Monthly Web Magazine July 2014
Top page Back number Subscribe/Unsubscribe
■■■■■
トピックス
■■■■■
■■■■■ 関東の霊地 瀧山幸伸
蒸し暑い季節には、冷を求めて高原のリゾートに行くのもよいが、霊地で心身ともに冷涼を味わうのがかつての日本人だった。
関西の霊地と言えば高野山だが、関東近辺で外国人にもお手軽お気楽な霊地「的」体験は、高尾山か日光か富士山だろう。
賑やか過ぎて、もう少し静かな霊地がよいと言う人は、南足柄の最乗寺、ときがわの慈光寺、富岡の妙義神社、佐野の満願寺、日立の御岩神社、鴨川の清澄寺などか。
水の涼ということでは、万願寺の奥の院は特におすすめ。
出流山満願寺 奥ノ院
いやいや、霊地には朝もや、ご来光、白装束だ。宿坊で一泊できなければだめ、という方には、伊勢原の大山、青梅の御岳山、前橋の榛名神社あたりがおすすめか。
これらの街並も土産物屋や騒がしい観光客で落ち着かない。そうじゃなくて、自然が豊かで、観光バスも車も走っていなくて、水音や野鳥や宗教関連の響きに癒され、質素な宿に泊まってタイムスリップできるような所が良い、とおっしゃる方には赤沢をおすすめしたい。
地域限定で巡礼を、という向きには、足利をおすすめしたい。名草巨石群、北斎の浮世絵に描かれた浄因寺、山頂で涼しい最勝寺などがある。
今年の梅雨はなんと表現されるかわかりませんが、この時期に”涼しげ“が感じられる京都の行事2件の報告です。
【半夏生】(はんげしょう)・・・・場所は『両足院』。両足院は京都・建仁寺の塔頭です。
庭園の白い清楚な半夏生が、梅雨に入ると徐々に色を変え、まるで白い可憐な花が咲いたように池のまわりを飾ります。
半夏生(夏至から数えて11日目の7月1日頃から七夕頃までの5日間が半夏生)の頃に花を咲かせることに由来する説や、葉の一部を残して白く変化する様子から「半化粧」とする説があります。
半夏生のサイクル
半夏生については、ウイキペデイア・他に詳しく掲載されていますので省きます。が団伊玖摩氏がアサヒグラフに投稿された(昭和58年)文を紹介します。
【お千度】参り・・・・場所は祇園・八坂神社
京都・祇園の芸妓(げいこ)や舞妓(まいこ)さんらが八坂神社で夏場の無病息災と芸の上達を祈願します。(今年は7月7日)
京都井上流の門下生でつくる「みやび会」の芸妓や舞妓さんらが、白地に紺で柳とカエルを描いた揃いの浴衣姿で毎年この時期に参拝します。
本殿の外を3周することで延べ千回参ったとみなすことから、お千度と呼ばれます。
80名を越える芸舞妓さん「おはようさんどす」とあいさつをかわし、ちょっぴり気を緩めた感じで行き来する姿に、境内は華やいだ雰囲気に包まれました。
最近見かけることが少なくなった女性の浴衣姿、やっぱり夏はこれだ!と、少しの間見とれてました。 京都は一気に祇園祭に向けて走り出します。
俳人、中村草田男が母校である小学校(東京・青南小学校)の前を通り、「降る雪や 明治は遠く なりにけり」と詠んだのは昭和6(1931)年、明治が終わってから30年くらい経ったころでした。
この句の「遠くなりにけり」という表現は、自分自身の変化もふくめての感慨から来るものかと思いますが、明治が過ぎてから100年以上を経過した現在、実体験としてこのような感慨を持てる世代はとうにいなくなり、「明治」は遺物や著作などからしか感じることができなくなってしまいました。
その「明治」の遺物を集積したのが愛知県犬山市の博物館明治村です。
高度経済成長に伴う開発事業により失われつつあった価値ある近代建築を移築、保存しており、移転された物件は67件に達しています。
6月の土曜日、中学校1年生の夏に小学校の卒業生の団体で訪問して以来、37年ぶりに訪問し、ほんの僅かではありますが、「明治」の雰囲気を感じることができたように思います。
この手の記念物集積型の施設は、レジャーの多様化(この言葉は、施設の入場客数が低迷する状態を説明するのに大変便利な言葉です。)の影響を受けやすく、昭和40(1965)年3月の開園(私と同学年)からおよそ50年が経過した今も変わりなく営業されているのは、親会社も含め大変な努力をされているものかと思います。
訪問した土曜日には駐車場がほぼ満車になるなど、多くの人が訪れていたので、そういう意味では少し安心しました。
旧帝国ホテル中央玄関
大正の建築ですが、フランク・ロイド・ライトの基本設計にかかる貴重な近代建築として移築されました。
前回訪問時には、移築から年月も浅く、新しさで少し浮いた感じだったのですが、すっかりなじんだ感じがします。
宮津裁判所法廷、高田小熊写真館、菊の世酒蔵、内閣文庫、川崎銀行本店、大明寺聖パウロ教会堂
金沢監獄中央看守所、東京駅警備巡査派出所、前橋監獄雑居坊
聖ザビエル天主堂
京都河原町三条のカトリック河原町教会(司教座聖堂)の先代建物です。
移築前の敷地は現在京都ロイヤルホテル&スパとなっている部分も含んでいます。
呉服座(重要文化財)
大阪府池田市にあった芝居小屋です。
訪問当日は人気落語家の公演が行われており、内部を見ることはできませんでした。
本郷喜之床、小泉八雲避暑の家、工部省品川硝子製造所
旧伊勢郵便局舎(重要文化財)
伊勢市の外宮前に建築された郵便局です。
以前の緑色の塗装から、黄色の塗装に復原されたようです。
鉄道寮新橋工場、リング精紡機(重要文化財)、菊花御紋章付平削盤(重要文化財)
歩兵第六連隊兵舎、日本赤十字社中央病院病棟、第四高等学校武術道場「無声堂」
宗教大学車寄、神戸山手西洋人住居
旧菅島灯台付属官舎主屋及び倉庫(重要文化財)
三重県鳥羽市の菅島にあったものです。
旧品川燈台(重要文化財)
品川沖の第二台場の西端にあったものです。
茶室亦楽庵、西園寺公望別邸「坐漁荘」、幸田露伴住宅「蝸牛庵」
芝川又右衛門邸、長崎居留地二十五番館、北里研究所本館医学館
旧札幌電話交換局(重要文化財)
札幌の大通にあったものです。
安田銀行会津支店、千早赤阪小学校講堂、京都中井酒造、第四高等学校物理化学教室、清水医院
旧東松家住宅(重要文化財)
名古屋中心部、堀川運河沿いにあった三階建住宅です。
東山梨郡役所(重要文化財)
山梨県山梨市にあった擬洋風建築です。
旧睦沢学校校舎(重要文化財)とともに、山梨県令藤村紫朗が建てさせた「藤村式」と呼ばれる擬洋風建築群を代表するものです。
明治村の建物の中では一番好きな建物です。
旧三重県庁舎(重要文化財)
正門近くにある大規模な建物です。
10mmの広角でやっと全体が入るくらいです。
大井牛肉店、三重県尋常師範学校、近衛局本部附属舎
旧日本聖公会京都聖約翰教会堂(重要文化財)
京都河原町五条を下がった西側にあった教会です。
跡地には現在も教会堂(複合ビル)が建っています。
旧西郷従道住宅(重要文化財)
明治の元勲西郷従道の屋敷に建っていた来客用の洋館です。
野崎さんからTS−E24を譲っていただいたのは2011年の秋だったと記憶しています。
すでに三年が過ぎようとしていますが、残念ながらうまく使いこなしているかと聞かれると全くと答えるしかない状況です。
最大の問題はAFに慣れきっていること。TSレンズはその複雑な機構からMFなのです。
特に3m〜∞の合焦リングの可動域が狭く自分の目に自信が持てないでいます。
但し、レンズの威力は絶大です。建造物の縦方向の歪みを解消してくれます。
その効果を実感するためにEF24−105 F4L IS USMとほぼ同じ構図の撮影をして比較してみました。
撮影の対象は自宅近くの重要文化財 旧吉田家住宅です。
画像は左がEF24−105、右がTS−E24です。
まず、ともにレンズが水平にセットできる遠景ではその差がありません。
建物に近づいて、EFレンズが水平より上を向くと
門柱がEFのほうが上に向かってすぼんでいるのが解ります。これに対してTSの方はすぼみがなく平行です。
遠景となり、EFレンズが水平に近づくとTSとの差が小さくなります。
この画像では、EFの屋根がほんの少しすぼんでいる程度でそれほど変形が気になるわけではありません。
縦のラインが強調される画像は歪みも明確に認識され、TSレンズの威力をだれでもが理解できます。
EFでは屋根瓦が上に反っているようにさえ見えます。
母屋の画像に大きな違いは見つけられませんが、画像の左端の塀の傾きがEFはひどい結果となっています。
片方が持ち上げられたような不自然な形に撮影されています。
やはり、上に向かってすぼむと建物が不安定に見えてしまいます。TSで撮影したほうがどっしりとした安定感を感じます。
画像左上に覗いている建物の倒れに大きな差があります。その分中央の建物にも歪みがあるのでしょうが
それほど感じられません。
縦のラインが強調された画像ですから、その差が明確です。TSの画像は本当に人間の見たままです。
レンズによる歪みが画像を壊しているのですね。
いかがでしょうか。私自身もTSレンズの能力を再認識しました。1000年先に資料を残すなら歪みの少ない美しい画像を多く残したいと思います。
ピント合わせに時間がかかっても建造物撮影の時はできるだけTSレンズを使用したいと思います。
宝の持ち腐れにならないようにしたいと考えています。
会社のあるビルの地下2階にいろいろな小物を委託販売する店がある。ガラス張りの棚を約40㎝立方角に区切り、売りたいものが並べられている。「レンタルボックス」というそうな。品質や価格を客観的に証明する書類も専門家もいないので、疑わしい品も少なくない。買うときには「委託品ですから返品できませんが、それでいいでしょうか。」と念を押される。これまで買ったものは、プラスチックの怪物人形(孫への土産)、ボールペン、イヤーフォン、充電式電池セット、レトルト食品セット(孫への土産)などで、だまされたのはボールペンだけだった。有名ブランドのボールペンだが、箱と中身のグレードが違った。
今回は立派な大型双眼鏡である。ブランドは何とあの高級スイス時計の「OMEGA」で、 30 x 50とあるから倍率は30倍である。実際に手に取って視度を調整して見ると、像にゆがみもなく鮮明である。それで値段は僅か3,800円(税込)である。通常、常識的に考えて、新品なら10万円でもおかしくない。昔から私は望遠鏡が好きで、天体望遠鏡、双眼鏡、単眼
鏡を少なからず所有し、少なからず体験している(と、自負している)。ケースとバンドが安っぽいが年数が経っているからだろうと、自分に言い聞かせた。
だまされてもいいから、買おう。だまされてもいい話題になる。と、買ったら、だまされた。
実に見事に「パッチもん(関西でいう安い偽物の商品)」であった。時計のオメガは双眼鏡を作っていない。この「OMEGA」は、戦後東京の板橋に集まっていた零細光学屋がでっちあげたブランドらしい。また、倍率はどう見てもせいぜい7倍である。もっとも、その方が安定して見られるからいいのだけれど。
板橋区の光学産業の歴史をたどってみた。双眼鏡など軍事用光学機器の国産化が急務となり、昭和8年に東京光学機械株式会社の本社工場が板橋区に移転した。これが板橋区の光学産業の始まりである。昭和14年には陸軍の要請に応えて、双眼鏡をより多く生産するための企業グループ「陸軍八光会」が組織された。その多くの工場が板橋区にあった。
第二次世界大戦後、双眼鏡や光学兵器を製造していた企業はいったん閉鎖された。しかし、そのノウハウを持つ元従業員や復員してきた兵士らが板橋区に集まり、それぞれが小さな会社を立ち上げ、民需用の光学製品の製造に着手した。双眼鏡で標準的なものは7ⅹ50で品質の上昇と安定化に伴い、大半がアメリカに輸出されるようになった。ブランドは販売先のものが多かったが、板橋独自のものも生まれ、その一つが「OMEGA」である。
戦後の輸出に大活躍した双眼鏡だと思うと、少し見直すことにした。
参考資料
小田透「私のカメラと双眼鏡」ウェブサイト
板橋区の光学産業
この年になるとこれまで手がけた趣味が幾らもあるが生き残ってきたのは数少ないのに気づく。気象も生き残った趣味の一つでいまだに暇を見つけては気象庁による数値計算データ(GPVデータと称する)にアクセスしてはピンポイントに天気の予測をして遊んでいる。
ワールドカップの競技の当日の天気予測などもやってみているがその土地の気象を調べていくとその土地に親しくなる感触を覚えていっそう競技の推移に興味がわく。地球の裏側の気象予測も結構当たってそれはそれで楽しくなる。
つい1週間ほど前西表島あたりに旅した。出かける前にいつものように気象の予測をさんざんしてみたがどうみても旅行中は穏やかな晴れが続くとでる。もちろん南の島だから夕立のような驟雨はあるけれども基本は穏やかな晴れが見通せる。台風が怖いが今回は大丈夫そうだ、台風の予測の信頼度はいまひとつだが5日くらいの旅であれば予測計算で台風の影が出てこなければまずは大丈夫だ。それにしても西表周辺は暑そうだ。北部九州と比べても大気の熱量が断然違う。
予想通りの暑さと晴天の中、西表や石垣でネイチャーウオッチングや海遊びや観光を毎日朝から晩まで5日間やって戻ると次の週は台風ウイークとなった。1週間ずれなくて本当に良かったと思う。
気象の予測計算という未来予測は随分と信頼性が上がってきた。基本的には連立微分方程式を時間で積分して未来の状態を得るのだから、僅かな初期値の間違いが大きな予測の差を生むことになる。こんなものがそんなに信頼のある答を生むわけがない、というのが普通の考えだが、よく当たるようになってきている。技術の進歩は驚くばかりだ。一週間前の天気のどこにその予兆は埋め込まれていることになるのだろうか、そんなものは天気図をいくら眺めてもわからない。
台風が天気図に現れ始めると予測の信頼性はがっくり落ちてくる。特に今回の8号のような夏台風は気圧配置にメリハリがなく動きが定まらず進路予測が外れやすい。台風は結果的に広い範囲の天気に多大な影響を与えていて全部の天気予測が怪しげになる。
今回の台風8号では例えば宮古島の観測データと当日午前0時の予測計算値を比較すると気圧の下がり方が結構外れている。台風のない通常なら気圧の推移は最も当たりやすいのだがほんの12時間の予測でも予測がずれる。どうにも台風は当たりにくい。
昔読んだ安部公房の小説に分子レベルのあらゆる運動を解いていけば未来は完全に予測できるというような話があった。そんなことまでは出来ないにしても物理法則で殆どが支配される自然現象は予測可能な未来であることには違いない。100年もすれば1年分の天気が結構な精度で解るようになるだろう。旅行の予約で雨の日の切符や宿は安くて当然の時代がやってくるのだろう。
しかし旅をするなら天気のいいときに限るのだろうか、時々そう思う。雨の日に活動する生き物が現れたり雨が晴れ上がった後のなんともいえない光景に出くわしたりすると特にそう思う。100年後には旅の感覚がまた違ってきているのかもしれない。
こんな風にこの先の未来に延びていく時間を空想していくようになるのも気象の楽しみの一つのように思っている。梅雨明けはそろそろだろうか。
■■■■■ 看板考 月星シューズ「なかよし」の看板 ゆはらきみこ
可愛い男の子と女の子が手をつないでいる姿がイラスト化されています。配色も緑、赤、黄色、橙色の四色のみのシンプルで、全体に優しく丸い気持ちになれる看板です。
場所は山手通り要町交差点より板橋区の熊野町方面に向かって右側の、板橋区庚申通り商店街の中。車一台がやっと通れる細い路地の両側に小さなお店がたくさん並んでいる商店街です。周囲には細い路地、アパートも多く、商店街としてはまだまだ活気がある方です。ご他聞にもれず、年配の方々ばかりが店主さんのようで、看板のあったシューズ屋さんも相当年期が入っているようなお店でした。
看板は昭和43年(1968年)に「なかよし生産開始」と月星シューズの社史にあるので、マックスで古ければ、今から46年前のものということになります。
月星シューズは明治6年、創業者初代倉田雲平氏が、久留米市米屋町に家賃六五銭の小さな店を借りて「つちやたび店」と名付けて、座敷たび造りが始まりとのことです。
明治10年の西南の役に、軍用被服(たび二万足、ズボン下一万枚他)を請負って、初めて大量生産に成功したと社史にあります。明治32年、政府より「素足は禁物」の注意が発表されて、たびの需要が急増したそうですが、まことにおもしろい発令ですね。明治政府はけっこういろいろな禁止令を出しています。明治34年(1901)5月に当時の警視庁がペスト防止と風俗改善の為として、車夫・馬丁に裸足禁止令を出して、違反したものは拘束されたり罰金を取られたりするという記事もありましたので、これもその素足を禁じるの一環なのでしょうかしらね。それにしても寒がりはともかく暑がりは嫌だったでしょうね。
月星シューズは時代を先取りする力も優れていたようです。大正時代に入って地下足袋の開発、関東大震災で30万足を失う、昭和に入り南極観測隊に特殊防寒靴を製造・寄贈、皇太子殿下浩宮さまへ「スーパージェッター」シューズ献上、ニューバランスやコンバース、トムマッキャン、Kappa・ K・SWISSなどと次々とブランドライセンス契約。現在社長さんは15代目となられて社名も「株式会社ムーンスター」に変更されています。
錆びれかけた商店街の一角で「ニコニコ笑っているような看板」の背後に、こんな物語があったというわけです。
余談ですが、「靴」では私が「理不尽」な叱られ方をした、と子ども心に思った体験があります。私には二つ下の弟がいて、幼稚園に迎えにいくのは小学校の一年生の私の役目でした。お迎えに行ったら、弟のクラスはお迎えの前のお遊戯をしているところでした。私は弟が出て来たらすぐにはけるように、弟の外履きの運動靴を胸に抱いてそのお遊戯に見とれていました。見とれすぎて、最後まで見てしまいました。気がついたら弟は下駄箱の前で「靴がない!」と泣いて、私は保育士さんに隠したら駄目よ、と叱られたのでした。私は弟の靴を大事に持っていて弟を可愛がっていた自負があったので、切ない思いがしましたが、言いわけする言葉の段どりが出来るほど大きくはなく、うつむいたままでした。長じて「理不尽」という言葉を知ったときに、そうだあのときの気持ちはこれだったのだ!と、思いました。最後までお遊戯に見とれてしまった自分は悪かったけれども、弟を泣かせたかったわけではない、とその横に立つ小さかった自分を慰めてやりたい気持ちになったのを覚えています。
■■■■■■■■■■■■■■■■■
Japan Geographic Web Magazine
https://JAPAN GEOGRAPHIC/
Editor Yuki Takiyama
yuki at .jp (Replace at to @)
■■■■■■■■■■■■■■■■■