滋賀県大津市 坂本 滋賀院門跡
Shigain, Sakamoto,Otsu city,Shiga
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滋賀県大津市坂本4−6−1
滋賀院門跡
(Shigainmonzeki Temple, Otsu City, Shiga Pref.)
京阪電鉄坂本駅の南西すぐの所にあります。天台宗。もともと京都の北白川にあった法勝寺(ほうしょうじ)を、江戸時代初期に現在地に移し、のち後水尾(ごみずのお)上皇から滋賀院の号を賜わりました。江戸時代末まで天台座主(ざす)となった皇族代々の居所であったため高い格式を誇り、滋賀院門跡と呼ばれます。
坂本の町には、穴太(あのう)積みの石垣が見事な里坊が数多く残っていますが、中でも滋賀院門跡はひときわ背の高い石垣と白壁に囲まれて、延暦寺の本坊らしい堂々とした外構えを見せています。約2万平方メートルという広大な境内は、内仏殿・宸殿・書院・庫裏(くり)・土蔵などが立ち並ぶ。書院には、江戸時代初めの狩野派の障壁画(しょうへきが)がたくさん見られ、豪華な雰囲気に溢れています。また、名庭として知られる庭園は、宸殿の縁側から鑑賞することができます。
(滋賀県観光情報公式サイト滋賀・びわ湖観光情報より)
滋賀院門跡庭園(宸殿前)
池が鑑賞式で細長く、そして石橋を下部に掛けることは、よく寛文延宝の例に出てくるが、中島一島を作るのは、やや時代が古く、明暦から万治にかけての例が多い。
滝の石組は、なかなか豪健であって、向かって左上と右下の添石などは特に豪華で、その付近の石組もなかなか立派であり、それらの立石手法は明暦頃の典型手法である。そしてこの滝の手法は、別に鶴石組を兼用してあるところを一覧すると、近くの宝積院の庭と似ている。
それに対して中島は亀島として作庭されているが、この亀島の亀頭石の前(北側)の池中には、一個の立石を用いてあって、この時代、特に明暦前後の庭には多く用いられている。これは最早寛文以降の庭には出てこない。そしてまた、南部の池畔手前側には、舟着石としての板石を池上に思い切り乗り出させてあって、これまたこの時代の例が多い。いずれにしても、この坂本地方の傑出した庭の一つとして一覧の要がある。
(重森三玲「日本庭園歴覧辞典」滋賀院門跡庭園より)
建物内部の多くの部屋と名庭園は撮影禁止である。
パンフレット、現地説明板、アプローチ
建物外部
建物内部、庫裏
蹴鞠の庭
奥へ
内仏殿から三上山を遠望
照隅苑
滋賀院(しがいん)と庭園
大津市坂本四丁目
本尊:薬師如来
総里坊であるが、元和元年(1615)に、天海大僧正が後陽成天皇から、京都にあった法勝寺を移建されたもの。
明暦元年(1655)に後水尾天皇より滋賀院の号を賜った。明治11年(1878)に全焼したが、比叡山山上の建物を移築再建した。
天台座主の御座所であり、建物の周囲は堂々たる穴太積の石垣で土塀がめぐらされている。
庭園は、宸殿西側にあって三代将軍徳川家光が造営したと伝えられる池泉回遊式庭園である。
寛文期(1661〜73)の築造・整備とされる。
資料 滋賀県教育委員会発行
縁側からゆっくり鑑賞できる。
池の中央にかかる切石橋がひときわ目立つ。正面に滝を見る。
権現川の清流が勢いよく流れ落ちる。落着いた庭園である。
大津市坂本4−6−1 滋賀院の沿革
豪壮な石垣に囲まれ、重苦しいほどの堅牢な門が石段の上にそびえ、仰ぐ者に威圧感を与える。そこが滋賀院である。
坂本で一番大きい建物であろう。
正面の勅使門と石垣をみるだけで、御殿の名にふさわしい豪壮なものと分かる。江戸時代末までは天台座主であった法親王が代々住んでおられ「滋賀院門跡」としての格の高さを誇ってきた。
約2万㎡の境内に、内仏殿・宸殿・二階書院・客殿・庫裏と御成門・通用門があり、それに6棟の土蔵が立ち並ぶ。
宸殿では座主の公式の儀式や謁見などが行われた。
内仏殿の本尊は薬師如来で、両脇には天台・伝教両大師、後陽成天皇・後水尾天皇・明治天皇及び徳川歴代将軍の位牌を祀っている。安置されている木造吉祥天立像(平安時代)と木造阿弥陀如来立像(鎌倉時代)は国重要文化財である。
宸殿の西側に三代将軍徳川家光の造営とされる細長い池泉回遊式庭園があり、寛文期(1661〜73)の築造・整備である。
客殿の障壁画は狩野光信の高弟渡辺了慶の手になるもの。書院は無動寺谷の学頭寺法曼院の御殿を移築したもの。 御成門(勅使門)
通用門と境内
玄関口と配置図
玄関を上がるとすぐに各「間」となる。概略の説明を聞いた後、順路に従って巡る。
窓越しに見える境内
宸殿梅の間(引用)
羅漢の間(引用)
二階書院へは階段を上る。
松の間(引用)
桜の間(引用)
奥の間・御居の間(引用)
案内に従って内仏殿に参る。長い階段を上る。
内仏殿 本尊は薬師如来、両脇に天台・傳教両大師を奉安している。
二階からは三上山が遠くに見える。
1階に戻って庭園を臨む宸殿の間をめぐる。
謁見の間(引用)
西の間(引用)
庭園
宸殿西側の細長い池庭で、ほぼ中央に架けられた長さ5.1m、幅50cm弱の細長い石橋が目立つ。平らな上面に対して側面に石を割った時のくさびの跡や割れ肌を残しているので、直線の堅さがやわらぐ。
資料 滋賀県教育委員会発行
穴太積石垣の世話
滋賀院に限らず、坂本は石垣の街である。その石垣の面にこびり付いた“苔”、四季毎に色・形をかえて古色を彩る。
だが、雑草も多い。石の裏にまで根を伸ばしたツルが頑強で、勢いがある。これを取除くには手作業に頼るしかない。
まさに“追いかけっこ”の手間ひまかかる仕事となっている。
"苔"を護り、石垣を護り、文化を継続するには、眼に見えない労苦があってのことと思われる。
参考資料≪滋賀院門跡と慈眼堂、他≫
慈眼堂
Jigendo
大津市坂本4−6 慈眼堂は、滋賀院の境内にあって、織田信長による比叡山焼打ちの後の復興に力を注ぎ、徳川家康・秀忠・家光の三大将軍に仕えその最高顧問であった慈眼大師南光坊天海大僧を祀る廟所である。
寛永21年(1644)に徳川3代将軍家光の命で建立された。
本尊は慈眼大師天海の坐像で、国重要文化財に指定されている。
前庭は一面に"すぎ苔“が密生しており、周囲の樹木とも調和し、特に秋の苔の上に散るモミジの風情は格別とされる。
石畳と苔、そして並び立つ石灯籠の姿が美しい。
堂に向って左側には多くの石塔婆が並び壮観である。鎌倉時代後期から室町時代にかけての宝篋印塔。五輪塔・多層塔などが多数並び、石造美術の里らしく群をなして並んでいる。
江戸時代以降の歴代天台座主の墓や後陽成天皇・後水尾天皇・徳川家康の廟塔が立並ぶ。
鎌倉時代の桓武天皇の供養塔
慈眼大師墓
新田義貞供養塔
紫式部や清少納言・和泉式部の供養塔
石垣の上には、室町時代につくられた13体の丸彫の阿弥陀如来石仏が並んでいる。いずれも1.53mの定印を結ぶ坐像で高島市鵜川の四十八体仏の一部である。技巧的にも優れ、鵜川の石仏は県文化財に指定されている。
天海大僧正は、江戸幕府の徳川家康と密接な関係を持ち、さまざまな改革を行った人物である。
会津出身の怪物で、比叡山延暦寺、園城寺 興福寺などで研鑽を積んだ。
慶長14年(1609)には、家康に命じられて比叡山に登り、法華大会の探題を務めている。
徳川家康は慶長18年(1613)関東天台宗法度を定めて、天台宗の直接支配を目指した。このとき、天海は川越喜多院の住職として様々な助言をおこなっている。また、上野寛永寺を創建して開山となったのは、寛永2年(1625)のこと。
日吉東照宮も天海の創建による。
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