Monthly Web Magazine Feb. 2016

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■■■■■ 辻の鋳物師(いもじし) 中山辰夫

先輩のメンバー・野崎さんが「七十路」を元気にお迎えになり喜んでおります。切り上げ「八十路」になりますと、単独の外出がかなわず、グループとか数人一緒の外出となります。「お誘い」は有難いのですが、場所や撮影時間がままならず、若干ストレスがたまる傾向にあります。

一人では、近場か一日一カ所、余裕をもっての訪問となります。従い、ローカルな情報が多くなりますがお許し願います。

滋賀県の栗東・辻は桃山時代以来、田中、太田、国松、高谷などを姓とする多くの鋳物師集団を輩出した集落で、現在もそのご子孫が定住されています。

鋳物師とは、寺院関係の鋳物(梵鐘、銅鑼、仏像、仏具等々)や鍋や釜、建造物用の金物の鋳造を手がける技術者。卑弥呼の鏡も鋳物製品といえますか?

この辻集落にある「井口天神社」の鳥居(市指定文化財)は、江戸時代(1694・元禄7)年に造立された、総高533.5cmの鋳銅製の明神型鳥居です。

鳥居の特長は、柱下の亀腹が複弁八葉間弁付きの反花(かえりばな花)であることです。

銅製鳥居の比較的古い例は、室町中期の金峯山寺銅鳥居(かねとりい・国重文・奈良県)、1637(寛永14)年の英彦山神宮(国重要文化財・福岡県)、同じ頃の日光東照宮(国重要文化財・栃木県)、1667(寛永7)年の春日神社青銅鳥居(県指定文化財・三重県桑名市)などに見られますが、鋳銅製の鳥居は全国的に多くないようです。

金峯山寺銅鳥居 英彦山神宮 日光東照宮 春日神社青銅鳥居

井口天神社の鳥居の左右柱の下一区には、田中・・と太田・・の両名が大願主兼鋳物師となり、江戸深川において鋳造したこと、さらに「関東出居氏子中」五十二名を含む総数二百二十九名の寄進交名が刻まれています。

江戸深川から運んで、辻村の鎮守・井口天満宮に奉納されたもので、諸国へ飛躍した辻村鋳物師が故郷に残した一大記念碑といえます。湯釡もおあります。

近江は奈良時代以前から産鉄国として知られ、産鉄・鋳造技術が進んでいました。「続日本書紀」にも708(和銅元)年「近江国をして銅銭を鋳さしむ」と見え、古来の鋳造技術を活かした和銅銭の鋳造が試みられたようで、この銅銭は辻近くの高野郷で行われたと記されています。

が、辻の鋳物師の源流・起源は明らかでありません。

桃山時代、千利休お抱えの釜師であった辻与二郎は辻村出身説が定説です。豊臣秀吉から『天下一』の称号を拝受し、京都三条釜座を代表する鋳物師の一人です。(大西清右衛門美術館の近辺が三条釜座跡でこの地域以外ではつくれなかった)

大西清右衛門美術館〜釜座通り(かまんざ)〜通りにある釜師・高木治郎兵衛宅→たった一人残った釜師

秀吉を祀る豊国神社と辻与二郎作の鉄燈籠(国重要文化財) 宝物館に展示されている。

豊臣家滅亡の端緒となる京都方広寺の大仏鐘鋳造の際、奉行片桐旦元から諸国鋳物師衆を集める命令書がで、辻村からも棟梁として加わったとあります。

片桐旦元書下写〜方広寺大仏鐘(国重要文化財)

この辺りから辻の鋳物師の歴史が見えだします。

栗東には中山道と東海道の二大街道が通り、辻鋳物師もまた、この街道を利用して諸国へでかけ販路を築きました。膳所藩のバックアップもあったようです。

辻の鋳物師の最大の特色は、諸国へ盛んに出職・出店を行った点です。辻には屋敷と妻子を置くという、江戸時代・1640年頃に早くも近江商人の先駆けとなる動きをしていました。

この頃近江国内には八日市金屋村・神崎郡三俣村・高島郡宮野村・愛知郡長村等に鋳物師がおりましたが、辻鋳物師のみが株仲間の支配傘下に入り、他国への出職・出店を展開しました。

江戸時代に出職・出店をした人の中には、明治に入って製薬業や醤油業等に転業した人、いわゆる本来の近江商人と同じ道を選んだ人もいたようです。

今も、関東や愛知などには、辻の鋳物師を祖とし、十数代にわたり家業を継いでいる方が多く残っておられます。

今の辻村には鋳造に携わる人は皆無ですが、集落内は殆どが子孫にあたる方々ばかりです。

鋳物師ばかりでなく、最近は手作りできる鬼瓦の鬼板師の数も半減とか。普段見過ごしている美術・工芸の分野も難問山積みの様です。

ちょっとした情報をきっかけに、過去に訪れた先を思いだして楽しんでおります。にわか仕込みの報告ですみません。

(引用:近江の鋳物師、栗太郡志)

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