Rokugomanzan,Kunisaki peninsula,Oita
Kunisaki city/Bungotakada city/Kitsuki city/Usa city,Oita Prefecture
「国東半島、耶馬渓、英彦山周辺の神仏習合と文化背景〜世界遺産への道」
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2010年の春、10年ぶりに峰入り行が行われた。白装束にわらじ錫杖姿で、僧20名と一般100名が宇佐神宮奥社で開白護摩をした後、熊野磨崖仏を起点に各霊場を巡り両子寺まで、6日間で150キロを歩く。
比叡山の千日回峰行ほどの厳しさは要求されないが、遊び半分で山に入ってはならない。私は個人で霊地の巡礼をしているが、単独行はなにかと怖い。
今回紹介する霊地各所の行場は観光やパワースポット巡りの目的には全くお勧めしない。むしろそのような目的には災厄が降りかかるほどシリアスな修行の世界だ。
神仏習合の原点
中央構造線が九州で二つに割れたその内側では、割れ目からマグマが噴出すように、阿蘇、雲仙、別府などの活発な火山景観が見られる。
国東半島はそれよりも北に位置する古い火山地形であり、麓では浸食が進んだ穏やかな地形と温暖な気候が豊かな植生を育み、古代から今日まで自然と一体となった人々の営みが脈々と続いている。
火山の山頂部に位置する両子山はじめ多くの峰は粘性の高い安山岩を主とする釣鐘型であり、麓の村から仰ぐそれらの景観は、蓮華の台座に載る菩薩のごとく幻想的で穏やかである。
だがひとたび山中に分け入ると、目の前には凝灰岩が浸食された筍状の岩峰群が屹立しており、圧倒的な威圧感と超常的な畏れを覚える。
人によって宗教観の違いはあるものの、それらは自然が化身した怪人であり、神々であり、仏であり、霊塔であり、岩峰群自体が信仰の対象であることを実感する。
岩峰群の足元には、人がやっと潜り抜けられるような狭い割れ目や洞穴、自然の岩屋などがあり、麓の老若男女と信仰の対象とをつなぐ社祠や岩窟寺院となっている。
ここからさらに奥の結界を超えて岩峰群を登攀し縦走することは、山岳宗教の行者の世界であり、峰入りと呼ばれている。
六郷満山の六郷とは、国東半島を構成する六つの郷を指し、満山とは郷内の寺院群の総称で、学問を目的とする本山、修行を目的とする中山、在家布教を目的とする末山に分けられる。
六郷満山は神仏習合の原点と言われる。本山は廃れてしまったが、中山と末山の主要寺院は石造の金剛力士像を持ち、石鳥居を持ち、本堂と奥院を持ち、六所権現堂を持ち、背後に岩峰を持つ。寺とは呼ぶが、神仏諸霊との面会所と呼ぶほうがふさわしい。
ある者は水分(みくまり、水源信仰)の超力として五穀豊穣、子授け安産、病気平癒を祈り、ある者は精神修養の超力として解脱と回生を祈り、ある者は死者との対話の超力として祈る。
修正鬼会(しゅじょうおにえ)と呼ばれる旧正月の火祭りは、五穀豊穣と無病息災を願うとともに、結界を超えた場で先祖との霊的交流を図る儀式であり、仮面を被った鬼は邪悪なそれではなく善良な先祖の化身として迎えられる。
六郷満山に限らず国東半島全体が徹底して石の文化だ。熊野磨崖仏のように崖に仏を刻む者、田原家五重塔のように生前に幸せな来世を願う逆修石塔を建てる者、岩峰の姿をミニチュア化したような国東塔と呼ばれる美しい石塔を建てる者、それぞれである。
自分なりに地理の観点から国東での神仏習合の成立過程を類推してみる。
日本最古級の旧石器時代遺跡と言われる早水台遺跡のように、数万年前から狩猟採集原始アニミズムの人々が住んでいた。
米作の伝来後は西の登呂とも呼ばれる安国寺集落遺跡のような弥生文化が発達し、アニミズムに水源信仰が加わる。
その後古墳時代に強大な力を持った宇佐神宮の関係者による八幡信仰が加わった。
宇佐神宮は謎が多い。祀られる神功皇后の朝鮮出兵も奇異である。福岡の住吉宮、筥崎宮、宗像宮、島根の出雲大社、石川の気多大社などと同様に、航海など高度な技術を持った渡来人の影響を強く受けているのではなかろうか。
これらの神社はどれも皆船で直接接岸しやすい地理であるが、沿岸漁業や海軍要塞にはふさわしくなく、海上交通の覇権を握った人々が力を誇示するにふさわしい地理である。
航海人と朝鮮半島を強く意識した境内の立地と方位、いざという時には造船資材となる常緑広葉樹を確保させるための境内森など、共通点が多い。
国東半島の山は航海の目印であり、宇佐神宮の人々もまた岩峰群の一つの御許山を奥宮とあがめ、徐々に既存のアニミズムと一体化したと考えられる。
宇佐神宮独特の八幡造という二重の本殿建築は、海人の先祖を祀る船を象徴しているのではなかろうか。豊後水道対岸、松山の航海の要所、熟田津(にぎたつ)の港を見下ろす丘にそっくり同じ形式で伊佐爾波(いさにわ)神社が建立された理由も理解できる。斉明天皇が新羅征討のため九州に向かう途中、従っていた額 田王が万葉集に詠んだ歌、「熟田津に 船乗りせむと 月待てば潮もかないぬ 今はこぎ出でな」は宇佐神宮とも密接に係わっている。
また、八幡信仰の「ヤハタ」の音は渡来人の秦氏との関連が想起される。
その後8世紀に密教が加わるが、密教と山岳宗教は非常に近い。
修験者は宗教者であると同時に学者であり、地理を熟知したハイテク技術者の側面も強かったのではなかろうか。鉱脈を探る鉱山技師であり、薬草採取者であり、新品種の伝来者であり、医者であり、天文を管理して治水土木と運輸を指導し、諸国事情に通じたマスコミであったと考えられる。そのような人々であるから当然に地元の人々に受け入れられた。
16世紀の切支丹についても同じような理由で受け入れられたのだろう。
豊後大分の切支丹大名、大友義鎮(宗麟)が積極的にキリスト教を保護したため、豊後はヨーロッパにもその名が知れ渡る布教の大拠点であった。国東では日本 のマルコポーロと呼ばれたペトロ岐部が挙げられる。2008年ローマカトリックが列福した「ペトロ岐部と187殉教者」として世界的に有名なのだが、日本ではあまり知られていない。
岐部出身で、彼の母方は大友氏の重臣波多氏で、宇佐神宮の神官をしていた。波多氏も秦氏に通じると考えられる。
霊地巡礼
両子寺は現代の六郷満山を象徴する寺だ。威厳に満ちた石造仁王像を拝み、賑やかな本堂周辺まで往復するだけでは、岩峰群自体が信仰の対象であると言われても実感できないだろう。そのような体験が希望ならば、奥の院からさらに山奥に入るお山巡りで多少その感覚が味わえる。
結界の鎖場を登り、誰も居ない山中に入る。怪人のような岩峰に取り囲まれ、ちっぽけなアリのように見おろされながらその足元を縫うように進むが、周囲の木々も小さな岩さえもその中で諸霊が生きているように見える。
さらに登ると、針の耳と呼ばれる岩壁に開いた小さな穴に吸い寄せられる。穴の周囲には百体観音の石仏が居並び、死者の世界に迷い込んだような雰囲気だ。とても小さくて人が抜けられるとも思えない穴だが、他にう回路も見つからず、意を決して近づくとなぜかするすると抜けられるではないか。
その先もまた地獄の底まで達するような危険な岩峰群だ。滑りながらもそこを登り切ると、鬼の背割と呼ばれる巨大な割れ目に到達する。全国各地の霊場に岩峰や胎内くぐりの割れ目はあるが、ここは愛媛県久万高原町の古岩屋とともに特に強い霊力を感じる。何ものかの霊力に見られている感覚だ。それを神だとか仏だ とか区別できるはずもなく、これこそが六郷満山の神秘なのだろう。
鬼の背割を潜り抜け、緊張が一気に解けた時に感じる無上の安堵感は信仰の種別に関係ない。
天念寺は無住だが、修正鬼会が行われる寺だ。雪の日に見る天念寺近くの岩峰は墨絵のように美しい。手前の岩峰群は須弥壇に居並ぶ仏像のようであり、背後の岩峰群は不動明王の火炎の光背のようであり、まさしく神仏が権化した姿だと体得できる。
河原の岩に刻まれた不動明王、岩陰に立つ茅葺の本堂と諸仏が六郷満山の深く長い歴史を物語る。峰入り行では背後の天念寺耶馬と呼ばれる絶壁に架かる無明橋を渡る。この橋は峰入り行最大の難所と言われる。
天念寺近くの岩峰
無明橋
長安寺は中近世に六郷満山の中核となっていた寺院であるが、今ではシャクナゲなどの花が美しい古刹として名高い。
宝物館に収蔵されている太郎天・二童子像が素晴らしい。六所権現社に修験者の本尊として祀られていたもので、太郎天とは悟りを開いた瞬間に現れる天狗神で、その本地仏は不動明王である。憤怒相の不動明王も悟りを開いた人には童子の姿で現れるといい、みずらを結った童子姿になんとも言えぬ親しみを感じる。
この寺には古い修正鬼会の面も保存されている。確かに、邪悪な鬼の顔ではなく先祖の顔である。
修正鬼会面
岩戸寺は天念寺と同じく修生鬼会が行われる寺である。境内の国東塔は弘安6年(1283)の建立で、銘文のある国東塔として最古、また石造金剛力士像は文明10年(1478)の銘で、銘文のある石造仁王像として最古だ。
石段を登り切ると、鬼岩屋と呼ばれる洞窟の裏手に浸食でくり抜かれた天然の石橋が架かっている。その真下に佇むと今にも橋が落ちてきそうで、激しく超力を感じる。目の前の祠には壁に彫られた子安観音像があるが、明らかにマリア母子像に見えた。
文殊仙寺は独立した岩峰を背負うように立地する文殊菩薩の寺であり、懸崖造りの文殊堂と境内の雰囲気が素晴らしい。文殊堂に湧く泉は知恵の霊水として崇められている。
文殊仙寺文殊堂
旧千燈寺は六郷満山の創始者仁聞ゆかりの寺で、奥院には入定の岩屋、墓などが残る。さらに山頂の五辻不動の岩塊に登ればまさに六郷満山が一望でき、眼下に姫島を見渡すことができる。
応暦寺は隠れ切支丹の雰囲気が濃厚に漂う。
この寺の奥にある有寺は切支丹集落だと言われている。本堂内には子安観音の石像が二体安置されており、その一つは明らかに幼な子を抱くようなポーズで、俯き加減に面長の首を傾けたしぐさはキリストを抱く聖母マリアに酷似している。もう一つは形こそ日本型の子安観音だが、幼子がキリストに見える。宇佐神宮は神功皇后と応神天皇の母子信仰であるし、子安観音もマリアも母子信仰であり、共通点は多い。
『石のマリア観音耶蘇仏の研究』(高田茂/立教出版会)を参考にすると、全国各地でそれらしい石を発見することがある。境内各所には、十字を彫ったもの、シルエットが十字のものなど、一目でそれとわかる切支丹石塔が残る。
石をくりぬいた仏龕の中に石仏を安置する形の墓石もある。それほど古い時代のものではないが、西洋的な気配が漂っており、訪問するたびに不思議な感覚に陥る。一見普通の石だが、よく見れば、これもそうかも。あれもそうかも。
裏山の六所権現社を経てさらに奥に上ると堂の迫磨崖仏がある。閻魔大王の子分である司録像の隣に発願者夫婦の像が並ぶ。その左には六地蔵、六観音などが続く。存命中に来世を託す逆修の磨崖仏であろう。
夕暮れが迫っており、この付近に漂う妖気が「引き返せ」と言っているが、さらに上に、倒れた竹に塞がれ、苔がヌルヌルする荒れた石段が続いている。全国各地のヌルヌル石段では何度も転んで痛い目にあったが、誰も通わないで苔むす石段の先に神秘の世界が待っていることはよくある。
心細くなりながらも登り切ると、断崖の岩屋に小さく籠る奥の院に到着する。この場所に一人佇むと鬼気迫るものがある。周囲には誰もいないが、何ものかに見られているような気配がする。
急に風が起こりザワザワと山の木々を震わせ、我が肌も震える。竹林がギイーーーーーと断末魔のように脅す。「何をしに来たのか」と。ふと真後ろに気配を感じて慌てて振り返ると、半分崩れた国東塔が無念を訴えるように立っていた。
不思議なもので、一心に周囲の万霊を拝み心身を一体化すると、ゆっくりと風がおさまり、平穏な空間と時間が現れてくるのだ。
巡礼はまだまだ続くが書ききれない。国東半島から少し離れるが、龍岩寺奥院礼堂なども修験者の地であり、修験の覚悟ある方にはおすすめしたい。 六郷満山と、宇佐、中津、玖珠の耶馬渓、英彦山、宝珠山、求菩提は、求道者の視点では一体である。
龍岩寺奥院礼堂と諸仏
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