Monthly Web Magazine Mar.2025
■ 「東南海地震津波の戒石」と防災総合博物館 瀧山幸伸
津波の記憶はすぐに忘れられてしまう。辛い経験なので過去を忘れたいとの思いがあるのはやむを得ないことだ。さらに時間が経ると目の前の経済的利益が優先されてしまう。
地理学を研究する一環として全国の「悲劇の地」を調査しているが、明治、昭和の三陸津波でも津波の戒石が埋められてしまうなどということがあった。
最も激しい被害が予想されている東南海地震の津波被害に関しては、静岡県湖西市の白須賀では宝永津波(1707)で東海道の宿場町が全滅し、高台に全面移転した。この記憶を観光客向けの街並紹介パンフレットに記載しているのは素晴らしいことだ。
三重県尾鷲市一帯も津波の度に大きな被害を受けたが、訪問者が学ぶような記憶遺産はほとんど無い。国天然記念物に指定されている市内須賀利の岬先端にある須賀利大池の津波堆積物遺構は現地に行く道もない状況で、現地近くまで何度もトライしているが、未だ熊野古道センターでの展示の事前調査の段階だ。
和歌山県広川町の史跡広村堤防はアクセスも良く、津波の教訓を学ぶには好適だ。
高知県一帯の津波は相当に大きい。過去に高知市は市街がほぼ全面水浸しになるほどの被害を受けたが、その痕跡を戒め学ぶ施設は寡聞にして知らない。最も高い津波が襲うと予測されている黒潮町では、名勝の入野松原がTシャツアートなどで観光化しているが、津波の記憶は周知されておらず、松原の中央に位置する加茂神社に安政津波(1854)の戒石がひっそりと保存されている。
徳島県も大きな被害を受けた。海陽町の鞆浦には宝永・慶長の津波の戒石と嘉永の津波の戒石が残り、町の史跡となっている。これを読むと津波の恐ろしさがひしひしと感じられる。
提言:防災環境研究開発ビレッジ
../special/town/index.htmlこのような施設を個別に学ぶのは難しい。災害先進国の日本の英知を集め、災害の歴史と因果関係を集め、災害や環境問題に対処するエコシステムや製品を研究開発し、その成果を世界中に普及するための「定住常設」の拠点だ。建設運営ともにコストがかかる箱物ではなく、サステイナブルタウンモデルのJ-Townのような安全でサステイナブルな産学共同の研究開発型の村のイメージだ。
■最近の撮影から 大野木康夫
2月中旬以降、撮影に出る機会が増えました。
2月15日(土)
低温、微風、晴天を見越して滋賀県甲賀市の岩尾池の一本杉に行きました。貯水湖である岩尾池の南に立つ巨大なスギで、水面のリフレクションは期待どおりでしたが、気温が下がり切らず、気嵐はほとんど出ていませんでした。
帰りに大石富川の春日神社に寄ると、神門の脇戸が開いていたので本殿を楽に撮影することができました・
2月23日(日)
岡山の旧野﨑家住宅が来年度から長期間の修理に入るという話を聞いたので、岡山に行きました。私は車で遠くに撮影に行く時は、現地の日の出時刻を確認してそれに合わせて行くようにしています。この日も4時に家を出て総社の宝福寺には6時30分の日の出前に到着しました。
宝福寺(総社市)
宝福寺から備中国分寺に向かう沿道にやけに幟が目立っており、交差点に立てられている看板を見たら「そうじゃ吉備路マラソン」の当日で、もう少ししたら主要道路が通行止めになるということでしたので、急いで備中国分寺に行きました。
備中国分寺(総社市)
国分寺前の道路の封鎖(8:30)前に撮影を終えて吉備津神社に行きました。さすがに参拝者が多かったです。
吉備津神社(岡山市北区)
本殿及び拝殿、南隨神門、御釜殿
吉備津神社のすぐ南にある旧犬養家住宅に行きました。専用駐車場には多くの車が止まっているのに見学者は私一人でした。
旧犬養家住宅(岡山市北区)
主屋、土蔵
次は倉敷の美観地区とその周辺の重文民家3箇所を訪問しました。大原家住宅は数年前から内部公開が始まっており、井上家住宅は修理が終わって公開日が拡大していました。連休中日なのである程度の混雑は覚悟していましたが、想像を上回る渋滞と人出でした。特に中華圏からの観光客が目立っていたように思います。
大橋家住宅(倉敷市)
大原家住宅(倉敷市)
井上家住宅(倉敷市)
予定よりも時間がかかってしまったので、数カ所の訪問をあきらめ、本命である児島の旧野﨑家へ行きました。旧野﨑家の広大な見学者用駐車場がジーンズストリートの駐車場に開放されており、満車待ちが生じる状況となっていました。訪れる人も多く、大変賑わっていました。
旧野﨑家住宅(倉敷市)
この後、家に帰りましたが、西宮山口ジャンクション付近で事故があり、渋滞の車列が三木ジャンクション付近まで延びるなど、予定どおりにいかない一日でした。撮影には満足できましたが。
3月1日(土)
猪名川の多田銀銅山遺跡と日本民家集落博物館を主目的として、北摂の文化財の撮影に行きました。
久安寺(池田市)
早朝過ぎて境内には入れませんでしたので、道路沿いから重文の楼門を撮影しました。早朝にもかかわらず、大型のダンプカーが頻繁に行き交い、撮影にも影響しました。
多田神社(川西市)
長めの一脚を入手して以降、拝殿の奥にあって近寄れない本殿に対し、水平に距離を稼いで撮影したらどうなるのかということを考えていました。実際やってみたら、向かって左側(西側)から木の間を通して撮影すると、ほぼ全景を撮影することができました。
戸隠神社(猪名川町)
覆屋正面の戸の格子は大きいので正面からは撮影できますが、横からは撮影できないので、DJI pocket 2
で撮影してみました。画質は落ちますが撮影できたので、今後、同様のケースで試みようと思います。
多田銀銅山遺跡(猪名川町)
小規模とはいえ一時期豊臣政権を支えたと言われる鉱山です。2kmの範囲内に遺構が残っており、徒歩でも十分回ることができました。
代官所跡、青木間歩、大露頭、瓢箪間歩
八坂神社(池田市)
色鮮やかな本殿でした。
金禅寺(豊中市)
池田から豊中に向かう道が渋滞で、時間がかかりました。都市部では渋滞も考慮する必要があります。
原田神社(豊中市)
晴天で本殿撮影が可能な向かって右(東側)からは逆光でした。
日本民家集落博物館(豊中市)
服部緑地でイベントをやっていて駐車場の満車待ち時間が長かったです。園内もそこそこ人がいて少し撮影に苦労しました。
旧椎葉家住宅、旧泉家住宅、旧山田家住宅(いずれも重要文化財)
旧山田家住宅の茅壁が印象的でした。
旧丸田家住宅、旧山下家住宅、旧藤原家住宅、旧吉田の農村歌舞伎舞台(いずれも大阪府指定有形文化財)
旧藤原家住宅(南部の曲屋)ではコスプレ撮影を楽しまれていました。料金は半日5千円だそうです。
旧大井家住宅(重要有形民俗文化財)
人気が少なくて撮影しやすかったです
3月8日(土)
細見美術館で開催されている「細見コレクション 若冲と江戸絵画」に行きました。全て館蔵品の展覧会で、全作品の写真撮影ができるということでカメラを持っていきましたが、一眼レフでレンズ交換までして撮影しているのは私だけでした…
長尺の屏風の全景を撮影する時のガラスの継ぎ目の処理、照明や人物の映り込みやガラスに焦点が合うことへの対応、平置きになっている平面作品の撮影方法など、展示物の撮影は難しくて思ったよりも時間がかかってしまいました。
若冲作品の主な物
雪中雄鶏図、鶏図押絵貼屏風、糸瓜群虫図
瓢箪・牡丹図、踏歌図、鼠婚礼図
鶏や虫など、動き出しそうな動植物の絵も好きですが、個人的には晩年の力が抜けた自由な絵が好みです。
■ 沼島(ぬしま) 野崎順次
磐座(いわくら)に代表される岩石崇拝に興味がある。数年前、池田清隆著「磐座百選」を読んで、その中で特にあこがれたのが、淡路島南端、沼島にある上立神岩である。結晶片岩の尖頭型の巨岩で高さは33mもある。
沼島には結晶片岩の板石を用いた名庭園がある。神宮寺の築山式枯山水である。
話は前後するが、淡路島の南端に沿って中央構造線が走る。沼島は兵庫県では唯一、中央構造線の南側に位置し、そのため、変成岩である結晶片岩が産する。平成6年には、この結晶片岩から、めずらしい「さや状褶曲(同心円状になった褶曲)」が発見された。
3月1日時刻表、現地説明板
アプローチ、朝からもやっていたが、南あわじ市に入ると、すっきりしてきた。
沼島港に着いた。ターミナルセンターにさや褶曲の一部がある。
港を行く。
神宮寺。ご住職の中川宜昭さんが高校生の頃に重森三玲が来たそうだ。三玲が30歳くらいの頃で、おそらく、庭園の測量をしたのだろう。三玲の影響が大きい庭園写真家中田勝康が神宮寺庭園を非常に高く評価している。
沼島八幡宮の階段下から港までの道は兵庫県道482号線沼島線である。兵庫県道の最短(40m)にして最南であり、信号皆無である。もちろん、本島唯一の県道である。
島の中央を南に横断する。その途中におのころ公園がある。
路傍には水仙が咲いていた。
ついに立上神岩に到着した。海岸まで降りるのは割愛した。
港に戻る途中に路地に入り、八角井戸
県文 梶原五輪塔
港に戻ってきた。
帰途
おまけ。グーグルマップの衛星写真を見ると旅客機が写りこんでいた。
今月は奈良県の社寺で、法華寺・安倍文殊院・橿原神宮・久米神社です。
法華寺は光明皇后が創建された尼寺です。皇后は施薬院や悲田院を建て社会福祉に努めたとされます。
安倍文殊院が建つ地は安倍一族の出身地で、安倍清明生誕の地ともされます。日本三文殊の一つ「大和の文殊」で親しまれています。
橿原神宮は1890年に創建されました。50万㎡の広大な神域に素木造の社殿が建ち並びます。
久米寺は聖徳太子の弟や久米先人の建立と諸説あります。空海ゆかりの寺で、「真言宗発祥の地」とされます。堂塔の大半は江戸時代のものです。
■室見川のシロウオ漁 田中康平
春の初めのころの福岡の食べ物で少しは知られているシラウオの踊り食いというのがある。正確にはシラウオ(白魚)でなくてシロウオ(素魚)なのだが福岡では以前からシラウオと呼びなしていたような記憶もある。魚としては別物なのでややこしい。
踊り食いとは生きて椀を泳ぐシロウオ(素魚)をそのまま小さな網ですくってポン酢で食べる、口の中で踊るようなので踊り食いと称するようで福岡市では西部を流れ下る室見川の川沿いの料理屋で春の初めころ河口から上ってきた素魚を踊り食いとして出されたりする。以前一度だけ食べたことがあるが食べ物としては特段おいしいというものでもなく面白いだけという感じがして何だか申し訳なくて何度も食べるという気にもならない。
近年室見川で採れる量が減っていてここ3年ほど漁は休んでいたが今年から再開したというので漁の様子を見に行ってみた。場所は室見川の筑肥橋付近(昔、筑肥線が通っていた)でほぼ固定の簗が仕掛けてある。海に向かってV字を開き上流側のVの根元に金網の網が仕掛けてあってこれに遡上してくるシロウオ(素魚)が捕まる仕組みのようだ。アユの簗などとは捕まえる位置が逆だ。訪れた時はやや潮位が低かったせいか砂地も見えていてまだかかるという雰囲気ではない、漁をする人はいるものののんびりとした空気が漂う。春らしい。
採るところが見れないのは残念だがあたりはユリカモメやセグロカモメ、ただのカモメやウミネコなども飛び交い早春の風が心地いい。
添付は順に 1:地図、2-3:シロウオ漁の簗、上流側から見る、4-5:簗の仕掛け、6:漁風景、7-8:ユリカモメ、9:セグロカモメ、10:ただのカモメ
■冬の山本邸 川村由幸
今回の冬の取材で山本邸の四季の撮影が完了します。
いつものように柴又の駅から寅さんの像を見て、帝釈天の参道を通り、帝釈天の裏口を抜けて山本邸へ。
今回はなんだか外国からの参拝者が多いと感じます。ここにもインバウンドの波が押し寄せてるのかな。
日本中どこでも沢山の外国からの観光客と出会い、いささかうんざりしているこの頃です。
山本邸に入ります。
ここは帝釈天に比べ、はるかに静かでほっとします。喫茶コーカーのお客もお一人だけ。ゆっくりと撮影に集中できます。
今回で4回目ですから、新しい発見はもうありません。
庭もここは針葉樹系が多いせいか、季節による変化が感じずらいのです。画像の通り、大型の樹木に雪つりが施されているのが
唯一、冬を感じるものでしょうか。
これで山本邸の春夏秋冬4会の取材完了です。多数の見学者が居ることもなく4回とも静かに落ち着いた撮影ができました。
見学料も100円ですから、コストパフォーマンス最高です。これがいつまでも続くことを願っています。
東京都はお金持ちですから、大丈夫でしょう。
そんなことを思いながら、帝釈天参道入口の船橋屋でくずもちを贖って帰宅しました。
■ 千疋屋工場 柚原君子
深川えんま堂の近くに、わずか2mほどの小道があって、そこを入っていくと右側4軒目に千疋屋深川工場がある。入り口には『裁ち落としあります。お一人様一日一回。3パックまで』の札が下がっている。
天下の『千疋屋』の高級フルーツケーキの裁ち落としの販売である。すぐに売り切れる。お値段は1パック150円。木苺、バナナ、キウイ、メロンなどが入っていて生クリームにカステラがしっとりと溶け合っている。なんとも美味しい。ちゃんと千疋屋の帯封がついているから友だちにだってあげてしまう。
★
私の友人に「ランチの女王」という異名を持つ、とてもかわいらしい人がいる。女王のテリトリーはものすごく広く、地場の門前仲町界隈はすでに総ざらいである。女王は正装のスーツを着込んでいても銀座へはママチャリで行く。ジモティ(地元人間)とばかりに、さっそうと和光堂の前に乗り付ける、という勇気凛々の人である。
その女王と、当然のことママチャリで銀座に出てランチをした時に、ミーハー根性で、千疋屋を覗いてみることになった。というのは、ここのところの千疋屋深川工場の裁ち落としは、バナナと栗とカステラと生クリームのパックがずっと続いていて、一体全体、この裁ち落としの元のケーキはどんな形のものなのか、二人ともすごく気になっていたからである。ロールケーキであろう事は想像できたが、一度ほんまもんを見てみたい。ほんまもんをイメージして裁ち落としを食べる……、私と女王は銀座の千疋屋の自動ドアの前に立った。
★
目星をつけたロールケーキがないので、「ロールケーキはありませんか?」と訊いたところ、「当千疋屋銀座店はロールケーキを扱っておりません。千疋屋は三系統ございまして、デパートのほうにでしたらあるのかもしれませんね」
(私は知る理由もございません)って感じだった。
ええ、そりゃねぇ、入社の筆記試験も勝ち組で、面接も満場一致で通過して、それなりの社員教育も受けられて、花の銀座に配属されて、さぞかしの美貌の持ち主でもありましょう……が、
何もそんなに明確におっしゃることはございませんでしょう、と言いたくなるくらい、ピッシャリ!と言われてしまい、ほうほうのていで私たちは外に出たが、見るものはしっかり見てきた。
「見た?見た?あったよね。バナナに栗にカステラに生クリームのショートケーキがあったわよね」
「見た!見た!ショートケーキの大きさで900円!一つ900円もするのねぇ」。
女王と私は道路に出て抱き合うようにして言い合いあった。
そして「あのショートケーキのロール版がきっとどこかのデパートにあるのよ」、と付け足した。
「う~ん、さすがに千疋屋、一個900円のショートケーキときたか。悔しいけれどすぐには買えない。家族会議だ」。
歯切れの良い言葉でランチの女王は、銀座4丁目の交差点の角で腕組みをした。
★
きちんとした本物の千疋屋のサンドイッチやフルーツを、私が癌患者であった40代の頃に一度だけ食べたことがある。
癌からまだ立ち上がれないでいた頃、同じように癌から立ち上がれない患者さんがいらした。その方は、奥様に死別されたあとにご自分の癌が発見されて不安感でいっぱいのようであった。
伴侶を亡くされた喪失感が癒えぬままに、ご自身の癌と闘わなければならない状況は、どんなにかお辛かっただろうと思う。
私もまだ立ち直れていなくて、癌初心者の私たちは話すことがたくさんあった。同調しあって傾聴しあって癌から自立していく方法があるが、互いの癌の心境を話さずにはいられなかった時期でもあったと思う。しかし、その後私は徐々に元気になっていき、その方は徐々に悪くなっていき、癌を連れてお互いに伴走していた程よい距離の平行線は、その方の再発という決定的な事柄にぶち当たって、放物線のように離れていくことになった。
★
癌患者会の帰りに東京駅の地下街の千疋屋の前で、その方と私はふと足を止めた。
「食べていく?」
「ここで?高いよ。千疋屋だもん」
「いいよ。高級フルーツで癌をやっつけよう。お金なんか持っていても仕方がないよ」。
熟成した果物の香りが甘く濃く充満している店内で、フルーツサンドイッチに紅茶を頼んだ。
「再発が確定したけれども、どうにも闘う気力が出ない……、再発の話なんていやだよね。治っていく人にとって再発は怖い話だものね。相槌なんて打てないでしょう」
とその方はうつむき加減でフォークを使いながら言った。
その方の言う「再発はこわいでしょう」という言葉は少し当たっていて、私は悲しかった。
その後、その方はぷっつりと患者会に出てこられなくなった。その方を深く追ってフォローできるほど、私自身が癌から立ち直っているわけではなかった。どうにもできなかった。
★
千疋屋は浮世絵にも描かれたことのある日本で最初のフルーツ・パーラーである。屋号の千疋屋の由来は、天保5(1834)年に日本橋葺屋町(現在の人形町3丁目)で果物商を始めた初代の弁蔵さんが、武蔵の国、埼玉郡千疋の郷の出身だったことから命名した、とHPにあった。
高級なものは特に望まず、ロールケーキの裁ち落としに小躍りしているささやかな日常にいるが、私、千疋屋で一度だけ食べたことがあるのよ、とは今まで誰にも言ったことがない。
■ 酒井英樹
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