Monthly Web Magazine May 2016

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目次
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■■■■■ 新規に公開したmovie preview

前号マガジン発行から今号までに公開した動画です。
YouTubeのJapan Geographic Channelで視聴できます。

 青森県深浦町 白神山地十二湖
Shirakami Juniko, Fukaura, Aomori
不思議な色の青池ほか、神秘的な森と池があり、春には美しい花、秋にはブナなどの紅葉も見られます。カモシカ、クマ、サルなどの野生動物も生息しています。

 青森県弘前市 弘前城
Hirosaki castle,Hirosaki city,Aomori
文化財の城と桜の調和がみごとです。

 

 岩手県北上市 北上展勝地
Kitakami Tenshochi,Kitakami city,Iwate

 

岩手県北上市 みちのく民俗村
Michinoku minzokumura,Kitakami city,Iwate
岩手の文化を学ぶことができる無料のミュージアムです。

 秋田県仙北市 角館 
Kakunodate Senboku city,Akita
武家屋敷の街並は重要伝統的建造物群保存地区、武家屋敷のシダレ桜は天然記念物、桧木内川の桜は名勝に指定されています。秋は静かですが、桜の時期は賑やかです。

 

 山形県 南陽市/長井市/白鷹町/川西町 置賜桜回廊
Okitama sakura kairo Nanyo city/Nagai city/Shirataka town/Kawanishi town,Yamagata

 
 栃木県足利市 足利 フラワーパーク
Ashikaga Flowerpark,Ashikaga city,Tochigi
大株のフジの花がみごとです。
  

 岐阜県高山市 春の高山祭り
Takayama Matsuri in Spring, Takayama city,Gifu
桜とともに優雅に巡幸する山車はもちろん、重要伝統的建造物群保存地区に指定された美しい街並は必見です。

 

 熊本県阿蘇市 阿蘇神社
Aso jinjya Aso city Kumamoto pref.
地震で壊れる1週間前の撮影です。心が痛みます。

 


■■■■■ みちのく民俗村 瀧山幸伸

岩手県北上市の観光スポットは北上展勝地が有名で、各国の観光客が訪れるようになりました。
訪問当日は桜が満開でしたから、大勢の観光客で賑わっていました。
しかし、道路を挟んで隣にあるみちのく民俗村はひっそりとしており、海外の訪問者は一人も見かけませんでした。
重要文化財の民家や史跡などが揃う屋外型の民俗博物館で、国内有数の施設、しかも桜もあり、民家とあいまって伝統的な文化景観が味わえます。
さらにありがたいことに入場無料なのです。ぜひ訪問してこの地方の文化を味わってみてください。
 


■■■■■奇祭とされるお祭り―「鍋冠祭」 中山辰夫

全国で、年間約30,000件の大小様々な祭りが繰り広げられると聞いた気がします。4〜5月は各地集中して多いようです。
それぞれの土地での祭りは、そこで生まれ育った文化を形成しており、多くの歴史的背景を内蔵しています。難しいことは別にして、地元や近隣府・県の祭りが、何年に一度とか、何百年続いているとか、大祭と聞くと、「もう次は見れない」との思いが強くなってよく出かけます。行けば得難い情報の収穫も期待できます。

祭りは毎年5月3日に、滋賀県米原市朝妻筑摩の筑摩神社一帯で営まれます。
筑摩神社の創祀時期は不詳ですが、852(仁寿2)年に 従五位下を授けられた記録が残る古社です。興福寺や源頼朝・足利尊氏とも関りがあったようです。
    

和紙で作った鍋と釡の冠をかぶり、緑色の狩衣に緋色のはかま姿の女児たち−鍋冠人−が祭の主役です。(登場の多い少女は新一年生です。関係はなしです)
           

朝妻筑摩と他の4地区から選ばれた6〜10歳(小学1〜5年生)の女児が、神輿や御鳳輦(ごほうれん)などと共に行列をなして湖岸をゆっくりと練り歩きます。
     

鍋冠祭は平安時代から続く伝統の祭礼で都人に知られており、伊勢物語や後拾遺集に詠まれています。
 
関りのあった男性の数だけ鍋をかぶらないと神罰が下がると女性の貞操観念の祭りとして知られていました。また、筑摩神社の祭神が御食津神であり、当地に御厨(みくりや)があったことから、神への神饌を鍋に入れて頭上に掲げて運んだ名残とも考えられます。江戸時代に少女の渡御になり、今では少女の通過儀式となっています。

鍋冠の少女の他、鉾持ち、母衣、奴など総数約200人を越える行列が筑摩神社までの約1kmを進みます。かつては神輿を湖中で担ぎ渡御したようです。
     
冠の下からチラとのぞかせる女児の笑顔がとても可愛らしかった。
 

鍋冠祭は、宇治の「あがた祭」、富山県鳥坂の「尻たたき祭」とともに日本三奇祭の一つに数えられています。
この祭りがなぜ奇祭といわれるのか聞き洩らしました。長い時間を経過する中で、それぞれの時代に合った姿に代わるのはやむを得ない事と思います。

この連休には多くの祭りを見学しましたが、共通する悩みは維持・継続の事です。高齢化と若者の流出による担い手不足で伝承の危機が迫っています。



■■■■■ 安曇野の桜 川村由幸

信州安曇野で観桜をと思い立ったのは、昨年です。残念ながら訪問日程の設定が遅く、花期の終わりで安曇野を断念して、少し北の高山村での観桜となった昨年でした。
今年は花期を逃すまいと昨年の十日ばかり前の日程で安曇野を訪れました。

最初は「本村の大しだれ桜」、田んぼの中にポツンと立っています。

   

いくらか満開を過ぎ、黄緑の葉が出てきています。廻りは水田ばかりでとてもこの桜が目立ちます。
樹齢は250年、墓地の守り木であったのでしょう。

ここから西の山岳方面へ車で10分とかからないところに堀金三田のしだれ桜が2本、南北に並んでいます。
  
 
  

人が一緒に映っている1枚がありますから、桜の大きさが想像できると思いますが、これらも巨木と呼べる桜です。
ちょうど満開です。観桜をしているのは我々一行のみでした。静かに自分だけの桜を楽しみました。
ここも桜の根元は墓地でした。

さらに西に山を登って、田多井観音堂の桜をめざします。
この地区は山肌に沿った坂道でとにかく道が狭いのです。車1台がやっとの幅、狭い道で動転したこともあり田多井観音堂を見つけることができませんでした。かわりに別の桜に出会えました。
    

2本のみごとなしだれ桜です。一方は樹高が大きい分枝垂れた枝が長く垂れ下がり、みごとな姿をしています。
これほど背の高い桜を今までに見たことがありません。隣の桜も巨木なのですが目が行きません。
ここも墓地で結構な数の墓石が並んでいました。

最後が田多井から南に下ったところの北小倉のしだれ桜です。
    

この桜は巨木中の巨木でした。滝桜にも負けていないと思います。今回安曇野で見た桜で一番の名木です。
花の数も多く、木の勢いを感じます。個人の墓地の守り木のようで、桜に個人のお名前が付いていました。
こんな桜があまり知られもせずに存在していたことに驚いています。

安曇野には、これ以外にも見ごたえのある桜が存在しているようです。田多井観音堂の桜も残念ながら見ておりません。田多井地区は歩けば、もっといろいろな桜に出会えそうです。
ところが、安曇野の桜は情報が少ないのです。開花情報はもちろん、位置情報も少ないのです。
安曇野市自体が桜を観光資源にしようとしていないように感じます。
推測ではありますが、その理由はまず、桜のほぼ全てが墓地がらみであること。観桜する方も墓地に踏み込むのは気持ちの良いものではありません。関係者の理解も得ずらいでしょう。
もうひとつは、現状桜の近くに駐車場がないのです。数台置ける空き地のあった所は存在しますが駐車場は皆無でした。
さらに北小倉のしだれ桜など、駐車場は道路、畑の畦道を歩いてしか桜に近づけないという位置にありました。

そんなわけで、現状で高遠や高山村のように観桜の観光客が集まってはいけないのだと思います。
安曇野市には他にも観光資源が多くあります。上高地が開く前に観光客を集める必要もないのでしょう。
安曇野の桜は、このまま多くの人に知られず承知している者だけがひっそりと観桜を楽しむ場所でいいのだと思います。




■■■■■「加藤司書の犬鳴御別館を訪ねて」 末永邦夫 

前回の「月形洗蔵」の続編です。
前回投稿した「月形洗蔵幽閉の地」から、「犬鳴御別館」に興味をもちました。
御別館は、犬鳴ダムの奥に城跡が残っているようなので、現地を訪ねてみました。
御別館を構築した加藤司書は現在でも現地の方たちに慕われ、城跡は山奥にもかかわらず桜並木が植林され、美しく整備されていました。
 


■■■■■ 外国人が多い 田中康平

    

桜の季節が終わった頃京都に遊びに行った。
見ておかねばと思っていたところのいくつかを見てしまおうということで智積院の楓図と桜図を並べて眺めてみるとか、桂離宮や修学院離宮を見てみるとか、その他幾つか回ったが印象に残るのが外国人の多さだ。
特に伏見稲荷はすごいと感じる。日本の観光地としてはTripadvisorのランキングで1位となっているだけあって歩いている人殆どが外国人という風情だ。
ここにくれば海外旅行しなくても十分に海外の雰囲気に浸れる。伏見稲荷のトイレもどこか違っている。
勿論ウオッシュレットはなく やや昭和風の丈夫な造りに、ちゃんと座って用をたせ、だの、トイレットペーパーはゴミ捨てに入れず流せ、などが図入りで何ヶ国語かで掲示してある。
そういえばついこの前行ったギリシャでは何処へ行ってもトイレットペーパーは流さずにそばに置いてあるごみ箱に捨てるようになっていて注意書きがあったりもした。
水洗のパイプが細くてすぐに詰まってしまうということらしくて、ちょっと驚いたというか嫌になった。
知らなかったがトイレにトイレットペーパーを流せない国は世界に幾つもあるようだ。
石灯籠には登らないでください、とこれは日本語のみで書いてある、それも昨日今日書かれたものでなくちょっと古びているのもある。
とんでもない外国人のような振る舞いをする日本人が現れて困っている神社の姿が控えめににじみ出ている。ここにくると日本人も少し変わってしまうのかもしれない。
2015年は日本を訪れた外国人数は約2000万人に上ったが、世界1位のフランスには8400万人位(2014年データ)も訪れており観光立国となればこんなものではない外国人が訪れることになる。
もっともっと宿は足りなくなるし飛行機便は国内移動でも取りにくくなるに違いない。
今でも確かに海外から来る人にとって日本は清潔で安全で面白いところと映るだろうなとは思う。
パリやベルギーのテロのような事件があちこちで起きて世界が更に危なくなれば鉦や太鼓で呼び込まなくてももっと外人観光客は増えそうな気がする。それとは別に外国人の働き手も増えていくだろう。
相撲界で成功したように手なづけて日本化して大人しく日本のやり方に従うようにしむけていくことができるだろうか、それとも日本文化自体が次第に変質して新たな文化の華を咲かせるようになるだろうか、どちらにしても今後の展開が面白くなりそうだ。
後100年位生きてみたいがとてもそれは叶わないのが残念だ。



■■■■■看板考 「ニギリ矢印」 ゆはらきみこ

  
所在地:東京都台東区谷中

東京都台東区の谷中霊園散策の途中で見かけた看板。一枚の看板の中に数社が書かれているもので、その中の一つ「ニギリ矢印」です。「ニギリ矢印」は薬缶や鍋の取っ手に着いている商標とし現在でも見られますし、懐かしいところでは金色の輝くようなでっかいヤカンや、梅干しを入れたら溶けるからだめよ、と言われたアルマイトのお弁当箱などがあります。

アルマイトについては電化皮膜工業株式会社のHPには以下のように書かれています。
【「アルマイト」の名でも知られるアルミニウムの陽極酸化皮膜処理は、日本が誇る世界的な技術です。アルミニウムは活性な金属であり、大気中では酸素と結合して自然に表面に薄い酸化アルミニウムの皮膜を形成します。この酸化アルミニウムは、それ以上変化しないという性質を持っているので、内側のアルミニウムを保護する役目をもち、そのために、一般にアルミニウムが腐食しにくいといわれるわけです。】

同じくアルマイトの命名の経緯は下記のように書かれています。
【アルミニュームに陽極酸化皮膜が生成することは1846年頃ファラデーが発表しているといわれる。わが国では理化学研究所創立当初(大正6年)から鯨井研究室でこの研究が行われ、大正12年12月20日鯨井恒太郎、植木栄により「アルミニューム電気絶縁性皮膜の製法」が、続いて同28日「アルミニューム並みにアルミ合金の防銹法」が特許出願された。これが日本で当初の陽極酸化皮膜に関する特許である。その後、耐食性のすぐれた酸化皮膜の製法が確立された。 昭和6年には理化学研究所がしゅう酸法による陽極酸化皮膜を「アルマイトAlmite」と命名し、登録商標とした。 昭和7年日本アルミニューム製造所、翌8年那須アルミニュームよりアルマイト製品が発売され、さらに昭和9年にはアルマイト加工を専業とする理研アルマイトが設立され、委託加工を始めた。こうして弁当箱、湯沸し、なべなどのアルマイト製品が一般に市販されるようになって、アルマイトという名称が普及し、陽極酸化とアルマイトは同義語として用いられるようになった。】

さて、看板ですが、ニギリ矢印の商標は、1899(明治32)年創業の那須アルミニューム器具製造所が持っていました。現在の日軽アルミの前身で、商標はそのまま引き継がれています。社名の那須から、那須与一が扇を射る姿が浮かびそのときの矢が商標になったかといろいろ探りましたが判明しませんでしたので、思い切って日本軽金属株式会社広報室におたずねのメールを入れてみましたところ、下記のような返信をいただきました。

【柚原君子 様 こんにちは。日本軽金属轄L報室でございます。平素より当社活動にご協力賜り誠にありがとうございます。お問い合わせいただきました、「ニギリ矢印」の由来につきまして、メールにてご連絡いたします。「ニギリ矢」の名は、明治時代より、「ニギリ矢鍋」として、那須アルミニューウム器具製造所が使っていた名称です。あいにく当時の記録が手元にないため、発端が分かりかねる状況でございます。しかし、後の記録として、「ニギリ矢の商標は、一本は会社、一本は従業員、一本はお得意さま の三者ががっちりと組むことによって、栄える」というような文言がございますので、こちらは由来の一つになると考えております。ただし、ここから連想される「毛利元就の3本の矢」や「近江商人の三方よし」などが由来となったという記録はありませんので、その関連性ははっきりとは分かりかねます。あいまいなお答えとなってしまい大変申し訳ございません。何かございましたら遠慮なくご連絡くださいませ。】

日本軽金属轄L報室様、ありがとうございました。

……と、まあそのようなわけでニギリ矢印の商標由来の確定はできませんでしたが、いろいろ調べているうちに、日本軽金属鰍ェ失速しそうになったときに発売して盛り返した製品に家庭用のアイスクリームの製造器『どんびえ』があった記事に行き当たりました。会社がどん底に冷えた時期を揶揄した命名とのちまたの噂で、そうだったらユニークな会社だと親しみが持てました。『どんびえ』の看板にもニギリ矢印が付いているでしょうね。探してみたい看板の一つとなりました。

 


■■■■■ 右往左往  野崎順次

元来、私は右と左の区別にとろい所がある。その遠因は、小学校で初めて右と左を教わる日に、風邪で休んだからだと思う。最近、川沿いの桜並木を見に行って、右岸と左岸の区別を間違ったことがきっかけで、右と左の区別について、初心に戻って勉強してみた。

まず、右と左の違いは相対的でいい加減なものである。お箸を持つ方が右手で、お茶碗を持つ方が左手というのが、昔の教え方だった。しかし、左利きの人(lefty)は反対である。アンソニー・ホプキンス演ずるヒッチコックは右利き(righty)だし、このテニス選手は左利き(lefty)である。

  

また、他人から見ると、右手は左の方に、左手は右に見える。また、その角を右に曲がりなさいといわれても、後ろ向きに歩く人は(そんな人は極めて少ないが)反対方向に曲がるだろう。ところが、方向を東西南北でいえば、間違うことはない。そこで、右と左に東西南北のように絶対的な意味を与えるためには、前提条件を人為的に明確にする必要がある。

まず、「進行方向に向かって」がある。人体の右手左手、右目左目、右耳左耳など全てが、本人から進行方向に向かっての右左である。自動車の右タイヤ左タイヤも前輪後輪共に同じ側である。よっぽどでない限り、「反対から向かって右の」とは云わない。

眼科で右目がゴロゴロするんですというと、お医者さんは黙って向かって左目を見てくれる。対面するから逆になる。ところが、肛門科に行って、うつぶせに寝て、右尻側が違和感があるのですが、というと、お医者さんから見ても右側を診てくれる。お互いが同じ方向に向かっているからである。

川の岸の場合も水の流れる方向に向かって(上流から下流を見て)右岸(right bank)と左岸(left bank)である。河口から遡る場合は逆になって、右が左岸、左が右岸となる。この写真は明らかに上流を見ているので、左が右岸、右が左岸となる

 

船の場合も進行方向に向かって右舷(うげん)と左舷(さげん)ときっちり決まっている。英語では右舷がstarboardで左舷がportという。帆船のオール(star)は右利きの舵取りが使いやすいように船腹(board)の右に付いていたからだという。かたや、左舷は港の桟橋に接するのでportである。いまでも船は左舷の桟橋から乗り込むのが普通である。桟橋から見ると、船首は左に、船尾は右である。

 

そうではなく、右舷側に桟橋がある例もある。

  

フェリーは船首・船尾から出入りするので、

 

ちなみに「うげん」と「さげん」は嵐の中で聞き間違える恐れがあるので、プロの船員や海上自衛隊は「みぎげん」と「ひだりげん」と叫ぶそうである。

右回り、左回りという表現もある。これも最初はよく分からなかった。手で円を描く時、こちらから見て、円の上で左から右に動けば右回り、右から左に動けば、左回りである。(少なくとも私自身には)すっと分かることではない。ところが英語では時計と関連付けて明快である。時計回りが右回り(clockwise)、反時計回りが左回り(anticlockwise)。なるほど。
また、時計回りは北半球における日時計の影の回り方に由来するそうだ。なるほど。

  

小さい頃から「台風は左巻き」と覚えていたが、遥か上空から見ると、反時計回り(左回り)に風が吹き込むを示している。地上から見ていると、台風が近づくと、風は東から西に吹き、遠ざかる時は、西から東に吹く。これは何度も経験している。

原則的にネジを締めるのは時計回り(右回り)で、緩めるのは反時計回り(左回り)だそうだ。これまで意識してなかった。

それから、右脳左脳、右翼左翼などあるが、それはまたの機会に……………。



■■■■■ 趣味の中にもマナー  かまちまさこ

   

またSL山口号に乗ってきた。
沿線の住民たちはみな手を振ってくれる。知り合いが乗っているわけでもないだろうに、家の窓から、庭から、畑から、子供連れも農作業中でも手を休め手を振ってくれる。日本人っていいなあと思う瞬間だ。
ところが、最近撮り鉄のマナーの悪い人がいるらしい。住民が植えた菜の花を踏み散らかしているらしい。確かにSLの車窓から何十人のカメラマンが並んでいるところがよく目に入る。それどころか、山林の中を走っているときでさえ、なんでこんなところに人がいるの?と思うほど、線路の近くでカメラを構えている人さえいる。危ないにもほどがある。一体どこから入ってきたのかさえ検討もつかない程の山林だ。

SL弁当を食べたときごろから、トンネルが続いた。ところが今回はモーモーと煙が入ってきた。初めて乗った人はSLってこんななの?と言っていたが、これはどこかの窓が開いているのではないのか、と思うほどだった。なぜだかわかった。撮り鉄ではなく音鉄の存在だ。窓からしっぽのようなマイクを外に出してSLの音を録音しているらしい。トンネルでもその状態だ。その隙間から煙がどんどん入っているのだ。さすがにタオルでふさいでいたが、そんなものでは長いトンネルでの煙は対処できない。おかげで後部車両の車内はどんどん煙ってマスクをつけ始める人もいた。
趣味はわかるが、せめてトンネルの中だけでも窓を閉めるマナーを守ってもらいたい、せっかくの日本人の優しさが台無しではないか。


■■■■■ 通勤風景大野木康夫

4月以降、増量に増量を重ねた体を少しでも軽くするため、朝の通勤時に一定の距離を歩くようにしています。
職場は柳馬場御池で、時間に余裕があるときは蹴上駅から2.5kmほど、普段は東山駅から1.5kmほどを歩いています。
この時期、新緑が美しい通勤経路の風景を撮影してみました。
といっても、蹴上からだと、インクライン、岡崎疏水等、投稿されているところばかりなので、東山からの2ルートを撮影しました。

東山駅周辺
    

東山三条交差点
  

東山からのルートは二つあります。
一つは東山通を北上して仁王門通を西に向かうコースです。
 

満足稲荷神社
  

仁王門通沿いは寺院が多く並んでいます。

付近の寺院案内図
   

東山仁王門角の信行寺から大心院
   

囲碁の本因坊ゆかりの寂光寺
  

西寺町通は両側すべて寺院
 

仁王門通の風景
   

戦前の学校建築の匂いがする元新洞小学校
  

さらに西へ
  

「仁王門通」の名称の由来である仁王門がある本山頂妙寺
    

川端通へ
  

もう一つは本山要法寺前から孫橋通に入り西に向かうコースです。
  

本山要法寺
     

孫橋通は古い家や銭湯が点在していて面白い風景です。
         

川端通へ
 

いずれのコースをたどっても川端通からは御池大橋を通って職場に向かうことになります。
    

実際の通勤のときは撮影などする余裕はありませんが、雰囲気を楽しみながら歩いています。



■■■■■  おばちゃんカメラマンが行く 「今相撲が面白い」 瀧山Bカメ

日本人力士の活躍が今一つだった昨今、不動の三横綱をちょいちょい負かす日本人力士も出て、優勝争いから目が離せなくなっています。
稀勢の里、琴奨菊、高安、注目力士が並びますが、頑張ってほしいのが「勢」。 我が家の近くのマンションを改装していつの間にか(2012年)移転してきた伊勢ノ海部屋。
覗き見ると、一階がほとんど土俵で数人の力士が稽古をしています。
狭くて物干し場を確保できないのか、廻し干しは、いつもこんな状態で、色の加減や塩気がまるで立派な利尻昆布を干しているかのようです。
あの辺が前袋で端の方が立褌(タテミツ)かと想像してしまうのは私だけでしょ うか?
この部屋でぴか一は「勢」。容姿端麗、カラオケ大好き、後半取り組みに恵まれずいつも撃沈してしまいます。稽古を邪魔するお姉さま方を振り切って、頑張って〜〜

伊勢ノ海部屋 (東京都文京区千石)
 

我を取り戻しまじめに考えると、
相撲の起源は諸説あり朝鮮半島から伝わってきたという説もあるようですが、神事的な要素を含みながらも、天覧試合であり、人間同士の戦いであったと考える と『古事記』の神代よりは『日本書紀』に起源を見ることができるのではないかと考えます。詳細はウィキペディア等ネットで検索できますが。
『日本書紀』には、神ではなく、人間としての力士同士の戦いで最古のものとして、垂仁天皇7年(紀元前23年)7月7日 (旧暦)にある「野見宿禰(のみのすくね)」と「當麻蹶速(とうまのけはや)」 の「角力(正しくは手へんに角、「すまいとらしむ・スマヰ」または「すまい・スマヰ」と訓す)」での戦いです。

相撲発祥の地
垂仁天皇の御前で前述の両力士が力比べをしたのが、穴師坐兵主神社(あなしにいますひょうず)(奈良県桜井市)の境内にあるカタヤケシの社が、日本で最初に相撲がとられた場所とされ、勝負に勝った宿禰が祀られて います。
   

勝負に負けた當麻蹶速の蹶速塚は、当麻寺の近くにあります。

この戦いは素手で相手を絶命させるまで戦う、何でもありの格闘技だったようです。
古墳の出土品に力士の埴輪が多数出てきていることを考えると力士は力強い守り人だったのでしょう。

大日山35号墳(和歌山県和歌山市)
 

飛鳥時代『日本書紀』の天武天皇11年(682年)7月3日 (旧暦)にも「大隅隼人与阿 多隼人相撲於朝庭 大隅隼人勝之」とあり、7世紀には、7月に相撲が行われていたことがうかがわれます。
ここのところが大事で、それまで着衣で戦っていた相撲が、武器を隠し持たず素手でフェアに戦うという意味で裸に褌のみが登場したという説があります。これが廻しの始まりかもしれません。

古要神社の相撲傀儡子(くぐつ) 大分県中津市
操り人形の原点と言われる相撲人形30体が重要有形民俗文化財に指定されています。
  

この格闘技は、脈々と続き、奈良時代には、突く殴る蹴るの三手の禁じ手・四十八手・作法礼法等が神亀3年(726年)に制定されます。(吉田司家・志賀清林を参 照)これが日本の国技相撲の決まり手のルーツと思われます。
信長のころには土俵ができ、弓取りの儀式などの記録もあります。
江戸時代になって神事的な要素と娯楽的な要素が加わり、現代のようにきらびやかな化粧まわしをつけるようになりました。
ついこのあいだまで、黒白しかなかった廻しにカラフルな色がつき、化粧まわしに横文字が入ったりと進化する相撲、マゲも結わなくても許される時代が来るのかもしれません。




 
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Japan Geographic Web Magazine
http://japan-geographic.tv/
Editor Yuki Takiyama
yuki at sapienza.jp (Replace at to @)
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