JAPAN GEOGRAPHIC
Monthly Web Magazine Feb. 2018
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■■■■■ Topics by Reporters
■ 石垣の里の崩壊 瀧山幸伸
石垣の里の崩壊が進んでいる。
棚田の石垣、野菜畑の石垣、桑畑やミカン畑の石垣、イノシシ除けの石垣、屋敷の石垣、どれもが立体的な三次元の世界で、美しい日本の情景を醸す代名詞だった。
有名な所では愛媛県愛南町の外泊などだが、漁村、山村、いずれの集落でも程度の差はあれ似たようなもので、今世紀の半ばまでには完全に廃村になってしまうのではないかと思える集落が各地にあり、悲しい気持ちになる。
最初の崩壊の兆しは戦後だった。
集落の背後の山を切り開いて造成した桑畑が生糸産業の構造変化で成り立たなくなり、元の山林に戻っていった。
次の崩壊は段畑だった。
群馬のこんにゃく畑や同じく愛媛県宇和島市の遊子水が浦で栽培されている早生ジャガイモなど特殊な事例を除き、畑で栽培する野菜の収益だけで生活することは厳しい。
桑畑の代わりにミカン畑などが隆盛した地方もあるが、輸入自由化で大打撃を受け、今や多くの畑が雑木に埋もれている。
工業社会への変貌に伴い、主な働き手は農業を見限り、集落以外に仕事を求める通勤者となっていく。
棚田は手厚い政策により生きながらえていたが、輸入自由化が無くても成り立たなくなっている。最近まで辛うじて存続していた漁業も非常に厳しい。
かくして石垣の集落は高齢者ばかりの限界集落となっている。
生業が成り立たず、石垣の里ゆえに歩くにも坂がきつく、生活に必須の車が入らず、年寄りはこれらの三重苦に堪えられなくなっており、限界集落の次に来るのは集落崩壊、ゴーストビレッジだ。
鹿児島県南さつま市の大当は、神話に登場する美しい姿をした野間岳の麓にある。
遠くからの集落景観は野間岳を背負って海を望む姿がこの上なく美しい。
集落内を歩けば屋敷の石垣と海の光景が美しい。
だがこの三重苦ゆえに崩壊が激しく、前回訪問した6年前の風景とずいぶん違う。
住む人も建物も失った石垣だけが寂しそうに残っている姿が痛々しい。
ならばこれらの三重苦を取り除けばいいのではないか。産官学ともに一億総活躍社会、IT社会、自動運転、ドローン活用などと盛んに宣伝しているではないか。
いやいや、そのような巧言令色に惑わされるほど現実打破は簡単ではない。歩行困難な状態になっても介護を受けないで独居できるかを考えてみれば、坂や石段、狭い通路の住環境の厳しい現実が理解できよう。
自分はこのような処方箋があるのではないかと、東日本大震災前から提案してきたが、移動手段を考えると、石垣の里での独居は厳しい。
■ 想定外 大野木康夫
1月の後半、風邪をひいて体調を崩し、週末2回分を自宅で過ごしました。
ようやく外に出る気になった2月4日、早起きして目指したのは東熊野奥地の滝群でしたが、国道169号の大嶽トンネルを抜けたら一面の雪景色で、引き返すのが困難になると判断して当初予定を断念し、Uターンして川上村の御船の滝を目指しました。
御船の滝への道は冬季は積雪のため通行止めになっており、途中の井氷鹿の里の駐車場に車を停めて2.5kmの道を歩いていかなければなりません。
井氷鹿の里出発は8時12分、駐車場にはすでに4台の車が停まっていました。
長靴で雪道をゆっくり進みます。
途中の岩戸の滝展望台(井氷鹿の里から1km地点)で撮影しながら小休止しました。
雪と氷柱の景色が広がっていました。
岩戸の滝出発は8時40分、川のあちこちに見える氷柱を撮影しながら御船の滝を目指しました。
滝入り口到着は9時11分、駐車場の係の人が1時間くらいかかるとおっしゃっていたとおりの時間でした。
滝までは150mほど、雪に覆われた道を慎重に進みました。
氷結を期待した御船の滝は、前日に気温が上昇したため真ん中に流れができており、凍っているのは50%程度でした。
それでも冬の風景としては充分見栄えがするように思えました。
滝前の入口からの撮影
展望台からの撮影
滝正面直下からの撮影
滝下流からの撮影
10時頃まで撮影して、雪道を小走りに戻りました。
井氷鹿の里に帰ったのは10時25分でしたが、帰りの林道で、登ってくる車が氷結した路面で滑って横を向いており、少し待たなければなりませんでした。
朝から予定通りにいかない日だと思ったので、帰りは宇陀松山の重伝建地区と史跡宇陀松山城を撮影し、早めに切り上げて帰宅しました。
思えば、風邪をひいたのが最大の想定外だったと思いますが、それなりに撮影を楽しむことができました。
これからも、その時の条件の中で、最大の成果を引き出すことができるよう、下調べなどの準備をしたうえで撮影に臨みたいと思います。
【選択無形民俗文化財】
1月中頃から2月8日の今日まで前線と大寒波が連続して到来し、その影響で天候不順な日が続いており、日本中が冷え切っています。
雪による被害やインフルエンザの広がりが連日報道されています。
そんな中で、主役の若者たちは勿論、見る人も震え上がるような神事が行われました。(2018年1月21日)
場所は福井県美浜町。三方五湖の一つに日向湖があります。5湖のうち唯一の塩水湖で、湖の廻りの集落は漁業を生業としています。
綱引きは、日向湖と若狭湾を結ぶ運河で行われる行事です。この運河は江戸時代に完成したもので、綱引きは豊漁を祝って始まったようです。
集落を東・西に二分しそれぞれの集落から出た若者10人が、高さ6m程の運河橋の欄干から飛び込み、張り渡された綱を引き合い、どちらかがよじ切った所で終了となります。
若者が水中に浸かっている時間は約20分。
集落の長い伝統と結びつきの強さがあって継続されている行事であることが、苦痛を感じさせない若者の表情・動きからわかりました。
「水中の若者大丈夫か」とヒヤヒヤの思いで見つめた数十分。無事終わって安心しました。
■ 大授搦(だいじゅがらみ) 田中康平
有明海は干満の差が大きく大潮ともなれば干満の潮位の差は5mを越える。定期的な緩やかな津波といってもいいほどだ。
有明海の北の奥、佐賀空港の西隣に大授搦(だいじゅがらみ)という干潟がある。近頃では大授搦という名より「東与賀 よか公園」の方が一般的なようだが歴史のある場所としては大授搦のほうがカッコよい。
日本で一番干満差の大きい場所が有明海のこのあたりということになっているようで昔から干拓して海を農地に変えることが進められてきた。搦という文字が使われているのは、江戸時代、干拓は杭を打って土を杭にからめとる(搦める)手法で行われていた、その名残のようだ。佐賀藩では搦方がせっせと干拓で平野を広げていき明治に入ってもその勢いは続いたようで、この大授搦は大正期に造られた最後の干拓地ということらしい。
有明海の干拓の歴史の上に諫早湾の干拓も位置付けられるのだが、この干拓だけを佐賀県が糾弾しているのはちょっと身勝手なのかなと歴史的には思えてしまう。
それはともかく、現在はこの地は渡り鳥の集まる干潟として世界的にも認められており、2015年にラムサール条約登録地となっている。
特に冬は北から寒さを逃れてくる冬鳥達に安住の地を提供する役割を果たし、多くの野鳥とそれを観察に全国から来る人々で賑わう。とりわけ大潮の時期は潮が満ちるにしたがって干潟をつついて餌をとる鳥たちが陸地に近づいてきて見やすく格好の観察条件となりバードウオッチャーが数多く集まる。
以下2月上旬の大潮の土曜日に訪れた時の様子を紹介する。
地図
潮位
この日の潮位は午前11時半頃が満潮でかなり高い。
ハマシギの群れ
クロツラヘラサギ
ズグロカモメ(白っぽくてくちばしの黒いカモメ)、ミユビシギ(やや小ぶり)、ダイシャクシギ(大型で長いくちばしが下に曲がっている)
タイミルセグロカモメ
セグロカモメ/オオセグロカモメ
ツクシガモ
ミヤコドリ
干潟全般
■ 川崎観音 蒲池眞佐子
山口県周南市
交通機関を使って徒歩でおっぱい観音と言われる川崎観音に行ってみることにした。
徒歩ではカメラはもちろん、水筒、スマホの充電器は必須、結構な重量になり、荷物を担ぐのが一番楽なので、カメラ用のリュックを購入し、愛用している。
ただ、私の小さめの体に対して大きいらしく、よく「どこから来たの?」とおじさま方に声を掛けられる。
目的の川崎観音はネットでは駅から徒歩20分とあった。
メジャーでない文化財はほとんど案内版などない。
あらかじめ調べた道を進んでいくが、結局迷い、スマホマップに頼る。
遠くに目的の観音を発見、ところが、高台の上で、前には国道が通っている。
とにかくその方向へ歩く。ところが、突き当りは駐車場、がーんとショックを受けていると、その先に歩道のようなものが。
何かがありそうなので、ちょっと行ってみると、国道の下に階段を発見。
ガードレールが光り輝いて導いて後光がさしているようにも見えてしまう。
川崎観音は安産とお乳の観音様として有名で、安産祈願、水子供養、先祖供養などをすることができる。
また、平氏の悪七兵衛景清が軍船に乗って西海に下る途中、暴風を避けて黒髪島に数日滞在した際、夢に観音のお告げがあり、「我をさる山にある寺に案ぜよ」とのことであったため、この万福寺(明治5年に廃寺)が夢中で見た山容と似ていたため、当地に安置したとのこと。観音堂はそのまま現在地に残されたらしい。
平景清の担いだ大石や目洗いの井戸などが現在も残っている。
裏手に回るとたくさんのお乳の形をした絵馬が奉納されている。
どれも手作りで、毛糸で編んだものもある。どれも思いがこもっている。
三十三観音参道を登ると、聖観音と三十三観音が表れる。みなお顔が違って微笑ましい。
音羽の瀧は水が流れていなかったが、近くの木彫りの観音も子供を抱いていた。
来る途中、スマホの充電もすっかり使い切ってしまったため、来た道を忠実に戻って帰ることになった。
11月からカメラを持っての外出がありませんでした。
寄る年波か、このところめっきりと寒さに弱くなったと実感しています。
そのせいか、撮影に出かけるのが億劫になっていたようです。立春の声を聞き、やっと重い腰が上がりました。
出かけたのが、茨城県古河市の古河総合公園です。前に一度訪問実績があり、好きな古民家の撮影です。
到着するとなぜか寒い中、結構な数の人がスマホを持って歩いています。奇異に感じ後で調べてみるとこの公園は「ポケモンの巣」だそうで、ポケモンGOでポケモンを集める人が集まっていたということのようです。
私はそんなものに興味がありませんので、雪の残る道をたどって民家園へ直行です。
ここには、旧飛田家と旧中山家二件の古民家が移築されています。
旧飛田家の方は国の重文指定されています。
厩のある曲り屋で、元々は金砂郷にあったものです。
もう一つは旧中山家です。漆喰壁が美しい古民家で茨城県指定の有形文化財です。
空は青いし、古民家は程よくメンテされていて家の裏にビニール袋に詰められた落ち葉があった以外満足のゆく撮影ができました。
元来、私は古民家好きですから、房総のむらやここは訪ねるのが楽しいのです。
川崎の民家園や福島の民家園にも行ってみたいと常々考えています。今年は是非実現したいと思います。
最近、文化財とまでは言えない古民家に暮らすことが流行っているようです。一時のブームでなく地に足の付いたものなら大歓迎です。
家は何と言っても人が住んでこそ「家」です。雨露を凌ぐ容器としての機能だけでなく、そこに人の暮らし、営みがなければいけません。
古民家に住むということは、現代人にはとても不便で快適とは言えない環境でしょう。でもそれも楽しんでしますことが出てきたことを素直に喜びたいと思います。
金山古墳は南河内郡河南町にある。富田林駅から東南に数キロである。珍しい双円墳で、北丘に石室が開口しており、羨道と玄室に家形石棺が二つ並んでいる。ちと狭いが無理すれば、石棺の間に入ることができる。石棺には盗掘の穴が開いている。また、よりおおきな南丘には未発掘(未盗掘?)の石室があるそうである。
最初に行ったのは、古墳めぐりを始めた1975年くらいかなあ、独りで行った。2回目は、写真のネガが残っていて、1979年2月18日である。私は33歳で、大学バスケット部で一緒だった友人に誘われ、彼の高校OBが中心となる実業団バスケットチームに所属していた。心斎橋の有名宝石店の名前を借りて、中小企業の跡取り息子が集まったようなもので居心地がよかった。その仲間と古代史探索ドライブに出かけたのである。
1979年当時の金山古墳である。広角レンズを持っていなかったので、2−3枚で全体像をカバーしている。墳丘の間に家(あるいは農作業倉庫)が建っていた。その家の裏に石室への狭い入り口があった。
石室内で撮影。顔を出しているのは、大学バスケット部の3年後輩である。現在の彼はOB会長である。数年前にOB会で会ったら、「この間、南河内を車で走っていたら、金山古墳の表示がありました。野崎さんが連れて行ってくれた最初の古墳やと思い出しました。」と云っていた。
2018年1月13日、39年振りに再々訪した。富田林駅からバスで行き、芹生谷停留所から少し歩くと、美しく整備された墳丘が見えてきた。北丘の石室の入り口に柵ができていたが、充分の隙間があるので、入り込めた。中に入ってフラッシュ撮影をした。
すると、かなり寒い日なのに気楽な格好の老人が石室に入ってきた。石棺を見て、「ほんものでっか?あっ、穴が開いてる。盗掘穴でっか。」とかいうので、いろいろ説明していたら、突然「あのう、野崎さんですか?」というではないか。よく見直して、大学バスケットの2年後輩であることが分かった。そういえば、数年前のOB会で古墳回りの話をしたことがあったっけ。彼は長年学校の先生をしていて、今はご隠居さんである。時々、遺跡回りのドライブをするそうで、その日は、車で金剛山の雪を見に行った帰りだそうだ。公開されているとはいえ、あまり人が来ない遺跡公園である。ましてや、寒い日の石室である。何という奇遇であろうか。セルフタイマーで記念撮影をした。
帰りは彼の車で富田林駅まで送ってもらった。車で待っていた奥さんに「昔大変お世話になった先輩に石室で出会った。」と紹介された。私は昔を思い出して、「そういえば、こいつを最初にストリップに連れて行きました。」と解説した。
所在地:埼玉県上尾市
撮影日:2014年12月
上尾宿を歩いていたときに見つけたもの。昔っぽい村の食糧品店の様子ですが、基本的にはウナギなども扱うお魚屋さんのような感じでしたが、全然活発ではなく、ちょっと売ったらおしまい!風なお店でした。奥にある居間の炬燵におじいさんの背中が見えました。
「書き物看板」ですが、「います」はドジョウで、これは生きているから「います」。
「あります」は鯛で、焼いてあるのでこれはすでに物体。だから「あります」。
何気なく書かれたのでしょうけれども、使い分けがおもしろくお写真1枚頂戴しました。
1月31日、皆既月食「スーパー・ブルー・ブラッドムーン」を人並みに撮ってみた。見ることができると幸せになれると巷の若い子たちは言っていたが、暗い、寒い、目が悪いの三重苦を乗り越え何とか見られた。屋上からだが、南中前なのでほぼ真上、これならスカイツリーでも、六本木ヒルズでも撮れる写真は同じだろうなと思われるのだが、翌日の新聞などでスカイツリーと赤銅色の月のコラボ写真などを見ると、究める人はすごいなあと、写真そのものよりもその努力に頭が下がる。
月と言えば昨年訪れた銀閣寺の向月台だが、訪れる度に大きく成長しているような気がしてならない。銀沙灘(ぎんしゃだん)の高さもこんなにあったかと思うぐらいである。いつか向月台から満月を見たいと思っていたのだが、夜間の拝観はできず残念だ。
調べてみると、私が何度か訪れてからの高さは180cmで変わっていないようである。そもそも向月台が今の形になったのは江戸の後期ぐらいからで、それ以前は記述があまりないらしいのだが、もっと小さく、形も様々だったようである。
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000091912
『都名所図会』(1780年)では渦巻のように書かれており、高さはよくわからない。その後の『都林泉名勝図会』(1799年)では少し高さが増したらしい。つまり室町時代は上に乗って月を眺めたとか、山越しの月を愛でたなどの発想はなかったようで、月によって映される影を部屋から楽しんだのかもしれない。さすがに今回の皆既月食のように月が突然赤銅色になり周りが暗くなると不吉の前兆、天変地異の始まりと義政も驚いたことだろう。
おばちゃん的にもハッピーというよりは胸がゾワゾワしてして喜べなかった。なんせ超青血赤月(スーパー・ブルー・ブラッドムーン)を観てしまったのだから。
今月のネコ
愛媛県砥部町の強制減量散歩猫 「今日も寒い。動かにゃいわよ。」
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Japan Geographic Web Magazine
Editor Yukinobu Takiyama
yuki at .jp (Replace at to @)
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