JAPAN GEOGRAPHIC

Monthly Web Magazine  Feb. 2024


■■■■■ Topics by Reporters

■ 日本一危険な城  瀧山幸伸

世の中には百名城、続百名城と、「城の専門家」がお選びになったリストがあるが、選定基準が自分の基準と異なるので現地を調査しても違和感を持つことがある。百選シリーズは、城に限らず棚田百選や名水百選などもそうで、母数の選定リストと厳密な選定基準と評価数値を明示していないからだ。Japan Geographicで独自の百選を作成中なのはそういう違和感がもとになっている。

「日本一危険」というのは誇張ではないが、「日本一」は厳密かつ公平な用語ではない。無数にある全ての城跡を調べたわけではないからだ。と厳密な選定基準と評価数値を示して「日本一危険」という母数の選定リストを厳密に定義すれば、国または都道府県の文化財「史跡」に指定されている城(単独の砦や櫓などではなく本丸ほか城の統合機能があるものに限る)の中では、という程度だ。評価数値はいつもの簡易評価法だ。

思うに修験地にある城が危険な城のリストの上位になるのだろうが、「もっと危険な城」をご存じの方はご指導ご鞭撻を賜りたい。

前置きはこれくらいにして、その名は大分県中津市の長岩城で、黒田と宇都宮の戦いの舞台となり、大分県の史跡に指定されている。詳しい内容はそのページで。とは言っても動画を見なければ怖くない。歩きながら動画撮影している自分はさらに怖い。

 

日本で唯一といわれる石積櫓と弓型砲座

  


■市辺の史跡 野崎順次


JR近江八幡で近江鉄道に乗り換え、三つ目の駅が市辺(いちのべ)である。中山道から八風街道が分かれ、さらに市辺駅あたりで布引街道が分岐するが、その布引街道を1kmばかり歩くと市辺の集落がある。ここにちょっといい石造物が集中し、宮内庁管理の円墳もある。その前にコミュニティセンターがあり、史跡地図と有刺鉄線ぐるぐる巻きの二宮金次郎像があった。よく見ると、LEDイルミネーションだった。

    

まず、西市辺裸まつりで名高い薬師堂がある。
市文 薬師堂石造三尊仏 南北朝時代 貞和二年 1346年 安山岩 高さ134cm
大蓮寺の三尊より二十五年後に造立された

      

隣の福建寺の地蔵石仏

   

若宮神社、境内に円墳がある。

    

市辺押磐皇子御陵(いちのべおしはのみこのみささぎ)
円墳が2基あり、東方の大きいのが皇子の墓、従兄弟の大泊瀬皇子(のちの雄略天皇)の騙まし討ちにあったという。西の小さい方は従人であった悵内佐伯部売輪(とねりさえきべのうるわ)の墓と伝えられる。

      

市文 大蓮寺三尊石仏 鎌倉時代後期 元亨元年 1321年 安山岩 高さ185cm
自然石の前面を切り込み、中に蓮座上に立つ如来形三尊(阿弥陀・薬師・釈迦)を半肉彫りする。

      

大蓮寺宝篋印塔 南北朝時代 花崗岩 高さ233cm

   

その他

   

市文 三所神社燈籠 南北朝 建武四年 1337年 花崗岩 高さ203cm
全て造立当初のもので、笠・火袋・基礎が八角形。

     

参考資料
河合哲雄「石仏と石塔」ウェブサイト
川勝政太郎「新装版日本石造美術辞典」1998年9月30日


■夜の撮影 大野木康夫


最近、仕事や家庭の用事、体調の関係で撮影に行くことが困難になり、10月に千早赤阪村に祭の撮影に行って以来3箇月間カメラを持つことがありませんでしたが、1月の終わりにようやく夜明け前の伏見稲荷大社に行くことができました。
伏見稲荷は24時間参拝可能で山を巡ることもできたのですが、撮影勘が戻っておらず、一番効率的な三脚を忘れるなど思ったよりも時間がかかってしまい、熊鷹社付近までしか行くことができませんでした。

      

私は使用機材が暗所に弱いPENTAX、カバーする腕もなく、夜の撮影は苦手なので、三脚や豆袋を駆使してなんとかこなしている状態です。これまで撮影した夜の写真を振り返ってみました。

桜のライトアップ

琵琶湖疏水(大津)、教王護国寺、彦根城、祇園白川、円山公園

     

紅葉ライトアップ

神護寺、永観堂、高台寺、金戒光明寺、圓徳院、平等院、清水寺、梅小路公園、瑠璃光院、天授庵、東福寺、醍醐寺

            

祭礼等の伝統行事

灘のけんか祭、桑名石取祭、祇園祭、春日若宮おん祭、久多花笠踊、百舌鳥八幡宮月見祭、尾張津島秋祭、大津祭、陀陀堂の鬼走り、白石踊

          

その他の夜景

生石高原、八坂神社、四日市コンビナート、北野天満宮、松本城

     

やはり、手持ち撮影の分はかなり質が悪い印象があります。
なんとか克服できるようになりたいと思います。



■ 蟇股あちこち 46  中山辰夫

今月も宮城県です。有名な国宝の大崎八幡宮、国宝の瑞巌寺、重文の陸奥国分寺薬師堂です。撮影禁止の箇所が多いので、保存修理報告書などの文献からの転用が多いです。

   

 


酒井英樹


■レンジャクを見たり 田中康平


冬季に渡来する渡り鳥は冬鳥と呼ばれ北の国から色々やってきてバードウォッチャーの目を楽しませてくれる。
見ごたえのある冬鳥として上位に入るのがレンジャクではないかと思っている。日本にやってくるレンジャクはキレンジャクとヒレンジャクで、西日本では尾羽の先が赤いヒレンジャクが多い。
ヒレンジャクは Bombycilla japonica という学名もつけられているように日本で目立つレンジャクとして国際的にも認識されている。世界的には尾羽の先が黄色いキレンジャクが圧倒的に多くヒレンジャクは少数派で珍しいようだが九州のバーダーは概してキレンジャクを見つけたがる。
珍しいか珍しくないかは場所による、当然のことだが鳥見をしているとそんなことによく出くわしてちょっと面白い。


写真1,2,3は今季春日市にやってきたヒレンジャクの群れ。今年は数が多い。
  


写真4,5は2009年3月に奥日光で撮ったキレンジャクとヒレンジャク
 

 



■ 唯一の重要文化財の雪の風景  川村由幸

関東では2/5の午後から雪が降り出しました。それなりの降雪量で翌日は久しぶりに白一色の景色が楽しめました。
当然、交通網はボロボロで前日からテレワークのつもり。朝、起きてすぐに自宅近くにある柏市唯一の重要文化財旧吉田邸で雪景色の撮影を思いつきました。
開門時刻に合わせて、一番で入門、でもいささか期待はずれでした。

   

もう少し、すっぽり雪に覆われているだろうと想像していました。すでに瓦屋根の雪は大半が滑り落ち、茅葺屋根もまだら模様。
白銀の中の古民家を思い描いていましたから、あららという感じ。気温の高い関東ではしかたのないところでしょう。
内部は来月のひな祭りに向けての飾り付けがされていました。

   

焼き物のひな人形がめずらしく、楽しく鑑賞させてもらいました。古民家には雛飾りも似合います。
残るはお庭の雪景色。

   

庭に降った雪はそのまま残されていて、普段とはまったく違った景色となっていました。ここが雪の風情を一番感じられました。
全体に期待したほどではなかったものの、普段見られない景色に出会ったのは間違いなく、雪のおかげでチョッピリ楽しい思いをさせていただきました。帰宅後は家の周りの雪かきをして、あっという間に溶けてゆく雪をおしみつつテレワークに戻りました。



■『風の娘』 柚原君子


江戸中期頃から、蕎麦屋さんは職制を敷いて分業になっていた。
主となる分業として「板前」「釜前」「中台」「花番」「外番(出前)」、補助的な分業として「脇釜」「脇中」「まごつき」などがあった。大店になるとそのほかに「盛りだし」「そば洗い」「膳くずし」「洗い方」「汁回し」「箱前」などにわかれていたそうで、これら単語の羅列をしていくだけでも、お蕎麦屋さんの調理場で働いている人々の様子が目に浮かんでくる。

現在の一般飲食店では調理場責任者は板前さんのように見受けられるが、板前さんというのは蕎麦屋さんの職制でいうと板の前で蕎麦を打つ人のことで、調理場の中で種物を作ったり、てんぷらを揚げたり、汁の味加減を見たり、花番から通される注文を手際よくさばいていく主要人物は「中台」さんということになる。中台さんがなぜ板前さんに変化していったのかを想像すると、これもまたなにやら楽しい。
「花番」はお客さんの注文を調理場に通したり料理を運んだりする人のことで、いつも店の端やはなのところにいるので、「はな番」と呼ばれたそうである。主に女性がその役をしたので「花番」というきれいな字が当てられた。
(参考:信州手打ち蕎麦処「車屋」)

昭和34年に愛知県から上京して、父が墨田区業平橋で小さな大衆食堂を始めたときも、お店で注文をとったり運んだりする人のことを花番と言っていた。
その娘が店の花番として雇われるようになったのは私が高校一年生のときだった。世は東京オリンピック開催直前で岩戸景気の真っ只中。地方からの出稼ぎの人も多く、父が経営する20脚ほどの小さな大衆食堂は繁盛をしていた。
早朝6時の開店を近所のどや街と呼ばれる木賃宿を定宿にした人たちが群れをなして待っていた。開店と同時に調理場はいきなりの大忙がしになる。
納豆、焼き海苔、生卵、香の物、味噌汁、そんな種類の朝定を花番さんが通す声の中、肩を触れ合うような混雑の中で、勢いよくご飯をかっ込む人々が味噌汁の湯気ごしに見える。父の食堂はご飯が驚くほどの山盛りでそれに必ず蜆汁がついて、これが結構な人気だった。
出稼ぎは特に東北地方の人が多かった。気のやさしい真実の塊のような人々で、舌に絡まるような、意味がよく理解できない方言でしゃべりあっていた。これらの人々は、夕方になるとまた父の店に帰ってきた。そして焼酎をガラスの受け皿までこぼしてもらって立ち飲みをしたり、里芋の煮っ転がし、それにささやかにさばの塩焼きなどをつけて夕食をとり「おやすみなさい」とどや街に帰っていく。時にはその日の夕食代がない人もいて、それはそれで父は貸してやっていたようだった。農閑期だけの出稼ぎで春になると東北に帰っていく人々だったが、父の店を朝晩に使うので例年の出稼ぎ人は父の食堂を東京の自分の家のようにしていた。
あまりの繁盛で花番がもう一人必要になって、表に募集の張り紙をしたその日のうちに、その女の子は父親に連れられてやってきた。中学校を卒業したばかりのまだ子供のように見える小さな娘だった。卵形の顔で額が広く色白で、目はパッチリとして利発そうだった。父と子の二人暮しで東京に出てきたばかり。どや街にいるが決して怪しいものではない。お金を貯めてアパートに越したいので父子で必死に働いているという。その日のうちから働きたいというので、すぐに白い三角巾と白い白衣と、それからおつりのお金を入れる前掛けとをあてがって、花番に立たせた。

3日目でその子はいなくなった。売上が3000円ばかり消えていた。
父に言われて私はどや街を訪ねた。暗い廊下が一本奥のほうに伸びていた。入り口のガラス戸はガタガタで力を込めなければ開かなかった。入って二つ目の両側にたくさん並んだ入り口の一つを開けた。ささくれ立った畳の上に練炭コンロが一つあっただけで荷物など何もなかった。
半年位してから、父と浅草に遊びに行った帰りに、仲見世の、とある珈琲店であの娘が働いているのを見た。いっそうきれいになっていて、赤い花のスカートをはいていた。大衆食堂の野暮ったい三角巾とはうって変わって、白いレースをちょこんと頭に乗せていた。あの娘だ!父と私は一緒に道端に立ってしばらく見ていたが、持ち逃げされたお釣銭のことを父と話した記憶はない。
好景気で人の流れも右から左にたちどころに移動ができて、どこに行ってもどのような職でも何でもありの時代だった。父の小さな大衆食堂にも三階の屋根裏部屋に調理師さんと洗い場専門の少し知恵の遅れた男の子が住み込んでいたし、この<風の娘>と名づけた、つり銭持ち逃げの女の子が花番で雇われる少し前には、曳舟の駅前の薬局の娘さんが住み込んでいた。寝る部屋がないので私の布団の横に無理やりのように一緒に寝ていた。この娘さんは遊び癖がついていて定休日の次の日は呼びに行かなければ働きに来なかった。呼びに行った私の目の前で映画館の中にバイバイと消え去られたこともあった。
女店員さんがこないからと子どもの私に呼びに行かせたうちの父親も父親だったが、当時は常識も非常識も一緒の土俵で取り組んで、大らかにみんなで元気いっぱいに生きていた気がする。

アネモネはギリシャ語で<風の娘>という意味がある。酸性の土壌を嫌い、品種は100種にも及ぶ。珈琲店で働いている彼女を目撃したときに彼女は赤い花のスカートをはいていた。その花柄がアネモネであったかどうかは定かではないが、風のように去った娘の記憶と共になぜかアネモネの花が目に浮かぶ。花言葉は<薄れ行く希望><恋の苦しみ>。どんな人生を生きているのだろうかと時々思う。




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