JAPAN GEOGRAPHIC

Monthly Web Magazine Aug. 2018

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■■■■■ Topics by Reporters

■ 立山のライチョウの親子、乗鞍のライチョウの砂浴び 瀧山幸伸

時期が良かったのか日頃の行いが良かったのかは知らないが、初めてライチョウを見ることができた。

立山の室堂ではライチョウのヒナ7羽が母親の周囲を走り回っていた。ヒナは動きが速い。動画には写っているが写真では早い動きに追いつけずボケているものが多かった。



乗鞍の大黒岳山頂ではオスとメスのライチョウに出会った。ヒナもいたらしいが見ることはできなかった。
メスのライチョウは目の前を往来する人の姿にも動ぜず砂浴びをしていた。害虫除けのためらしいが、恐竜映画を連想させる顔つきでバシャバシャと砂をかぶる所作が騒々しく、興味深かった。
オスのライチョウは目の周りが赤く美しい。メスと共に子育てに専念することはなく離れて呑気に暮らしているという。
 

それにしても今年の暑さは半端ない。立山も乗鞍もライチョウの生息環境とは言えないほど暑かった。
■ 桑名が一番暑い日 大野木康夫

8月5日の日曜日、桑名に石取祭の本楽を見に行きました。
石取祭は国指定重要無形民俗文化財で、ユネスコ無形文化遺産にも指定されています。
祭車(さいしゃ)と呼ばれる山車を各町内ごとに繰り出しますが、祭車には太鼓と大鐘が取り付けられ、それを打ち鳴らしながら進んだり、曲打ちを披露したりするので、「日本一やかましい祭」と呼ばれています。

祭が動き出すのは午後からなので、午前中は、旧諸戸氏住宅(六華苑)を見学しました。

六華苑は桑名の町の北郊に位置しており、ジョサイア・コンドルが手掛けた洋館とそれに続く和館、池泉回遊式の庭園で知られています。
訪れる人も少なく、静かなたたずまいでした。
和館の座敷に座っていると、セミと前撮りの一行の声だけが響いており、風が吹き抜けて、久しぶりに日中に涼しさを感じることができました。

    

午後になると、町の中心部に祭車が集まってきます。
夕方6時半から桑名宗社(春日神社)前で行われる渡祭に備え、38台の祭車が渡祭順に並ぶのです。
祭礼行列は、祭の中心を担う青年会は浴衣や羽織姿で、囃子は主に子どもたちが担います。
この日の桑名の最高気温は37.8度、一時からすれば少しましになったとはいえ、うだるような暑さの中、祭礼行列も休み休み進んでいきます。
沿道の方が道に水をまいたり、冷たいお茶の接待をしたり、日陰に床几を出したりして行列をもてなすなど、地域に根付いた祭となっています。

             

この後石取会館で涼んでから、夕方に渡祭が行われる桑名宗社前に行きました。
渡祭が始まる6時半が近づくにつれ、人が多くなります。

  

渡祭が始まりました。
祭車は南側から来て方向転換をし、山形提灯や後ろ幕を立てて楼門の前に停まります。
青年会は、祭歌「おかっつぁん」を歌いながら、祭車の後ろに集まり、太鼓の打ち手が新しいバチに巻かれたのし紙を勢いよく外して、力いっぱい叩き始めます。
大鐘は4つ又は6つ付けられており、叩き手は体重を預けて力いっぱい叩くので、途中でバチが折れるのを何回か見ました。
叩き方は祭車ごとに微妙に変わっています。

              

20台ほど渡祭を見てから、田町の交差点に行って祭車の曳き別れを見ました。
渡祭を終えた祭車が4台ずつ交差点に集まって同時に鐘と太鼓を打ち鳴らします。
近くまで行くことができるので、迫力があります。

       

祭は深夜まで続きますが、10時頃になって、暑さのためビデオカメラのバッテリーが早くなくなってしまったので、帰ることにしました。
祭車が曳き別れを待っているのを見ながら、六華苑の駐車場に戻りました。
まだまだ暑い夜は続きます。

   

石取祭は、文化財というよりも、地元で愛され、根付いた祭という側面の方が強いと思いました。
この日、祭が始まったのは午前2時の叩き出しということを考えればすごいエネルギーで、一年の中で桑名が一番盛り上がり、熱くなる(猛暑を考えれば暑くなる?)日だと思います。




津和野の鷺舞 蒲池眞佐子

島根県の南西に位置する町、津和野の弥栄神社に伝わる古典芸能神事である鷺舞があります。
毎年祇園祭りの7月20日(ご神幸の日)は町内11ヶ所、27日(ご還幸の日)は町内9ヶ所の昔から定められた場所で舞います。
以前から見たいなと思っていたものが今年は7月27日のご還幸の日に見に行くことができました。
ただただ暑かった。鷺舞を舞う人たちはもっと暑かっただろうに、粛々と神事をこなしていく人たちには頭が下がります。

スタートは市役所前から、舞う時間は8分ぐらいだろうか。スタート地点で舞い、5分ぐらい歩いてまた舞う、という感じです。
初めはカメラマンも結構いたが、だんだんと熱さのせいで減っていく。
撮っているカメラの前ににゅっと出てくるおばちゃん、あーーっと思いながら、いいショットを撮るため結局最後まで行列についていきながらの撮影を試みました。

2羽の鷺が羽を広げた瞬間にはバチバチバチとカメラのシャッター音、狙い目です。
鷺の回りを舞う棒振2人、羯鼓2人の舞も素晴らしい。

見に行ってよかった。しかしながら、津和野の町は喫茶店も少なく、37度の暑さの中、冷を取るのは結構難しいのです。
持って行った800ccの水筒も空になり、やっと見つけたコンビニは極楽。
一番大きいカフェラテを買って駅へ帰還していたら、通りすがりの女性が「あーーーー、それはどこで買われたのですか?入ろうと思っていた店ももう閉店していて・・」と地獄に仏、の言葉が浮かぶようなお顔をされた。
赤いお顔だったので、極暑の中、飲み物場所を探されていたんだろう。ここらでは、ほとんどない店も4時には閉まってしまう。
駅についても、冷暖房もない駅で、電車は50分待ち。車を利用しない地方への観光は結構つらいものです。


    
■ 近江(滋賀)の聖地(パワースポット)−4  中山辰夫

前月に続いて高島です。この7月21日、高島市の新旭安井川の南畑・下平両古墳群から、5世紀後半から7世紀に築造された古墳10基が新たに確認されました。副葬品として、有力者の埋葬を示す装身具の金環7個、他が出土。「古墳時代後期の約180年にわたる古墳の変遷を追うことができる珍しい事例」とのことです。
場所は、湖西を代表する遺跡が連綿と営まれてきた台地である饗庭野丘陵の東端部に位置しています。安曇川流域を治めた実力者が弥生時代から中世末までの間に築造したものとされ、中央政権にも認められていたことで、この一族が長期間存続できたのではと推測されています。


17−針江・霜降のカバタ 高島市新旭町

高島市新旭町の針江・霜降地区周辺では、地下20m程度の深さに鉄管を打込むと安定した豊かな地下水が自噴し、生活用水として利用されています。集落のあちこちで地下水が自噴し、流れ込む水路や針江大川(70%が湧水)は清らかな水質を保ちつつ町中を潤し琵琶湖に戻ります。
    

この地区では、約160余戸数のうち約110戸が家の内・外にカバタを設置しており、200年前生成したとされる湧水を利用しています。

カバタは湧水を利用した独特の洗い場(台所)です。仕組みは、地中から湧き出た水は、最上流部の「元池」〜「壺池」に溜められ、最後の「端池」ではご飯粒や野菜くずを鯉などに餌として食べさせた後水路に流す仕組みです。各々の池を経るうちに水の浄化が行われます。
    
有史以来から湧き続けているであろう生水は地区内の住民の手で維持管理されています。正に「近江水の宝」として重要です。


18−中仙寺山と中仙寺 高島市マキノ町浦

       
珍しく情報の少ない山と寺です。中仙寺山(標高:388.5m)の中腹にあって、泰澄上人の創始によると伝えられる山寺です。
狭い山道を登り続けると、石段が現れ忽然と大きなお堂があらわれます。お堂の背後には麓の水源となる大きな池があったといわれます。
訪れた日は7月17日。年一回観音堂が開かれる「観音の日」の縁日でした。集落の人々がお参りし、堂内で「お籠り」をされます。
泰澄が彫ったと伝えられる秘仏千手観音立像(国重要文化財 33年毎に開帳される)が堂内に安置されています。
電気も水道もない難行の聖地を、今まで集落の人々が延々と護り続けて来られましたが、高齢化と若人の流出が厳しい課題を生んでいます。


19−海津天神社 高島市海津町

    
海津を見下ろす山裾にある神社。1191(建久2)年の勧請、菅原道真を祀ります。信長の兵火を受けた後、秀吉・徳川家光の庇護を受け、その後も朱印状を得ました。本殿3殿が並びます。狩野山楽筆の絵馬一対で知られています。
「波路遥かに行く舟の、海津の浦に着きにけり」は『謡曲・安宅』の一部。源義経主従十二人の作り山伏が海津を経て北陸へ落ちのびる部分の描写です。海津を通る西近江路が北にのびて国境を越えて越前に入る厳しい道程ノスタート地点でした。
社宝として、平安時代末期の法華経8巻に開経・結経を合わせた10巻や、徳川3代将軍家光の朱印状、狩野山楽(かのさんがく)筆の板絵著色絵馬など、すぐれた文化財が数多く保存されています。これらは、10月10日に一般史公開されます


20−海津大崎と大崎寺 高島市海津町

     
海津の集落から先は花崗岩の岩礁が湖に迫り、陸地が半島状に湖に張り出します。その先端が海津大崎で岬の先に大崎寺が建っています
道路に沿って桜並木が続き桜の名所として有名で、春四月には数百株の桜が華やかに咲き誇ります。
琵琶湖に突き出た岩礁に建つ大崎寺は泰澄上人が開くところと伝え、聖徳太子作と伝えられる観音秘仏を祀っています。
眼下には水中に入る豪快な絶壁が延び、前方4q先には竹生島が、右手には遠く今津が見えます。琵琶湖北端の景勝地です。
山の力と湖の力が交わる聖地に祀られた神仏の一つです。


21−海津・西浜・知内の水辺景観 高島市海津町

       
海津は琵琶湖と内湖の間に発達した自然浜堤に発達した集落です。水陸両面の貨物輸送の機能を担ったことから、港や宿場としての機能に加え醸造業や伝統的な産業がおこり今も続いています。街道沿いには商家の名残を残す建物が多く残されています。
この地区の湖岸には築造された長大な石垣があります。ここの集落は、琵琶湖の風波によって流失する危機に絶えずさらされていました。対策として1703(元禄16)年に、距離約1.2qの石垣が築造され、以後も修復を繰り返し現在に至っており、特異な景観を呈してます。


■ 大正天皇をめぐって その2 三島中洲 野崎順次


田舎の家に掛け軸がいくらかある。古記録をたどると、戦前、財政的危機に陥った時、いいものは売り払ってしまったようだ。水墨画が数本あるが、近くの古道具屋さんに見てもらうと、贋作だと即断された。だが、力強い表現力なので、特に気に入った山水画を床の間にかけていた。ところが、紐が切れてしまった。修理するほどのこともない。代わりに丈夫そうな比較的新しいものを選んだ。それが三島中洲、八十六歳自画自賛の書画である。祖父のお好みだったようだ。そう言っては失礼かもしれないが、「ぽったりとした」筆致である。床の間に掛けることにした。

 

三島中洲について調べてみた。

出生: 文政13年12月9日(1831年1月22日) -
死没: 大正8年(1919年)5月12日

江戸時代末期から大正時代の漢学者、東京高等師範学校教授、新治裁判所長、大審院判事、東京帝国大学教授、東宮御用掛、宮中顧問官、二松學舍大学の前身となる漢学塾二松學舍の創立者である。重野安繹、川田甕江とともに明治の三大文宗(文章・文学の面で一派の祖と仰がれるような大家)の一人に数えられる。正三位。大東文化協会初代理事長。本名は毅で、字は遠叔、通称貞一郎、中洲は号。

さらに特筆すべき点を述べると、

@ 13歳にして備中高梁の山田方谷に従学し、14歳の時には塾長となる。さらに津藩の斎藤拙堂に師事、松山藩へ出仕後、江戸昌平黌に遊学し、佐藤一斎らに学ぶ。

山田方谷は知る人ぞ知る大偉人である。司馬遼太郎いわく「木戸孝允より3倍ほど人間的に偉かった河井継之助が、日本で一番偉い人だと考えていた」、安岡正篤いわく「古代の聖賢は別として、近年の偉人といえば、わたしはまず山田方谷を想起する」。

また、JR伯備線の方谷駅はJRの駅で唯一の人名由来の駅である。その命名には地元民の熱心な要望に加えて、大正天皇と関係の深かった三島中洲(当時既に死去)の影響力があった。

A 戊辰戦争の際、松山藩が朝廷のとがめを受けたが、方谷らとともに尽力して藩の存続を認めさせた。
B 明治5年、朝廷の召しに応じて法官となる。常陸(茨城県)の新治裁判所長などを経て、明治10年に現職大審院判事が廃官となり退官。
C この頃、西洋の学問が急激に流行したが、東洋の道徳学問の重要性を強く認識し、明治10年に漢学塾・二松學舍(二松學舍大学)を創設した。夏目漱石や嘉納治五郎が学んだ。

中洲は渋沢栄一と親交が厚かった。その関係は、渋沢が明治15年9月より東京帝国大学講師として日本財政論を担当するようになってからだが、直接には明治16年、渋沢が前室宝光院(俗名千代)の碑文を中洲に依頼したときにはじまる。渋沢は「論語」の倫理思想を現代的に解釈し、「道徳経済合一説」を説き続けた。大正8年、第3代二松学舎舎長に就任し、二松学舎の発展に尽力する。

大正天皇との関わり

大正天皇は文人として、明治天皇や昭和天皇より優れていた。創作した漢詩の数は実に1367首もあり、質量とも歴代天皇のなかでも抜きんでている。その手ほどきをしたのが三島中洲である。明治29年、中洲は東宮侍講となり、天皇(皇太子)は18歳であった。お二人の相性の良さは「じつに天の配剤の妙趣を感ぜしめる」といわれる。晩年まで大正天皇に近侍して進講し漢詩を添削した。

お二人の関係を示す面白いエピソードがある。全漢詩連の会長通信 2010年05月15日より、石川忠久会長「三島中洲のこと」から引用する。

「大正天皇(当時皇太子)に侍講として仕え、その師弟の間柄はまことにほのぼのと、時にくだけて茶目気たっぷりでもある。

 一例を挙げよう。大正天皇の御作。
   三月二十日遊大崩遇雨帰
   三月二十日、大崩に遊び、雨に遇いて帰る
東風嫋嫋草色青 東風嫋々草色青し
天気不定陰又晴 天気定まらず 陰又晴
散歩且誘中洲去 散歩且つ中洲を誘ひて去く
途中遇雨歩空停 途中雨に遇ひ歩空しく停まる
中洲忽卒不言別 中洲忽卒に別れを言はず
飛降峻坂足自軽 峻坂を飛び降り足自ら軽し

明治42年3月、葉山の大崩という所で散歩している時に、俄雨に遇い、中洲が慌てふためく様子が活写されている。末尾の「中洲は俄かにサヨナラも言わず、峻しい坂を飛び降り、足取も軽く行ってしまった」という。師弟の間の親密さと、中洲の老いて钁鑠たる(当時は80歳)さまが窺われておもしろい。」

最後の付け足しである。最近、奇石を求めて訪れた笠岡諸島高島の巨大石碑の書は三島中洲のものだった。どこかで見た「ぽったりとした」字だと思った。

  

参考資料
ウィキペディア「三島中洲」
山田方谷マニアックス



筑波実験植物園 川村由幸

今年の夏は暑い。その暑いさなかに筑波実験植物園に行ってきました。
 
ここは国立科学博物館が運営し、植物の多様性を知り、守り、伝えることを目的とした植物園です。
しかし、真夏の植物園は格別に暑いのです。温室に入るのですから当然と言えば当然ですが。
そして夏は花も少ない時期なのか、小さく地味な花が多いのです。
  
それでも花にばかり目が向きます。
ここには約三千種の植物が生育しているのですが、どれが希少植物なのか全く解りません。
動物なら絶滅危惧種などの情報がいくらかありますが、植物の場合それがないのです。
もちろんそれは私だけに知識がないとこうことですが。
ですから、緑色でない花にばかり目が向いてしまいます。
それでも希少種かどうかは不明ですが花の無いめずらしい植物も多くあります。
  
そしてここは夏休みの子供たちの絶好の学習の場になっています。
私が訪問した時にも父親や母親に連れられた子供たちと多く遭遇しました。
植物園側もそれに合わせて「夏休み植物フェスタ」いう企画展を開催するほどです。
敷地面積140,022m2 夏に歩くのには過酷な広さです。私は入園して1時間も経たないうちに冷房の効いた車で 自宅への道を急いでおりました。次は秋の「つくば蘭展」に出かけてみようと思います。




■   古希も過ぎていく  田中康平



記録破りの暑い夏が続くが今年の夏はちょっといいことがあった。
古希は数えで70才だから去年と思っていら、今年になって子供たちが古希のお祝いをやるという。数えという歳の数え方がもうすたれてしまっていて、何でも満というのが当世風のようだ。
老いては子に従えとお任せにしていると、記念の贈り物をまずは受け取ることになった。贈り物が何なのかは事前には明かしてくれなかったが、天神の指定された所で落ち合って向かった先は眼鏡屋だった。
Talexという高級な偏光サングラスをプレゼントするという。フレームもそれに合わせた高級感のあるヒンジレスのメタルフレームとなりレンズは度付きの遠近両用となって、価格は教えてはくれないものの、とても自分では買わないような代物となった。思いも及ばなかったが贈り物らしいというえばそうかもしれない。
3週間後にできてきて、かけてみると確かにどこへ出かけても決まるような感じがする。
車の運転も楽だ。暑い日差しの中でも気が休まる。いいものをもらった。
そのあと暫くして今度は国内にいる孫・子が集合して食事会までやってくれた。こんな機会でもないと皆が揃うこともなくて有難いばかりだが、もう70年も生きてしまったかという感慨がある。
夏目漱石は48才でなくなっているしあの髭の伊藤博文でも68才で亡くなっている、70年も生きれば十分と思うべきなのだろう。
それにしても 居並ぶ孫の顔を見ていると人類としての責務をささやかながら果たせたのかもしれないという思いがある。
古来稀れなり といわれた古希も過ぎていく、長く生きるのもこんなことがあると悪くもない、もう20年位は生きてみようか、暑い夏も冷房の効いた部屋でのんびりしながらそんなことを考えている。

■看板考 No.68 「三菱かつらエンジン」・「三菱メイキエンジン」   柚原君子



2018.07 長野県小県郡長和町和田、中山道にて

三菱エンジンシリーズの温かくやわらかみのある楕円形のホーロー看板です。ホーロー看板はマニアにとったら垂涎ものの場合もあります。現在の相場はどのくらいかとヤフーオークションで検索したら「三菱かつらエンジン」の方は3,500円(看板考のかつらは赤色ですが、三菱と同じ色の青もあるそうです)、また「三菱メイキエンジン」の方は6,500円と出ていました。看板年齢は63歳(昭和30年代頃のもの)くらいと思われます。

看板でいう「エンジン」は自動車のエンジンではなく農作業に使われる石油発動機。詳しくはわかりませんが、PRしているエンジン単体では単なる発動機で、例えば歩行型トラクターや脱殻機にベルトやポンプによって動力を伝えて、農作業の重労働が軽減するという機械だそうです。

石油発動機は明治時代に輸入されて、大正時代には国産メーカーが400社くらいあったそうですが、そのうちの多くは自動車や機械メーカーへと転身していき、クボタ、三菱、ホンダ、イセキ、共立、ヤンマーなどが農業関連として残ったそうです。「僕の名前はヤンマー?」「イセキ農機」など小さい頃に農村で暮らした記憶の中にあります。

現在はクラッシックエンジンと呼ばれることもあり、例えば、<小林式木炭ガス発動機12馬力と小林式木炭ガス発生機なるものは、戦前の製造ですが立派に動き2012年に産業考古学会(推薦産業遺産)、2015年に日本機械学会機械遺産に認定されました>などというニュースもネット上にはあります。このように産業機械遺産として認定されることも、また、マニアがいて農家を回って既に使われなくなって放置されているエンジンを集めているグループもあるそうです。

看板は昭和30年代頃のものですが、買うとなると10万円くらいはしたそうで、現在のお金に直すと100万円〜500万円くらいでしょうか。生家は農家でしたが、農閑期には道路工事に出ている父でしたので、エンジンなど買うお金は無かったようで、米の脱殻は父がゲートルを巻いた足で勢いよく踏んで回しているものでした。

ちなみに看板にある「メイキ」とは三菱系列の名古屋にある機械工場で作っているもの、という意味がブランド名になったそうです。(注:2017年10月1日、三菱重工エンジン&ターボチャージャ株式会社と三菱重工エンジンシステム株式会社からメイキエンジン関連事業を承継した三菱重工メイキエンジン株式会社が設立し、同事業を行っている)

「かつら」の方は分かりませんでしたが、何かとカタカナの多い中、日本人にとって和名は矢張りホッとする気持ちになれるなぁ、と改めて看板に見入りました。


■ おばちゃんカメラマンが行く @保護猫カフェ 池袋  JG事務局

里親探しの自走型保護猫カフェ 「ネコリパブリック」へ行く。
池袋の駅から数分のビルの一室に保護猫カフェがある。
もっと殺風景な感じのカフェを想像していたが、少しおしゃれでとても清潔感のある空間だ。
受付で簡単な登録をし、手足の消毒の後、猫ちゃん達がいる部屋へ進む。
入口の猫の写真に年齢などのプロフィールが書いてある。
猫タワーや大きな爪カリカリ、可愛いベッド、おもちゃが置いてあり楽しい雰囲気だ。
傍らに置いてあるおもちゃで猫ちゃんをじゃらしたり、寄ってくる子をなでなでしたりと普通の猫カフェ(あまり経験がないが)と変わらない。
違いは相性が合えば里親になれるということだ。
ちょっとビビりちゃんもいるが、皆それぞれ愛嬌があってフレンドリーで可愛い。
帰り際に顔の毛がまだらになっている猫(チャイ)のことを尋ねると、保護された時、顔にやけどがあり、やっと生えてきたということだ。
ここにいる猫たちはそれなりに厳しい猫生を送ってきて、やっと安住の地を見つけたのだろう。
良い里親さんに巡り合える事を心から願っている。

この保護猫カフェは2022.2.22までに行政処分による猫の殺処分ゼロを目指しており、お店の利益は保護猫たちの猫助けになるそうだ。
カフェの代金は最初の30分1100円で、30分延長するごとに500円チャージされる。現在全国7店舗あるそうだ。

保護猫カフェ 「ネコリパブリック」


やけども治り元気いっぱいのチャイ君♂2才


今月のにゃんこ
保護猫カフェで、猛烈にアピールするキキ♀2才


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Editor Yukinobu Takiyama
yuki at japan-geographic.tv (Replace at to @)
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