Monthly Web Magazine Dec. 2019
■ 伝統的なまちなみに変化が 瀧山幸伸
私は「まちなみ」に「街並」の字を使っている。詳しくはこちらの街並考察を参照いただきたいが、今回はめんどくさい話ではなく、街並の定点観察で気づいた最近の変化について。
伝統的な街並は壊れやすいが、逆に言えば地元と訪問者双方のほんのちょっとした気遣いによってより良い保存と地域活性化が両立できる。
今年は、秋田の角館、福岡の秋月、宮崎の飫肥、鹿児島の知覧で特にそう感じたのだが、街並にとって重要な「五感」への気遣いが変わってきた。
よくわかるのはやはり視覚で、以前は原色が目立った。最近は地元のホスト側での原色蛍光ジャンパーには一度も遭遇しない。外国からの訪問者はかなり増えたが、一時期のような原色のジャンパー、靴、バッグはかなり少なくなった。
いや、日本人よりも外国からの訪問者のほうが街並に調和した服装で、じっくりと日本の伝統文化を味わう目的での訪問者が増えているように感じられる。
逆に、街並や文化を守るべき立場のホストとしていかがなものかと思ったのは、最近やたら増えてきた「日本遺産」の幟や看板で、街並景観をぶち壊している現状は悲しい。
訪問者は事前に重要文化財や重要伝統的建造物群などについて勉強しているのだから、「これは日本遺産に選ばれた貴重なものです」という幟や看板は全く不要で、某電機会社の「重要文化財」の看板以上に邪魔で、景観破壊でしかない。
訪問者の変化は視覚だけではなく聴覚にも表れている。かつては狭く静かな街並を団体で大騒ぎしながら、あるいはスーツケースの騒音を撒きながらで非常に騒々しかったが、最近は個人での行動が主体で、ガラガラ音も影を潜めた。
かなりマイナーな街並では日本人の訪問者はほとんど見かけないが、アジアからの個人旅行者はかなり増えた。彼らからは日本人以上に地域の街並や文化への関心と敬意が感じられた。
拙著「一度は行きたい日本の街並」には非常にマイナーな街並を多く紹介したが、外国の出版社がライセンスを受けて中国版(簡体中国語)、台湾香港版(繁体中国版)に翻訳されたことは出版社としても驚きだったらしい。
日本の街並の素晴らしさを最も知らないのは我々日本人かもしれない。
今年は主にお祭りや伝統行事を撮影しようと思っていましたが、11月は適当な撮影対象が見つけられなかったので、例年どおり紅葉を中心に撮影しました。
今年は夏の酷暑が紅葉の色付きにどう影響するのか心配でしたが、まずまずの色付きとなったようです。
11月2日 刈込池(福井県大野市)
条件に恵まれて素晴らしい眺めを堪能しました。
相当山奥であるにもかかわらず、三連休初日ということで、早朝から多くの人で賑わっていました。
11月16日 高源寺(兵庫県丹波市)、長安寺(京都府福知山市)、安国寺(京都府綾部市)、龍隠寺(京都府南丹市)
北近畿の紅葉の穴場と言われるお寺を回りましたが、土曜日ということもあり、「穴場」という時点でかなりの人が訪れていました。
高源寺、安国寺は最盛期、長安寺と龍隠寺は見頃前でしたが、それなりに楽しめました。
11月24日 談山神社(奈良県桜井市)、室生寺(奈良県宇陀市)
日曜日でしたが難関談山神社に挑戦しました。
最盛期でしたが早朝ということもあり、思ったよりも混雑しておらず、紅葉を堪能できました。
ただ、けまりの庭で無料写真撮影のイベントをやっていて、けたたましい呼び込みと撮影時の声掛けで動画に影響が出てしまいました。
この業者さん、以前に白川郷の城山展望台で、「しらかわゴー」と連呼していた業者さんに声質が良く似ているような気がしました。
ついでに室生寺にも寄りましたが、鎧坂や五重塔前で人が途切れることはありませんでした。
11月27日 宝厳院(京都市右京区)
仕事が終わってからライトアップの撮影に行きました。
見事な色付きでしたが、昼間ほどの混雑はありませんでした。
嵐山は夜営業する店が少ないのが影響しているのかもしれません。
11月28日 鶏足寺(滋賀県長浜市)、西明寺(滋賀県甲良町)、金剛輪寺(滋賀県愛荘町)、百済寺(滋賀県東近江市)、永源寺(滋賀県東近江市)
湖東三山と永源寺は、過去に休日に行ってものすごい混雑で閉口したことがあったので、平日に訪問しました。
鶏足寺は時期が過ぎて散紅葉になっていましたが、対策期間が終わっていたのでゆっくり鑑賞できました。
湖東三山と永源寺は平日であればそんなに混雑していませんでした。
個人的には初めて百済寺のもみじ参道の紅葉を撮影できたことがうれしかったです。
12月1日 清水寺(京都市東山区)、教王護国寺(京都市南区)、浄住寺(京都市西京区)、妙顕寺(京都市上京区)、妙覚寺(京都市上京区)
京都市内の紅葉は遅くまで残っていたので、12月に入ってから訪問しました。
12月に入ると観光バスの団体さんはいなくなるので、少しは混雑も緩和されていましたが、特別公開中の浄住寺、妙顕寺、妙覚寺は思ったよりも多くの人が訪れていました。
なお、特別拝観なので東寺も含めて拝観料が高く、懐を直撃されました。
何となく最後の海外旅行はエジプトと決めていましたので、10月11日~18日の間、家内と一緒に行ってきました。体力・気力の点で少し不安でしたが快調な旅で終わりました。アスワンの一日だけエジプトらしい炎熱の日でしたが、残りの日々は何の抵抗もない気温でした。
帰ってからまだまだ行けるな~の思いを持ちました。
事前の準備が十分でなく、勿論言葉も通じず、100%現地のガイドさんの説明に頼るだけでした。がBC3000年頃から建造された遺跡の数々には圧倒される毎日でした。
数々ある遺跡・遺物の中の一つ、「ラーヘテブとネフェルト(妻)の像」第4王朝(BC2613 ~2588年頃)にはビックリでした。
1871年の発見です。エジプト美術史上最高傑作の一つとされているようですが、美しい色彩がそのまま残っているように見えました。
ネフェルトの頭にはヘアバンドが巻かれ、花模様で飾られています。当時の筆遣いもはっきり分かる鮮明さでした。特にこの像で一番驚いたのは目でした。水晶とガラスで象嵌されていて、本当の目のように光っていました。この像をメイドゥームのマスタバ内で見つけた発掘隊は、暗闇に光る目を見て逃げ出したといわれてますが、それほどリアルでした。
足元の子どもの仕草や全体の描写も、5000年もの時の隔たりを感じさせない作りでした。他で見る遺跡や遺物もすべて同じ思いがしました。
古代エジプトの至宝はエジプト国内・外で多く見られますが、今までに発見されたのは数10%に過ぎないようです。最近も「神官の墓」や「ライオンのミイラ?」発見の貴重な情報が報道されました。ギザの三大ピラミッド傍の大スフィンクス像の下部にも何かが・・ともいわれ、目が離せません。
ツタンカーメン墳墓を上回る貴重な大発見が待ち遠しいです。
折りも、国立科学博物館(東京)では「特別展ミイラ」が開催されており、その関連記事が毎週報道されています。
そうした情報に触れながら、薄れゆく旅の思い出を少しでも長く持ち続けたいと思いつつ毎日を過ごしております。
私の勤務先近くにある重要文化財「有章院霊廟二天門」の修復工事がようやく完了しました。
2015年8月に始まり、当初は2018年7月終了予定でしたが、一年遅れの今年7月にやっと終了しました。
休日のせいかプリンスホテルの駐車場も車が少なく、運よく上の右の画像が撮影出来ました。
普段だと、手前には確実に車が入ってしまいます。
2011年にも撮影しており、その画像が下の画像です。
文化財が生き返りました。朱の漆がはげ、痛ましい状態で誰が見ても早期の修繕が必要でした。
増上寺を挟んで反対側の旧大徳院霊廟惣門は15年前に修繕されていましたので、より一層この有章院霊廟二天門がみすぼらしく 見えていました。
よみがえった二天門は徳川家継の墓の門にふさわしい風格を備えています。さすが吉宗が建立しただけはあると納得できる 絢爛さをしめています。
左右の広目天、多聞天は大きな修復はされていないようです。
金網は撮影の敵です。MFに切り替えて撮影しても普段はAF専門ですから満足な画像は撮影できません。
細かいパーツもそのままのようです。
このパーツの名称もわかりませんが、青銅の緑青がそのままですから、手を加えていないのでしょう。
そのままで保存可能なものはそのままというのも修繕の大切な要点だと考えます。
美しく蘇った有章院霊廟二天門、東京にお住いの方は是非、足を運んでみてはいかがでしょうか。
もう12月に入って秋も終盤を迎えてきた。福岡市の自宅周辺に飛来する冬鳥もだいぶ顔をそろえるようになってきて冬らしい鳥の風景が展開している。
水鳥ではハシビロガモやマガモ、コガモ、ヒドリガモなどが次々に渡ってきて近くの溜池を遊弋している。渡ってすぐは警戒心が強くて人の気配に敏感に反応するが少し経つと慣れてきて見やすくなってきた。渡ってきた当初はカモ類のオスはエクリプス羽から変わり切っていないのもあって色々な模様が見られて面白いところもあったがこの頃になるとオスはオスらしく綺麗になってきた。カモは真冬に繁殖用の羽に変わるのが面白い、冬が来れば直ぐに春になる、準備をしなくては、と気がせくのだろうか。
カモメの仲間ではセグロカモメが冬鳥として飛来し始めた。セグロカモメは北極海で夏を過ごし冬は南下するのだが種類が多く判別には悩まされる。カモメがすぐにわかる人は鳥仲間でも尊敬されるような気がしている。先月は大濠公園でタイミルセグロカモメらしいカモメを見たがどうにも自信がない。そんなものだ。
陸の鳥もジョウビタキはだいぶ慣れてきて近くで観れるようになってきたが、シロハラはまだ敏感で声はすれども姿はちらちら見せてくれるくらいだ。ツグミはかなりの集団が到着したのかこのところ急に数が増えてきた。アトリも大きな群れにあたるとあきれるほどの数が見れることもあるが今年は未だそんな場面には遭遇していない、しかし数は増えてきた。ホオジロ類ではホオジロは留鳥だが頭の黄色いミヤマホオジロや腹の白いカシラダカは冬鳥としてシベリア方面から飛来する。これも近くの油山などで姿を現してきた。今年はカシラダカが多いようだ。
渡り鳥ではないが近くの蓮池にはウグイスが冬は山から下りてくる。時々姿を見せ始めてこれもまだ落ち着かないがじきに見慣れた冬の風景になっていくだろう。いい季節だ。
(写真は順に1.ハシビロガモ、2.マガモ、3.コガモ、4.ヒドリガモ(エクリプス羽から転換中)、5.ヒドリガモ(転換終了した繁殖羽)、6.タイミルセグロカモメか、7.ジョウビタキ、8.シロハラ、9.ツグミ、10.アトリ、11.ミヤマホオジロ、12.カシラダカ、13.ウグイス いずれも福岡市近郊で今秋冬撮影)
今年は暑い日が長く、ちっとも秋らしくならないと思っていたら、急に寒くなって、紅葉もバタバタと赤く色づいたようだ。
私の好きなお寺の一つ、「大寧寺」、山口県の長門市にある。
近くのJRは長門湯本駅、無人の駅だ。
長門湯本温泉が近くにあり、現在、あの国内37施設を運営する星野リゾートが「星野リゾート 界 長門」を建設中だ。2020年に開業するらしく、宿泊してみたい宿の一つでもある。
2017年にアップしたが、今年も大寧寺の紅葉を見に行った。今年は少し遅かった。
地面に落ちた紅葉の赤いじゅうたんが少し茶々けていた。
なかなか自分の日程と自然の日程は合わないものだ。
こちらは東行庵、こちらも2017年にアップした一つ。
高杉晋作の霊位礼拝堂として妾おうのが創建した庵。
もみじ谷という箇所があり、ライトアップされた。
11月初旬からライトアップされるらしいが、こちらも今年は色づきが遅く、色づいてきたと思ったら、あっと言う間だった。
入場者は協賛費として一人200円を払うが、ライトアップにかかる費用、管理費などを考えるともう少しとってもいいんじゃないか、と帰りには思えるほどのきれいさだった。
自然のきれいさはやはり目で見るのが一番。どうしても感動さが写真では出なかったりする。感動を写真で撮れたらなぁ。
11月下旬に足立美術館(安来市)、松江城下町、出雲大社を2泊3日で巡った。島根県の東部ということになる。その時の大山と宍道湖の風景である。
姿の美しい霊山である。もうとっくに亡くなられたが、米子にごく親しい取引先があり、日野川のほとりに事務所があった。山陰線と交差するあたりである。そのあたりから大山が目の前に見えたし、その山麓を何度も車で走ったので、この山に対して個人的な思い入れがある。
11月22日午後1時ころ、伯備線から西側が見える。うっすらと雪をかぶっている。北西に進むにつれて、危険な尾根(通行禁止)と切り立った北壁が少しだけ見える。若いころ登って見ようかと思ったこともある。
同日、午後遅く、足立美術館のシャトルバスから見る。岩峰がみえないので、のどかな独立峰である。
松江から見る。最初は23日早朝、宍道湖畔のホテルの8階から、その次は正午ころ、松江城天守閣から。
松江市内の宍道湖
23日早朝、午前6時ではまだ真っ暗だったから、午前7時くらいか。
午前中、対岸に島根県立美術館が見える。
午後に美術館に行った。その前の湖面に白鳥が7~8羽浮かんでいたが、夕方前にはどこかに飛んで行った。
美術館の湖畔は広々とした芝生で市民の憩いの場である。また、夕陽を鑑賞する絶景地との評判が高い。そのため、美術館の北面はガラス張りである。
夕焼けが近づいてきたが、もう去らねばならない。
出雲大社方面の一畑電車から見た日没後の宍道湖である。
所在地:長野県木曽福島
14歳で大阪へ出てきた大出権四郎。鋳物屋で修行を積みながら、明治23(1890)年2月、19歳で長屋の一角に、資本金100円で「大出鋳物」(後に『大出鋳造所』と改名)の会社を作ります。
時代は文明開化とともにコレラなどの伝染病が流行した時期で各地で水道の整備が進められていて、大出権四郎は試行錯誤の結果、明治水道用の鉄管の量産化に成功して工作機械や製鉄機械の製造に踏み出します。さらに小型三輪自動車の製造に踏み込みますが、競争に勝てずに日産自動車の前身である戸畑鋳物に株式を譲渡し、そこから買収した発動機事業が後の『クボタ』の基礎となります。
大出鋳造所の取引先に「久保田隣寸器機製造所」があり主人の久保田藤四郎はドイツ製のマッチ軸刻機にヒントを得て高能率の国産機械を生み出しマッチの輸出に貢献した人物。大出権四郎の水道用鉄管の国産化に心血を注ぐ姿を見て「養子になってほしい」と申し出ます。鉄管の仕事を続けられることを条件に以後大出権四郎は久保田権四郎と名乗り会社名も「久保田鉄工所」と改称します。
昭和初期の世界恐慌の中、久保田鉄工所を鋳鉄管と鋳物を製造する資本金450万円の「株式会社久保田鉄工所」と農耕用発動機・工作機械・はかりなどを製造する資本金150万円の2社を設立して分社化のはしりとなります。(クボタ社史より抜粋要約)
当該看板は長野県木曽福島宿を歩いているときに農家の納屋で見つけたもの。農業機械メーカで日本最大手の『クボタ』の昭和初期の看板です。
製品名が書いてなくて、代わりに愛用者と入っているところから、今で言う会員組織の「この看板を貼っておいたら修理費10割引き」とか、「次回の買い換えに便宜をはかる」とか、その類いのものであったかもしれません。それでも昭和初期にこの姿勢はさすが、努力家の創業者の意欲を感じます。
ちなみに看板にある社標は鋳鉄管を組み合わせて久の字としています。当初はそれを○で囲ったのみでしたが、その後機械部門進出を機に○部分をギアを表すギザギザに変更して鋳物と機械のクボタを表した、と社史にあります。古い農機具にはこの久の文字の代わりに牛の絵のアレンジもあるようで、クボタの農家に向ける温かい目線が感じられます。
今月のにゃんこ
極寒の別府鉄輪温泉
Japan Geographic Web Magazine
Editor Yukinobu Takiyama
info at japan-geographic.tv (atを@に入れ替えてください)
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