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滋賀県彦根市 高宮宿

Takamiya post town, Hikone city, Shiga

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May 2018 柚原君子

中山道第64 高宮宿

概要


高宮宿は古代の近江国犬上郡高宮郷があった地で、中世には高宮の荘が成立し戦国時代には市も立つほど賑わった場所です。地名由来は犬上郡高宮郷という郷名をそのまま継承しています。

中世の高宮の荘の頃には、鎌倉時代末に地頭であった紀州櫟氏を始祖とする高宮氏と、将軍足利義持から勲功として6万貫を与えられて入ったとされる江南の六角氏頼の三男信高を始祖とする高宮氏の2系統があって、それぞれ北殿、南殿と呼ばれていたそうです。北殿は次第に弱まり南殿の江南の六角氏頼の三男信高の高宮氏が高宮城に住まいます。しかし、1573(天正元)年の織田信長の小谷城戦に馳せ参じますが、討ち死にし、その弟が高宮城まで敗走し城に火を付け、一族は離散しています。現在、城はなくその跡碑だけが残されています。

高宮宿は古来より高宮細美、近江上布とも呼ばれた「高宮布」が特産で、麻の茎から外側の繊維をはぎ取とったものを細かく裂いて糸にして紡いで織り上げています。通称は生平(きびら)と言います。ちなみに外側の繊維をはぎ取った残りは苧殻(おがら)と呼ばれて、お盆の迎え火送り火に焚かれます。高宮布は室町時代には貴族や上流階級の贈答品として珍重され、江戸時代では帷子(かたびら……裏地のない夏用の着物)や武士が着ている上下(かみしも)にも使用されます。高宮宿の属する彦根藩では,藩の特産品として将軍にも献上されています。

織布業者は高宮宿を中心として犬神郡、神崎郡、愛知郡などに散在して、布仕入れ人や仲買を通して高宮宿に集められ,全国的な販売には近江商人が持ち歩くなど、宿は生産地であるとともに集積場所としても賑わいを見せ、大きな問屋である『布惣』は、七つの蔵いっぱいに集められた高宮布が、毎月全部出荷されて空っぽになるほどの賑わいであったそうです。高宮布の利益により強大な力を持つ豪商なども出現しています。

「お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる」、「伊勢へ七たび、熊野へ三たび、お多賀さまへは月まいり」と歌われた滋賀県一の大社である多賀大社への参詣道(高宮道または多賀道)が高宮宿を起点として西に約4㎞伸びていて、宿内には多賀大社の一の鳥居もあり、高宮布の集積で栄えた高宮宿は門前町としても栄えます。

1843年(天保14)年の中山道宿概帳によると、町並み7町16間,人口3560人,家数835軒,本陣1軒・脇本陣2軒,旅籠23軒,問屋場1ヵ所とあります。


1,床の山~かどや井戸

鳥居本宿を『原八幡神社』で終了して,高宮宿に。
『正法寺町』という交差点を過ぎると多賀大社のとても大きな常夜燈が見えます。脇に立つ石碑文には『多賀神社東参詣近道のしるべとして多賀町中川原住人野村善左衛門が発願。慶応三年二月野村善七が建立寄進した』とあります。その他には「金毘羅大権現 是より十一丁」、「安産観世音 是より四丁 慶光院」、「是より多賀ちかみち」、「金比羅」などと読み取れる石碑もあります。元よりここにあったのか、寄せ集められたのかは解りません。

フレンドマートというスーパーを過ぎると矢除け地蔵堂。聖徳太子に向けられた矢を地蔵菩薩が現れて身代わりになったとあります。向かい側に金比羅大権現道標、ここより十丁先にあると書かれています。先ほど過ぎてきた常夜灯の脇にあったものと同じ文言です。先ほどのはここに建立されていた物のようです。金比羅大権現は天狗信仰の琴平の金比羅様。

前方は芹川(不知哉川)にかかる大堀橋。橋の右側のこんもりとした緑が床の山。鳥籠山と書き、壬申の乱では戦場になったところ。芭蕉は鳥籠の山を床の山として昼寝をしたいと詠んでいます。信号の脇に旧跡床の山の碑があります。

『かどや跡地 井戸の由来』の看板が立っています。幾組もの客が休憩できるように多くの小部屋に分かれていたお休み処、とあります。井戸を掘ったときは、屋敷の何ヶ所かにお椀を伏せておき、露の付き具合の多い腕が水点に近いであろうと西南の角に決めたそうです。

街道の向かい側、石段を登った上にあるのが石清水神社。江戸幕府は、能を公の儀式に用いる芸能として定めていたので彦根藩でも能役者を召し抱えています。能楽喜多流は井伊藩の保護を受けて発展し、その扇塚この石清水神社にあります。

そろそろ高宮宿の中心にはいってきたのでしょうか、虫籠窓と卯建のある商家が所々にあります。横断歩道の色が水色と白。珍しいです。その先に比較的新しい地蔵堂。『大堀家の地蔵堂』です。頼朝が体調を崩したときに、頼朝のかつての家来がこの近辺に蟄居していて、看病されて治ったので地蔵堂を建立した、とあります。

                                  

2、物惣

卯建のある商家らしい古い家を見ながら暫く歩いて行くと、近江鉄道の踏切の手前にとても背の高い常夜燈があります。ここが高宮宿の東口。先の信号の角には木彫りに彩色されたお地蔵さん。木彫りは珍しいそうです。石の小さなお地蔵さんもよだれかけをして数体あります。すがやの西嶋鶴吉さんという人が建立したらしく、名前を刻んだ石柱も一緒にあります。

高宮神社の太鼓祭りの写真があります。太鼓が神輿として担がれています。山車に太鼓が設置されている様子はよく見ますが、太鼓そのものを神として担ぐお祭りは珍しい。

緩やかに曲がって続く道を行くと『布惣』のお店。現在は宿駅 座楽庵。蔵が7つもあり、蔵全てに在庫を積んでもすぐにさばけたという高宮布の問屋さんです。現在は5つの蔵と看板が残っているとのこと。建物は登録有形文化財になっています。少し離れてみると蔵の屋根が続いているのが見えます。

                                        



3、高宮神社~庄屋・馬場家住宅

先ほどの写真にあった太鼓祭が行われる『高宮神社』です。古くは十禅師宮と称していましたが、明治になってから高宮神社と改称。明治3年に大洪水があったので創立の詳しい記録は残っていないそうですが、随身門、拝殿、本殿は1850(嘉永3)年の建立。拝殿は中山道よりかなり奥にあり長い参道が続いています。

参道の横には庄屋宅であった『馬場家住宅』があります。江戸時代に高宮を代表する有力商人。高宮村の庄屋を勤め、年貢割り付け、調達金の上納、地域の難渋者救済にもかかわってきた人物。
1833(天保4)年に建造された主家、土蔵、米蔵などがあります。『布惣』同様、どこから見ても堂々とした重厚な上級商家の造りです。重厚な商家が続く中にひときわにぎやかな提灯屋があります。馬場提灯店とあります。高宮神社の太鼓祭りなどにも使われるのでしょうね。

                                  

4、多賀大社一の鳥居~芭蕉の紙子塚


1635(寛永12)年に建てられた、多賀大社の一の鳥居である明神鳥居がそびえます。11㍍もあります。脇に建つ常夜灯も大きく、灯りを入れるために後ろ側に石段が付けられています。古くは左右一対であったそうですが、現在は片方しか残っていません。

多賀大社はここから3.7㎞ほど行った先にあります。
秀吉が母の大政所の延命を祈願し、春日局が二代将軍秀忠の病気平癒を祈願したところから多賀大社信仰が盛んになったそうです。

鳥居の向かい側に伸びる道路脇には白壁の蔵が建ち並んでいますので少し歩いてみます。
特に何の説明もありませんが、高宮布で栄えた商人の町の様子が伝わってきます。街道に戻ります。またしても選挙ポスター。せっかくの中山道なのに、と思います。ポスターの家の隣は芭蕉の紙小塚のある小林家。
1684年の冬、小林家に1泊した芭蕉は、みすぼらしい着物(紙子)を着ていました。小林家はその旅人が芭蕉であったことを知りません。泊めてもらった部屋の寒さを我慢している気持ちを芭蕉が詠んだのが、”たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子”。
寒い思いをさせて申し訳なかったと、小林家では新しい着物を芭蕉に送り、着ていた古い着物(古紙子)を受け取ります。芭蕉の没後には庭に形見の紙子を埋め、「紙子塚」の碑を立てて代々大切に守ってきた、と説明版に書いてあります。

                                               

5、本陣、脇本


『脇本陣跡』。高宮宿には二軒の脇本陣がありその一つの塩谷家脇本陣。問屋兼業。家の前は高札場になっていたそうです。もう一つあった小林脇本陣の場所は不明。向かい側に『本陣跡』。立派な門のみが残っています。本陣向かい側に円照寺。明治天皇縁の松があります。明治天皇が円照寺に泊ることになりますが御車が境内の松が邪魔をしていて通れません。お役人は松を切るように指示しましたが住職は難色を示します。明治天皇は、歩くことなどいとわず、と言われて寺奥に歩いて入られたとのことで、(御車)を止めた松ということで、止鑾松(しらんまつ)が囲われてあります。

                                                             


6、無賃橋


円照寺。を過ぎると卯建のある家も少しはありますが、宿場町の色は薄れ、道はやや登りになって犬上川にかかる無賃橋に出ます。

無賃橋は正式名は高宮橋。1767(明和4)年、高宮宿の庄屋らの有志が彦根藩に願い出てて仮橋を架けますが、大雨で増水になるたびに流されます。
藩の名産品である上布の流通集散場所である高宮宿であることから彦根藩は、1832(天保2)年、近隣の豪商である小林吟右衛門、馬場利左衛門、藤野四郎兵衛らに命じ、石造りの橋を架けます。当時は、橋の通行には”橋銭”を徴収するのが習わしで、橋銭が入用。しかし、通行のたびに橋銭を取っては上布の売買にも都合が悪かったのでしょうか、石橋が架けられた翌年には、高宮宿の有志が彦根藩より高宮橋株を買い取り、無料で通行ができるようにしたということで『無賃橋』の別名があります。

                               


7、
無賃橋を渡ったのは5月の連休。ここで一度東京に帰っていますが、あれから一ヶ月が経ち、6月11日の今日、街道はアジサイがきれいに咲き、山側にはタケノコが顔を出す季節になっています。
本日は高宮駅に降り立ち、宿内を追加撮影した後に、無賃橋近辺から続けます。

無賃橋、法士の一里塚と過ぎて薬医門のある月通寺に。本堂には柏原地蔵と呼ばれる行基作の地蔵菩薩が祀られています。薬医門前の石柱には『不許酒肉五辛入門内』と書かれていますが、これは寺が以前は地福寺と呼ばれた禅宗の寺であったことの名残です。酒肉とはそのままで解りますが、五辛とはなんぞやと調べてみたら、にんにく、ねぎ、らっきょう、ニラ、ノビル……つまり辛みや匂いの強い野菜のことなのでした。

少し歩いて『産の宮』に。井戸がありその向こうの奥まった竹林の中にお堂があります。お堂の前にぐん!と伸びた若いタケノコが何かユーモラス。
産の宮は『南北朝の争乱の時、足利尊氏の子、義詮が1355(文和4)年に後光厳天皇を奉じて西江州で戦い、大垣を平定して、翌5年京都に帰ることになった時、この近辺を通りがかったら、義詮に同行していた妻妾が ここで産気づき、男子を出産したそうです。
家臣9人は付き人としてこの地に残りますが、子は幼くして亡くなり、生母は悲しみのあまり尼になりこの地に庵を結んで菩提を弔い、家臣たちはそのままここに土着して葛で籠を造り生計を立てた』、とあります。
この辺りの地名はつづら(葛籠)町、少し先は尼子出村。信憑性のある話ですね。井戸の傍らには足利氏降誕生霊地と刻まれた手水鉢もあります。

お寺を二つ過ぎて大きな家の脇奥に地蔵尊があります。家々が無くなって前方に松並木。昔はきっときれいな松並木だったのでしょうね。今はわずか。若い松もの木もあります。

高宮宿に入ってきたときと同じような、うーんと高い彦根市モニュメントがあります。
宿に入ってくるときには解らなかったのですが、一番端っこの人が背負っているのは高宮布を売りに行くところか、あるいは麻の皮をはいで残った苧殻(おがら)の束を背負っているところか……でもそんな苧殻(おがら)の束を背負っても彦根藩の経済にはなりませんから、反物を背負っているのかと、あれこれ思いながら進んで行き、日枝神社を通過します。市郡境というのが示されていて、ここより彦根市です。

常夜燈と阿自枝神社社標。せっかくなので阿自枝神社に少し寄り道。
主祭神(味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)ほか四神ですが、味耜高彦根神は朝廷と深いかかわりのあった、百済からの渡来人阿自岐氏ではないかといわれています。
道路沿いに石灯篭(とうろう)多数。社殿は信長の兵火によって焼かれ、江戸時代初期に再興。滋賀県の重要文化財になっています。うっそうとした池が二つ。古くは灌漑用池であったろうと推察されています。

街道にもどりここが以北といわれる鈴虫花の群生をみて「九十九院」交差点で高宮宿を終了します。次は愛知川宿。

                                                                              


May 9, 2016 瀧山幸伸 source movie

                                                                                                                   

東に進む。鳥居元宿方面へ

      


Jan.2011 撮影/文:中山辰夫

彦根市高宮町

愛知川宿を出でて中山道を進む。豊郷・尼子を経て、犬上川に架かる高宮橋(無賃橋)を渡ると高宮宿である。

高宮宿は、中山道の宿場町と多賀大社の門前町として、さらに、この地で織られる麻織物「高宮上衣(じょうふ)」の問屋町として大いに繁盛し豊かな経済力を持っていた。近江国全村中でも、志賀郡下坂本村についで二番目の村高であったとされる。

今も高宮の街中には多賀大社の大鳥居がどっしり構え、古い民家も残り、かつての宿場町の面影を感じさせる佇まいである。

    江戸時代に入ると、幕府は宿駅制度の整備を始めた。

慶長7年(1602)、高宮はその基本となる伝場継所に定められ、中山道六十九次のうち六十四番目となる彦根藩領の宿場となった。

天保14年(1843)の記録では、町の南北の長さ七町十六間(約800m)、総戸数835軒、人口は3560人で、中山道10番目の本庄宿(埼玉県本庄市)に次ぐ中山道第二の大宿で、本陣・脇本陣・問屋場・旅籠屋は23軒などの施設を持つ宿場であった。

また近くの多賀大社の門前町としても賑わい、多賀大社の一の鳥居が宿中ほどに建っている。

さらに、この地で織られる布は「高宮上衣(じょうふ)」と称され、室町時代頃から全国的に有名で、商人や職人の多い宿でもあった。宿場は幕府の道中奉行と領主の二重の配下にあった。宿場には宿場機能を維持するために、旅宿のための本陣・脇本陣・旅籠屋・茶屋といった施設が設けられた。

本陣・脇本陣には、大名や勅使・公家・旗本などの公的旅行者が休泊した。一般の旅行者は旅籠屋に泊まり茶屋で休息を取った。

参勤交代などで大名が高宮宿に宿泊したり、休憩したりする時には、彦根藩は受け入れ準備や接待に随分気を使ったようだ。江戸時代宿場絵図・道中記からみる高宮宿

          高宮町(宿)案内

 無賃橋

彦根市高宮町

中山道が高宮川(犬上川)を横切る地点は平常時の干水期においては通行には支障なかったが、一度出水をみると川越人足が川越賃を取って旅人を越えさせていた。しかし、明和4年(1767)仮橋の施設が行なわれ、天保初期には有志により募られた義損金で橋が架けられ、旅人に無料で開放する「無賃橋」がうまれた。

   無賃橋石碑とその周辺

高宮川の右岸堤防上に建つ石碑 表面は「無賃橋」、左右面は「むちんばし」、裏面は「天保3年壬辰十一月」の各銘文がある。

周囲に無賃橋地蔵が新設された。橋を過ぎたあたりから元宿場の雰囲気が漂う。

   本陣跡

本陣跡を示す表門が円照寺向かいの小林家前に残されている。

小林宅は嘉永元年〜幕末の本陣役を勤め、高宮宿本陣の表門と絵図のみが現存する。

その絵図より、間口15間4尺、裏にて、16間2尺5寸、奥行28間、敷地448坪。内建坪123坪、残り315坪が空地であった。

他の宿と同様、主客と側近社用の書院と家族の生活空間の三つの領域があり、利用者の身分によって空間が四段階に序列化されていた。

    脇本陣跡(塩谷家)

塩谷家は慶長13年〜明治維新(1608〜1868)まで人馬継立をおこなう問屋と脇本陣を兼務した。門脇に高札場が設けられていた。

建坪は74坪であった。 絵図が現存している。 

本陣と同じく、門塀を構え、主客用と側近用と家族用の三つの領域がり、利用者の身分で空間が四段階に区分されていた。

     高宮寺「別に記載」

奈良時代に行基と婆羅門が、仏教応化の地を選んで伽藍を建立して称讃と号したのにはじまるという。

    円照寺「別に記載」

   妙蓮寺

真宗大谷派、もと天台宗。

慶長5年(1600)浄土真宗大谷派の初代門跡光寿(教如)が、関東で家康に謁しての帰路、関が原で三成に阻まれ危機に瀕したのを当寺院の宗如が信徒を率いて保護したので教如は無事であった。その恩賞として慶長16年(1611)、当寺院は寺号を得る。庭園がある。

   徳性寺

  紙子塚

芭蕉着用の紙衣を壷に入れて埋め、自然石に「紙子塚」と刻んだもの。

由来は定享元年(1684)の冬、芭蕉は門人の僧季由を訪ねた際、同宗派の当地の円照寺(住職は慈雲)に滞在した。

三日後、寺に来客があり、慈雲は芭蕉のもてなしを小林猪兵衛忠淳に頼んだ。忠淳は芭蕉を行脚頭陀と思い泊めた。

その夜、芭蕉は「たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子」と詠み、僧の元へ贈ったので、翌日慈雲が芭蕉を訪れた。

忠淳はその時初めて僧が芭蕉と知り、大変感激して芭蕉に新しい着物を着せ、この吟を自分に譲って欲しいと慈雲に頼んだ。芭蕉は快く自画像を描き、吟を記して忠淳に贈った。

芭蕉の没後、忠淳は彼画賛を掛幅となし、かたみの古紙子で装飾し、余った紙衣をひとつの壷に入れて庭園に埋めて碑を建造して紙子塚と名づけた。

  高宮道(多賀道)

中山道の高宮宿から多賀大社への正式な参詣道(表参道)である。大社はここから3km先にある。

寛永8年(1631)将軍秀忠の病気平癒祈願のため、春日局の代参が行なわれた折、彦根藩がこの道の整備を行った。

    尚白句碑

「道端に多賀の鳥居の寒さかな 尚白」と刻まれる。芭蕉の門人で大津の医者であった。

 多賀大社の大鳥居

県指定有形文化財 県下最大級

江戸時代石造の大鳥居。高さ約11m、柱の直径1.2m、柱間約8mの明神型。多賀大社造営に伴い寛永11年(1634)に再建された。

鳥居に架かる扁額は寛永15年(1638)頃、後に天台坐主となる尊純親王(青蓮院門跡)の染筆と伝える。

   常夜燈

大鳥居脇に一基現存する。「多賀不動院」と刻まれる。対をなす同形のものが打籠馬場に一基ある。

元々は当地で対をなしていたが、度々の洪水で流失するので一基だけは移築させたと伝わる。

    御神燈

高宮道に沿って一町毎に立つ。「嘉永6年(1853)癸丑」奉納者名を刻む。

写真55〜56103×21×14cm 大鳥居の右脇にある多賀道の道標。「是より多賀道三十丁」と刻む。木曾路名所図会にも描かれている。

多賀賽銭箱と道標

中山道往来者で、社前まで参拝できない旅人のために設置された賽銭箱である。

文化5年(1808)に、古くより設置された記録あり。

103×21×14cm 大鳥居の右脇にある多賀道の道標。

「是より多賀道三十丁」と刻む。木曾路名所図会にも描かれている。    高宮郵便局と町並

宿場町の景観を考慮して設計された郵便局

郵便局前の提灯屋。 無賃橋近くの「とおし屋」、他にささらを作っている店もある。

    宿駅跡と布惣跡

高宮布は麻の細糸で織った布。珍重され、彦根藩は毎年将軍に献上していた。        庄屋跡

現在の当主は14代目で、建物は250年前の築造と伝える。高宮神宮の表参道の左側に建つ。

    高宮神宮「別に記載」

    高宮駅コミュニテイセンター

    

    木之本分身地蔵

高宮宿の入口に設けられた地蔵堂。周囲に石仏、石塔の集積がある。

    木曾海道六拾九次之内 高宮 広重画

 

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