Monthly Web Magazine July 2016

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目次
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■■■■■ 写真の公開再開(パスワード解除)しました

2003年にJapan Geographicが始まってからの当初5年間は全て公開でした。(ビデオは重いのでpreview画質だけ公開)。
2008年、某検索サイトからの集中ダウンロードでサーバがパンクしたため、サムネイル以外はパスワードで保護するようになり、その結果Japan Goegraphicが目的とする教育や社会貢献がやりにくくなりました。
本物の高解像写真や動画が重くて大量にあるのが問題ですから、サムネイルのリンク先を、印刷も可能な高解像写真でなく、画面で読める程度の低解像写真(高さ1080ピクセル)に変更してパスワードをはずしました。
この程度の解像度であれば、パンフレットの細かい文字以外は読めますので、教育や社会貢献には役立つと思います。


■■■■■ 文化財の収録状況 (ほぼ全て)

Japan Geographicが2003年に始まってから、全国の文化財調査は重要な目的の一つです。
文化財索引にありますように、通信員全員の活動が実を結び、ほとんどの文化財の一次調査が終わりました。
名実ともに日本の文化財を統合的にネット発信する世界最大のライブラリになりました。(本来は国の予算で行うべきことですが)

・国宝重要文化財の建造物(4,775棟)はほぼ網羅しました。
 通常は国宝(282)だけが注目されますが、重要文化財の中に多くのすばらしい建造物が眠っていますし、訪問者が少なく落ち着いた環境の立地が多いです。この十年間で焼失したり地震や津波や水害で被災した文化財が数多くあったことを思うと忸怩たる思いです。4月の阿蘇神社は被災1週間前、桜満開の貴重な記録です。

・史跡名勝天然記念物(3,229か所)の調査も9割がた完了しました。
 史跡は一般観光客の興味が薄く、地元はほったらかしが多いです。また、写真や動画になりにくく、場所がわかりづらく行きづらく危険で、蛇や毒虫がいるなど、苦行です。鍾乳洞や古墳内も、狭所が苦手で苦痛です。

・重要伝統的建造物群保存地区(110地区)はほぼ全て収録しました。
 最後の案件は2016年6月の加賀東谷です。ここは資料が少なく難儀しましたが、地元で生活されている人々の生のお話が記録できました。

・重要文化的景観(50か所)はほぼ全て収録しました。
 「日本の原風景」の多くは農業景観で、これらの場所は代表的なものですが、数が少なすぎます。各地の棚田なども同じ分野です。耕作放棄地や廃村が急激に進行しており、早く調査しないと手遅れになります。収録漁業景観も少なすぎます。

・重要無形民俗文化財(いわゆる祭事など)は、開催日の関係で、まだまだ未了が残っています。
 この分野の中の「絵になる」祭りは地元の写真家などが重点的に撮影sしていますが、儀式的なものは一般人の興味も無く、文化庁でさえ記録が不足している状態です。

・その他の文化財も、調査撮影可能なものはほぼ収録を終えました。

・登録文化財は国宝や重要文化財ほど貴重でもなく、1万件以上と数が多く、どんどん増えているため、リストの整理中です。

これからはさらに詳細な調査を何回も繰り返し、視点を変えての調査はもちろん、アーカイブとしての価値(時系列での変遷比較など)が保てるようにして行きたいと考えています。
残念なことに多くの日本人にとってはあまりにも身近なので自分たちの文化財の価値を正当に認識できないのですが、世界の評価が変われば日本人の評価も変わるという事例は多く見られます。
もちろん、Japan Geographicのミッションにありますように、これら文化財の調査は日本のすばらしさを世界に伝え、日本への理解と親和を深めてもらい、国際紛争を避ける役にも立てるだろうと思っています。



■■■■■ 新規に公開したmovie preview

前号マガジン発行から今号までに公開した動画です。
YouTubeのJapan Geographic Channelで視聴できます。


長野の四季 ダイジェス
Four seasons of Nagano,digest

大分県豊後大野市 稲積水中鍾乳洞
Inazumi cave,,Bungoono city,Oita

徳島県三好市 祖谷 
Iya,Miyoshi city,Tokushima
愛媛県内子町 内子
Uchiko ,Uchiko town,Ehime

愛知県名古屋市緑区 有松
Arimatsu,Midoriku,Nagoya city,Aichi

滋賀県米原市 醒ヶ井宿
Samegai,Maibara city,Shiga

福井県敦賀市 松本零士ロード
Matumoto Reiji road,Tsuruga city,Fukui

石川県加賀市 加賀東谷
Kaga higashidani, Kaga City, Ishikawa Pref.

福井県福井市 大安寺
(Daianji Temple, Fukui City, Fukui)

富山県立山町 称名滝
Shomyodaki, Tateyama town, Toyama

富山県入善町 杉沢の沢スギ
Sugisawa sawasugi,Nyuzen town,Toyama

広島県熊野町と熊野筆
Kumanofude,Kumano town,Hiroshima
山口県防府市 三田尻御茶屋
Mitajiri ochaya,Hofu city,yamaguchi


 


■■■■■ 富山石川滋賀のおいしい水 瀧山幸伸

先月の北陸調査で出会った美しく清らかな水風景をご紹介します。

滋賀県米原市 醒ヶ井宿
Samegai,Maibara city,Shiga

水とバイカモはすばらしいのですが、湧き出る地点のすぐ上を走る名神高速の騒音が風情を台無しにしています。徹底的な防音対策が必要と思います。

滋賀県米原市 泉神社
Izumijinja,Maibara city,Shiga

名水百選に選定されているおいしい水で、静かな環境です。
 

石川県白山市 弘法池
Koboike,Hakusan city,Ishikawa

こちらも名水百選で、川原の甌穴の底から湧くという天然記念物風の名水です。

富山県上市町 日石寺
Nissekiji,Kamiichi town,Toyama

磨崖仏が史跡重要文化財となっている古刹です。若い女性二人が水行を行っていました。通常夏場の行を今特別にやるということは、大きな決心があったのでしょう。門前の旅館ではおいしいそうめんがいただけます。

富山県黒部市 生地
Ikuji,Kurobe city,Toyama

こちらも名水百選で、海辺の村のあちこちで清水が湧出しています。清水が湧出するから村を作ったのでしょう。黒部川の扇状地で、扇頂で地下に潜った伏流水が扇端の海際で湧き出しているものです。住民の生活用水として大切に守られています。

富山県入善町 杉沢の沢スギ
Sugisawa sawasugi,Nyuzen town,Toyama

飲み水ではないですが、同じく黒部川の伏流水の清水が造った自然景観です。付近は石がごろごろする荒地で、伏流水が湧き出ていますから、杉の根が地中深く育たず、独特な形態の杉林が形成されており、天然記念物に指定されています。海と田園に接してかろうじて残った小さな自然景観ですが、中に入ると深山に迷い込んだような不思議な光景が体験できます。



■■■■■(祝50回)看板考「ダイヤ学生服、日の出桜学生服」柚原君子



所在地:群馬県安中市横川駅至近

今回は長文でごめんなさい。
看板に出会った前の経緯から入ります。
私は写真を撮るのが好きです。好きな被写体を好きな角度から気に入る枚数を撮ります。
ぶれたり水平が悪かったりすれば撮り直します。
水平感覚が苦手で傾いてしまうものが多く、現場では被写体の角度と格闘を続けます。
常夜灯などがあると、設立年月日を老眼鏡を出して確かめたりしますから、観光地では必ず友人とはぐれます。
だから友人と一緒の旅は苦手で、基本は一人旅。
とはいえ例外もあります。

今回は例外の話です。
中山道を踏破しようと試みて2年前から実行中ですが、坂本宿まで進みました。
次は碓氷峠。峠越えの登山道です。
『方向音痴なので沢に落ちてもしも遭難したら』とか、『熊に遭遇して食べられそうになったら』とか、一人で行くにはちょっと不安材料が多く碓氷峠越えをどうしたよいのか思案半年。
結果、そうだ!山歩きする人の多い五月の連休に決行すればいいのだと心づもりしました。

嫁がせた娘の旦那様のお母さん(T子さんと呼んでいる)に時々お誘いいただいて、観劇に行っていますが、幕間に中山道峠越えの話をしたことがあります。
ある日、T子さんから電話がかかってきました。
「私、山道は好きなのよ。軽井沢峠越えは一緒に行きたいのですが、同行してもいいかしら?いつ頃いらっしゃる?」
「連休中にと思っています」
「連休ならご一緒できると思うの。是非」
さらに、前日に電話があり「山友だちがもう一人、付いていきたいというのでいいかしら?」
ということになった。
思わぬ二人の山ガールの助っ人で、一人で出かける不安は解消して、山姥(やまんば)ではない山婆(ヤマバー)三人同行碓氷峠越えとなった。
一人旅好き云々は思わなかったことにして、水平に撮れるかどうかの吟味はしないことにして、神社もしつっこく撮影しないことにして、とにかくヤマバー二人に遅れないように歩いていくことを決意した。

千葉方面から来るT子さんたちとは碓氷峠越えの起点となる横川駅で待ち合わせた。
改札口に登場したヤマバーの出で立ちにびっくりした。
山用の帽子、山用のリュックに熊よけの大きな音色の鈴、リュックの上からニョッキと出ているストック。次々に脱げるようにしてある重ね着のスタイル。
ショートパンツの下には可愛いい柄のレギンス(タイツとも言う)、それに重ねられた厚地のトレッキングソックス、そして重厚な登山靴をはいたいでたちのヤマバー二人がにっこり笑って立っていたのだ。
さらにタクシーで10分ほど移動した登山道入り口ではウォーミングアップの足腰の準備体操を始めるヤマバー二人。
私も慌ててアキレス腱を伸ばす(ふりをした!)。
峠越えの間は実にタイミング良く、ちょうど良く汗をかいた辺りで休憩の笛が鳴り(笛は鳴らないが)、彼女たちのリュックからは時には塩味のお新香、おにぎりの脇に甘〜い卵焼きが添えられて、おひとつどうぞ!と回ってくる。
時には甘味のチョコレートが手を汚さないような形で、ちょうど良く出てくる。
出で立ち、用意周到、どんな山でも侮らないヤマバーの心意気に脱帽した。

私を除く二人のヤマバーは江戸時代の参勤交代の峠越えだったら、かなりの側近として殿から重宝されたと思う。
三人で合計210歳の私たちヤマバーは、峠越えですれ違う人や追い越される人々の中ではダントツ最高齢で、とても気分が良かった。
特に軽井沢方面から来た外人5人組が一列になって崖側に立ってくれて、山側の道を通らせてくれたときは、「和宮」になった気がした。
健脚の二人のヤマバーたちに遅れないように、鈴の音から離れないように、これまでの中山道宿歩きの中で、一番に淡々と写真を撮った道中となった。
5時間かけて峠を越えて見晴台ともなる峠の茶屋でソフトクリームの休憩をした。
遅い春に桜がとてもきれいで、私は何枚も何枚も写真を撮った。
ヤマバー二人はトイレに行ったきり帰ってこない。
どうしたかと思う頃、T子さんが帰ってきた。
「トイレが和室になっていてお部屋みたいでとっても面白くって、写真を撮っていたのよ」。とにっこり。
旅の楽しみ方はいやはや人それぞれ。
写真の撮り方も人それぞれでオモシロカッタ。
ちなみにトイレに列ができていたかどうかはここでは付記しないが、同行していただいたお礼は大きな字で書いておきたい。
大変たすかりました。ありがとうございました。

そうそう、看板考でした。
看板は碓氷峠越えのために降り立った横川の駅近くにあったもので、珍しいものだから紛失するといけないから貼り付けておくよ風情で、いくつかまとめて掲げられていました。
キンチョウものの看板はさほど珍しくありませんが、地方に出かけるとお目にかかる事の多い学生服の看板がここにもありました。
学生服製造はたくさんのブランドと業者があるようで、今回の看板である「ダイヤ学生服、日の出桜学生服」の他にも「まるまん学生服、富士ヨット学生服、鳩桜学生服、アサヒヨット学生服、旭ツバメ学生服」などなど驚くくらいあります。
旭、ツバメ、富士、桜、鳩などは縁起も良いのでネーミングとしては解りますが、ヨットはどうしてかしら……船出で前途洋々という意味でしょうか……あれこれと前から興味があったので今回は学生服について調べてみました。

学生服と言えば詰め襟でカラーの内側に白いセルロイドの様な板があり、男子生徒はずいぶん窮屈そうに着ていました。
セルロイドを外せば不良と見なされて登校時には生活指導の先生が校門前に立っていて、注意を受けるのが常だったようです。
卒業時には先輩の学生服の第一ボタンをもらうなど、昭和40年頃までに青春を過ごした人にとっては、懐かしい代物です。
昭和50年頃には突っ張り、リーゼント、学ランなどとまた違った意味で脚光をあびた学生服でもあります。

そんな中高生が当たり前のように着ていた学生服は、東京帝国大学が1886年(明治19)年に制服として定めたことが起源となっています。
戦後にはGHQの教育改革が行われましたが学生服についてまでは及ばなかったようで日本の学校の中で、130年の歴史を持っている学生服です。

……そういえばバスケ部の部長だった学生服がまぶしかった初恋のK君は亡くなったと聞き、学友みんなで追いかけ回して困り顔だった、学生服を正しく着ていた生徒会副会長のE君は離婚したと聞き、落ちこぼれで学生服を汚しながら雑巾がけをしていたY君は、父の跡を継いで立派な社長になっているとか。
写真の撮り方とか山の登りかたとか、学生服を着て同じ時代を過ごした人々のその後とか、人生は実にさまざまにある、と看板考をまとめながら改めて思った今回でした。



■■■■■ 豊島(てしま)はとってもINTERNATIONAL  野崎順次

今年は春夏秋に瀬戸内国際芸術祭が開催されるが、その夏の会期前、7月3日(日)に香川県土庄町の豊島(てしま)に行った。小豆島と直島の間にあって面積は14.4平方キロメートルである。会期前とはいえ、いろいろなアートが楽しめる。特に豊島美術館のピュアな空間に浸りたかった。この美術館は白いコンクリートシェル構造で、約40m x 50mの空間に柱がなくシームレスである。国内よりも海外で有名らしく、僻地と云っていいような瀬戸内海の小島に多くの外国人が訪れる。特に欧米人が多いようだ。

高松から高速船で家浦港に着いて唐櫃行きのシャトルバス乗り場に行くと、定員20人のバスは外国人でほぼ満杯である。日本人のグループが乗れなくて困っていた。私は一人なので、何とか助手席に座れた。見回すと日本人は運転手さんを含めて4人だけ。外国人の多くは直島からのフェリーで来るそうだ。



美術館前バス停から歩く人々。

  

前回は小雨だったが、今回は快晴である。少し上の棚田から美術館を撮影した。

  

コンクリートシェル内部は9割が欧米人だった。

 

美術館から島キッチンまで歩いた。島キッチンは作品の一つであり、実際の食堂でもある。定食を食べた。



店内が余りに暑いので、少し残して早々に外に出ると、イスラエル人のおっちゃん二人がいた。美術館でも少し話した相手である。そこから一緒に唐櫃の清水まで行った。少し日本語の知識があって、勉強中だという。「卑猥な日本語を教えたろか」と云うと「間違って使ったら困るから教えないでくれ」という。唐櫃の清水の横に小さな倉庫のような小屋があり、赤いマントがぶら下がっている。平井さんというアーティスト夫妻による豊島ウサギニンゲン劇場である。ドイツ、フランス、イギリス、ロシアなど17ヶ国45都市で公演をしてきた国際派で、最近、ベルリンから豊島に移住してきた。私も含めて5人で英語でよもやま話をした

   

その後、家浦港行のバスを3人で待っていたが、彼らの顔見知りの日本人のバンが通りがかり、未だ二人だけ乗れるのでと、私を置いて行ってしまった。「裏切るのか」と聞くと、嬉しそうに「イエス」といった。



家浦港の喫茶店でビールを飲んでいると、朝のシャトルバスで一緒だった連中が豊島横尾館方面に歩くのが見えたので、窓越しに撮影した。

       
 
帰りの高松行きの高速船(定員20人)では欧米人は二人だった。




■■■■■仁丹町名表示板  大野木康夫

京都の町を歩いていると、多くは古い町家の二階の軒先などに、森下仁丹の商標が表示された町名表示板を見ることがあります。
森下仁丹の町名表示板は、戦前、大都市を中心に全国に取り付けられたもので、多くは戦災で失われましたが、極端に空襲が少なかった京都では今でも多く残っています。
仁丹町名表示板の愛好家の集まりである「京都仁丹樂會」の最新集計(2013年4月発表)によれば、現存するもの(実際に現役で掲げられているもの)は740枚(平成復刻17枚を含む)となっています。
仁丹町名看板の多くは、京都市の市域が拡大し、区名や町名が大きく変わった昭和初期以前に設置されたため、設置当初の町名表記をそのまま残す町名看板を見ると、区・町の変遷の跡が確認できます。

(下京区)新釜座町

江戸期以来の下京の区域です。
初期の仁丹町名看板は木製だったようですが、残っているものは少ないようです。
その後取り付けられた琺瑯製のものは、耐久性に優れているため、現在も多く見られます。
ちなみに、琺瑯製は重要文化財杉本家住宅の高塀に取り付けられています。

 


上京区射場町、妙顕寺前町

江戸期以来の上京(第六番組)の区域です。

 

上京区上清蔵口町(現:北区)

江戸期から上京の区域内(第十三番組)でしたが、昭和30(1955)年の北区分区の際に北区となりました。



上京区小山中溝町(現:北区)

大正7(1918)年に上京区に編入された愛宕郡上賀茂村大字小山の一部で、昭和30年に北区となりました。



上京区大宮上野町(現:北区紫野上野町)

大正7年に上京区に編入された愛宕郡大宮村の一部で、編入時は大宮上野町でしたが、昭和30年に北区となり、昭和35(1960)年に紫野上野町に名称変更されました。



上京区鷹野十二坊町(現:北区紫野十二坊町)

大正7年に上京区に編入された愛宕郡野口村(明治25(1892)年に同郡鷹峯村から分割)の一部で、編入時は鷹野十二坊町でしたが、昭和16(1941)年に紫野十二坊町に名称変更され、昭和30年に北区となりました。



上京区和国町(現:左京区)

二条川東地区は江戸期から上京の区域内(第三十三番組)でしたが、昭和4(1929)年の左京区分区の際に左京区となりました。



上京区南禅寺北ノ坊町(現:左京区)

明治21(1888)年に上京区に編入された愛宕郡南禅寺村の一部は南禅寺町となりましたが、大正7年に南禅寺北ノ坊町ほか4町に分割された後、昭和4年に左京区となりました。



上京区田中関田町(現:左京区)

大正7年に上京区に編入された愛宕郡田中村の一部で、昭和4年に左京区に編入されました。


下京区田中下柳町(現:左京区田中下柳町)

町名表示板の表記はきわめて正確ですが、珍しく表記ミスとなっています。
ここも大正7年に愛宕郡田中村から上京区に編入されたため、本来は上京区であるはずですが下京区となっています。



上京区神泉苑町、菊屋町(現:中京区)

江戸期から上京の区域(神泉苑町は第二十三番組、菊屋町は第二十七番組)でしたが、昭和4年の中京区分区の際に中京区となりました。

 

下京区天使突抜一丁目

江戸期から下京の区域(第十二番組)です。



下京区姥柳町(現:中京区)

江戸期から下京(第三番組)でしたが、昭和4年に中京区となりました。



下京区西之町(現:東山区)

江戸期から下京(第二十四番組)でしたが、昭和4年の東山区分区の際に東山区となりました。


下京区西九条猪熊町、西九条蔵王町(現:南区)

明治35(1902)年に下京区に編入された葛野郡大内村大字西九条の一部で、昭和30年の南区分区の際に南区となりました。

  

下京区西ノ京職司町、西ノ京内畑町、壬生松原町(現:中京区)

大正7年に下京区に編入された葛野郡朱雀野村の一部で、昭和4年に中京区となりました。
壬生松原町の町名表示板には、後から中京区に直そうとした痕跡が見えます。

   

左京区山端森本町

昭和6(1931)年に左京区に編入された愛宕郡修学院村の一部です。



右京区太秦多薮町

昭和6年に右京区に編入された葛野郡太秦村の一部です。



東山区一橋宮ノ内町

大正7年に下京区に編入された紀伊郡柳原町の一部で、編入当時は柳原宮ノ内町でしたが、昭和4年に東山区となった後、昭和6年に一橋宮ノ内町に名称変更されました。



伏見市新町三丁目、新町五丁目(現:伏見区)

現在の伏見区主要部は、江戸期には260を越える町が南北各9組の町組に組織され、明治22(1889)年に紀伊郡伏見町、昭和4年に伏見市となった後、昭和6年に京都市に編入され伏見区となりました。
町名表示板は昭和4年から昭和6年までの間に設置されたと考えられます。

 

琺瑯看板は耐久性に優れていたため、昭和4年の分区整理で行政区が変わってもそのまま使われ続けており、そのことが、大半が昭和4年以前に設置されたものであることの証拠となっています。
近年、価値が再認識され、平成22(2010)年に「京都琺瑯町名看板プロジェクト」で10枚復刻作成されました。

中京区三条町、六角町

オリジナルでは1枚も確認できていない中京区表記のものも作成されました。

 

これら町名表示板は、多くが現役で活用されており、今後も、京都の街並みとともに残っていってほしいと思います。

参考:京都仁丹樂會HP



■■■■■ 栗東トレーニングセンター(トレセン) 中山辰夫

過日の新聞で「 シニア 乗馬でしゃきっ」の記事を見ました。健康づくりで退職後に乗馬を楽しむシニアが増えているとのこと。シニア会員の増加に伴い、年を取った「シニア馬」の活躍の場も広がりそうで、引退した競走馬が第二の「馬生」を乗馬界で送れるようになれば・・・の期待もあるようです。

ところで、滋賀の栗東市にJRAの「栗東トレセン」ができてもう少しで50年になります。山林を切り開きつくった広大なスペースの調教馬場。
約2000頭のサラブレッドと約4000人の人々が住む集落が突如として生まれました。現在もその規模・内容は当初のままで存在しており、ます。
  

広さが甲子園の約40倍、全体で約150万uある調教馬場全施設の様子は外部から何も見えません。一度見学したいと思いつつ時間が過ぎてしまいました。
 

月に一回の一般見学、重賞レース開催時の調教見学が募集されますが、人員が20名程度と少ないのでなかなか当たりません。
たまたま、6月に補欠で入場できました。華やかな舞台を支える別の世界を少し知りました。(但し 馬には会えませんでした)

「これがメジロマックイーンやオグリキャップ、トウカイテイオウ−等の関西馬の活躍に貢献した調教馬場か」と少しのめり込んだ時の古い記憶がよみがえってきました。競走馬の姿があれば…と少し残念でしたが、ただただ眺め入りました。
有名な坂路(はんろ)馬場は全長1085m、高低差32m。この馬場が強い馬を生んできました。 競走馬は一日2回この馬場で調教するようです。
  
さすがに広い! そこは、自然に囲まれた静寂な馬中心の世界でした。
すっかり縁遠くなりましたので、最近の競馬人気の程は知りません。が、「引退競走馬」転用のプロジェクトが生まれつつあるとも聞きます。乗馬用への転用やホースセラピーの分野への構築など引退馬の第二の「馬生」のために各方面からの検討が行われつつあるようです。



■■■■■ 写真の補正も面白くて 田中康平

今までやるべきかと思っていて、手持ちのソフトではできないかとあきらめていた「あおり」補正やレンズ歪補正がフリーソフトでできることが分かり、おそまきながら色々試している。
レンズ補正は今使っているペンタックスK5にペンタックスのレンズを付ければカメラがやってくれるのだが、サードパーティレンズを付けるとそうはいかない。使いやすく多用しているタムロンの18-200mmズームではひずみが出るのをあきらめて使っていた。
ネットでカメラの補正ソフトについて少し調べているとどうやらフリーソフトで遠近法補正(あおり補正)ができるソフトがあるらしいと解り早速ダウンロードして使っている。gimp−2.8というソフトだ、知らなかっただけで大分前から高機能で知られているようではある。
まず便利さを感じたのが、講演で投射されるパワーポイント画像を斜めから撮っても四角のスライドに補正して戻せるというところだ。手元にプリントが配られない発表が結構多く、メモするより写真に撮っておくことが多くなっていた。ちょっと手間ではあるが、補正すれば見直す時のストレスは随分減る。(テレビ画面を横から撮ってこれを「あおり」補正した例を示す。写真を撮る場所の自由度がかなり増す気がする。)
  
実際には遠近法の補正を選択し、逆変換を選んで画面に出てくる格子を真っ直ぐにしたい辺に合わせて変形をクリックするとあおり補正した画面が表示される、これを適当なフォルダにエキスポートすれば出来上がりとなる。

建築物の写真などでひずんだ形の柱組となってしまうことがあったが、この機能を使えば高いあおりレンズを使わずとも、歪のない素直な写真にすることができる。
元の画像にレンズ歪の影響があればまずこれを補正して後にあおり補正すべきとなる。
レンズ歪補正も幾何学的なものだから同じソフトでできるのではないかと探すと補正のプラグインがあって直ぐにインストールする、ペンタックスK−5とタムロン18-200mmの組み合わせも選択できて補正してくれるようだ。早速試すと、三十三間堂を真横から撮った写真に現れていた太鼓のような歪が綺麗に取れた。(左が修正前、右が修正後)。なかなかいい。
  

歪が多くなりがちな建物の内部の写真にレンズ歪補正とあおり補正を続けて行った例も示すが随分とすっきりした写真が手軽に得られる。(例は大徳寺塔頭・龍源院の室内、ふすまのラインが曲がって倒れていたのが気持ちよく修正できている。左が修正前、右が修正後)
 

カラーも含めて色々いじって遊んでいると時々アートな雰囲気の結果に至ったりもする。テクニックが結局アートを生むという歴史がアートにはあるように思うが、これもアートを生み出すといっていいのかもしれない。
写真の補正だけでも十分面白い世界が展開しているようで、本当に世界はおもちゃ箱のように面白いと思ってしまう日々が今日も過ぎて行く。



■■■■■ 新山口駅の垂直庭園  蒲池眞佐子

2003年まで小郡駅と称してた新山口駅、山陽新幹線の停車駅のひとつである。2015年10月に壁面緑化の通路が開通した。この垂直庭園は植物学者兼アーティストであるパトリック・ブラン氏がデザインしたものである。
駅の南北をつなぐ通路は24時間通行可能で、いつでもこの垂直庭園を見ることができる。全長約100m、面積約400uで135種類、1万7000株にのぼる植物が植えられているらしい。
ここを通るたび、メンテナンスが大変だろうな、と思うが、いつもきれいに整備されている。座る場所もあり、緑を眺めながら、緑越しに電車を見ながら、待ち合わせや、電車の時間待ちをしたり、中にはお弁当を食べている人もいる。
先日、停電で新幹線が止まった時も多くのサラリーマンが庭園を見ながら開通するのを待っていた。新幹線が止まって困っただろうが、壁の草木を見ながら、ちょっとだけ慌ただしい時間から解放される時間だったのではないだろうか。
                  



■■■■■ 伊勢神宮に行ってきました 川村由幸

朝4時に自宅を出て、東名・伊勢湾岸と乗り継いで6時間 500kmのロングドライブで伊勢神宮に到着。
参拝は外宮から。

  
真っ直ぐ御正殿に向かい参拝、H25年に式年遷宮が行われたばかりで建造物が皆新しい状態です。
当然、伊勢神宮には国宝や重要文化財の建造物はありません。
20年に一度の遷宮の神事が62回1200年以上繰り返されてことに文化的価値があるのだと思います。
遷宮以外にもたくさんの神事があり、それが未来に続いて行くことこそが重要なのでしょう。
上の画像にもあるように、全ての社殿のとなりに遷宮のための空き地(古殿地)があります。
続いて内宮に向かいます。
  

五十鈴川に架かる宇治橋を渡り、こちらの御正殿は石段を上ったところにあり、天照大神が祀られています。
伊勢神宮はどちらかというとこの内宮のほうがメジャーですが、参拝は外宮から内宮の順に両方するのが正しい参拝のようです。
この日は30℃を超える猛暑で広い玉砂利の境内を歩いて回る内、暑さに負け体調がおかしくなってしまいました。
伊勢神宮参拝は私の長年の念願でもあり、なんとか最後まで歩いて廻りましたが、参拝を終えたら、身体を休めたいと思うばかりで、おはらい町にもおかげ横丁にも行かず犬山に向かいました。


■■■■■ 「たかが手袋されど手袋@東かがわ市 引田」  おばちゃんカメラマンが行く 瀧山Bカメ

 

なんと東かがわ市は全国の手袋シェアの90%を占め日本一です。
幾度の戦争や恐慌を乗り越え興亡を繰り返してきた手袋産業、なぜ東かがわ市なのでしょうか?

東かがわ市の手袋の歴史は、明治21年(1888)に白鳥出身で千光寺の副住職・両児舜礼(ふたごしゅんれい)と三好タケノが大阪でメリヤス製品の手靴(てぐつ)といわれた指無し手袋の縫製をはじめたことに始まります。
その2年前の1886年渋沢栄一が「大坂紡績」を設立し大阪は紡績ブームでした。彼らはこのブームに乗って生計を立てるために必死で頑張ったことでしょう(想像)
1892年舜礼は大阪で39歳で亡くなりますが、これを従兄弟の棚次辰吉(たなつぐたつきち)が引き継ぎ、衰退期にあった製塩業に従事する塩業民を救済するために手袋製造所「積善商会」を松原村教蓮寺境内(現東かがわ市)に1899年に設立しました。
東かがわ市で最盛期400から500ほどあった手袋縫製工場は現在組合に入っている工場数70程度です。安価な海外製品に押され、より付加価値のある製品造りを試みているようです。
冬は吸湿発熱、夏は接触冷感手袋、ゴアテックスを使ったバイク用やスキー用、革製品はもとより少しひんやりする竹繊維の布を使ったUV手袋、宇宙用の手袋も開発されているそうです。
特に目を引くのは、草取り用として販売しているちょっと色が変な手袋。
実は煙草の葉を摘むための手袋だそうです。

ちなみに、薄い緑は、九州・四国・中国地方で収穫される葉っぱの色で、濃い緑は、北陸で収穫される葉っぱの色です。かざして手袋色になると収穫するようです。青色は、緑色の手袋があまりにも葉っぱの色に似すぎているため、あやまって収穫した葉っぱの中に混じって分からなくなることがあったため、検品機に通しても発見しやすいように青色の手袋が出来たそうです。
う〜む たかが手袋されど手袋ですね。
取材に応じてくれた東かがわ手袋ギャラリー川西さんありがとう。
追伸
ところでご当地では神のように敬われている両児舜礼(ふたごしゅんれい)と三好タケノ、本当のところは駆け落ちだったとか〜〜。二人の生活は6年余りと短かったのですが、一組の訳ありカップルの逃避行が後々ここまで大きな波紋を広げるとは誰も想像しなかったことでしょう。






 
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Editor Yuki Takiyama
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