長崎県長崎市 出津
Shitsu, Nagasaki City,Nagasaki
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かくれキリシタンの文化とド・ロ神父のまちづくり |
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ド・ロさまそうめん |
世界遺産 長崎の教会群とキリスト教関連遺産 聖地巡礼
長崎市西出津町2633 旧出津救助院 授産場 重文 近代/その他 明治 明治16(1883) 木造及び石造、建築面積273.63㎡、二階建、北面及び東面下屋付、寄棟造、桟瓦葺 20031225
長崎市西出津町2633 旧出津救助院 マカロニ工場 重文 近代/その他 明治 明治16(1883)頃 煉瓦造、建築面積39.30㎡、桟瓦葺 20031225
長崎市西出津町2633 旧出津救助院 鰯網工場 重文 近代/その他 明治 明治16(1883)頃 木骨煉瓦造、建築面積179.34㎡、南面及び西面下屋付、寄棟造、桟瓦葺 20031225
長崎市西出津町2602 出津教会堂 重文 近代/宗教 明治 明治15(1882) 三廊式教会堂、煉瓦造及び木造、建築面積395.46㎡、切妻造、正面背面塔屋及び左右側面出入口付、桟瓦葺 石積擁壁1所、石積擁壁1所 20111129
Mar.8,2022 瀧山幸伸
遠藤周作文学館からの出津全景
旧出津救助院
A camera
B camera
出津教会
ドロ神父の墓
歴史民俗資料館
ドロ神父の作業場へ
ドロ神父の作業場
バスチャンの隠れ家跡
Dec.25,2013 瀧山幸伸
道の駅から望む出津と遠藤周作文学館
黒崎、 サンジワン枯松神社
St. John shrine
出津教会
クリスマスの日
早朝のミサ
昼
出津教会からカトリック墓地方向を望む
カトリック墓地、ドロ神父の墓
バスチャン隠れ屋敷
Sebastian's house
ド・ロ神父の馬小屋
ドロ神父の井戸
石造りの家
旧出津救助院
A camera
B camera
旧鰯網工場
住民が運営する食事処
歴史民俗資料館
History museum
Dec.2010 瀧山幸伸 source movie
A camera
B camera
出津教会
B camera
Dec.23 2009 撮影:瀧山幸伸 source movie
出津教会
1st camera
2nd camera
撮影(2005)/文(2007):瀧山幸伸
世界遺産「かくれキリシタンの里」にまちおこしの原点と理想を学ぶ
World heritage - Churchs and Christian sites in Nagasaki
2007年、長崎をはじめ、平戸、五島、島原、天草などにあるキリスト教関連史跡群は、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」としてユネスコ世界文化遺産の暫定リストに登録された。その中から、西彼杵半島の外海(そとめ)地区、現在の長崎市出津(しつ)周辺の文化遺産、特に明治初めのド・ロ神父による理想郷づくりの思想と成果に、まちづくりまちおこしのヒントを探ってみたい。
この地には、コミュニティの柱である教会を中心に多くの施設が造られ、活発な活動が行われた。荒海で漁師の夫を亡くした婦人に職を提供した授産場、長崎の 異人向けのパンやマカロニ製造工場、学校以上に重視された教会の教育施設と教材、保育所、病から村人を救った診療所などが造られた。現在の介護施設も墓地 も自前。まさにゆりかごから墓場まで、信仰という強い絆で結ばれた自律コミュニティの原点があった。
元資料: 国土地理院
■隠れキリシタンと『沈黙』
Suppressed adherents and "Chinmoku"
戦国時代、太平洋・日本海・瀬戸内海へのアクセスが便利な平戸が港町として栄えており、長崎はひなびた一漁村にすぎなかった。
元亀元年(1570)、キリシタン大名として知られる大村純忠は、イエズス会に長崎を提供し、以来ポルトガル人は長崎に教会や病院まで備えた大規模な町を造りあげた。
徳川幕府も海外貿易を盛んに奨励し、ポルトガルのほか、平戸にオランダ商館の設置を認め、スペイン、中国、イギリスとも通商を許した。
しかし、キリスト教信者が増加し、有力な大名までもが改宗するに及んで、キリスト教は弾圧され、慶長18年(1613)ついにキリシタン禁教令が発布される。
幕府は宣教師を追放し、教会をことごとく破壊。棄教に応じないキリシタンは無残にも処刑されてしまうが、多くの宣教師やキリスト教信者たちは、迫害にも屈せず潜伏し、死を怖れることなく各地で信仰、布教活動を続けていった。
寛永14年(1637)島原の乱が勃発。幕府はポルトガル人を追放し、平戸にあったオランダ商館を出島に移した。
その後、長崎は西洋文明と関わる唯一の窓として経済的文化的に幕末まで繁栄が続くこととなる。
出津を一望する岬に遠藤周作文学館が建っている。彼の名作『沈黙』は、島原の乱以後の長崎を舞台にした小説だ。五島列島に潜入したポルトガル人司祭セバスチャン・ロドリゴは、隠れキリシタンたちに歓迎されるが、長崎奉行所に追われる身となる。幕府に処刑され殉教する信者たちを前に、同僚であるフランシス・ガルペは彼らの元に駆け寄り命を落とす。神の奇跡と勝利を信じ、ただひたすらに祈るロドリゴ。奉行所に囚われたロドリゴは、棄教したイエズス会の師であるクリストヴァン・フェレイラとの念願の再会を果たすことに……。
ロドリゴを慕った「隠れ切支丹」とは、実在した集団だ。厳密には「潜伏キリシタン」と呼ばれ、日本でキリスト教が禁止されてから、明治6年に禁教令が解か れて信仰が自由になるまでのキリスト教信者のことだ。それとは別に地元で「昔キリシタン」と呼ばれる、禁教令が解かれた後も隠れてキリスト教を信仰した信 者がいた。潜伏時代の秘教形態を守り、カトリックに戻らなかった信者たちだ。
『沈黙』では、キリシタン弾圧の渦中に置かれた主人公が感じる、日本人の信仰の根源的な不可解さ、自己の信仰と人々の救済とのジレンマに対する苦悩、そし て神の意味がテーマとなっている。潜伏キリシタンたちの厚い信仰心、残虐な拷問の数々が事細かに描かれているからこそ、今なお主人公の驚きや苦しみが手に とるように読者に迫ってくるのだろう。
潜伏キリシタンたちは、ひそかに信仰を続けるうちに、その信仰は本来のカトリックとは大きくかけ離れたものとなった。日本の観音信仰とキリスト教の聖母マ リア信仰が混じりあい、カムフラージュであった仏教や神道の思想も色濃く残り、独自の宗教といっても良いほどだ。唱えるオラショには、神道、仏教、さらに はアニミズムまでが混合しており、言葉の意味自体が信者たちにも分からなくなっている、一種の呪文に近いものだ。
『沈黙』の中で、ロドリゴとフェレイラが再会するシーン。高名な神学者でもあったフェレイラは、キリシタンたちの信仰について語る。
「この国は沼地だ。やがてお前にもわかるだろうな。この国は考えていたより、もっと怖ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」
自分が棄教したのは、幕府の権力や拷問に屈服したのではなく、日本における布教の限界を目の当たりにしたからである……と語るかつての師を、ロドリゴは頑なに受け入れようとはしなかった。
■ ド・ロ神父の偉業
Achievements of Father De Rots
嘉永7年(1854)に日米和親条約を締結した日本は、ついに開国。安政5年(1858)には日米修好通商条約によって、長崎、兵庫、神奈川、新潟、箱館 を開港させた。これにより外国人居留地での教会建設ならびにキリスト教活動が許されることになり、パリ外国宣教会の神父らによって、慶應元年(1865) 大浦天主堂が完成した。
神父たちの使命は、キリスト教の再布教とキリシタン禁制の下潜伏していたキリシタンを発見することだった。明治6年(1873)にキリシタン禁令が解ける までは、日本人がキリスト教に入信することはまだ認められていないどころか、明治政府となってもキリシタン迫害は凄惨をきわめていた。諸外国からの非難が 増大し、ようやく禁令を解除したのである。
今回の主役、マルコ・マリ・ド・ロ神父は、1840年フランスのノルマンディーに生まれた。ナポレオンの血筋ともいわれる貴族階級の出身であるが、父親 は、市民革命を経た経験から、財産よりも大切なものを子どもに与えることを考え、革命の続く社会を生き抜くための実学的な教育を行った。彼は子どもの頃か ら農鉱業、土木、建築、医学、薬学などを学び、パリ大学で神学を専攻する。
ド・ロ神父が28歳で長崎の地を踏むのは慶應4年(1868)のこと。『沈黙』のロドリゴとは全く異なる使命をもってこの地にたどり着いたのだった。来日 後、3年前に落成したばかりの大浦天主堂に隣接して神学校を建設し、そこで石版印刷所を設立する。平板印刷の技術だけでなく、ひらがなでの印刷、キリスト 教用語の統一など、後世に価値のある功績を残している。印刷の主眼はキリスト教の布教だったため、教会カレンダーや『聖教日課』など28種類以上もの本を 印刷した。
その後、明治12年(1879)、外海地区の主任司祭として出津に赴任することとなる。28歳から74歳まで、祖国に帰ることもなく莫大な私財を投げうっ て活動を行い、この地に骨をうずめたド・ロ神父。多くの建物を設計建設し、布教や教育もちろんのこと、殖産を振興し、地域医療を担い、コミュニティ自律の ために理想郷を築くというすばらしい業績を残した。
日本に渡る前のド・ロ神父、晩年のド・ロ神父、ド・ロ神父考案の洋式作業衣を着けた救助院の会員(資料:歴史民俗資料館)
明治25年(1892)頃の出津教会一帯(資料:歴史民俗資料館)
■ 出津教会と旧出津救助院 (両方とも国重要文化財)
Shitsu church and Old Shitsu Kyujoin
Dec.2005 瀧山幸伸 source movie
出津教会、大野教会
Shitsu church, Ohno church
明治15年(1882)、ド・ロ神父の設計施工により竣工。台風に備え屋根を低くしたり、平天井にして祭壇への視線を集中させたりと、設計に工夫が凝らされている。
旧出津救助院 (重文)
明治初期の授産・福祉施設という、他に類をみない産業遺産であり、近代西欧建築の導入と風土適合の事例として貴重だ。
12月23日夕暮れ
訪れた日はクリスマスイブの前日。『沈黙』の舞台となった長崎県の外海地区。 東シナ海からの季節風が吹き荒れて黒い雲に覆われ、夕暮れ迫る街並は全くの沈黙に守られているかのようだった。
12月24日 クリスマスイブの朝
Morning, Christmas eve
翌クリスマスイブの朝は、血で塗りこめられた歴史などなかったかのようにのどかな風景。この地に骨を埋めた青い目の宣教師たちの祈りのためなのか、あるいは激しい弾圧によって殉教を余儀なくされたキリシタンたちの遺恨のためなのか。
■ 出津教会と救助院の遠景
Shitsu church and Shitsu Kyujoin
小さなコミュニティだが、修道院が中心となってまちづくりが進んだ。
遠藤周作文学館から望む出津
北側 池島方面
かつての炭鉱の繁栄も今はない。
南側 長崎市方面
■ 授産場 明治16年(1883)竣工 石・木造2階建て寄棟桟瓦葺。
Jusanjo
1階はマカロニ、そうめん製造、染色、搾油作業場。2階は機織工場、修道女の生活の場、礼拝堂として利用されていた。道具はド・ロ神父がフランスから輸入 した。児童クラブ、図書館として利用されていた薬局棟や、長崎の異人向けにパンを焼いて現金収入を得たパン焼窯跡も保存されている。
児童クラブ、図書館として利用されている薬局棟。
パン焼窯跡 長崎の異人向けにパンを焼いて現金収入を得た。
ド・ロ神父像
■ マカロニ工場とド・ロ塀
maccheroni factory
工場はレンガ造り、切妻、桟瓦葺。
この地区には石を積んだ壁が目立つ。ド・ロ塀という名前。泥で作っているからではなくて、ド・ロ神父の名前から来ている。石を積んで間にアマカワ(砂、しっくい、赤土)を埋めている。風雨の強い地域だから特殊な技術が必要だったのであろう。
■ 旧鰯網工場
Fishing net factory
明治18年(1885)竣工。 木造レンガ造り、寄棟、桟瓦葺。トラスの小屋組みと風防の石塀が特徴。
鰯網工場として建設されたが、翌年から保育所として使用された。
現在はド・ロ神父記念館。授産場の資料のほか、診療所で使用された医療器具なども陳列されている。
■ 黒崎教会 枯松神社(かくれキリシタンの神社)
Kurosaki church Karematsujinja
■ ド・ロ壁の家
海を見下ろし、眺望の良い高台に建つ。なんとなく地中海的な景観を演出しており、小奇麗なレストランかペンションにでも活用できそう。
■ ド・ロ神父の馬小屋
Barn
この施設は農作業に使われていたもの。ド・ロ神父は、フランスから優良な品種の小麦を取り寄せ、外海地方で栽培させたこともあった。 しかし小麦の収穫と田植えの時期が重なるため、この地で小麦栽培が定着することは困難だったようだ。水車による製粉所も設立し、独自の方法でマカロニやそうめんを製造。現在でも「ド・ロさまそうめん」は特産品として多くの人々に愛されている。ド・ロ神父の指導の下、山を開拓して農地を作り、さまざまな建築物を村民が力を合わせて造っていった。荒海に囲まれた痩せ地に、清い信仰を胸に血と汗と涙の結晶として一つひとつ造りあげられた農地。巡り歩くうちに心がほどけていく。 「理想郷」という言葉がふと脳裏をかすめる。
■ ド・ロ神父の墓と共同墓地
Grave of father De Rots
■ バスチャン隠れ屋敷
Sebastian's house
外海の村人の間で今なお語り続けられている伝説の神父、バスチャンの隠れ家。バスチャンは少年の頃は深堀(長崎市南部)の菩提寺(カトリック天主堂)で門 番をしていた。慶長15年(1610)日本人宣教師ジワン神父の弟子となり、外海一帯で布教活動を行った。明暦3年(1657)の大村郡崩れでは、600 有余のキリシタンが捕らえられる。生きながらに筵に包まれ湾に投げ捨てられた遺体を集めるために、バスチャンは献身的に祈り働いたが、密告によって長崎の 監獄へ護送され、3年3か月の間78回もの拷問にあい、最後は斬首された。死刑執行前に役人に託した聖物(キリストの架かれる黄金の十字架)は、今なお外 海キリシタンの間で大切に保管され崇敬されている。
■ サンジワン枯松神社
St. John shrine
隠れ切支丹の神社。祀られているのはジワン神父。
■ 歴史民俗資料館
History museum
かくれキリシタンの信仰資料
Suppressed adherents' goods
表面上は仏教徒を装いながらひそかに信仰を守り続けた。
ド・ロ神父の印刷技術を活用した宗教書(天国と地獄絵)
踏絵
Fumie
■ 日浦亭
Hiuratei
日浦亭でいただくド・ロさまそうめんとイカ丼
■ まちづくりの理念と世界観 〜都市計画の比較文化的アプローチ
強固な宗教的ミッションのもと、莫大な私財をなげうって外海の寒村に理想郷を築き、この地に骨を埋めたド・ロ神父。このような自己犠牲も厭わない精神で地 域の活力を高めようとしているリーダーは現在も多いだろうか。彼の偉業に比べると、日本各地で「まちづくり・まちおこし」と唱えている声が空しく聞こえて しまう。都市計画、まちづくりにあたり、理念、世界観、社会規範、哲学、宗教、それらを包括し、崇高かつ確固たるミッションを持った計画と活動を行わなけ れば、コミュニティ全体が賛同し推進することは難しい。地域活性化をこのような先達のフィルターを通してみることが重要ではなかろうか。
この地のコミュニティは、戦後の社会経済構造の変化により、徐々にその絆が弱まってきていた。世界遺産登録によりマスコミ露出も増え、「出津文化村」とい うアイデンティティで観光産業などに将来の活路を見出そうとしているが、人々の清く美しい心とホスピタリティは遺伝子として引き継がれるのだろうか。資本 主義に名を借りた拝金教とエゴイズムの「多数決の踏み絵」で試練を迎えることになりそうだが、この地の魂だけは変わらないでほしいと願っている。
さらに詳しく学ぶべき点は多い。それぞれの視点でこの土地と他とを比較することも興味深いのではなかろうか。
(1)ノーベル平和賞的視点
ド・ロ神父と、シュバイツァー、そしてロドリゴ、フェレイラ同様に神の沈黙と不在に絶望したマザー・テレサとの比較がキリスト教哲学的に興味深い。
(2)理念に基づく地域コミュニティの活性化という視点
この出津と、世界一早く農協の原形を作った大原幽学の思想と千葉の大原幽学遺跡、江戸末期に数百か所の地方財政を立て直した二宮尊徳の思想と栃木の桜町陣屋での彼の実績とを比較してみるのも興味深い。
(3)都市計画理念の視点
西欧の中世都市と宗教との関連、中国に残る道教の陰陽五行風水思想と都市計画との関連、日本の門前町と都市計画との関連を比較するのも興味深い。
(4)隠れキリシタンの悲劇という視点
流刑あるいは潜伏の切支丹に対し激しい弾圧が行われた山形県米沢市北山原、岩手県藤沢町大籠、島根県津和野などを訪ねてみたい。
(5)宗教的巡礼と観光、癒しという視点
ポルトガルのサンチャゴ・デ・コンポステーラ、世界遺産となった紀伊山地の霊場、世界遺産を目指している四国遍路などと長崎のキリスト教関連遺産を比較考察するのも興味深いだろう
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