■ 「金」の歴史を学ぶ文化財巡り 瀧山幸伸
佐渡金山が世界遺産になる日が近い。金は平時では電子機器などの実用性の高さや美術性の高さからもてはやされるが、戦争などの非常時には流動性、換金性が高いゆえにさらに価値が高まる。
金と人との歴史は世界的にはブルガリアのヴァルナ遺跡から出土した人骨の装身具で、紀元前6000年頃に遡るそうだ。
日本での歴史は縄文弥生時代にはまだ無く、古墳時代以降となるようだ。古墳の副葬品としては金の耳飾りや鉄剣の金装飾が有名だ。金の耳飾りや馬具は朝鮮から持ち込まれたものだそうで、今も変わらぬ輝きはもちろん、造形美に未了される。これらを現地で知るには、磐井の乱で有名な磐井の君の墓といわれる福岡南部、八女市の岩戸山歴史資料館を訪問するのが良い。
あるいは、朝鮮半島に近い伊都の国に興味がある方は糸島市の伊都国歴史博物館も訪問すべきだろう。
いや、もっと朝鮮半島に近い所からという人には長崎県壱岐市の一支国博物館からスタートすることをおすすめする。
金象嵌が施された鉄剣を学ぶには、埼玉県行田市さきたま古墳群の国宝稲荷山古墳出土鉄剣が良いだろう。
これらの金がどこで産出されたものか、自分が調べた限りではわからなかったが、専門家が成分を分析すれば産出地を解明するのは不可能ではないと思われる。いずれにせよ日本国内ではないだろう。
では国産の金はいつどこで産出され始めたのか。国内での金採取は砂金で始まると言われ、その多くは東北地方で産出された。まずは国内最初と言われる宮城県涌谷町の黄金山産金遺跡を訪ねてみよう。砂金採り体験も可能だ。その時代は東大寺大仏に金を使おうと苦労していた8世紀、天平の頃だ。
東北の各地で砂金は豊富に採れたらしいが、当然ながら詳細な採掘地は秘密だった。岩手の多聞院伊澤家(重文)を調査した折、ボランティアの方から、伊澤家は里に住みついた修験で、実態は近隣山中の金採掘地を統括していた者だったと伺った。修験者の一部は鉱脈を探す山師でもあり、さもありなんと思った。いつかは多門院の背後の山中を調べてみたいと思っているのだが。
金の輝きは未来永劫の命に直結するので多くの仏像の需要を満たす必要があった。仏像ばかりではなく、 東北の砂金と毛皮は都の人々の権威と物欲を満たす装身具などにも使われ、蝦夷が大和に制圧されて行く大きな原因になったと考えられる。奥州藤原征伐も中尊寺金色堂の噂が頼朝の耳に入ったからではないかと思われる。マルコ・ポーロの「黄金の国」の風評が世界に拡がったのも中尊寺金色堂が大きな理由で、古今東西を問わず金は風評の題材としては最も華やかなものだったのだろう。 とはいえ、ローマ時代には絹の重さと金の重さが等価だったと言われており、日本の絹の歴史も華やかさにおいては引けを取らないのだが。
戦国の覇権を狙うには金山の開発は欠かせない。湯之奥などの武田信玄の隠し金山は重要な軍資金調達手段だった。
中近世以降の金文化はわかりやすい。代表格は金閣と日光(東照宮と輪王寺)だろう。
そして、徳川家康が直轄した金山の佐渡。有名な相川金山だけではなく砂金を産出した笹川にもぜひ足を運んでみたい。
同じく徳川家康が直轄した土肥金山も伊豆旅行のついでに訪問したい。観光の施設に隣接して国の史跡の天正金山がある。土肥の安楽寺には金山から湧き出したまぶ湯もある。以前は入浴できたが今は見学のみ。
江戸幕府を倒した薩長の資金源について、長州は金とは関係なく、「三白」と呼ばれる米・紙・塩だが、薩摩の資金資金源には密貿易と金山があった。日本の金山は金の含有比率が高く、菱刈鉱山は現代でも優等生だ。だが現役ゆえ立ち入りはできないので、菱刈と尾根を挟んだ鹿児島県さつま町の永野金山(山ヶ野金山)を訪ねてみたい。江戸時代(1640年発見)からの金鉱山の歴史がわかる。一時は佐渡を超える産出量だった。ここは西郷隆盛の息子菊次郎の縁もあり、廃鉱山好きには好適だ。
南が鹿児島なら北は北海道。鴻之舞鉱山も一世を風靡した金鉱山だ。
北海道には今金・美利河やロケット打ち上げで有名となった大樹町など各地に金に関わる遺跡や伝説が残る。私が調査したかったのは768グラムの金塊が発見された浜頓別のウソタンナイ砂金鉱山遺跡だ。
これらを全て巡れば日本が「黄金の国」である理由がわかる。末端価格で金を買うのではなく、山伏(=山師)となって新たな金鉱脈を発見してみてはいかがだろうか。
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