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滋賀県大津市 穴太地区

Anou area,Otsu city,Shiga

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August 26, 2020 大野木康夫 source movie

穴太廃寺跡
Anohaijiato, Otsu city, Shiga


所在地 滋賀県大津市穴太2丁目20

穴太廃寺は大津市穴太地区南部、湖西バイパス南側に位置しています。
近江大津宮にかかわる寺院でしたが、平安期まで存続していたようです。
                           


Dec.14.2013 中山辰夫

大津市穴太1〜3丁目、唐崎3丁目、他

■■概説

穴太は、標高100m余、琵琶湖面との比高15m 余の段丘化した四つ谷川扇状地上に位置する集落で、古来、穴穂、穴多、穴生、穴尾など、様々に標記されてきた。

位置は、琵琶湖西岸に近い大津市中部にあって、北で延暦寺や日吉大社の門前町として栄えた坂本、北東で下阪本、南で唐崎、南西で滋賀里、西で坂本本町と接する。渡来人が居住し、古くから開けた地域である。

『古事記』によれば、成務天皇の都・志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや)があった場所とされる。また、『延喜式』によれば、駅伝制の駅家(穴太駅)が置かれ、駅馬五頭が割り振られていた。

「あのう」という地名は全国的に見られ、これらの地域が交通の要衝であることが多いことから、交通に関する古代語に由来するという説がある。 6〜7世紀初頭に渡来人が築造したとされる古墳は二千を越え、花崗岩を使用した野面石のらん積による横穴式石室が多く残っている。「穴太積み」といわれる、石垣積みの技法を駆使して延暦寺の修繕などを担当していた石工集団・穴太衆がこの地に住んでいたことで知られている。

石積は、4〜5世紀頃朝鮮より渡来し琵琶湖西岸に居住し、比叡山の土木営繕的な御用を勤めていた「穴太衆」の技術によるもので日吉大社一帯に見られ。

その技術は安土城以降の城郭の石垣に残った。

 ■■■唐崎神社〜穴太までの散策

滋賀県教育員会文化財保護課が主催している「近江水の宝」探訪に参加した。琵琶湖と水にまつわる歴史遺産を訪れる企画である。

それぞれの地元の文化協会の協力を得て実施されている。その歴史遺産は約64か所ピックアップされ順次訪れている。

今回は、JR唐津駅を起点に、穴太地区を歴訪した。

 

穴太のこの地域は比叡山の東側に広がる扇状地の裾部に位置する低湿地の遺跡で、複合遺跡が残されている。

現在、湖西線の音を聞きながら耕す田畑の下には6〜7世紀の村が眠り、さらにその下約1mには、3000〜4000年前の縄文時代後期の世界が広がっている。

■■散策ルート

JR唐崎駅→唐崎神社→白髭神社道標→メリノールガーデン→穴太廃寺→穴太地蔵・足利義晴供養塔→高穴穂神社宝光寺盛安寺→穴太野添古墳群→伝仲哀天皇産湯の泉→(京阪穴太駅)→JR唐崎駅

■■JR唐崎駅

大津市唐崎二丁目にある西日本旅客鉄道(JR西日本)湖西線の駅である。

駅名の唐崎は、近江八景の一つ唐崎の夜雨として有名であり、古典作品などによく登場する。鉄道唱歌(1900年)にも登場している。

≪ たえまに響く三井の鐘夕ぐれさむき唐崎(からさき)の松には雨のかかるらん ≫

  

■■唐崎

唐崎は、下坂本の南端、穴太の東、琵琶湖に面した崎で、古くは七瀬祓所の一つ。辛崎・韓埼とも記し、渡来人にかかわる地名とされる。

近江は至る所に渡来人の氏族がいた。

ここ滋賀郡の渡来人は漢人、百済系が圧倒的である中、新羅善神堂という神社を残した新羅系氏族も勢力を保っていた。

斉明・天智天皇の頃、韓半島からは大量の人たちが送られて来たが、唐崎はその名の字の如く、渡来人のセンター的な所で、日本における韓の地であった。

 

■■唐崎神社

持統天皇の689年に創祀されたという小祠である。後ろには世々引継がれてきた名勝の松があり、ひっそりと静まった境内は万葉集の昔を偲ぶ場である。

■「唐崎の夜雨」は近江八景の一つ。笠のように、大きく枝を広げた「唐崎の松」、夜間この松に降りそそぐ雨の情景が主題となっている。

 

■「唐崎の松」は神社のご神木。明治初期の由緒書によると、初代の松は高さ27m、幹廻り11m、枝東西72m、南北86mという巨木であったとされる。

     

■唐崎は、古く大津宮(667年〜671年)のシンボルともいうべき景勝の地であった。

「楽浪(さざなみ)の志賀の辛崎幸(さき)くあれど大宮人の船待ちかねつ(万葉集)」と柿本人麻呂の有名な歌がある。当時はこの周辺に港があった。

 

天智天皇の大津宮が滅んで十数年ほど後の大宮の跡を見て詠まれたもので、滅び去ったものへの哀愁がこもっているとされる。

815年(弘仁6年)嵯峨天皇は当地で船遊びに興じている。

■唐崎祓の始まりは奈良時代に遡る。平安時代には七瀬之祓の一所に定められ、朝廷の夏越の祓をはじめ、国家の大事にあたっての祓が行われた。

現在も毎年7月28日・29日におこなわれる唐崎神社の「みたらし祭」は、この唐崎祓所の伝統を受け継ぐとされている。

     

■祭りの両日は早朝から病気平癒の大祓が行われる。参拝者は紙製の人形に名前を記入して拝殿に上がり、お祓いを受けると、巫女による神楽がある。

参拝者は「みたらし祭焼納願い串」と呼ばれる木製の忌串(いぐし)に自分の願い事を書いて奉納する。その忌串は台上に積み上げられ拝殿に置かれる。

本殿の裏側には大きな茅の輪が作られ、参拝者は穢れを祓うためくぐり抜ける。

午後九時頃、湖上に浮かべた忌串に火がつけられ、その火が消えるとともに「みたらし祭」は終わる。

          

■■メリノールガーデン

唐崎神社とは、川を隔てて隣り合っている。今まで気付かなかった公園である。芝が色づく頃は大層美しいそうである。(非公開)唐崎神社境内より見る。

  

■ガーデンの由緒については未詳。

唐崎史跡ボランテイアガイドさんの説明などを軸に推定すると次のようである。

この地には、わかもと製薬所有の別荘「隣松院」と、琵琶湖を借景とした広大な庭園があったとされる。一部をメリノール教会が「保養所」として使用していた。

が、1943(昭和13)年頃軍に接収され、軍人援護会等が教会の施設を使って虚弱児施設(三津浜学園)を作り、彼らの生活と教育の指導を行った。

中心となったのは、糸賀一男氏で、後の近江学園を創立した。当時の写真が残されているようだ。

その後の経緯は不明なるも、戦後教会が買戻しを行い、現在はメリノール教会所有とのこと。

教会の施設が並ぶ「唐崎メリノールハウス」

     

■宝篋印塔が二塔建つ。

     

一塔は1826(文政9)年頃?に、粟津御供献納式(あわづのごくけんのうしき)の神輿船が沈没事故を起こし、56人が犠牲となった。

その遺族が建立したもの。他方の宝篋印塔は一般的なものでいまだに詳細不明とのこと。 湖上からみた景観である。

■松

年季の入った時代物である。うつくし甲西町平松の美松山(びしょうやま)に自生しているのと同種である。

   

主幹がなく、1本の根から枝が地表近くで放射状に分かれ、樹形は傘を逆さにしたような特異なかたちである。

■■穴太遺跡

四ツ谷川によって形成された扇状地の南半分を中心に広がり、その広がりの中に各時期の遺構が重複して存在する。

 

■東部には縄文時代後期、晩期の集落跡や縄文後期の遺構面の上層に南西部と同様の渡来系集団の集落跡が見出されている。

西大津バイパスの建設に伴い調査が進み、竪穴住居跡や主種実を詰めた貯蔵穴が検出され、埋没林、祭祀の跡や多くのものが検出された。

 

■南西部には、6〜7世紀の渡来系集団の集落跡があり、木簡も出土している。

掘立柱建物群や大壁造理建物、柱の基礎に礎石を使った礎石建物跡、オンドル等を伴う住居跡が検出されている。

   

■中央部には、伽藍方位の異なる二つの寺院跡が重複する穴太廃寺がある。

■穴太には、穴太村主氏や大友村主等の渡来人が多く住み、比叡山麓一帯には横穴式石室墳が群集して存在し、朝鮮半島で見られるものとそっくりである。

穴太の渡来系集落で日常生活を営んだ人々の墓域は四ツ谷川水系の丘陵部を中心に造営された野添古墳群や飼込古墳群とされる。

■穴太一帯は、比叡山塊から流出した土砂が唐崎辺りまで堆積したとされる。繰り返し起こる土石流が集落形成に何らかの影響を及ぼしていると説く人もいる。

■■穴太廃寺

大津市穴太二丁目・唐崎四丁目

■穴太廃寺跡は、7世紀中葉から11世紀末頃まで存続していたとされる古代寺院である。

1973(昭和48)年にはじめて発掘調査が行われ、その後1984〜86(昭和59〜61)年にかけて西大津バイパス建設工事に伴って調査が行われた。

今は橋梁や田んぼ、民家の下に埋め戻され眠っている。

    

■創建寺院、再建寺院と称される二寺院の伽藍が見出されている。

■創建寺院には、金堂、塔、廻廊があり、再建寺院は講堂、塔、金堂を有する法起寺式伽藍配置である。

■穴太が北陸道の要衝であったことから、再建寺院は大津宮を防御する城郭的な役割も果たしたとされる。特異点を挙げるが今後の発掘が待たれる。

  

■金堂の瓦積基壇

花崗岩の地覆石の上に平瓦が積み上げられている。

   

■瓦類は複弁八葉蓮華文軒丸瓦、単弁八葉蓮華文軒丸瓦などを中心に多量に出土している。瓦は、大津宮時代の崇福寺など三つの寺院にも共通している。

   

■文字瓦

「庚寅年」と判読できるヘラ書きのものが丁寧に撫でて調整された凸面に施され、「壬辰年六月」は細かな格子目叩きを撫でて消した凸面に書かれたもの。

いずれも再建金堂の北側、西側から出土した。「庚寅年」は西暦630年ないし690年に、「壬辰年」は632年から692年に該当する。

  

■この遺跡は、大津京の問題ばかりでなく、わが国の寺院研究・古代史研究にとって貴重な価値があるとされている。

■■穴太地蔵尊

穴太二丁目

穴太の南入口にあり、旧北国街道の三叉路に建つ。高穴穂神社や盛安寺にも近い。

      

■■足利義春供養塔

■穴太地蔵のすぐ近く、北国海道に面してある。高穴穂神社の御旅所と同じ敷地内である。

     

1550(天文19)年、改宗なった中尾城(京都市左京区)に入るべく坂本を出発したが、病に倒れ、看病の甲斐なくこの地で没した。

   

■足利義晴は、室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第12代将軍(在職:1521年 - 1546年)。第11代将軍足利義澄の長男。

母は日野永俊の娘で日野富子の姪である。

1527(大永7)年柳本賢治によって京を追われて以後、近江を転々とし、1531(享禄4)年から1534(天文3)年に坂本へ移るまでの3年間、近江八幡市の桑実寺に滞在。この間、奉公人や奉公衆も寺内宿坊に移住、京都からもしばしば公家が訪れ、仮幕府の観を呈した。義晴は当寺において近衛尚光のむすめをめとる。桑実寺縁起(、国重要文化財)は義晴が寄進した。

■■高穴穂宮跡

■高穴穂宮は穴太地区に比定され、景行・成務・仲哀天皇の皇居跡とされるが、その実在を証明する根拠は現在まで当地では認められていない。

第12代景行天皇の晩年から第13代成務天皇の治世に、志賀の高穴穂宮を都とされたことが記紀に記されている。景行天皇が晩年に高穴穂宮に移り、三年後に報じたとされる。次に即位した成務天皇の実質的な宮で、次の仲哀天皇も敦賀の「筍飯宮」を行宮するまでここにあったとされる。

 

■成務天皇は影の薄い天皇で、王統譜によれば、景行−倭建命—仲哀—応神とつながる主流から外れていた。

古事記にも実績の記述がないが、各地の豪族を国造・県主に任命し、全国的な地方行政組織を確立した時代として王権史に位置づけられている。

これは天智朝で大きな柱になったとされる。

これら三天皇に関連の資料として“近江王朝説”の周辺を掲げる

  

■宮跡は宮の森に囲まれた中にある。同地は牧野文学士考証による皇居の中心地で、景行天皇に因む12尺の宮址記念碑が建つ。

     

■■高穴穂神社(たかあなほのみや)

穴太一丁目

祭神は景行天皇。

伝えでは祭神景行天皇が近江滋賀に遷都され高穴穂宮と称したが、在位三年で崩御された。

次帝成務天皇は先帝の御遺徳を追頌され、高穴穂宮の内に祀り天徳前王社また前王宮と称した、これが当社の発祥と伝えられる。

現在の社殿は、1616(元和2)年に再建されたもので、日吉百八社の一。明治以前は禅納大明神と称されていた。

     

■■宝光寺

京都にあった真妙堂(京都左京区)が応仁の乱を避け、比叡山西塔黒谷の西龍寺を経て、1470(文明2)年当地に本尊を移し、穴太真妙堂を建立、宝光寺と号したことに始まる。天台真盛宗 盛安寺とは隣り合っている。本尊の木造阿弥陀如来立像は国重要文化財である。

     

■■盛安寺

戦国時代に越前朝倉氏の家臣・杉若盛安が再興したことからその名つけられたとされる。

 

伏見城の遺材を使い、桃山御殿の異名をとる荘厳な客殿(重文)、他

     

太鼓楼は、比叡山焼打ちの後、明智光秀が寄進再興したもの。

     

聖衆来迎図を表したという江戸時代の庭園(県特別名勝)は必見である。

     

寺を囲う石垣は城郭を思わせる見事なものである。さすが穴太衆の本拠地と思わせる。大津市の史跡に指定されている。

     

収蔵庫

道路を挟んで建つ。重要文化財の十一面観音像が安置されている。

  

■■盛安寺の横道を山側に向かって進む。

青山越・白鳥越と呼ばれるルートに通じる。大津市穴太から比叡山無動寺の南を通り、青山・壷笠山・白鳥山を経て、京都市の修学院に至る近江と京都を結ぶ道。古墳群が連なっている。

後方は三上山

     

■供養塔

間もなくこの周囲は墓域となる。その入口近くに、江戸時代につくられた無縁者を入れる供養塔が建つ。中には陀羅尼経が入れてある。

     

■高台からの琵琶湖の景色

    

■■穴太野添古墳群

穴太町の比叡山麓に位置する穴太古墳群の一つで、四ツ谷川上流の丘陵に分布する。四ツ谷川を境にして北側に野添古墳群、南側に飼込古墳群がある。

両者とも大部分が直径10m前後の円墳で、内部主体を横穴式石室とし、石室の平面形態から三タイプに分けられる。

石室は持ち送り技法を用いたドーム状の天井を持つもので、この地域の特徴であるミニチュアカマドセットを副葬する例が多い。

        

■野添古墳群は、比叡山に通じる平小谷林道の途中にあって、現在は公園風に整備されている。南北約130m、東西約1000mに及ぶ広大な範囲に広がり、総数180基以上が存在する大規模な古墳群である。6世紀後半から7世紀前半の、ものとされ、朝鮮からの渡来人が葬られたとされる。

     

12号墳墓と16号墳墓

           

■飼込古墳群

四ツ谷川の南側の丘陵裾部に分布する。これまでに横穴式石室墳45基以上が確認され、25基の石室が調査されている。

 

■■四ツ谷川

江戸時代頃までは洪水の度毎に比叡山麓から土石流が発生し、唐崎に至るまでは大砂原で、住める地域でなかったともいわれる。洪水時の砂止めに四ツ川が造られたとされ普段は水が流れていない。

   

■■京阪電車穴太駅

    

■■伝仲哀天皇産湯の泉

■京阪電鉄穴太駅前を通り県道を越え山手に進む。

大石は神成石又は弁慶石とよばれる。

    

左手に高穴穂神社のお旅所がある。

    

その一角に、かつては清水が湧き出ていた井泉がある。この井泉で第14代の仲哀天皇が産湯を使われたとの伝えがある。

仲哀天皇は成務天皇の御兄弟である日本武尊の皇子だが、高穴穂宮に都があった時代とのことから、そのような伝説が生れたのであろうか。

今この泉は枯渇しているが、昔は産湯に用いる霊水を求めて、多くの人々が遠方から足を運んだという。

   ≪参考≫

■■穴太駅

古代北陸道のはじめの駅。「延喜式」兵部省式諸国駅伝馬条に5疋の駅馬を備える駅として登載。現穴太地区が遺称地。穴太集落付近を南南西から北北東に計画直線古道が通り、駅はそれに沿って所在したとされる。まだ駅に直結する遺構は出土していない。

平安時代、山科盆地から小関越の峠を経てこの地に至った北陸道本道の他に、山中越(志賀峠越)で平安京からここへ至る道も間道として使われていたとされ、平安京に直結する駅として重要な位置を占めていた。

■■穴太散所

南北朝時代に延暦寺が支配する穴太散所が記録に残る。1368(応安元)年の延暦寺政所集会衆議事書によると「西塔路次」の保全が「穴太散所法師原」に命じられており、穴太散所は後に穴太人足と呼ばれた課役を負担した散所とされる。

■■穴太衆積み

当地の石積みを業とする石工集団が穴太衆と呼ばれる。技術集団としての成立の時期は未詳であるが、穴太散所による「西塔路次」の道普請に携わった散所民が石積技術を用いていたとされる。

山城醍醐寺の清滝権現の石垣普請に穴太衆が当たったことが記録にあり、安土城築城の際に、穴太の石工が呼び寄せられたとある。

江戸時代、御材木石奉行のもとに組織された穴太頭のうちの高村武兵衛・戸波弥次兵衛・戸波市助は信長・秀吉・家康に召抱えられ、慶長年間(1596〜1615)高畑村・赤塚村に各100石の知行を与えられた。 ≪参考≫ 資料は「韓国より渡り来て」より

■近江の渡来文化 ミニチュア炊飯具、釵子(ざし かんざし)、釧(せん ブレスレット)の分布

  

■「ミニチュア炊飯具土器」を考える

   参考資料≪近江の古代寺院、滋賀県の地名、近江の水みち、韓国より渡り来て、他≫

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