Monthly Web Magazine Dec. 2021
■ 天念寺耶馬で修行 -国東半島の行場は危険だらけ- 瀧山幸伸
文化財の調査は大なり小なり危険を伴う。大分の耶馬渓と福岡の英彦山周辺の山岳地形は史跡名勝天然記念物などの文化財指定にふさわしい険しい断崖絶壁に満ちている。
特に大分県各地にある耶馬渓は国の名勝に指定されているが、絶景を楽しむ場ではなく修行崇拝などの宗教的行為、いわゆる民俗文化を体現する場で、自分は世界遺産にふさわしいと考えているが、その本質的価値を認識している人はほとんどいないのではなかろうか。
今回訪問した天念寺の背後にある耶馬は、修験者、行者、六郷満山の修正鬼会などの当事者しか近寄らない甚だ危険な行場だ。転落事故などが発生したためか、いわゆる不埒な輩や軽装の観光客は入山禁止と警告されている。 天念寺耶馬も名勝に指定されている中の一つで、恐怖に満ちた空中架橋の無明橋などがある。
修正鬼絵の峰入り行はほとんど行われなくなり、20年ほど同行調査の機会を探っていたが未だ叶っていない。昨今のコロナ騒ぎでほとんどの民俗文化財的行事が中止となり、峰入りも次回はいつになるかわからない。いつもは麓から仰ぎ見るだけの耶馬だったが、今回初めて行者と同様の峰と岩屋の巡礼を体験することができた。
ジャパンジオグラフィックの理念に従った調査手法は、本来の姿を忠実に調べ、本来の価値をきちんと後世と世界中に伝えることなので、テレビ番組やYouTuberなどとは正反対の、学術と歴史文化を重視した地味な行為だ。安全重視で慎重に調査するが、それでも今回は怖かった。
しつこいようだが一般の方は絶対に立ち入らないでほしい。中津耶馬渓の古岩屋も恐怖に満ちていたが、無明橋を渡る修行はこの世とあの世を繋ぐ結界のような存在で、一歩踏み間違えばあの世へ旅立つほど極めて危険な所だ。今思い出してもぞっとする。
■ バスの窓から見た明日香村 野崎順次
今年の11月3日に、明日香村「川原」から「橿原神宮前駅東口」まで赤かめバスに乗った。そしてカメラを1/1000秒、露出オートにセットして、車窓からの景色を撮影した。窓ガラスは熱線吸収のため少し色がついている。これがRAWからJPEGに転換するときに微妙に影響してレトロ調になった。またシャッター速度が速いので、動く人がぶれない。その結果、「ヘタウマ」の写真になったと勝手に自負している。
川原寺跡
石舞台
岡寺前あたり
飛鳥大仏
飛鳥資料館西(北方向)へ向かう時、西方に甘樫丘、畝傍山、雷丘が見える。
左折して、南方向の眺望となる。
橿原の町に入る。
橿原神宮前駅地下道のレリーフ(昭和14年)、九州の古墳の彫刻をデザイン化
■割引切符 大野木康夫
9月末に通勤定期を購入したら、特典で11月中にJR西日本の京阪神近郊区間内1日乗り放題1,000円の切符を買うことができるようになっていたので、乗用車では効率が悪い阪神間の文化財建造物の撮影に使用しました。
初めは尼崎の寺町に行きましたが、阪神尼崎が最寄り駅でJR尼崎は少し遠いので、大阪駅で阪神電車に乗り換えました。
本興寺
重文建造物3棟とも、少し撮影しにくいシチュエーションでした。
今年は宝物公開も中止されたようですが、天下五剣のうち、近世において最も数奇な運命(身延山で盗難⇒大阪の刀剣商が売り出し⇒本興寺が購入)を辿った日蓮聖人の破邪顕正の太刀、数珠丸恒次はいつか拝観したいと思います。
長遠寺
次に西宮神社に向かいましたが、より便利な阪神電車を利用しました。
西宮神社
「十日戎開門神事福男選び」のスタート地点である表大門は修復されて鮮やかな朱色でした。
大練塀は修復工事の終盤でところどころ最後の化粧塗りがなされていませんでした。
西宮神社からさくら夙川駅まで歩いてJRで芦屋まで移動しました。
旧山邑家住宅(淀川製鋼迎賓館)
大谷石をふんだんに使った外観も内部の保存状態も良好でした。
一時期は社員寮であったというのも興味深いです。
次は阪急電車で芦屋川から王子公園まで移動しました。
旧ハンター住宅
王子動物園の中にあり、参観するには動物園に入る必要があります。
ここから新神戸までは歩いたほうが早そうだったので、歩きました。
布引水源地に行くか、北野の洋館や相楽園に行くか迷いましたが、ロープウェイで布引水源地に行きました。
布引水源地水道施設
ロープウェイで上ると、五本松堰堤が遠望できるのと、下りだけでかなり楽ができます。
多くのハイカーでにぎわっていましたが、冬の方が撮影しやすかったかもしれません。
徳光院
布引水源地を下る途中にあるので立ち寄りました。
最後は砂子橋で、そこから三ノ宮まで歩いて京都に帰りました。
結局、JRを利用したのは、京都~大阪、さくら夙川~芦屋、三ノ宮~京都の3回でした。
3区間の通常運賃の合計額は1,800円でしたので、差し引き800円の節約にしかなりませんでした。
それでも、訪問しにくかった阪神間の文化財建造物を訪問するきっかけになってよかったと思います。
今月より1400年代「室町時代中期」に入ります。
添御県座神社(奈良・重文)、勝手神社(滋賀・重文)、大笹原神社(滋賀・国宝)、荒胡子神社(広島・重文)、春日神社(滋賀・重文)、大行社(滋賀・重文)、水渡神社(京都府・重文)とその近辺の久世神社(京都府・重文)・白川神社(京都府・重文)、佐牙神社(京都府・重文)です。
1401年頃から91年頃までは、広範囲な後発地域での中規模な寺院の勃興期、建築技術面は停滞するも、彫刻的装飾は発展、製材職人の専業化が進んだとされています。相変わらず限られた地域(おもに西日本)の情報ばかりです。
■ 富士は日本一の山? 酒井英樹
『新高山登レ一二〇八』
ちょうど今から80年前の昭和16年12月7日(日本時間8日)に太平洋戦争の始まりを告げる真珠湾奇襲攻撃(日本名:布哇比海戦)の実施日を大日本帝国が帝国海軍機動艦隊に向けて送った電文。
ちなみに作戦中止の場合は『筑波山晴レ』『利根川下レ』と諸説ある。
いずれも暗号電文には日本の山河の名称を使っている。
では、新高山って???というとすぐに思い浮かばない。
新高山とは日本一高い山のことを指す。
と、言うことは富士山の別名?
ではなく、かつて日本に存在した富士山より高い山の名前。
現在の日本最高所は富士山剣が峰(標高3776m)。じゃあ、新高山は現存しないのかというと、そうではない。名前を『玉山』と変えて実在している。
=玉山(かつての新高山)=
場所は、北緯約23度付近、沖縄のさらに南西・・富士山から数千キロ離れた台湾に存在する。
台湾は明治28年(1895)の下関条約(日清戦争の講和条約)で清国から日本に割譲され、昭和20年(1945)まで日本が統治し、国際的に認められた日本領であった。
そのため、1941年当時で日本の中で一番高い山は富士山ではなく新高山(標高3952m)となる。
=玉山頂上(かつての日本最高所)=
♪頭を雲の上に出し・・♪
で始まる童謡『富士の山』(作詞:巖谷 小波)は1910年に発表された。
歌の最後のフレーズ・・
♪・・富士は日本一の山♪
だが、ここでの日本一という規準にもよるが、少なくとも高さにおいて歌の発表当時は日本一ではなかった(富士山より高い山が3座8峯あった)ことになる。
=河口湖からの富士山=
=富士山剣が峰(平成4年撮影)=
測候所のレーダードームが残っている。
=日本最高所(3776m)(平成4年撮影)=
比較的親日派の多い台湾の中で、新高山付近は最後まで日本統治に抵抗した地域で、日本の統治にはいくつかの独立運動(日本側にすればテロ行為)があった。そして戦後も環境保護の観点から玉山は入山規制が厳しく容易に登れる山ではなかった。
しかし、コロナ禍前までの話だが、最近になって山小屋に1泊2日の地元ガイド付きツアーで登れるようになった。
国家間に翻弄されたこの山、近頃の台湾海峡を巡って不穏な国際情勢に再び翻弄される恐れがないとも言えない。
コロナ禍の規制がなくなれば、平和な現在のありがたみを噛みしめながら登るのも一興かな。
■2022年の卓上カレンダーを作っている 田中康平
年もつまりせわしないが、このところ毎年年の瀬には来年の卓上用のカレンダーを作っている。写真を選んで指定サイズに揃え説明も書きこんで作ってくれるところにネットで送れば、指定の送り先に送ってくれるというサービスを利用している。今年撮った写真を毎月一つ選びそれを来年のその月の写真とする、という方針でこのところ毎年選んでいたのだが、今年は殆ど出かけていないので選ぶのがきつい、オリンピックとコロナが重なった7,8,9月あたりが特にきつい、そういう年だったと思い返している。やっとできて昨日送り出せた、子供たちや友人の何人かの宛先に送っているが年内に届くかどうか、これも継続は力と思って続けている。
添付は順に1月から12月までの選んだ写真:1月高宮八幡宮、2月小戸公園、3月樋井川の桜、4月久留米森林つつじ公園、5月千寿の滝、6月志賀島、7月近くのスイレン、8月百道海岸、9月自宅の月下美人、10月タデ原湿原、11月油山市民の森、12月室見川河畔公園
■雨の日に博物館 川村由幸
雨は文化財の撮影には天敵に近い天候です。
12/8 週日の休日に久しぶりに撮影にと考えていたところ、前日の夜から大雨。
結城にでも行き見世蔵を撮影しようかとの目算でしたが、この雨で断念。
どうしようかと思いを巡らせていると「雨の日は博物館」のフレーズが浮かび、佐倉市の国立歴史民俗博物館へ車を走らせました。
途中も激しい雨で野外の撮影は完全にNG状態。屋根のある博物館で時間を旅することにして大正解でした。
ここの展示は6ブロックに分割されていて、
第一展示室 先史・古代 第二展示室 中世 第三展示室 近世
第四展示室 民俗 第五展示室 近代 第六展示室 現代
というふうに時間とテーマが分割されています。第四展示室のみが時間軸に直接関係のない展示となっています。
第一展示室
ナウマンゾウから銅鐸まで展示されているとても長い時間が展示されています。パンフには3万7千年前から10世紀までの展示との記載。
気が遠くなるほどの時間です。
第二展示室
平安から安土桃山時代までの展示で王朝文化から鎌倉時代の武士の台頭がわかるような内容となっています。
第三展示室は江戸時代の展示ですが、現在は見学ができない状態でした。
第四展示室
祭や風習等、日本の伝統的な文化の展示です。
第五展示室
ペリー来航から近代製鉄の導入まで激しく時代が動いた明治を中心とした展示です。北海道開拓とアイヌに関する展示は
興味深いものでした。
第六展示室
第二次大戦から1964年の東京オリンピックも展示されています。戦後の展示は自分の生きていた時代ですので「知っています」
という言葉の出る展示が多くありました。
一つの展示室に20分かけても100分、あっという間に2時間が過ぎていました。
途中から小学校の高学年の児童も多数入館して来ていて、場所によってはいささか密状態にもなり始めましたので
見学を切り上げました。
「雨の日は博物館」なかなかに良いものでした。ちなみに私はこの博物館は二度目でしたが興味が尽きることは全くありませんでした。
■ 看板考 No.105 「トンデレラ シンデレラ」 柚原君子
ミイラが発見されても古代化石が遺跡から出現しても大ニュースなのに、三億年前からある生きた化石といわれているのに見向きもされないどころか嫌われ者の「ゴキブリ」。最近の研究では三億年ではなく二億六千万年前、カマキリから枝分かれしてものというのが通説になっています。
古来の名前はゴミをあさるということで「阿久多牟之(アクタムシ)」。
ゴキブリの語源はさだかではないものの「御器かぶり」が変化したもので、つまりは器にある食べ物に寄ってくるということなのでしょうか……ともあれ、可愛がられた過去はどうやら無いようです。
奇妙な黒光りは気持ちが悪く、またゴキブリはばい菌を運ぶかたまりとみられ下水の中からでも顔を出してきて食べ物の上を走り回ることが、衛生上とても悪い害虫とされています。
またゴキブリの目はどこにあるのか解かりませんが、捕まえようと身構えると敵もジーとして様子をうかがい、最悪の場合、羽をばたつかせて向かっくることもあり、気持ちが悪い上に怖い虫のイメージもあります。
私は実家が食堂でしたので、ゴキブリを退治する煙を焚いても二三日もすると調理場に出没します。近所で一斉に退治しなければ、いやそのようにしても二億六千万年前から生き続けている生きた化石を絶滅させる対処はないので、だから生き延びていると言えるのでしょうね。
当該看板は浅草で見つけたもの。ゴキブリに見えない絵や、強力のツヨイという字が旧字で相当古い看板かと思われます。
キンチョールはゴキブリを初めとする害虫を殺す液体ですが、殺すとダイレクトに言えないので「トンデレラ!シンデレラ」「ゴキブリホイホイ」など、テレビコマーシャルも笑いの方面に意識を向けるようにして気を遣っているようです。
キンチョールは金とオイルを組み合わせたネーミングで、金鳥のマークは鳥の頭の部分だけです。それには理由があって中国の歴史書「史記」の一節の「鶏口と為るも牛後と為る無かれ」が創始者の信条。業界の先駆者として「鶏口」となる気概を、「金の鳥の口のある顔の部分で表し、そしてその下に創始者である自分の名字「上山」をいれています。
冬眠もせず一年中動き回り、せめて玉虫色であれば良いのに、憎たらしいくらいの黒光りで腹にとてもたくさんの子供を持つゴキブリ。自宅台所をいくらきれいに保っても、ベランダから飛んで入ってくるのでどうにもならない。テントウムシや蜘蛛が居室に入ってくると、丁寧に手で柔らかく囲みベランダの樹木の上に乗せてやる我が家だが、ゴキブリだけは、やっぱりどうにもならない。が、一匹を逃すと大変な事になるので、キンチョールで追いかけて、噴霧した場所をきれいに拭き、近辺に食器が有れば洗い直し、ザルも鍋もゆすぎ治すことになる。ほんとうに憎っきゴキブリである。
山梨県甲府市 昇仙峡 やる気のない招き猫 「お暇なら来てよね~♪」
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Japan Geographic Web Magazine
Editor Yukinobu Takiyama
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