JAPAN GEOGRAPHIC

愛媛県内子町 内子

Uchiko ,Uchiko town,Ehime


Dec.2012 瀧山幸伸 内子の街並 まとめ

内子は松山から大洲に抜ける途中の小さな盆地に発達した物資集散と宿場の商人町、いわゆる在郷町だ。司馬遼太郎ファンならば、高知から梼原を経由し「竜馬脱藩の道」を辿り内子に入るのも興味深いだろう。

この町は江戸後期から明治にかけて、木蝋と伊予和紙などの生産で栄えた。町の高台に位置する八日市護国地区には当時の面影を残す商家群が残っている。八日市地区は蝋の商いで栄え、護国地区は高昌寺の門前として金毘羅詣で四国遍路の旅人で賑わった。

郊外の石畳地区には屋根付き橋、水車などが棚田と調和し、日本の原風景が感じられる。町では街並保存運動に続く村並保存運動を展開し、「エコロジータウ ン」のまちおこしを目指しており、全国でも有数の先進的まちおこし事例だが、「風の盆」で有名な富山の八尾と同様、訪問客がはたして歓迎されるべき「エチ ケット査証」を持っているかどうかを問われる町でもあり、今一度自分の旅行スタイルを見直してから訪問したい。

■ 蝋燭で栄え電燈で衰退した?

内子は蝋燭の生産で栄え、電燈が発達して衰退したと書かれているガイド資料がかなりあるが、そうではない。内子の木蝋は高級素材で、単価の安い蝋燭の素材 にはもったいない。単価が高いものはいつの世も薬や化粧品。もちろん和蝋燭にも使うが、坐薬や軟膏などの薬の基剤、ポマードなどの化粧品やクレヨンの原料 などとして、主に明治期に輸出で栄えた。

木蝋とは、ウルシ科のハゼノキの果実を蒸して果肉や種子に含まれる成分を抽出した蝋である。そのハゼノキは安土桃山時代に日本にもたらされ、商品作物とし て西日本各地で盛んに栽培された。内子が木蝋生産地として栄えた出発点は、芳我弥三右衛門が新しい晒法(伊予式箱晒法)を発明した19世紀中頃であった。 その後、西洋で人工のパラフィンが発明されて、大正期に入ると内子の木蝋は衰退していった。藍の脇町、ハッカの北見全国の絹関連産業なども人工素材の出 現で衰えたが、それらと同様な運命を辿ったのだ。

■ 木蝋で栄えた内子の街並

 

今日の内子には、町が全盛期であった頃の姿が良く残っている。建物は江戸末期から明治のもので、木蝋による繁栄を今に残す。平入り、二階建、本瓦葺で、黄色を混ぜた漆喰の外装に虫籠窓である。二階部分は蝋を保存する倉庫として利用されていた。

八日市と護国の約3.5haが国の重要伝統的建造物群保存地区に指定された核で、電柱撤去などの道路整備、伝統的家屋の復元などの修景事業が進められてい る。街並保存の歴史を振り返ってみよう。昭和50年代に古い家並みの見直しが在住者から提言され、昭和55年に内子町伝統的建造物群保存地区保存条例が制 定された。同年上芳我邸が木蝋資料館としてオープン。昭和57年に国の重要伝統的建造物群保存地区に指定される。昭和60年に内子座の修復がなされ、平成 17年に景観法に基づく景観行政団体となるなど、まちづくりまちおこしの方向性は今日までぶれていない。

街並形成のランドマークとなる建造物を見てみよう。

本芳我家 (国重要文化財)

ひときわ高く建ち、華麗な外観意匠が特徴的だ。芳我一族の本家筋で、本芳我は通称。木蝋集荷の元締め商家だった。建物は内子が繁栄を極めていた頃のもの で、質もよく、漆喰彫刻、海鼠壁などの意匠も豪華で華麗である。表通りに面して規模の大きな二階建ての主屋が建ち、その南側に妻を表通りに向けた土蔵が建 ち、北側に土塀を廻らせている。主屋は明治17年の建築で、規模、外観はもちろん、内部の造りも格式が高く、共に十畳の広さがある主屋二階の鶴の間、亀の 間には一間半の床の間や違い棚、出書院が設けてある。二つの部屋はかつて正座敷副座敷として遠来の客のもてなしに使用された。外観では、亀甲つなぎのなま こ壁の意匠、漆喰壁の色使い、こて絵の棟飾り懸魚(げぎょ)が特に美しい。漆喰やなまこ壁の重厚感、防火のまじないとして取り付ける懸魚のデザインについ て、ここまでこだわる理由は、蝋を扱う商人にとっては火が大敵だからだろうか。黄色が混じった漆喰壁が作る陰影は、朝昼夕と微妙に変化する。ぜひとも朝夕、夜間にもライトアップなしで鑑賞したい。

  

他の産地の製品と混ぜられないよう「旭鶴」のマークをつくり、製品に自信を持って海外に進出した。本芳我家だけはカタバミの家紋を使わずこのマークに徹した。

 

YAZAE HAGAの文字が見える蝋のラベル。海外に輸出された内子芳我製の本物。偽装品が多く出ていた。

 

上芳我家(木蝋資料館) (国重要文化財)

江戸時代末に本芳我家から分家した。二代目が明治27年に建設したもので、居住部分と木蝋生産施設とが同じ敷地内にあり、広い面積を占めている。製蝋用具 は国の重要有形民俗文化財に指定され、全体が木蝋資料館として公開されている。主屋は桁行八間、梁間六間、二階建ての大壁造りで、切妻桟瓦葺である。居室 の意匠、屋敷の庭園、派手な外観の意匠が見どころだ。

 

大村家住宅 (国重要文化財)

寛政年間に建築された、この地区では最も古い商家である。内子の木蝋生産が盛んになる前の建物である。最初は雑貨屋であったが、明治中期からは「大和屋」 という屋号で藍づくりや染物商をしていた。切妻桟瓦葺。虫籠窓は額縁付きで、黒漆喰なども使い意匠的にはやや派手である。土台には栗の木が使われている。 主屋の他、裏屋敷、釜場、藍蔵なども残り、内子の古い商家構造のすべてを見ることができる。

大村家(手前)と本芳我家(後方)

 

内子座

大正5年、大正天皇の即位の儀式を記念し町内有志が株式会社を組成して新築した本格的な歌舞伎劇場である。桝席があり、桟敷席が三方を取囲んでいる。格天井にはクラシックなシャンデリアも下がり、当時の西洋志向が垣間見える。

 

大森和ろうそく店

創業200年以上を誇る老舗。店の奥でご主人が一本一本手作りする。芯の周りが薄緑色のバウムクーヘンのようになって、眺めているだけでも美しい。奥様が 帳場で灯す蝋燭は、炎が大きく長持ちし、すすがほとんど出ないのが特徴。このように心を込めて作られた蝋燭は大切な場で使いたいものだ。例えば誕生日や結 婚記念日、部屋の明かりを全て消して、大きく暖かい灯火のもと、おいしい食事と地酒で幸せな時間を過ごそう。日本人はとかく明るい灯火を好むが、西欧では ムードを演出するため、ろうそく一本で食事を提供するレストランをよく見かける。内子にもそのような「蝋燭のある生活」を体感できる施設や飲食店が多数あ れば素晴らしいだろう。

文化交流ヴィラ「ゲストハウス高橋邸」

「日本のビール王」高橋龍太郎の生家で、平成9年町へ寄贈され宿泊施設となった。高橋家は大規模な酒造業を営み、藩政時代は大洲藩の財政の一翼を担うほど の豊かな旧家であったが明治維新で縮んだ。明治の当主高橋吉衡は地域教育に尽力し、後に「内子聖人」と呼ばれるほどの人格者であった。その次男が高橋龍太 郎で、大学卒業後ビール業界に入り、明治39年設立の大日本麦酒株式会社を育成した。通産大臣を務め経済復興に尽力し、私財でプロ野球高橋ユニオンズの設立もした。

下芳我邸

国登録文化財。築後130年の旧家で石臼挽きの蕎麦と摘み草御膳を提供し、ギャラリーを併設している。主屋は木造二階建、入母屋造。南側に木造平屋建の離 れが付く。正面は白漆喰と鼠漆喰を塗り分けて意匠を凝らし、屋根は千鳥破風に鶴の懸魚を付ける。隠居屋は主屋に東隣して建つ。床柱や棚板に銘木を用いるな ど部屋ごとに吟味した材料を使い、遊び心を感じる意匠が凝らされている。通りに面して入母屋破風を見せ、両脇には袖壁を出す。主屋と連担して街並景観を構 成している。

商いと暮らし博物館

明治からの薬商「佐野薬局」の敷地及び建物を内子町が購入し、大正10年頃の薬局の暮らしを当時の道具類や人形を使って再現している。主屋は江戸末期に建 てられたもの。栂普請といわれ、長押に栂が使われ、床柱や床框、天井板にも銘木が使われた贅沢なつくりとなっている。主屋二階の三室続きの書院座敷は裕福 な商家ならではの質の良い造りで、壮観である。

旭館

大正14年に建った常設活動写真館。一見擬洋風木造建築だが、正面のみ飾った完璧な看板建築だ。崩れ落ちるのも時間の問題で、保全が望まれる。

町家資料館(旧米岡家)

寛政5年の建築で大村家と同様に古い。各部屋には家具や調度品が置かれ、当時の暮らしを再現している。

■ マジソン郡の橋?

石畳地区には各所に屋根付き橋と水車があり、棚田と共にこの地域の景観形成の重要な要素となっている。屋根付き橋は微妙な曲線で構成されており、背景とな る田畑、森林と河川とで構成される全体景観は、日本、いや世界のどこにも負けない独特な景観として貴重だ。映画の『マジソン郡の橋』では、主人公のナショ ナルジオグラフィック専属写真家が、ベストなアングルと光線を狙い、何度も現地に足を運びおびただしい量のシャッターを切る。それ以上の情景がここにあるのならば、品格ある写真家や映像関係者を主体にしたまちおこしが良いのかもしれない。

石畳地区の景観

 

「石畳の宿」は、農家を宿泊施設に改造したもので、かなり人気がある。やはり農村の風景は朝もやの頃と夕刻から夜が良い。至福の時が体験ができる幸せは金銭では測れない。

 

弓削神社の屋根付き橋は世界的にも美しい。ポンテベッキオなどは論外で、国内の寺社にある屋根付き橋は美しい。例えば大分の宇佐神宮薦神社、香川の金刀 比羅宮、長野の鹿教湯温泉など日本各地にもあるが、ここほど素晴らしく背景と調和した立体景観を見たことが無い。

 

■ エコロジータウンへの道 

町が「エコロジータウン」を目指しているのであれば、エコロジカルな交流スタイルへの理解を呼びかけていく必要があるだろう。町の景観条例がハードを守 り、町の観光交流条例やエチケットガイドラインなどがソフトを守り、訪問客と地域住民とのより良い関係を構築することが必要だろう。

拙生の最初の訪問は十年前だった。高知からの細い峠道を越えて朝早く到着した。背後の山が近く、水音と鳥の声がさわやかだった。だが、市街地は団体観光客 の人気コースで、日中はハンディスピーカーを下げたガイドを先頭に集団闊歩する。中には酒臭い泥酔者や大騒ぎをする者も。街並のハードは良いのだが、それ を彩る、いや主役であるはずの人の営みなどのソフトが街並のトーンとマナーを乱していることを危惧した。人や車は自分の姿が客観的に見えないから意識して いないが、街並の雰囲気を壊す事が多い。バスや車は景観上影響の無い遠隔地に駐車し、エンジンは必ず切ってほしい。伝統的な地区内では歩きタバコは慎んで ほしい。旗、リボン、バッジ、原色の服装、大声の会話などを慎み個人行動してほしい。スタッフの原色蛍光ジャンパーもやめてほしい。個人向けの「知的な」 無料ガイドを増やしてほしい。滞在型交流型のイベントや民泊施設を増やしてほしい。等々、街を五感で楽しむためのホスト側の細かい配慮とゲスト側へのエチ ケットの周知が必要だと感じていた。

だが、それらの憂慮は再訪するたびに改善の方向に向かっているようだ。町の中心部と周囲の農村部を一体でまちおこしを行っているのも素晴らしい。一部の人の利益のみを追っていない、内子の人々の見識の高さと、まちづくりまちおこしの理念がぶれていないからだろう。だからこの町は今後、立ち寄り観光客と決別 し、町内に何回も宿泊し地域の人々と密に交流し地域の文化と産品を愛する個人客を増やしていくのだろう。

そのためには、宿泊に値する、他では得られない価値を提供することが重要だ。それは宿泊施設の差別化ではない。渋温泉など各地の温泉街がやっている宿泊客 限定の外湯開放や手形でもない。町内宿泊者には町内施設入場チケットを無料で提供するなどのインセンティブは当然として、それだけではだめだ。宿泊、しか も再訪してこそ価値が高まるような「知性と感性のシステム」をどんどん考案するのだろう。

例えば古き良き時代の夜の情緒を復元演出してはいかがだろうか。日本の夜は豊かだった。蛍鑑賞、月見など、四季折々の充実した夜が過ごせる観光地はほとん どなくなってしまった。LEDなどによる派手なライトアップではなく、中心部の街並も、農村部の橋や水車や棚田も、暗いことの美しさを演出する「ライトダ ウン」を実践する。まずは目に痛い照明の色温度や照度を古来の灯火並みに下げてもらい、デザインも古来のものを推奨する。公共照明はすぐにでも実行でき る。内子全域の屋外照明が全て揃えば、情緒豊かで美しい夜景の陰影が誕生する。さらに常夜灯篭などの伝統的な照明は本物の燈火またはそれらしいゆらぎを導入すればなお完璧だろう。美濃の明かりアートのような「主張する明かり」も興味深いが、八尾の風の盆のように暗いことの価値を積極的にアピールする夜祭 り、イベントなどの演出も参考になろう。それが都会人に大きな癒しを提供することを信じて疑わない。かつて一度は体験したことのある、神秘の星空を仰ぐ追憶の旅はこの町から始まるのだろう。




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