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Monthly Web Magazine Sep. 2020


■ 蟇股あちこちー5 中山辰夫

1185年~1274年、鎌倉時代前期頃の遺例が続きます。法隆寺や東大寺の現在に残る堂宇は長年にわたり、修築、再築を繰り返したものです。
従い、その時代の工法が採用されており、進化の様子が分かります。
今回も板蟇股の諸例を年代順に並べます。

東大寺二月堂 国宝 建立:1192年 正面五間 側面八間 前部-入母屋造 後部-寄棟造 本瓦葺 閼伽棚含む
   
3月の修二会(お水取り)が行われます。752年に始まり1200余年間一回の断絶も無く続いています。江戸初期に再建された懸崖造の建物。
江戸時代建築の傑作の一つとされ、舞台から奈良市内が見渡せます。

板蟇股が廻廊や登廊に見られます。廻廊は国重文 建立:1669年江戸時代中期
      

東大寺 閼伽井屋 国重文 建立:1240年 桁行三間 梁間二間 一重 切妻造 本瓦葺
  
修二会に際し、毎年3月12日にこの屋内にある井戸より本尊に供する御香水(閼伽水)を汲みとる儀式がおこなわれます。

板蟇股は両妻の虹梁上に用いられています
   

教王護国寺(東寺) 灌頂院 国重文 建立:844年頃 度々火災に遭遇、現在の建物は1634年に竣工したものです。密教での重要な道場でした。
   
通常は非公開 毎年4月21日の絵馬参拝の日は公開されます。

灌頂院には北門と東門がありますが、年に2回、合計6時間しか開門されません。
灌頂院東門 国重文 四脚門 切妻造 本瓦葺
     
板蟇股は両妻の虹梁上に用いられています。 斗載両脇から足元にかけての繰形は一連の反転曲線におさまっています。
東寺には多くの蟇股が見られます。

東福寺
      
東山の麓に続く寺社群の南端に所在。規模は東大寺に次ぎ、教行を興福寺にとり、寺号を東福寺と定めました。1236年前関白九条道家が創建を発願、宋から帰朝した円爾弁円を1243年開山に迎えました。京五山の一つに列し、七堂伽藍を備えましたが、1881年に仏殿や法堂・方丈を焼失。三問、禅堂、東司、浴室は残りました。京都の社寺は何処も同じですが、1960年頃は境内も荒れ放題。観光寺院に踏み出して徐々に整備が行われ現在の姿になりました。

東福寺月下門 国重文 建立:1268年 朱塗りの四脚門 切妻造 檜皮葺
一条実経が常楽庵を建立した際に、亀山天皇より下賜された京都御所の月華門とされます。
  
板蟇股
  
繊細優雅な板蟇股と称されます。背低く左右に良く延び両肩の捲上りは猪ノ目形の捲込みを造って牡丹花が翻るように、二転三転して左右に長く伸びている様は流麗の極みであり、門全体の軽快優雅さに一段の光彩を添えていると称されています。

両妻の虹梁上に用いられている。足元の丈が低いタイプで古式です。1244年の元興寺の極楽坊本堂の板蟇股ときわめてよく似ています。
   

東福寺では多くの蟇股に出会えます。

蓮華王院(三十三間堂) 応仁の乱にも残りえた建物 本堂内は撮影禁止。
京都市東山区三十三間堂廻町657
   
妙法院に属する天台宗山門派の寺院。1164年後白河法皇が建立、1266年に再建されたのが現在の堂です。三十三間堂として知られます。
創建当時は色鮮やかな「丹塗り」だったとか。免震的な建築工法採用されています。
内陣の柱間が33間あるのでこの名があり,京都における鎌倉時代和様建築の代表的遺構。本尊の千手観音座像は1254年湛慶の作です。

本堂 国宝 建立:1266年 桁行35間 梁間5間 一重 入母屋造 向拝7間 本瓦葺
    
二十八部衆、風神雷神像のほか、湛慶の一族や弟子たちの手になる1001体の千手観音立像が安置されています。貴族間で造寺造仏画が競われた院政期の風潮を今に伝えます。平清盛寄進とされる創建時の本堂は焼失しましたが、現本堂は旧規を踏襲して再建されました。江戸時代に始まる「通し矢」は正月行事として残っています。

圧巻の板蟇股 撮影禁止を恨めしく感じる光景に出合います。板蟇股の雄大な構造美が展開されています。
本堂内陣の天井にあって、二重虹梁蟇股で化粧屋根裏という簡素、明快な架橋。中尊上方だけが折上組入天井。シンプルな板蟇股の並びが荘厳に見えます。
     
堂内写真は 販売の「国宝三十三間堂」より引用しました
蓮華王院にはその他板蟇股、蟇股が多く見られます。連華王院単独のページにまとめます。

十輪院
奈良市十輪院前27
  
聖武朝の右大臣、吉備真備の子である朝野魚養が建立。もとは元興院の子寺でした。国宝の本堂には日本では非常に珍しい国重文の石仏 を拝むための礼堂として建てられたようです。国重文の石仏龕は見ものです。江戸・明治期の町並みが残る奈良町の一角にあります。

板蟇股-南門 国重文 建立:鎌倉時代前期 四脚門 切妻造 本瓦葺
    
妻飾りに大きな板蟇股。本来の構造材として用いられているようで、全体的には装飾性の低い建築です。本堂が中世の優美な装飾なのでそれにあわせて質素・簡略に建てられたようです。

般若寺
奈良市般若寺町221
     
飛鳥時代に高句麗の僧慧灌が創建、聖武天皇が平城京の鬼門を守る寺に指名。平安時代は学問道場として学僧が千人集まったとされます。
1180年に平重衡の南都焼打ちで伽藍は全て灰燼に。現在の建物は再興されたもの。30種16万本ともいわれるのコスモスが咲き誇る秋の風情が人気です。

楼門 国宝 建立:1264~74年 一間一戸楼門 入母屋造 本瓦葺 
   
民家の建ち並ぶ京街道に面して建つ。下層は一間、上層は三間 長押しを多用し、和様を基調に、上層の組物など細部は大仏様の意匠を多用してます。
  
楼門に用いられている板蟇股 下層通路の上、上層の床を支える梁の間に、前・中・後の参列に三個づつ板蟇股が並びます。
 
上層外周の中備に用いられている板蟇股。斗載面脇の繰形は古式な形であるが、足元の繰形は他にない特異な形です。
  

下層外周の中備に用いられている板蟇股 斗載面脇の繰形は本柱筋のものと同じ形としていますが、両端の繰形は巻き上げた形に造られています。
  

法隆寺 東院四脚門 建立:鎌倉時代前期 四脚門 切妻像 本瓦葺
   
板蟇股は両妻の上の虹梁上にもちいられています。 肩の曲線は1268年頃に設けられた当麻寺本堂の閼伽棚の板蟇股に近似しています。

法隆寺 細殿 国重文 建築:奈良時代(1268年) 桁行七間 梁間二間 一重 切妻造 本瓦葺
 
細殿と食堂が並びます。食堂は衆僧が食事をするところ、奈良時代後期の遺構で、食堂としては現存最古の建築。細殿は僧侶が支度をするところ。

板蟇股
     
板蟇股は1244年の元興寺極楽坊本堂の板蟇股の流れを汲んでいます。

今回も似た形の板蟇股ばかを並べました。原始蟇股→初期板蟇股→板蟇股へと変化してきました。
初期透かし蟇股が平安後期から使われ始め、板蟇股と覇使い分けして併用されています。来月、もう一回板蟇股が続きます。

余興ですが、姫路城に蟇股が用いられています。南側軒唐破風の所です。
   
蟇股は、破風の奥の壁に見えます。蟇股に、剣酢漿(けんかたばみ)といわれる、最後の城主となった酒井家の家紋が見られます。
この家紋は鏝絵でなく木製の漆喰仕上げとか。北側にも不明な家紋入りの蟇股があるようです。

犬山城、和歌山城、宇和島城、丸岡城、伊賀上野城でも蟇股を見かけた記憶があります(間違いがあるかも・・ )関心が薄かったので画像がありません。
板蟇股には種々の彫刻が施されてあるのを多く見かけます。年代によっても異なります。彫刻の中には家紋もあります。いずれかの機会にご紹介します。

 


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