん中で安らかに休んでいたようだ。山の方へ曲がって登り始めると、今度はカラスが2羽飛び立った。少し変な臭いがして嫌な予感がしたら、干からびた皮膚に毛がまばらに残った動物の古い死体があった。鹿のようだ。このように最近人が通った気配がないが、道の左端はモルタルで強化されていて、たどりやすかった。とはいえ、気味の悪い道をたどるに必死で写真を撮る余裕がなかった。
坂を登りきると三叉路になっていて右手に回り込むと狭い平坦地があり、表示板はもうないが、神福寺跡である。意外なことに、小型トラクタ?に乗ったおじいさんが休憩中で、笠塔婆の位置を教えてくれた。夏草に半分隠れていた。
神福寺跡笠塔婆 鎌倉時代後期 花崗岩 高さ 121cm 幅 28cm
バスの時間があるので、あまり世間話もできない。来た方向とは反対側の森の集落側に下りて、速足で歩いて下手口バス停に戻るとちょうど、10:51
のバスがきた。暑い体と汗でびちょびちょのTシャツを冷房の風に当てつつ、浄瑠璃寺へ向かった。
11:06
浄瑠璃寺に着く。一番近い茶屋やなぎ屋で缶ビールを飲んだ。ビールなどアルコール類は利尿作用が強いため水分補給にならないというが、私の場合は「なる!」。猛暑日に、汗をぶるぶるかきながら、ほぼ1時間半おきにビールのロング缶を飲みながら、4~5時間歩き回って、一度も尿意を感じないのが常である。しかも、ビールを飲んだ時には体の隅々まで水分がいきわたる実感がある。
次は、旧道赤門坂の水呑み地蔵である。鎌倉時代に焼失した浄瑠璃寺南大門(通称、赤門)のそばにあって、江戸時代初期に荒木又右エ門が湧き水を飲んだという伝承がある。現在は、ほとんどの地図に道筋が書かれていないが、実際に行ってみると、昔の街道がよく残っていた。現在でも農道として使われているようだ。その後、open
street mapというサイトをみつけた。道筋が詳しく非常に便利である。
浄瑠璃の参道の途中、あ志び乃店の手前を左に折れて山中に入っていくと右回りに登り坂である。白いキノコが群生していた。竹藪の密集度がすごい。10分くらいで赤門坂峠に着いた。旧道の三叉路で「北方 岩船寺 唐臼の壺 左 浄瑠璃寺 右 中ノ川 奈良坂 般若寺」の木札がある。さらに前方を見ると、北方と右の間に水呑み地蔵への表示があり、少し下ると見つかった。
赤門坂水呑み地蔵 鎌倉時代中期 花崗岩 像高 180cm
戻る途中の山道で、汗を拭きTシャツを着替えてすっきりしてから、塔屋茶屋で缶ビールをもう1缶飲んだ。その時におかみさんに初めて聞いたのだが、茶屋の看板の字は浄瑠璃寺の先代のご住職(故佐伯快勝大和尚、2016年没)に書いてもらったそうだ。
12:10 手打ち蕎麦吉祥庵。客は私一人。いつも通り、おろしそば、せいろそば、純米吟醸酒を頂く。
私が注文した直後、老親子三人連れが入ってきて、ニシンそばを食べた。そして、追加にせいろを2~3枚注文しようとすると、もうそばは売り切れだった。まだ、12:40だというのに。それはそうと、吉祥庵の沿革については興味をそそる話がある。いずれ後日談として紹介したい。
■ 「アイスクリーム」柚原君子
「こんな風に、何も食べられなくなる病気になるなんて、夢にも思わなかった……」。
しわがれた小さな声を出す父が病院のベッドにいた。
★
父の胃を全摘した医師は、
「すでに転移があり、再発はまぬがれず、死もそんなに遠くではないでしょう」、と家族に告知をした。
父ががんになった1985年頃の患者本人への平均的告知率は10%内外であった。10年後の1995年になって30%、1998年頃で50%となっている。(‘98年3月28日の毎日新聞朝刊より)
2000年になるとカルテ開示の流れが出て、患者本人もカルテを見ることができるようになり、がんを隠すことができなくなった。また、治療成績の向上に伴ってがんと共生をする人々が増え、さらに発症を受け入れて意欲的に闘病を続けていくことが有効であることも実証されて、その後告知率は上昇をしていく。
現在、がんは慢性疾患とも言われるようになり、告知率100%の病院がほとんどであると思われる。
父ががんになった時、一般的な告知率の低さから言えば、父に告知しなかったことは仕方ない事であったかもしれないが、父の命は父のもの、それを家族が勝手に握り締めていいはずはないと私たちは悩んだ。けれども、生きる期限を区切られた父の精神面を受け止める自信はなく、せめて父に苦痛が訪れないようにと願うのが精一杯で、悲しむ間もなく次々とやってくる現実に、アタフタと流されていくばかりだった。
★
CTで撮影された父の体のそこここにがんの転移の黒い影があった。特に胆嚢にできた腫瘍は父の腹の皮を破り腹部に大きな穴を開けた。そこから絶え間なく出て来る胆汁は、穴の周りの皮膚を溶かしはじめていて、ガーゼを取り替えるたびに父のうめき声が廊下まで聞こえた。
腹に開いた穴のために口から食べ物を摂ることはできない、と父には説明をしてあったが、実際には食道の下部にも転移した腫瘍があって食物の流動を妨げていた。口を湿らす程度の水分なら吐くことは無かったが、少しでも多くの水分を飲み込むと父は吐いた。
ある日、アイスクリームがどうしても食べたいと言うので、主治医に聞きにいった。
「巾着のように閉じたところに物を流し込むようなものですから吐くことは間違いないでしょうが、一口くらいなら大丈夫かもしれないから、食べさせてあげてください。食べて吐くようだと患者さんも諦めがつくこともあります」。
親切なようで、それでいて非常に冷たい言葉だった。
死を徐々に受け入れていくということはこういうことなのか、と思った。
売店でアイスクリームを買って父に見せたら大喜びだった。
一口食べる。もうよそうね、と言う。もう一口くれよ、もう一口だけ、と父が言う。薄っぺらな木のへらにアイスクリームを乗せて父の口に運ぶ。美味そうにしていたのは数分のみで、父はすぐに吐いた。
以後、父は口からものを摂り入れたいとは言わなくなった。
★
腎臓の機能も衰えて、腎不全を起こしかけているのか意識が時折混濁するようになった。
「きみちゃん、そこにアイスクリームがあるような気がしてしょうがないんだけど、取ろうとすると無くなってしまう。あるだろう? そこに」。
父の目はうつろだった。
私は
「あるよ。ここに。寝て起きたら食べようね」、と答えた。
父はうつらうつらと眠るようになった。
呼び寄せられた親戚が、次々と病室を訪れた。父は焦点のぼやけたような顔でやっとの思いのように言葉を口から出した。
「俺は幸せだった。子供たちは三人とも元気で独立して家庭を持っている。子どもの幸せは親の幸せだ」。
小さな声だったが、繰り返し繰り返し言った。父が生をあきらめた上に、自分は幸せであったと自分に言い聞かせているのだ、と私には思えた。
数日後の明け方に父の体温は徐々に下がっていった。
私を抱き上げて柚子の樹の下に連れていってくれた父の若かった手。一家を支えてくれた、がっしりとした父の手。一度も私の頭に振り上げられることのなかった父の柔らかな手。病気を治そうと点滴を受けていた頃の父の手。その手が今、冷たくなっていこうとしていた。私は自分の両手で父の手を包みこんで温めながら、涙を流した。悲しみをもう父に隠す必要はなかった。
★
最期にアイスクリームの幻まで見て逝った父は、食べることが本当に好きだった。柚子、桃、無花果、スイカ、木苺、蜜柑、いろいろな食べ物が季節ごとに店頭に並ぶ。父の想い出も季節ごとにめぐってくる。悲しいけれどありがたいことと思うことにしている。
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