Monthly Web Magazine September 2014
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トピックス
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■■■■■ 瀧山幸伸
うーんと明るい話題と、うーんと渋い話題です。
■ 明るい話題は、大曲の花火。ほとんど中毒状態で、ほぼ毎年行っています。
今年の「大会提供花火」のテーマは、ボレロでした。音楽と花火が一致して、花火師さんたちの技術の高さが実感できました。
今回は場所が良かったので仕掛け花火も見られました。
写真では感動の1%も伝わりません。花火はやはり映画ですね。
■ 渋い話題は、山形県高畠町の縄文洞窟群です。
花火の帰り、山形の南にある高畠町の国史跡を訪問しました。
高畑はワインで有名ですが、こちらは全く無名です 。
場所がわかりずらいですが、アプローチはそれほど厳しくありません。
縄文人が長い長い年月暮せてこれたのは、眼下にある湖で貝や魚が獲れ、山の獣も豊富だったからです。
食料や燃料を自前で調達できず、廃棄物も自分で処理できない都会人は、縄文人以下かもしれません。
こちらも動画で、山の静けさ、鳥の声など、環境のすばらしさを堪能してください。
新聞に紹介される地元の情報にビックリすることがあります。8月末、「翦風号 100年前思いはせ」という記事に出会いました。(京都新聞、ほか)
100年前に東近江市沖野ケ原でプロペラ飛行機「翦風号」が空を飛んだことを記念する企画展が、博物館「探検の殿堂」で開かれ、市民が設計図を基に復元した飛行機の原寸模型や当時の写真を展示し紹介しているとありました。
米国のライト兄弟が世界初の動力飛行に成功してから11年後の出来事、飛行機熱が沸騰していたころで、大変な関心を集めたようです。
1913(大正2)年、当地の荻田常三郎氏(当時28歳)という、飛行機に魅せられた人が、家業を投げ出し、自費でフランスに渡りモラ−ン・ソルニエ飛行学校で8ケ月間、飛行機操縦術を学び、自費で購入したモラーン・ソルニエ式80馬力単葉機と共に帰国。翌年6月西宮市・鳴尾競馬場で行われた飛行大会で高度2003mまで飛び、さらに京都・深草練兵場でも強風の中で飛び立ち、伏見宮殿下から「翦風号」という名を頂いたとあります。(翦風・せんぷうは風を切るという意味)
1914(大正3)年10月の郷里訪問飛行では、数万人が見守る中、12分45秒の往復飛行を成功させました。当日の沖野ケ原には、小・中学校だけでも45校6千余名が駆け付けたようです。どの会場でも始めてみる飛ぶ飛行機の姿に興奮が起こり、子供たちに大きな夢を与えたようです。
翦風号は、木製布張りで全長約6.5m、幅9.3mの二人乗り。復元されたものを見てもこれが飛んだとはピーンときませんでした。
翦風号の飛行後、県や地元に様々な動きを引き起こしました。荻田氏は東京〜大阪間飛行の離陸直後に事故死されました。荻田常三郎氏や翦風号を受け継いだ「熊木九兵衛氏」およびその関連の内容はインターネットに詳しく投稿されているので省きます。
八日市の延命公園に建つ荻田氏の顕彰碑。
八日市は100畳〜200畳の大凧揚げで有名です。かつて沖野ケ原もその会場に使われたことがあります。
八日市の大凧揚げは、300年以上も昔の江戸時代中頃からの伝統行事で今に続いています。この地域はもともと空への関心が強い所といえます。
企画展の会場、博物館「探検の殿堂」は、第1次南極観測隊の越冬隊長として活躍した故西堀榮三郎氏の偉業をはじめ、近代日本人探検家を顕彰する施設として約20年前に開館されました。日本中が興奮のルツボにはまった「南極物語」が1983(昭和58)年に公開された10年後です。
博物館のある湖東町横溝は、西堀氏の祖父・西堀清兵衛氏の出身地で、京都に出て、丁稚奉公からスタートし、西堀商店をおこし、チリメン製造販売を行って大成した近江商人です。宮内庁に納めるチリメンでは最高級品だったようです。栄三郎氏も伝記に近江商人の血筋と書かれています。
1903(明治36)年生まれの西堀少年が11歳の頃、兄に誘われて行った「白瀬中尉の南極探検報告」を聞いて、南極に対して憧れ=夢を持ったと言われています。丁度この頃「翦風号」と荻田氏との出会いもあったことが伝記に書かれています。以後飛行機にも関心を持ち、影響を受けた一人だったのです。
小さなニュースから忘れていた記憶を取り戻し、知らなかった情報をたどる喜び・少年たちに夢を与える事の重要性に接しました。
ジャパンジオグラフィックの活動も若い人たちが夢をもつひとつの切り口になればと願っています。
東日本大震災からの復活が遅れていた真壁に一年ぶりにでかけてきました。
昨年の九月には千葉県香取市佐原地区の重伝建は伊能忠敬旧宅を残して復活を果たしていたのと比較して、
真壁は震災の被害がいつまでもそのままの状態でした。
2013年9月 2014年8月
上の画像、左が一年前、右が現在のものです。工事中のもの、工事の期間休業の張り紙のあるもの工事がほぼ完了したものと状態はさまざまですが、復活の道のりを確実に歩んでいました。
あと少しの時間で真壁は復活します。時間の経過という風雪の味とはしばらくお別れですが、きちんとした修繕がなければ存続もりません。
心残りなのは、未だに一年前と同じ状況のままの建物です。
この建物は真壁唯一の曲屋形式の古民家です。大きな建造物であり、その修繕費も莫大なのでしょう。
この蔵のあるお宅は住人がおられない様子です。このまま建物が朽ち果てるのを待つだけとなるのでしょうか。
個人の所有権と文化財の保護、難しい問題があるのでしょう。
一年前はとても悲観的であった私の真壁に対する思いは随分と改善しました。
真壁の重伝建の街並みはこれからも残って行きそうです。
■■■■■ 災害と自然現象 大野木康夫
久しぶりに晴れた9月の週末、家内と一緒に若狭に行きました。
明通寺では、国宝の本堂、三重塔の端正な姿を鑑賞しました。
お寺の下を流れる松永川では、重機が入って、崩れた護岸を修復していました。
今年の夏の集中豪雨では、福井の嶺南(若狭地方)でも河川の増水等がニュースで報道されており、実際に現地に行くと、このようにあちこちで被害が出ているのを目にします。
次に神宮寺を拝観しました。
神宮寺から、お水送りが行われる遠敷川の鵜の瀬に行きました。
鵜の瀬の手前で河川工事が行われていましたが、護岸に損傷はないようでした。
しかし、鵜の瀬に下りてみると、あたり一面で、生臭いにおいがします。
よく見ると、しめ縄が張られている屈曲部に堆積している土砂の量が明らかに増えています。
しめ縄をよく見ると、以前は3つあった房が1つなくなっており、紙垂(しで)もほとんど残っていません。
以前撮影したしめ縄
どうやら鵜の瀬は豪雨で水没していたような気がします。
最後に、蘇洞門めぐりで奇岩や洞門などの景観を楽しみました。
ここでも、底が見えない「地獄門」と呼ばれる洞窟の入口が、昨年の台風の際のがけ崩れで埋まってしまっていました。
ほかにも、海蝕崖のあちこちでがけ崩れの跡が見られました。
訪問した名所のすべてで豪雨の被害の後を目にして、京都の自宅に帰る途中、滋賀県高島市から大津市にかけて通った国道367号は、数箇所でがけ崩れや路肩崩壊によって片側交互通行となっていました。
運転している私は見られなかったのですが、助手席の家内が、沢のあちこちで大規模な崩落がおこっていると言っていました。
昨年あたりから、集中豪雨による土砂災害が各地で起こり、多大な被害をもたらしています。
マスコミの報道で知ることができるのは、人的被害が起こったり、交通が遮断されたて生活に影響が出たところが中心ですが、山岳国家である日本の各地で、報道の対象とならない崩壊が起こっているのでしょう。
道路や河川、人里に影響があるところへの対応は、生活や次の災害に備えて可能な限り迅速に行われますが、蘇洞門の地獄門ような景観だけのところは復旧の対象とはなりません。
そもそも土石流も含めて侵蝕作用なので、今の世に存在する自然景観はそれらの積み重ねによって形作られたのです。
それが人間の生活に影響を及ぼした場合に、災害と呼ばれるようになるわけで、二次的なものも含めて人の営みに影響がある部分は復旧などの対策を行うとして、蘇洞門のがけ崩れなどのそうでない部分については、むしろ復旧を行わないのが正しいような気がします。
ただし、重要な観光資源として手入れが行われている自然景観(天橋立など)については、人間の手が入った状態を「文化的景観」として保全するということなので、観光なども含めて生活に影響するとして復旧するということでしょう。
年をとってやることが無くなったらやろうと思うことを今から幾つか考えている。
魚釣りを始めるというのがまずは面白そうだ。
福岡市の西には海釣り公園という海に桟橋が延びた市営の釣り公園があって指導員がいつも待機し釣り道具の貸与はもちろん釣り方を親切に教えてくれるという。
やることが無くなったらまずはこれだと思っているが一向にやることが無くならないのでまだ先のことになりそうだ。
それにこれは行くのにクルマでないと辛そうだ、クルマに乗れなくなっては難しい、そんな時を考えて思っているのがただただ雲を眺めるという遊びだ。
これは頭上が開けていれば良い、近くの公園でも十分だ。
どういう風に楽しめばいいか、今からその時に備えて時々雲を眺めている。
雲の楽しみ方を気ままに書いた本があって7-8年前イギリスでベストセラーになったその本を参考にしてみている。
”「雲」の楽しみ方”、ギャヴィン・プレイター=ピニーという人の本だがなかなか面白い
まずは基本の10種の雲を見分けるようになっておいたほうが良いとある、これはできる。
低層雲、中層雲、高層雲 と分かれ低層雲には積雲、層積雲、層雲、積乱雲があり中層雲には高積雲、高層雲、乱層雲がある、高層雲には巻雲、巻層雲、巻積雲とありこれで10種だ。
今のところ見ていて巻雲、巻積雲といった高層雲がいい。
高層雲は全てが氷の結晶で構成されていてその線の細さが細密な自然の技を見る思いがする。
巻雲の氷晶が風に流れて細やかな線になるところは何とも言えず眺め入ってしまう。
秋が来たかもしれないと感じるのは空に見事な巻積雲を見た時だ。
巻積雲は細かいうろこのようでいわしぐも、さばぐも、うろこぐも と呼称されており勿論秋の季語になっている。
上空の気温が下がってくることとこの秋の雲とは関係があるようで4000mあたりの気温が零度位になり始めると綺麗な巻積雲が見え始めるようだ。
勿論低層の温湿な夏の空気がもたらすもやっとした不透明感が無くなってくれるというのが前提のようだが。
南国の夜明けの情景では低層の伸び上がる積雲のシルエットがいかにも南国らしい。
明け方からもう空気の対流が盛んだと語っているようだ。
島の上に地形をなぞるように連なる積雲も力強くていい眺めだ。
眺めていると雲単体というよりやはり風景の中の雲がいい。
町の公園からひがら雲を眺めこれを愛でるという境地は余程この世のものを捨て去らないと到達できないような気がしている。
当分は忙しく動き回りたいという心地からから逃れられないようで雲に浸る前にまだやることが幾らもあるように思える。
どうやら雲以外の別の何かも考えておく必要もありそうだ。また考える。先は長い。
写真は順に 1.巻雲(9月旭岳にて)、2.巻雲(9月月山にて)、3.巻積雲(9月福岡にて)、4.レンズ雲(7月利尻島)、5.海に並ぶ積雲(7月小浜島にて)、6,7.夜明けの積雲、積乱雲(7月西表島にて)、8.島の地形に沿って並ぶ積雲(7月石垣島にて)
■■■■■ マリンワールド海の中道 末永邦夫
マリンワールド海の中道(なかみち)は福岡市東区にある水族館です。
1980(S55)年4月に開館。「対馬暖流」をテーマに熱帯から温帯、寒帯の魚約350種、2万点を展示。
建物は国営海の中道海浜公園と隣接し、周辺を海と公園に囲まれ、自然豊かな環境にあります。
特に、コビレゴンドウクジラのユキちゃんは4634日と国内飼育最長記録(2014年8月8日現在)を更新中です。
JR尼崎駅前にステンレスの角材でできたポールがある。高さは約3.3mで、説明板があり、「高潮標 この高潮標は、室戸台風(昭和9年9月21日)とジェーン台風(昭和25年9月3日)の高潮により、尼崎市が大きな被害を受けた時のもっとも高かった海面の水位を示しています。」とある。標識の高い方には「昭和9年室戸台風 最高水位 OP+5.10m」、低い方には「昭和25年ジェーン台風 最高水位 OP+4.30m」と書かれ、それぞれ海面がその高さに達したわけである。家でいえば、海水が2階の床までとか、1階の天井まで来たわけで、3.11で東北を襲った津波ほどではないが、人口密集地域に大変な被害をもたらしたことは想像できる。
さて、OPとはオランダ語のOsaka Peilの略字で、「大阪湾最低潮位」のこと、すなわち引き潮時の海面の最低レベルである。最低レベルを基準として、港湾や河川が管理されている。ちなみに、TP(Tokyo Peil)というのもあるが、これは「東京湾平均海面」で標高の原点にもなっている。OP=TP+1.3mという関係にあるが、最低値と平均値の差であって、大阪湾の水位が東京湾より1.3m高いという意味ではない。
津波と高潮は共に水害をもたらすが、異なる現象である。津波は地震などに起因する海底地形の急変による大規模な波の伝播現象である。高潮は、気圧の低下、強風により海水の吹き寄せによる海水面の上昇で、満潮が重なるとさらにひどくなる。さらにこれらの効果は、遠浅の海が入り込む湾のような地形では最も顕著に表れる。
昭和9年の室戸台風は室戸岬付近に上陸してから、現在の神戸市東灘区に再上陸した。最低気圧911.9hPa、最大瞬間風速60m/sなどで記録的数値を残し、京阪神に甚大な被害をもたらした。死者、行方不明者は約三千人に及ぶ。大阪府の被害が大きかったが、尼崎市でも市域の3分の2が浸水し、所によっては3mを越えた。尼崎市の大被害の原因の一つは、工場用水汲み上げによる地盤沈下であった。
昭和25年のジェーン台風は最低気圧964.3hPa、最大瞬間風速48m/s で、阪神間を直撃して、室戸台風並みの被害をもたらした。尼崎市でも3m余の高波が押し寄せ、阪神国道(国道2号線)以南が冠水した。
その後、防潮堤の建設が進み高潮の被害が激減した。防潮堤の高さはOP(大阪湾最低潮位)+6〜7mに設定され、幅5〜9mで、西の武庫川河口から海岸線を伝い、東の神崎川西岸に至る総延長12.4kmである。
最後に台風の話を追加したい。私は昭和21年に生まれてから、ずっと尼崎市北部に住んでいる。昭和25年のジェーン台風の記憶は幼すぎてない。最も強烈に覚えているのは、昭和36年の第二室戸台風である。阪神間を直撃し、台風の目が自宅の直上を通過した。当時、私は高校一年生だった。学校は休みで家にいたが、突然、激しい風雨が止んで、青空が見えた。台風の目だ。その後、風雨が再開した。翌日、学校に行くと、体育館の屋根が吹き飛んで、フロアが水浸しになり、バスケットボール部の練習が中止になった。練習はきつかったので、中止になって、とても嬉しかった。そのかわり、フロアの雑巾がけをさせられたが、練習に比べたら、どうってことなかった。
参考文献
Web版尼崎地域史辞典「apedia」
ウィキペディア「大阪湾最低潮位」
ウィキディア「第二室戸台風
■■■■■ 看板考「部屋がダサくて恋も出来ない!」 ゆはらきみこ
所在地:江東区門前仲町交差点付近
不動産屋さんの看板のようですが、キャッチコピーとしては良質ではないイメージを受けます。
ダサイというのは決して良い意味では使われません。
むしろ人をおとしめる意味を持つ言葉ですね。
大声とか衆人の前で言える言葉ではないので、このような看板が町にひらめいていることで町の品位も落ちる気がします。
大体において、旗めくヒラヒラ看板は町の雰囲気を壊します。
あの色この色がはためいて気持ちが落ち着きません。
ビル建設時の許可に色の指定などが行政にできればいいのにとさえ思います。
単一配色ではなくて、使って良い色を何色か決めて、落ち着いた街づくりを進める。
この町に住みたい!と人々が思える雰囲気を、行政が統括できるシステムになればいいのにとも思います(住んでみたい街なら人が集まり地価が上がり税収入が増え、豊かな自治体になるのに)。
ダサイは諸説あるようです。
タモリさんがダサイを使ってダサイタマと言ったのは有名な話ですが、田舎と書いてタシャイと発音するのがダシャイと変化して来たという隠語説もあり、好きな言葉ではありませんが、ダサイの言葉を巷に泳がせなければならないのなら、私はこの説が好きです。
しかし、ダサイがショボイとか、かっこよくないとかの意味で使われたとしても、東京は大都市とは言え所詮は地方人の集まりです。
誰が誰に対して田舎者と言えるのかは、笑止千万ですけれどもね。
ダサイにこだわりましたが(笑)、それにしても、やっぱりこのキャッチコピー看板は間違っていると思います。
部屋がトヤカクだから恋もできない説は、違うだろう!
若者に……喝!
(と、長々と疑問を持たせるほど看板に関心を寄せる人が、他にもたくさんいらっしゃるとしたら、この看板の勝ち!かもしれませんね)
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Japan Geographic Web Magazine
https://JAPAN GEOGRAPHIC/
Editor Yuki Takiyama
yuki at .jp (Replace at to @)
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