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酒井道夫


武蔵野美術大学名誉教授

1939年東京都世田谷区生まれ

早稲田大学第二文学部美術専修卒業

5才から15才まで島根県松江市、静岡県磐田市で育ち、中学は3校を転々とする疎開世代。'60-'70年にかけて、戦後デザインの勃興期に建築デザイン等の雑誌編集に携わる。'70年以降、武蔵野美術短期大学講師、武蔵野美術大学教授、武蔵野美術学園長。

デザイン論、印刷文化論、編集計画等を担当。日本 生活学会員、日本出版学会員。

酒井さんには広い範囲でアドバイスをいただいています(Japan Geographic事務局)


■ Web Magazine  投稿履歴  (一番上が最新です)

Jul 2011退職老人日記3 

2011.7.4 相変わらず意気上がらずの日々ですね。梅雨もあったような、なかったような……。エアコンのスイッチを極力入れないようにしていて、点けても28-29°あたりに設定してガマンして暮らす毎日ですが、思ったより電気代が嵩む。どうしてだろう、と思っていたところ、散歩の途中にハタと気付いたのはおバアちゃんのテレビが原因らしいこと。地デジ転換間際になってから購入して、急に今日からこれを使えと老人に申し渡してもムリだろうと思って 昨年の秋に買い替えました。このとき、ちょっと大きめのがお買い得と勧められその気になって買ったのが32inch。そんなにデカイと騒ぐようなシロモノではないけど、ウチにとっては空前の大きさ。そのハイビジョンの精細な描写には舌を巻く。ウチって遅れてますねー。 で、それはともかく、バアちゃんは朝起きると同時にテレビのスイッチを入れ、就寝時までズーッとご視聴遊ばされる、というか、TVの前でウトウトと終日過ごしているわけです。

何を観ているかといって、なーんにも覚えていない。生まれて始めての体験だったと言うあの揺れにキモを冷やした筈なのに翌日になるとナーンも覚えていない。あれから3ヶ月が経とうとしているにかかわらず、毎日のように映し出される何処かの海岸のガレキの堆積をみて「何があったんだい?」。99才の日々はボケまくりですが、この震災の記憶がリアルに何時までも続いていたらどうしようもないし、まあ、忘れてくれる方が良いような気がしないでもないけど、ナンンダカナーという日々が続き、そのために電気代が嵩んでいるという分けです。 もっとずっとドデカいテレビをお持ちの方、電気代はどういった案配なんでしょうか?  近頃は、家電量販店の店頭に並ぶテレビも従来型の小さめのが眼につきますね、あれはエコ型で小さめってわけですか?

Jun 2011 武蔵国分寺跡 

72歳の老人にとって、一日一万歩のノルマを達成するのは容易なことではありませんが、それでも近頃は徒歩による行動範囲がかなり拡大されました。昔、もう半世紀も以前のことになりますが、大学の考古学研究室で発掘の人足を募集しているのに応じて、武蔵国分寺の脇に位置する国分尼寺の発掘に駆り出されました。自宅から、この辺りを経て、国分寺金堂跡まで行って帰ってくると、それでやっと一万歩散歩が達成されます。

May 2011 退職老人日記2

ボケ老人の日常報告をここでやらせていただこうと思っていたら、3.11のとんでもない天災にともなって、恐るべき人災を誘因。以来、今日まで日常感覚が麻痺してしまい、そのまま5月の到来となりました。例年になく遅咲きだった桜の並木もすでに新緑に覆われ、ほどなく初夏の緑に衣替えをするでしょう。この1ヶ月半にわたって、予断を許さぬFUKUSHIMAの状況に気を奪われ、そぞろのんびりと近隣を彷徨う日課を怠りがちにしていると、体重の標準値が確実にオーバー気味になり、仕方なく、万歩計の目盛りを無理してかせぐ日々を復活させつつあります。でもどこか漫然と弛緩した散歩気分に浸ることができず、困ったことです。

現在の私にとって、安穏な気分というものは他に換え難い状況であったことを、改めて再発見しましたが、この日常は何時になったら回復するのでしょうか? まだまだ当分、守銭奴とマッドサイエンチスト達の夜合が続き、彼らは利権回復にヤッキになるでしょう。でもこの間に、もう一発やられたら事態は根本からデングリ返ってしまう。にもかかわらず、マスコミは本質を覆い隠すようにお涙頂戴と政争を煽り立てる報道ばかりを繰り出していますが、彼らは日本をどうしたいというのでしょうか。

等々、あれ思いこれ思いしながらの万歩計量消化の日々も味気ないものです。 まあ、それはともかくとして、私の住区近隣には思いがけなくも、零細に商っている八百屋、魚屋、豆腐屋、パン屋が気息奄々ながらもどっこい生き延びている姿を目撃して、まるで路傍に踏みつけられつつ生き延びている野の花を発見する思いに駆られたりします。決して明日を保証された商いではあり得ず、一体どうなることだろうという、緊迫した気分に襲われるのですが、当の店番の小母さんは「ウチのトーフは固くって落としても壊れないよ、ガハハ」などと陽気に応対してくれます。

Mar 2011 退職老人日記1 

リタイアしてほぼ一年を過ぎてみると、この事態に伴う生活の変化が身に染みて感じられ、これは逃げ隠れを許さない厳しい現実であります。 何と言っても、気軽にひょいひょいと電車に乗ってどこまでも出かけるということをしなくなった、というより出来なくなったことは大きい。 はっきりいって、年金暮らしでは電車賃もままならない。 一度の外出であれもこれもと、よほど計画的に複数の用を足すことを考えなくてはならない。 このままでは窒息死してしまうから、この事態を打開しなくてはならないが、そんなことが果たして可能だろうか? それなりの目論見を立ててはいるが、当面は運動不足解消のためにひたすら近隣を歩き回るのが目下の主たる行動だが、ホント、老人臭い話です。 万歩計を腰に付けて1万歩を達成しようとすると、「たまらん坂」脇の自宅から歩き出して国分寺の駅に至り、そのまま真っすぐ同じ道を帰って来たのではまだ足りない。 少し余計に寄り道をして始めてそれが可能だ。 立川に向うと少々遠過ぎ、往復したらそうとうオーバーするけれども、片道では1万歩が達成できない。 ことほど左様に、府中にも向う。 ……というような日々の経過で「退職老人日記」が満たされているのが厳しい現実です。 こんな毎日の道中で、何が私の関心を惹いているかを少しづつ順次報告して見ましょうか。ご退屈で申し訳ないのですが、年寄りの繰り言をご容赦ください。

Jan 2011  大晦日の府中大国魂神社 

大晦日の朝、府中大国魂神社にお参りするのはかれこれもう半世紀にわたる習慣。 以前は元旦にも出かけたりしたが、その雑踏ぶりに音を上げて暮の参拝に切り替えたのは何時頃だったろうか。 かつてはお百姓や様々な職人相手の道具を商う市がひらかれたりして風情があった。 生きた鯉をその場で捌いて売る、ひょっとして古式な包丁儀の流れかな?と思わせるような屋台もあったのだが近頃はこれも見かけない。 私の老母が来年で白寿を向かえる。数えなら百歳。 なんとかこの暮も過ごせたようだから、ヨタヨタ歩きを両脇から抱えるようにしてお礼参りを敢行した。 毎年参道に店を出す屋台の一つで、ささやかな神棚の飾りを新しく買い替えるのだが、今年は「このバアチャンは99歳だ」と言ったら、いろいろお世辞を言ってくれたので、すこし大型の飾り物を奮発してしまった。 五日市辺りで一人で手作りしている人がいるという竹細工もの。 近頃では中国製だったり機械製だったりすることも多いなか、これは純粋な日本製だという蘊蓄付きで買ってきた。 うーむ、なかなか繊細な作りだが値が張った。ちょっとまけてくれたけど。

Dec 2010 火葬のフォルクロア?

この11/24-25日に掛けて、田舎(島根県松江市)の叔母が亡くなったので葬儀に参列。 翌26日には、成人病というかまあ老人病検査の結果通告があったので(結果は、目下悪性の反応は見られなかったということですが)葬儀終了早々に帰京せざるを得ず、前倒しで前夜から参加することにした。 米子鬼太郎空港! 帰路は出雲縁結び空港 !? 彼の地の葬儀は、通夜が明けたら先ず遺体を荼毘に付しその後に本葬が行われるので、火葬後の拾骨にも参加することになった。

近頃東京での拾骨にはは頻繁に加わる機会があり、似たような場面を予想していたのだが、なんと頭から足先まで元の姿のままで遺骨が引き出されて眼前に置かれたのには驚いた。 私の知る限り、東京で私たちが目にするお骨は、かなりほどほどに選り分けられていて「お年に似ず、立派な骨格をお持ちで骨壺に入りきりません」とか「お骨が少のうございました」とかの説明があり、そんなものかと思っていたけど、叔母の遺骨の周囲にはさまざまな灰がそっくり夥しく堆積していて、そこに頭から足の先までの骨がそっくりと繋がって並んでいるのには一驚。

不謹慎ながら、これではまるでヒトの姿焼きではないかと思ってしまった。帰京後、この驚きを周囲に伝えると皆一様に「へえーっ」と同感してくれるのだが、中に東京でもそれは同じだという人もあって、それはもしかして竃の等級にも関係しているのかとも思うけどどうなんだろうか。 それはともかく、「箸渡し」とかいう習俗の東西における微妙な違いもちょっとした発見だった。 これはいわば民俗的な違いとして説明しても良さそうに思われるが、待てよ、私が島根の小学生の頃に亡くなった祖母の葬儀は寝棺ではなく座り棺で、死亡が宣告されると即、それまで敷いていた厚い敷き布団が引き抜かれ、薄いせんべい布団に取り替えられ(早く体温を逃がすためらしい)、しかも膝を抱えてうずくまる形に体を折り曲げ帯紐で結わえて固定される状況を見て驚いた記憶がある。 つまり、体を伸ばしたままで死後硬直を向かえると棺に収まらなくなってしまうからだったのだ。 それでも、いざ実際の納棺になってみると、小柄な祖母の体も頭が少しだけ突き出していて蓋が閉まらない。どうするのかと恐る恐る見ていると屈強な体躯の婦人が祖母の両肩をぐっと押さえ込み、するとバリバリっと音がしてその体が沈んだのだった。

なぜこんな光景を子供が見ていたのか、そこが不思議でもあるが、第一、この祖母のときは土葬だった。 白装束に額に三角形を付した鉢巻きの男達が棺を担ぎ、葬列を組み鉦を叩いて行く野辺送りはしたが、焼場には用がないのだから当然「箸渡し」の習俗なんてあるはずもない。 とすると、この火葬場での「習俗」もたかだか半世紀ばかりの間に形成されたものでしかなく、東西の違いと言ってもさほどの「伝統」に裏付けられたフォルクロアでもないことになるのだが……。

Oct5 2010 谷保天のご祭礼

9/25,26は国立にある谷保天のご祭礼だった。 谷保天は亀戸天神、湯島天神と並んで関東三大天満宮の一つとされている。 ただ、その創建は、903年(延喜3)に菅原道真が亡くなった際その三男である道武がこの地に落延びてきて匿われたのが発端であると言われるから、他の二つと較べれば圧倒的に古く、江戸幕府の成立に先立つこと1,000年を遡る歴史を有していることになる(ホンマカイナ)。 だから、三大天満宮などという数え方をするのなら、太宰府天満宮、北野天満宮の次に数えるべきは谷保天だということも何かで読んだことがある。 まあそんなことをあれこれと言い募れば「おめぇは野暮天だ」と言われるが、「野暮天」の語源にも「谷保天」がかかわっているのだそうだ。 私が高校生の頃、南武線谷保駅は、間違いなく「やぼ」と駅名表示されていた。 それが何時の頃からか「やほ」に書き換えられてしまっていて驚いたことがある。 誰か無学な謹厳居士がクレームを持ち込んだのを、当時の国鉄が対応を面倒くさがって「テンテン」を省いてしまったものらしい。 以来、「谷保天」も「ヤホテン」と呼ばれたりして、誠に野暮な事態を招来してしまった。 社の背後に、創建以来枯れたことがないと立札に記されている泉が湧き、ゆったりと鯉が泳いでいる。

 

Aug 2010  ずるずる太りでタイヘン

4月以来のリタイア態勢に入ってから、何が変わったといって、運動量の激減に大変ウロタエています。ずるずると体重が増してきて危険水域に達しそうです。そのため近頃は腰に万歩計を吊るして一日の歩数を計測していますが、一万歩を歩くなんて大変なことだと知らされました。下手をすると、600歩位しか歩かない日もあったりします。とにかくガンバッテ歩かなくてはなりません。あらかじめ交通機関を使って、写真になりそうな場所までで出向き、そこから歩き出し、取材も歩数も稼ぐように心がけを持てばいいのでしょうが、気持ちにその余裕もなく、夕刻には98歳になる老母と食事を共にするように家内から厳命されている手前もあり、自然、行動範囲は住区の近隣に限定されてしまいます。とうとう今月は1カットもアップできないことと相成りました。また小さな魚屋を一軒発見した、と報告させていただくのみです。これで、近隣に3軒目を確認いたしましたが、なぜこれらのお店の経営が成り立っているのか、私には大きな謎です。

Jul 2010 「半世紀ぶりの徘徊」

高2の時から我が町といえばJR中央線国立駅周辺が中心だった。若い頃は暇に任せて自転車を駆せ、ここらあたりをへめぐり歩いた。 駅前中央通りの増田書店や旭通りの古書店矢川書店は現在も盛業だが、その他にもかなり広域に渡って小さい新刊書店、古書店が点在していたのだ。 それをあちこちと経巡り歩くのがささやかな楽しみだったが、お金がないから大方は本の背中を眺めているだけだけで、お店にとっては迷惑な客だったはずだ。 半世紀ぶり、今度は定年後の暇に任せ、絶えてご無沙汰の国立音大前の古書店まで万歩計をカチャカチャ言わせながら徒歩で行ってみた。 あるにはあったが店は閉ざしたままのようだ。何時頃までやっていたのだろうか? 少し身近な地域の探訪をしてみようかと思っています。

Jun 2010 京都丸太町大丸ヴィラ 

本年で丁度古稀にあたる年回りなったからなのか、この五月、絶えて声のかからなかった田舎の小・中学校から同窓会の誘いが続きました。小学校は関西・関東各地区在住者の便を擦り合せて京都で、中学校は静岡県磐田市の城山中学からの誘いでした。実は私は後者を卒業していなくて、三年の三学期には中野一中に転校していたのですが、そんなことはもう関係なく、ここまで生き長らえてきたんだから出てこいという連絡でした。56年ぶりの再会だそうです。京都、磐田とも、すでにデジカメ暦では弥生時代に属すCasio QV4000を持参し(縄文に属すQV10も所有するものの、これはさすがに引退して久しい)、あわよくば良いショットを得ようとしたのですが、如何せん日帰りのあわただしさに取材どころではありませんでした。帰りの道すがら、すでに薄暮が迫る京都地下鉄丸太町駅の脇に、表札もない門構えで幽霊屋敷のように木々が鬱蒼と茂り静まりかえった邸宅があります。

現在非公開中の大丸ヴィラ(下村正太郎旧邸、1932)。メンソレータムの近江兄弟社をやっていた実業家、宣教師でもあるW.ヴォーリスの設計。この邸宅完成直後にB.タウトをここに招き、歓待して桂離宮に誘ったのは下村正太郎の全面的支援に負うところが大きいわけです。現存するヴォーリスの設計の作品では大阪大丸の心斎橋店(1922)が一見の価値ありです。その過剰な装飾性に辟易する向きもあるかもしれませんが、エレベーターホールのアールデコ風なデザインは、とても90年前の作には見えず、昨日作ったといわれても違和感を感じさせません。 

  May 2010 たまらん坂 

5月2日は忌野清志郎の命日だったでしょうか? 昨年、彼が亡くなってからというもの、坂の取っ付きに「たまらん坂」の道標が立つ場所に花束や酒、菓子、弁当などが手向けられるようになっています。我が家から2分足らずの場所なんだけど、ここっていわゆる清志郎のたまらん坂とは微妙に位置が違うんですね。彼が住んでいた住居はもっと坂の上だし、例の歌が流行って、大勢の清志郎ファンが押し寄せていた頃のたまらん坂は、自然の丸石を積み上げた風情のある石垣の切り通しで、この石々に清志郎ファンが彼への思いのたけを記した落書きが連なっていていささかの壮観を呈していたものです。それがある時期にマンション開発等が進み、古い石垣はまったく撮り払われ、様相を一変してしまいました。その後に、国分寺市がちょっと見当外れな位置に道標を建て、しかもこの場所は近隣住人の生活ゴミ集積場所だったんですね。今でもその機能を失っていないので、このような光景を現出することとなりました(画面右手にゴミ袋)。神話とか伝説の生成過程では妙な経緯をたどりがちなものであることをリアルに思い知らされています。  

 Apr 2010 JR国立駅前大通り桜並木 

4/1の駅前大通り桜並木はまだ4分咲きと言ったところ。 例年ならもう満開でも良いのだが、ここに来て冷え込む日が続いていて、訪れた見物客も不足顔。 この並木道は国立駅正面から南へ一直線におよそ2km続き、JR南部線の谷保駅付近に至ると東八道路にやがては吸収されるはずの2車線道路と交差する。 この道に沿う桜の方が若木なのか勢いが良く、ほとんどトンネル状に道を覆っているので更に見応えがある。 こちらも2kmにわたって続く。 普段、あまり桜を愛でる習慣がないので、この場所がある程度の規模を誇るものなのか、そうでもないのかちっとも分からない。 ただ、私の母がかつて近所の親しいお年寄りと連れだって青梅の先の御嶽に出向き、タクシーに乗り込んでこの辺りの桜の名所に連れて行けと告げたところ「お客さん、どこからおいでなすった?」と問われたそうだ。 「国立よ」と応えたら「私ら桜見物は国立に出かけるんだけどねー」と言われたといって帰ってきたことがあります。

Mar 2010  月島に長屋の一角をシェアしていたけど

縁あって平成18年以来お仲間と月島で三軒長屋の一角をシェアしていたけど、この度定年を向かえて引退生活となっては、従来通りの分担金は到底払い切れず、やむなく抜けさせていただく仕儀となりました。あー、これが老後というものなんだなーと身に沁みるものがあります。もっともこの間、雑事にかまける日々が続き、当初の思惑通りに活用することもできず、ただ漫然と支払義務だけを果たすだけで過ごしてしまったので、まあ身の振り方としては当然の結論かと思いますが、お仲間にはとんだご迷惑をかけ忸怩たる思いですが、背に腹は代えられない訳でございまして……。ここはかつて四方田犬彦氏が『月島物語』を執筆中に滞在した場所で、まあ差詰め「漱石山房」にも匹敵するのかもしれません。執筆机がそのまま残っていますので、写真を撮っておきました。

 Feb 2010 JRお茶の水の駅舎

JRお茶の水の駅舎がどんな姿をしているのかその印象が薄い人が多いだろう。しかし、桂離宮を褒めたことで有名なB.タウトが、先日無残に破壊された中央郵便局と同時に、この駅舎も評価していたのはあまり知られていないかも知れない。近年のウスッぺらい改修の結果、ますます印象の曖昧な建物になってしまったけど、創建当時はいわゆるモダニズムの代表的な建築の一つでした。戦後しばらくして荒廃したままの頃は、それでも当時のデザインポリシーを伺わせるディテールが残っていて、特にトイレなんか深い緑色のタイルを用いたお洒落なデザインだった(すさまじく汚れていたけど)。今でも、堀を渡って順天堂側の方から遠望すると、良いフォルムを残していることが分かる。いっときここが、まるでラブホテルのようなたたずまいの駅舎に改築されるという機運が高まり、気をもんていたけどバブルがはじけた途端にその計画は沙汰止みになった。ここを元通りに修復する機運なんて、どう間違っても起りそうにないんでしょうねー。

 Jan 2010  府中大国魂神社

大晦日の早朝には府中大国魂神社にお参りする。 これをすでに半世紀以上続けているだろうか。 別段、信心が篤いとも思ってはいないが何となく一年の締めくくりとしてここに詣でると安心して新年が迎えられるような気がするからだ。 早い話がアニミスムですね。 振り返れば、半世紀といえば一昔も二昔も以前のことになってしまう。 昔、古老から懐古談を聞かされると、大昔のことをまるで昨日の出来事のように話すと思っていたが、とうとう自分がその立場に立っていると知って愕然とする。 大国魂神社の門前には、暮れの市が立って賑わうが、やがて除夜の鐘とともにこれが初詣での雑踏に切り替わっていく。 この雑踏の方は、ほとんど身動 きならなくなるので、暮れの参詣にさせていただくことを決めたのが半世紀前だったということ。 初詣での方は現在でも変わらぬ賑わいだと思うが、その後私は 体験していない。 かつての暮れの市は、植木から農機具、大工道具その他のガラクタが山と積まれ、半欠けになったノコギリまで売っていて、まるで落語の場面そのま まの情景を現出するようなイベントだったが、今はすっかり様変わりして、まあ何処ともあまり代わらないたこ焼き市場となってしまっている。 包丁儀と関係が あるのかないのか、生きた鯉を客の眼前で鮮やかに捌いて洗いにしてくれる屋台が珍しかったのだが、昨年来この店も姿を消してしまった。 拝殿前の、普通なら左近の桜が植わっている位置にボウボウと笹竹が繁っているのは、源頼朝に由来すると掲示されている。

Dec 2009 高崎達磨寺洗心亭

ブルーノ・タウトの残した諸々の資料が高崎の創造学園大学に行っている関係で、時々ここを訪れるというご縁が生じてから、もう何年くらいになるのだろうか? そうこうしているうちに、例のノリピーがこの大学に入ったということで、またエラい騒ぎになっている渦中の11月24日。午前の授業2コマを担当すべく出向きました。幸か不幸か、ノリピーとの遭遇はかなわなかったものの午後がすっかり空いたので、初めて少林山達磨寺を訪ね、滞日のタウトが過ごして喘息をこじらせたと言われている洗心亭をちょっとだけ眺めました。これまで良く見かけている写真では、遥かな眺望に恵まれた斜面に立っ少亭ですが、今では周囲に潅木が生い茂り、亭そのものすら枝間を掻き分けてのぞき見るといった風情になっていました。少林山そのものはすばらしい紅葉の季節でしたが、生憎の曇天で残念。帰宅して我が家の庭の紅葉に初めて気付いたけれども、今年はどこも紅葉が奇麗なのかしら? はたまた、歳のせいで紅葉に敏感に反応しているのかな?

Nov 2009 下北沢駅前食品市場

10月14日、美術学校の生徒さん達と下北沢探訪に行ってきました。 下北沢は半世紀前から知っているし、40年ほど前には、事情もあって(?)結構足しげく通った町でもあるのだけど、その後の変貌はすさまじい。 気に入っていたラーメン屋「代一元」が姿を消したのは何時頃だったろうか。 でも「駅前食品市場」の方は、恐らく終戦直後の様相をかなり色濃く残している、東京でも珍しい一角ではないかと思うが、しかしもう風前の灯火といった空気が支配している。

 Oct 2009  となりのクリスト

ネタに苦しみ、いささか旧聞に属する話題ですがご容赦ください。向かいのお宅の後背地にこつ然と出現した「梱包芸術」に驚きました。向かいのお家がクリムトの親戚であるとは思えないのですが……  真相は、高圧線鉄塔のペンキ塗り替えの養生だそうですが何だか気の使い過ぎという感なきにしもあらずだなー。

Sep 2009 「早稲田大学文学部校舎」 

旧聞に渉りますが、建築家村野藤吾設計になる早稲田大学文学部校舎が一昨年の3月に間もなく取り壊しになるというので見学会が行われました。 それで、夏までにはなくなってしまうはずでしたが、何とした事かまだ立っているみたいですね。 この建物は、私が三浪の末にやっと潜り込んだ早稲田文学部美術専修(夜学)の2年生になったときに完成した建物です。 当初、あまり感心しない建造物だと思っていました(学生の溜り場が無かった)が、あらためて見学に訪れたら、村野藤吾がローコストで作るために大変苦心した様子が伺われて、少し見解を改めました。 そして、この建築学会賞受賞作品が私の命より遥かに早く潰えることになるとは思っても見なかったことです。 耐震補強ができないという理由だそうですが、そんなアホなことはありえません。 なにもかも経済優先で事を進める風潮の犠牲に供されたようです。 エントランスの壁面、床には長谷川路可指導による武蔵美学生集団制作のフレスコが施されています。

 Aug 2009 月島文雅堂 

前回は、新刊書店(青梅二俣尾)の堂々たる英姿をお見せしたけど、今回は一気に月島の古書店。 ちょっと以前までは、こんな店構えも極く何でもない都会の片隅の風情だったはずだけど、いまや「えっ、マジ?」という気分になる。 つい誘われて入り、昭和28年頃の『週間タイムス』4冊(@350)を買い込む。ほとんどカストリ雑誌のノリだが、今を時めく(?)麻生太郎氏のジイチャン吉田茂をコケにした風刺漫画が載っていたりする。

Jul 2009 青梅市二俣尾 多摩書房 

通信員として登録していただきながら、何もUPしないままに放置していましてごめんなさい。 近頃カメラを持って歩くことがめっきり減ってしまって……。 私も、本年度(来年の3月)を持って定年退職となります。 今月の半ばには、9年間ずるずると勤めた学園長も終わりになり、いろいろと整理モードに入りつつあります。 そのため、研究室を明け渡す準備もあり、青梅市二俣尾付近(柚木町)にぼちぼちガラクタを運びつつあります。 実は本日も行ってきたのですが湿度が90%近くあり、ガラクタといってもそれは本が大部分であり、これはいささか参ったなー、という気分です。 近くにすごい本屋さんをみつけました。


■ Web Magazine 投稿履歴  

東京都国分寺市 武蔵国分寺跡 

Musashikokubunji,Kokubunji city,Tokyo

東京都新宿区 早稲田大学

Waseda University,Shinjuku,Tokyo

 

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