Monthly Web Magazine June.2024
佐渡金山が世界遺産になる日が近い。金は平時では電子機器などの実用性の高さや美術性の高さからもてはやされるが、戦争などの非常時には流動性、換金性が高いゆえにさらに価値が高まる。
金と人との歴史は世界的にはブルガリアのヴァルナ遺跡から出土した人骨の装身具で、紀元前6000年頃に遡るそうだ。
さきたま古墳群の国宝稲荷山古墳出土鉄剣
■ 最近の撮影から 大野木康夫
京都・滋賀で1月に指定された重文建造物、5月に重文答申の対象となった建造物を中心に撮影しました。
5月18日
園城寺5棟(滋賀県大津市)
5月の文化審議会で札所の建造物5棟について、重要文化財に指定するよう答申がありました。
訪問した日は千団子祭で境内が賑わっていました。
観音堂
札所鐘楼
百体堂
観月舞台
絵馬堂
6月6日
對龍山荘4棟(京都市左京区)
同じく5月の審議会の答申対象になりました。
對龍山荘はニトリの所有で同社の社用で使用されるほか、カルチャーセンター等のイベントに参加すれば参観できますが、門の中は定点のみ撮影可(写真公開不可)となっているそうです。
指定される予定の4棟は前の道路(2項道路)からも見えていますので早朝に撮影してみました。
主屋
北土蔵
南土蔵
表門
6月8日
齋神社本殿(京都府綾部市)
5月の答申の対象です。
綾部市の山家地区の小さな神社で、本殿は室町中期の建築と推定されています。
覆屋の中で少し撮影しにくかったです。
宮津洗者聖若翰天主堂(京都府宮津市)
1月に重要文化財に指定されました。
宮津市役所の西南にある、現役最古の教会堂です。
内部は撮影禁止となっています。
旧尾藤家住宅8棟(京都府与謝郡与謝野町)
同じく1月重要文化財に指定されました。
与謝野町加悦地区の重伝建地区にあり、内部も公開されています。
主屋
奥座敷
内蔵
新座敷
雑蔵
新蔵
奥蔵
米蔵
これらのうち、園城寺4棟、斎神社本殿、宮津洗者聖若翰天主堂、旧尾藤家住宅8棟は滋賀県・京都府指定の有形文化財、園城寺絵馬堂は大津市指定有形文化財、對龍山荘は名勝からの指定です。
都道府県指定の有形文化財から重要文化財に指定されるケースが多いので、今後は可能な限り撮影していきたいと思います。
■小田井用水路 野崎順次
江戸中期、紀の川右岸の河岸段丘に、藩命により二つの灌漑水路が建設された。藤崎井用水路(24km)と小田井用水路(32km)である。その開削に取り組んだのは、「治水の神様」と呼ばれる大畑才蔵だった。特に小田井を通すあたりは河岸段丘が複雑に出入りしており、高度の測量技術と正確な設計図が要求された。用水路が河川を横断するには次の工法が採られた。
河川の底を横断する場合、逆サイホン方式による伏越
河川の上を横断する場合、木製の掛樋による通水橋
その後、度重なる改修工事が行われ、伏越と通水橋には明治大正期に煉瓦や石材が使用された。また、当初の土水路はコンクリート水路となり、現在でも広大な農地を潤している。2017年には小田井用水は世界かんがい施設遺産に登録され、また、それに先立ち、3件の通水橋と1件の伏越が国登録有形文化財である。
最初は煉瓦造の伏越である。JR中飯降駅から徒歩10分、水位が高いので、煉瓦造の一部しか見えない。最初の2枚の写真は水位の低い時で、「水土里ネット小田井」から引用した。
国登文 中谷川水門 明治/1912
煉瓦造、延長13m、幅員6.4m
紀ノ川にほぼ平行して流れる用水路が中谷川と交差する地点に築かれた暗渠。サイホンの原理を利用し川の下に築かれる。アーチは煉瓦造4枚厚で,壁面をフランス積とし,頂部にはパラペットを立ち上げる。藩政時代に開削された大規模灌漑用水路の近代化を表す。
(文化遺産オンライン)
中飯降の古い集落の中で、小田井用水は旧大和街道と並行している。
JR笠田駅のあたりでは、線路と用水路が並行している。西へ行くと線路から離れて北行する。
国登文 小庭谷川渡井 明治/1909
煉瓦造単アーチ橋、橋長9.3m、幅員7.4m
紀ノ川に右岸から合流する堂田川に架かる水路橋。橋長9.3mの煉瓦造単アーチ橋で,石積の基部から煉瓦4枚厚のアーチを立ち上げ,スパンドレルはフランス積で築く。明治末期に着手された用水路改修工事の関連施設の中で,最初期に竣工した構造物。
(文化遺産オンライン)
次のJR西笠田駅では、山すそを西から北に回り込むと小田井用水最大の通水橋がある。
国登文 龍之渡井 大正/1919
煉瓦造・石造及びコンクリート造単アーチ橋、橋長21m、幅員5.3m
那賀町とかつらぎ町の境を流れる穴伏川に架かる水路橋。橋長21mの大規模な煉瓦造単アーチ橋で,煉瓦7枚厚のアーチは段状に迫り出したつくりで,スパンドレルを石積で築き,その上部にフランス積の煉瓦壁を立ち上げる独特の構造形式とする。
(文化遺産オンライン)
水量豊かにかなりの速さで龍之渡井を渡っていく。
龍之渡井を近くから見る。
さらに西へ、粉河あたりでは、北に小田井、中央に旧大和街道、南に藤崎井が並行している。また、粉河寺には大畑才蔵翁彰功之碑がある。
日光輪王寺(大猷院霊廟)前回からの続きと、真岡大前神社です。
■香春町の採銅所 田中康平
福岡県の香春町には先祖代々のゆかりがあって時々訪れることがあるが、古くからの言い伝え等があちこちに残るようで歴史的にも面白いところではある。その一つに採銅所というところがある。JR日田彦山線の香春町の北1つ目の駅だが、奈良の大仏の銅をここから出したと伝えられている。奈良の大仏は500トンもの銅を必要としたというから当時の国内の銅鉱山はすべからく関与したと考えるのが順当だ、銅の成分から香春の採銅所の銅が多かったと主張する人もいるようだ。貢献した程度は本当のところはよく解らないが、香春の採銅所は8世紀に宇佐神宮に銅鏡(神鏡)を供給していたことは明らかなようで、当時の有力な銅山であり少なくとも大仏に使われたことは間違いないと思われる。
採銅所駅内に香春町役場関連の事務所がありそのうちの一つにちょっとした用があったついでに採銅所の駅を眺めてみたり、そこからクルマで10分くらいのところにある昔の坑道跡の一つの神間歩や宇佐神宮の神鏡を作っていたという清記殿にいってみたりした。
採銅所駅は大正時代の木造駅舎が保存されており、香春町の有形文化財に指定されているというので眺めてみたが、今でも大正らしいちょっとモダンな感じが残っている。電車ではなく気動車のキハ147が発着していた。
神間歩(かんまぶ)
古代の坑道跡とされ、公園の一角に保存されている。内部には入れない。ここは祭祀を行った儀式的な坑道であったようで実際の採掘用の坑道跡は香春岳三の岳に散らばっているようだ。
清記殿
神間歩の近くにあってここで宇佐神宮の神鏡が造られたとある。木造の建屋があるが残っているのは新しいもののようだが、この場所に古代から流れる時を想ってしまう。
■東京タワーの見える風景 川村由幸
港区芝公園界隈も外国からの旅行者を多く見かけるこのごろです。もちろん東京タワーの存在が大きいと思いますが昨年11月に開業した麻布台ヒルズも観光客を引き付けているようです。
麻布台ヒルズの中の森JPタワーは地上64階、その高さ330mで、ビルでは日本一の高さです。
この森JPタワーができたことで東京タワーの見える景色が随分と変わりました。
神谷町の駅から東京タワーに向かって階段を上がったところにある日鳶連会館、鳶職団体らしく纏のモニュメントがあって面白いツーショットが撮影できます。芝公園の中から東京タワーを見上げると緑の中にオレンジのタワーが鮮やかです。
そして、東京タワーの前から増上寺の方に坂を下って振り返ると、タワーと森JPタワーのツーショットです。
昨年10月まででしたら、東京タワー単独の景色でした。
増上寺からの景色も大きく変わりました。本堂とタワーのツーショットだったものが、JPタワーが加わってスリーショットに。三解脱門からはJPタワーが門に隠れて景観に大きな差のない角度もありますが、本堂同様にスリーショットになる角度もあります。
重要文化財の旧台徳院(徳川秀忠)霊廟惣門と有章院(徳川家継)霊廟二天門はどうやってもツーショットの構図にはなりません。
もちろん、どちらが良いとか悪いとかと言いたいわけではなく、人の営みが景色を変え、過去の景色が人々の記憶から消えてゆくことに少し感傷的になっているだけです。
慶応大学の方からの景色にも、そして東京プリンスホテルからも森JPタワーは入り込んできます。
東京タワーと肩を並べる高さの建造物が至近にあるのですから、当然と言えば当然です。
こうして都会も変化し、それを人々が受け入れて行くのでしょう。そしてこの変化が景観を壊しているとは言えません。
ただ、田舎では、このような人の営みが大きく景観を損なうこともあるようです。
富士山至近の某コンビニの騒動など悲しくなるばかりです。
■「クレマチス」 柚原君子
初夏の頃に咲く花は何が好き? と聞かれたら、花の名よりも紫色が好きと答える。紫といっても、紅木蓮のような赤に近い紫ではなく、青色に限りなく近い青紫がいい。
青紫には、初夏の紫外線を跳ね返すような芯の強さと、それでいて梅雨の長雨にも文句をいわない従順さや、一途な清廉潔白さを感じてしまう。口の悪い友人は、自分にないものを欲しがっていると笑うが、まあそれはそれとして、菖蒲、紫陽花、トルコ桔梗、クレマチス……青紫のこれらの切り花や鉢植えを、私は時々買い込む。
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下町に住んでいた頃の昔の話だが……
お向かいのおばちゃんちの前には、クレマチス(和名:てっせん)の鉢植えがあった。大ぶりの鉢ではなく毎年三輪から五輪が控え目に咲くクレマチスだった。
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おばちゃんちの向かい側に、小さな一戸建てを買って住むようになった私たちは、おばちゃんを頼って何でも聞いて暮らしてきた。特に難しい町内ではなかったが、後から来た者が先住の人にこの町の習慣を聞くのは当たり前のことで、それがまた町内に慣れていく早道でもあった。特に冠婚葬祭のことは必ず聞いた。
当時はまだ自宅葬儀が当たり前の時代だったから、お清めの料理を向こう三軒両隣が集まって作っていた。
大体はおばちゃんちの台所がその戦場になっていた。まだ若嫁だった私は、近所の他の若嫁さんたちと一緒に、天ぷらの材料や枝豆などを八百屋に使い走りしたり、おばちゃんが味加減する煮物の脇で皿を出したりしていた。
通夜の用意がほぼ整うと、自宅に待っている旦那や子供の夕食の準備に嫁たちはそれぞれ帰るが、おばちゃんは多めに作った天ぷらや煮物を黙って持たせてくれた。
決して噂話をしない。人をよく誉める。編み物もパッチワークもミシンかけも何でもできるおばちゃんだった。
私の母は健在でいたけれども、どういうわけだかおばちゃんには母親以上の親しみが持てた。冬には編み物を一緒にした。一目ゴム編みの仕上げを、きちんとした針目で教えてくれたのも、パッチワーク用の布の端切れを交換し合ったのも、悪戯盛りのうちの息子を叱って外に出した時、家の中に連れ込んでくれたのも、お向かいのおばちゃんだった。
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私にがんが発見されて緊急手術を要するという診断が出た時、入院支度をしたあとにおばちゃんちに挨拶に行った。私が帰ってこられなくても、子どもたちはこの地で暮らしていくだろう。見守って欲しかった。
「おばちゃん、これから行ってくるね。子供たちは寝たとなると余程の事がないと起きないのよ。火事や地震があったら、たたき起こしてやって欲しいの」。
「大丈夫だよ。みんなでみてるから。それより絶対帰ってこいよ。母ちゃんはあんただけなんだからな」。
私は泣きたかったけれども、泣けば私の心張り棒が折れてしまうので、おばちゃんに自宅の鍵を預けて何度も頭を下げた。
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私は病院からおばちゃんちによく電話をした。「大丈夫だよ。夜もそんなに遅くまで電気はついていないし、子どもたちは頑張って暮らしているよ」。と返事を貰って安堵する入院生活だった。
私が退院すると、おばちゃんは「よく頑張ったなぁ」、と言ってくれた。
入れ替わりのようにおばちゃんちのお嫁さんが入院をした。あんたも治ったからうちの嫁さんも治るよ、とおばちゃんは笑っていたが、おばちゃんちのお嫁さんは帰ってこなかった。
おばちゃんちは来客が多く、玄関はいつも少し開いていた。上がり框(かまち)に、腰を降ろしただけでお茶を飲んでいる人もいれば、上がりこんでビーズ細工を一緒にやっている人もいた。郵便局の集金のおじさんがお茶をもらっていることもあった。
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いつの年だか忘れたがちょうど今頃の季節、竹の筒に入った珍しい水羊羹を貰ったので、おすそ分けをしようとおばちゃんちに行った。いつもは開け放たれている引き戸が珍しく閉まっていた。けれども、普段の親しさで、「おばちゃん!」と呼びかけただけで開けた。
おばちゃんは大粒の涙を流して一人で泣いていた。その辺のタオルで顔を拭くと、ぬれたままの目であったが何事も無いように「何か美味しいものをくれるんかい」と言った。私はおばちゃんの目を見ないように、「珍しいから食べて」と言ってそこに置いた。本当は一緒にお茶を飲もうと思ったけれど遠慮した。おばちゃんも私を引き止めなかった。
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人の悪口も泣きごとも言わなかったおばちゃんが、声も無く泣いていた姿を、私は時々思い出す。
生きていく上での喜び事はたちまちのうちに昇華されるが、悲しみ事は心に深く沈み、ふとしたはずみに、どうしようもなく浮かび上がってきてしまうことがある。多くの人に囲まれていても、寂しいときは無性に寂しい。いやいやながらも、一歩足を踏み出して生きていかなければならない時もある。
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その後何年か経過しておばちゃんはスーと亡くなってしまった。実の母を亡くしたように悲しかった。
おばちゃんが亡くなって何度目かの夏がやってきている。今はあまり開けられることが無くなった玄関だが、クレマチスだけは毎年健在で、それでいて控え目に四輪か五輪の澄んだ美しい青紫の花を咲かせている。
■ 酒井英樹
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