JAPAN GEOGRAPHIC

奈良県明日香村 飛鳥の石造物

Mysterious stones, Asuka town,Nara

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December 29, 2016 野崎順次 source movie

奈良県明日香村 酒船石遺跡

(Sakafuneishi Ruins, Asuka Village, Nara Pref.)

以前から知られている酒船石に加えて、平成12年(2000年)の発掘で発見された亀形石造物と小判形石造物および周辺の遺構を含めて酒船石遺跡と呼ぶようになった。この命名は明日香村教育委員会によるが、研究者の間では酒船石と亀形石造物との関連性を疑う意見も強く、この名称は適当ではないとの意見も存在する。この遺跡は、田身嶺(多武峰:とうのみね)にあった両槻宮の一部、あるいは両槻宮への入り口施設とする見解が有力視されている。

(ウィキペディア「酒船石遺跡」より)

岡寺からのアプローチ

    

酒船石

                                   

酒船石遺跡(石垣)

          

亀形石造物など

                         


Oct.10,2016 野崎順次 source movie

亀石

(Kameishi Stone, Asuka Village, Nara Pref.)

奈良県高市郡明日香村川原

亀の形をした遺構。長さ3.6メートル、幅2.1メートル、高さ1.8メートルの巨大な花崗岩に亀に似た彫刻が彫られていることからこの名前で呼ばれている。ユーモラスな顔つきから明日香村観光のシンボルともなっている。

いつ、なんの目的で作られたかは謎で、

1.川原寺の所領の四隅を示す石標

2.猿石を含めた古墳に関連する遺物

3.斉明天皇の時代にグリフィン像を造ろうとしたが加工途中で放棄されたもの

など、いくつかの説が出されているものの、結論は出ていない。

(ウィキペディア「亀石」より)

            


Mar.25,2015 川村由幸

酒船石

                             


Dec.2011 野崎順次 

奈良県明日香村

古代史跡めぐり

(Ancient Historical Sites, Asuka-Village, Nara)

撮影日: 1977年8月と10月(2011年にネガフィルムをデジタル化)

34年前に謎の石像物に胸躍らせて明日香村を歩き回った。

吉備媛王墓の猿石(平田)

    

鬼の俎・雪隠古墳(野口および平田)

亀石(川原)

  

石舞台古墳(島庄)

酒船石(大字岡)

  

天武・持統天皇陵

   

橘寺(橘)

川原寺

 

弥勒石(大字岡)

 

飛鳥寺(飛鳥)

 


奈良県高市郡明日香村

アスカ・ミステリアス・ストーンズ

(Asuka Mysterious Stones, Asuka, Nara)

Jan.2010 撮影/文 野崎順次 

撮影日: 2010年1月16日

早朝、二上山を過ぎて、明日香へ向かう。

   

益田の岩船(橿原市見瀬)

住所は明日香村ではないが、かつての飛鳥文化圏に属する。

最も難解な石造遺物といわれ岩船山の巨石である。

飛鳥地方の他の石造物と同じく花崗片麻岩製で、東西約11メートル、南北約8メートル、高さ約4.7メートル(北側)の台形状、東西の側面はほぼ垂直に切り立っている。

上部から側面にかけて幅1.6メートルの溝が東西に掘られている。

この溝に1辺1.6メートル深さ1.3メートルの方形の穴が、1.4メートルの間隔を開けて二つくり抜かれている。

岩の重さは約160トンと推測され、かつては他から運ばれて来たという説もあったが、現在では最初から今の場所にあったと考えられている。

また、下部には深さ10センチほどの格子状の溝が彫られているが、表面を平にするための加工法と見られる。

益田池の造築を讃えた弘法大師の石碑の台石、占星術のための天体観測台、火葬墳墓、横口式石槨の古墳など諸説あるが、よく分からない。

                                

橿原神宮前駅から飛鳥資料館に向かう。

    

重文 石人男女像(飛鳥資料館)

人物像としては製作が極めて稚拙である。

この顔の特色は、埴輪や仏像には一般に見られない額の横じわと、丸眼、それに大きな鼻である。

猿石や二面石にそっくりの作りで、これ以前には存在しなかった。

日本人離れした異質のものであり、孤立した造形物である。

特筆すべきは、噴水施設須弥山とともに立っていたことと、通水孔を持っていることである。

その孔は、先の須弥山の縦孔や噴水孔と全く同じで、径2㎝余の、あたかも今日の削岩機であけたような、同一直径の直線的な孔である。

                

石人男女像復元レプリカ(飛鳥資料館)

            

重文 須弥山石(飛鳥資料館)

明治35年6月明日香村飛鳥字石神の水田下から、石人男女像とともに須弥山形の石造物が出土した。

日本書紀斉明天皇六年五月に記載のある須弥山らしい。

現存のものは3個からなるが、下段と中段の不整合から、その間に1〜2個の石が入っていたと考えられる。

3個とも内部は空洞で何らかの噴水施設だったらしい。

          

須弥山 復元レプリカ(飛鳥資料館)

           

車石

車の轍のように見えることから、車石とよばれるが、石樋らしい。

        

出水出土の石造物 レプリカ (飛鳥資料館)

大正5年5月、酒船石の西南西約400mの飛鳥川沿岸字出水、通称ケチンダで偶然発見された。

水を流す施設であることは間違いなかろうが、酒船石と関連するとは距離的地形的に考えにくい。

この石造物は現在京都東山野村別邸にある。

         

猿石 レプリカ (飛鳥資料館)

もともと欽明天皇陵の南の田んぼで掘り起こされ、4体が吉備媛王の墓前に、1体が高取城近くに運ばれた。

左から「女」「山王権現」「僧」「男」と呼ばれている。

そのうちの「女」「山王権現」「男」の3つは後ろに天邪鬼の様な顔がある。

現物は柵の中にあるので、後姿は見えないが飛鳥資料館のレプリカで確認できる。

     

山王権現

     

    

    

高取城の猿石 レプリカ

    

飛鳥資料館の片隅にあった説明のない石造物?

      

参考資料(順不同)

(1) 日本古代史の旅 6 飛鳥 昭和47年 小学館

(2) 奈良県の歴史散歩 下巻 奈良南部 奈良県高等学校教科等研究会歴史部会編 

 2007年 山川出版社

(3) 飛鳥の遺蹟 網干善教 昭和53年 駸々堂


Dec.2009 撮影/文: 野崎順次 

奈良県高市郡明日香村

アスカ・ミステリアス・ストーンズ

(Asuka Mysterious Stones, Asuka, Nara)

撮影日: 2009年12月27日

近鉄飛鳥駅から立部定林寺跡へ。

             

立部の立石(乳母石)

立部定林寺跡の南側に立つ。昭和8年高市村志には「乳母石」と呼ばれていることをあげ、伝承として、「聖徳太子御三歳までの御遊び道具であったといい、また駒繋石といって、聖徳太子の駒(馬)を繋なぎたもうたと言っている。

石像とみると、明確な加工の痕跡があり、平面加工は橘寺二面石に類似する。

      

橘寺の三光石

橘寺は聖徳太子誕生の地といわれており石碑が立っている。

三光石は聖徳太子が勝鬘経(大乗仏教の経典:聖徳太子が解説書を発行した)ご講参のとき”月の光”"日の光””星の光”の3種の光を発したといわれている。

飛鳥地方の「鉢巻き石」である。

         

上居の立石

石舞台から約300m、上居の集落に登る分岐点に立つ。古くから知られている。

            

岡寺の立石。

岡寺の裏山にある。岡寺山門と治田神社を結ぶ道と岡の町から登ってくる急坂の三差路が交わる地点に細い登り道がある。

その後、整備された山道を200mほど登るのだが、最初の倒れた「岡の立石」の木製標識から三つ目の標識を左に進むと直ぐに木立の中にすっくと立つ。

自然石で加工の痕跡はないが、石積み基礎があるように思われる。

現地でみるとただものではない存在感がある。

                   

岡寺の横の治田神社がある。その入り口の左右に大きな石が置かれている。近世のものだろう。

            

北に歩く。八釣の集落の東側に小さな丘があり、自然石を利用した石塔を見つけたが、やはり、近世の作だろう。

                    

八釣の集落あたりの風景。

         

八釣からさらに北に歩くと、墓地があり、自然石を利用した墓石を見た。飛鳥の鉢巻石らしい。

       

同じ墓地の六地蔵や地蔵菩薩をみて、西に向かう。

              

豊浦寺跡(元向原寺)境内の面白い石や推古天皇豊浦宮の遺構をみる。

              

豊浦寺跡(元向原寺)の文様石

豊浦宮遺構の横に文様石がある。

雲形もしくは山水画像石と呼ばれる文様のある石造物である。

いくつか組合わせて須弥山をつくったと考える人もいるが定かでない。

      

人頭石(高取町観覚寺1518)

明日香村ではないが、その近くの高取町にあり、異様な石造物として注目されている。

近鉄壺阪山駅から東に向かい、国道169号線を越え、町なかの街道を北に約300メートル歩くと、右側奥に光永寺の山門が見える。

その境内ではなく、手前の左側の民家の前庭に人頭石がある。

門は閉まっているので山門との狭い隙間から入る。

             

高取町の町並み。

地元では土佐街道と呼んでいる。

明日香に都があったころ、土佐の国から都造営のために連れてこられて故郷へ帰れなくなった人たちが、望郷の思いからこの地を「土佐」と呼ぶようになったといわれる。

           

参考資料(順不同)

(1) 飛鳥の扉HP

(2) ビジネスホテルやまべHP

(3) 奈良県の歴史散歩 下巻 奈良南部 奈良県高等学校教科等研究会歴史部会編 

2007年 山川出版社

(4) 飛鳥の遺蹟 網干善教 昭和53年 駸々堂

(5) 岸本信夫スケッチ紀行 民家と町並みHP

前回と今回で撮影できなかった明日香村およびその近くの謎の石造物は次のとおり。

飛鳥資料館の須弥山石、石人像、出水の酒船石(レプリカ)、車石

高取城二の門近くの猿石(高取町)

益田岩船(橿原市南妙法寺町)

飛鳥苑池遺構出土石造物(橿原考古学研究所付属博物館)

撮影日: 2009年12月6日

石造美術に詳しい川勝政太郎氏によれば、

「飛鳥時代 欽明天皇十三年(552)仏教公伝から大化改新まで。わが国の文化の中心が飛鳥地方にあった時代。石造美術としては、この時代にさかのぼるものは知られていない。(推古時代ともいう)」

と、すると、明日香村に現存する様々な謎の石造物の年代が特定できれば(多くは飛鳥時代と推定されている)、美術史を塗り替える貴重な発見に導かれるかもわからないし、その可能性は非常に高いだろう。

早朝、家を出て、近鉄電車で飛鳥駅下車。北東の吉備媛王墓に向かう。

          

吉備媛王墓の猿石(大字平田)

明日香村にはいつ誰が何のために作ったかわからない石造物があり、猿石もそのひとつである。

もともと欽明天皇陵(きんめいてんのうりょう)の南の田んぼで掘り起こされ、4体が吉備媛王の墓前に、1体が高取城近くに運ばれた。

実際に猿に似ているのは高取城近くの1体のみで 吉備媛王墓の猿石はどう見ても猿には見えない。

左から「女」「山王権現」「僧」「男」と呼ばれている。そのうちの「女」「山王権現」「男」の3つは後ろに天邪鬼の様な顔がある。

現在は柵の中にあるので、後姿は見えないが飛鳥資料館のレプリカで確認できる。

              

路傍のお地蔵さんを拝んだり、吉井勇さんを偲ぶ石碑に立ち寄ったりして、東へ歩く。晩秋の丘陵地帯である。

              

亀石(大字川原)

4.5m×2.7m、高さ2m。蛙の顔に似ているが亀石。

南西を向いて置かれているが,もし西の当麻(たいま)の方を向いたら,大和盆地は大洪水となり泥沼化すると伝えられている。

奈良が昔湖だったことに由来していると考えられ、土器の分布などから少なくとも弥生時代ぐらいまではかなり大きな池が奈良県の田原本近辺に残っていたと考えられている。

他の立石のように寺域を示す物かもしれないと言われているが不明。

         

橘寺の二面石(大字橘)

これは、橘寺の本堂前を通って奥に入った所百日紅の木の下にある。1mくらいの大きさで、石の表と裏に人間の善と悪の表情を表している石造物といわれている。

       

南へ飛鳥川沿いに遡る。

         

マラ石(大字祝戸)

もとはすっくと立っていたという。

     

石舞台から山麓を北へ向かう。

       

酒船石(大字岡)

油を絞ったとか薬を作ったとか言われているが,周辺から石樋や石造物が発見され,飛鳥京の庭園の一部ではないかという説が有力になってきた。

もとはもっと大きな石で,側面に削った跡が残っていることから,一部が18世紀に高取城の築城の際に使われたのではないかと言われている。

現状は長さは5.5m,幅2.3m,厚さ1m。

明和九年(1772)に明日香を訪れた本居宣長は「そもそも此石。いづれの世にいかなるよしにて。かくつくれるか。いと心得がたき物のさま也。」と書いているのは、いまにしても適切な表現である。

              

酒船石遺跡 — 石垣(大字岡)

現在,酒船石のある丘一帯は斉明天皇の時代の両槻宮跡ではないかと言われているが,日本書紀の記述に従えば,ここは石垣で囲まれていた。

その跡を示すのがこれらの天理砂岩で作られた石のブロックである。

これらの石は天理市にある平尾山付近が産地と推定されている。

ここから飛鳥の都まで運河が造られ,船で石を運んだらしい。

    

酒船石遺跡 − 亀形石造物(大字岡)

2000年2月に奈良県高市郡明日香村の酒船石遺跡から亀形や小判形石造物が発見された。

亀は長寿のシンボルでもあり道教の神仙思想につながる。

不老長寿の仙薬がある三神山の一つ「蓬莱山(ほうらいさん)」は亀の背中に乗っていると言われる。

国際日本文化研究センターの千田氏は著書「飛鳥・藤原京の謎を掘る」の中で,「多武峰は天宮であるから蓬莱山になぞらえることができ,その麓にそれを支える大亀を配置した(プロローグより引用)」と解説した。

つまり,亀形石造物が発見された場所一帯は神仙境に見立てたとも考えられる。

この発見によりここに斉明天皇の時代の両槻宮があったことが確定的となった。

                     

弥勒石(大字岡)

飛鳥寺から飛鳥周遊歩道に沿って飛鳥川を南下すると、川沿いに高さ2mくらいの弥勒石がある。

7世紀後半からの条里の境界を示す目印か,飛鳥川の堰に使われていたのではないかといわれている。

地蔵のように顔が彫られているようにも見えるが,後から彫ったのではともいわれている。

弥勒石を拝むと下半身の病気に聞くといわれており、村の人は「弥勒さん(弥勒菩薩)」として信仰している。

        

飛鳥寺から飛鳥の町に入り、東に行くと小高い丘がある。

         

飛鳥坐神社(大字飛鳥字神奈備)

この神社はもとは神奈備と呼ばれたところにあったが829年(天長6)に鳥形山いう丘に遷された。

現在も所在地として「字神奈備」を残すが古代の神奈備の場所ではない。

祭神として事代主神,高皇産霊神,飛鳥三日比売神,大物主神が祀られている。

五穀豊穣を祈願して置かれた陰陽石(女性・男性器形の石)が境内の至る所に見られ,子授けの神としても信仰されている。

これらの多くは飛鳥地方で「鉢巻き石」と呼ばれる輪の入った石で、前神主の飛鳥弘訓氏が村内各地から集められた自然石である。

ただし、猿石に似た石造物が一つあり、しめ縄をかけて祀られている。

                         

飛鳥の町並みに戻り、西へ歩く。甘樫の丘をまわりこむ。

           

豊浦の立石(大字豊浦)

甘樫坐神社の境内に一際目立つ大きな石が立っている。

この石の前で毎年4月に盟神探湯(くがたち)という神事が行われる。

盟神探湯は古代の裁判と考えられており,煮えたぎる湯の入った釜の中に手を入れて,火傷をするしないで罪のあるなしを決めたらしい。

       

さらに西へ、近鉄橿原神宮前駅を目指す。

和田池の横で一休みしていると遊び終えて家路につく子供たちが「こんにちはーー!」と声をかけてくれた。

                        

参考資料(順不同)

(1) 石造美術の旅 川勝政太郎 昭和48年 朝日新聞社

(2) 飛鳥の扉HP

(3) ビジネスホテルやまべHP

(4) 奈良県の歴史散歩 下巻 奈良南部 奈良県高等学校教科等研究会歴史部会編 

2007年 山川出版社

(5) 飛鳥の遺蹟 網干善教 昭和53年 駸々堂

今回、撮影できなかった明日香村およびその近くの謎の石造物は次のとおり。

橘寺の三光石

飛鳥資料館の須弥山石、石人像、出水の酒船石(レプリカ)、車石

岡の立石

上居の立石

立部の立石(定林寺跡)

豊浦向原寺の文様石

定林寺のマラ石

高取城二の門近くの猿石(高取町)

光永寺の人頭石(高取町観覚寺)

益田岩船(橿原市南妙法寺町)

飛鳥苑池遺構出土石造物(橿原考古学研究所付属博物館)

 


Mar.2006 撮影:瀧山幸伸 source movie

     

猿石

     

鬼のせっちん、鬼のまな板

亀石

   

酒船石、遺跡

        

飛鳥寺

水落遺跡

飛鳥盆地の中央部、飛鳥川東岸に位置し、東南には飛鳥寺がある。1972年に民家建設のための事前調査の際に遺跡が確認され、1981年以降から本格的な調査が実施された。その結果、建物の規模や性格が明らかになり、この場所が『日本書紀』に登場する天智天皇10年4月25日(辛卯:671年6月7日)条に記された漏刻とその付属施設であることが確認された。また、この地は位置的に若い頃の天智天皇(中大兄皇子)が打毬の際に中臣鎌足と出会った(→乙巳の変)とされる「飛鳥寺西の槻樹」の一郭であったとする説もある。

発掘された遺構は楼状建物跡とそれに付随する水利用の施設、4棟以上はあったと推測される掘立柱建物跡及び掘立柱塀跡などからなる。楼状建物は土を盛り上げ貼石をした基壇上に建つ4間(約11m)四方の正方形平面で、中央部を除いて合計24本の柱を立てる総柱様建物である。礎石は基壇の地中1m下に据えられ、そこに空けられた径40cmの円形刳り込みに柱をはめ、更に各礎石間に石製の地中梁を巡らし、基壇土で周りを固めている。一方、建物中央部の基壇下1mには花崗岩切石を台石にして1.65m・0.85mの黒漆塗の木箱が置かれていた痕跡があり、基壇内には木樋や桝、木樋から上方に取り付けられたラッパ状のごく細い銅管などが設置されていた。基壇の下には東から建物中央部に向かって木樋暗渠があったことが知られ、木箱の西側にも流入した水を流すための別の銅管の設置も確認されている。こうした発掘成果により、木樋から導入された水をラッパ状の銅管を使って上方高く吸い上げ、最終的に黒漆塗の木箱に流し込む構造であったと推定されている。

   

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