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金銀銅などの鉱山と文化財

■  「銅」の歴史を学ぶ文化財巡り  瀧山幸伸

 

現代では電子機器など最先端のIT産業に不可欠な銅。近年は価格が高騰して電線の盗難騒ぎが起きたりと世間の耳目を集めている。

銅は柔らかく加工が容易なので利用の歴史は金銀よりも古い。世界的には錫との合金である青銅が武器や装飾器として利用され、四大文明ほか各地の文明の隆盛に大きく貢献した。

日本での銅の利用は弥生時代以降の青銅器(銅鐸、銅鏡、銅剣など)の祭器武器から始まるが、当時は全て輸入に頼っていた。

6世紀以降の仏教伝来と普及に伴い仏具としての青銅の需要が高まり、朝廷の振興により国内で最初の採鉱が始まるのは698年、因幡の国(鳥取県岩美町)の荒金銅山の銅が文武天皇に献上されたのが最初だといわれる。朝鮮半島からの技術導入に適した立地だったことも優位だったのだろう。

その後708年に秩父の和銅遺跡から銅が献上され、年号も和銅と改元された。以降、貨幣の鋳造と仏像の鋳造が銅の主な用途に加わった。貨幣において有名な和同開珎がそれだ。


(wikipedia)

山口市の周防鋳銭司遺跡は平安初期のものだが、文献上確かめられる5か所の官営鋳銭司のなかで、学術調査によってその所在・規模等が確認され、古代国家の経済機構を貨幣鋳造機関の構成と機能、ならびにその変遷から解明しうる可能性をもつ重要な遺跡だ。

下関市の長門鋳銭所跡は場所が特定されており、和同開珎が出土している。

一方の仏像の鋳造では、東大寺大仏の起工は744年からで、500トンの銅が使われた。奈良時代の仏像に使われた銅の総量の半分を占める。

この銅は国内数か所の鉱山から調達されたらしいが特定できていない。摂津、但馬、山陰地方の諸銅山から供給されたと推定されており、山口県美祢市の長登銅山跡はその筆頭ではないかと考えられる。

平安時代の初めに、

因幡蒲生

吉岡鉱山(吹屋)

 

尾太(おっぷ)銅山

等が発見されたが、技術が劣り安定した生産ができず、貨幣も輸入に頼って銅産業は衰退していた。

戦国時代に入ると一転して中国に輸出して軍資金を捻出する機運が高まる。以降、江戸時代初期に

足尾(1610年)

尾去沢(1666年)

別子(1690年)

など主要な銅鉱山が開発され、日本は世界一の銅産出国だった。

しかし鎖国による技術の停滞で江戸後期に衰退していく。明治に入ると銅の輸出政策の下政府は外国人技師を雇い近代化を促進し、産業活性化のため鉱山を民間に払い下げた。

阿仁鉱山

日立鉱山

などが新たに加わり、電気関連産業の隆盛とともに発展していった。

しかし戦後は海外鉱山とのコスト競争と環境問題により全ての銅鉱山が閉山となった。

 

 



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