JAPAN GEOGRAPHIC

島根県津和野町 津和野

Tsuwano, Tsuwano town, Shimane

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 Nature
 
 
 Water    
 Flower
 
 
 Culture
 
人材を輩出した城下町
 Facility
 
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January 10, 2022  野崎順次  source movie

島根県鹿足郡津和野町後田口
津和野地区
(Tsuwano Important Reservation District for Group of Historic Buildings, Tsuwano Town, Shimane Pref.)


津和野町後田の橋北地区の一部は平成 25 年 8 月 7 日に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。
当地区、津和野伝統的建造物群保存地区の位置する津和野城下町橋北地区の歴史は16世紀まで遡ることができます。発掘調査した結果や地名「後田」と呼ばれていることから、中世以前は城の西側が人々の生活区域であり、当地区のある東側には田畑が広がっていた区域である可能性が高いと思われます。そのため、当地区のまちなみの発生は江戸期から始まります。
 江戸期以前の吉見氏の時代では、前述のとおり城下町は西側にあったと伝えられており、江戸期に入り岡山から坂崎氏が津和野に入り当地区の城下町としての整備が本格的に実施されました。坂崎の治政の16年ののち、亀井氏が鹿野(現:鳥取市鹿野町)から入城し、現状に続く地割整備を完成させました。
 幕末、嘉永の大火(1853年)が城下町全域に及び、現状のまちなみはそれ以降の建物で占められています。大火直後幕末期の建物として殿町の旧津和野藩家老多胡家表門と藩校養老館野校舎の一部(武術棟)、町家の分銅屋とささや呉服店などが現在まで残っています。
(津和野町ウェブサイトより)

国登録有形文化財(建造物)の説明は「文化遺産オンライン」ウェブサイトを参考にしました。

アプローチ、益田から津和野へJR山口線で行く。高津川から支流の津和野川沿いに進む。石州瓦屋根が目立つ。
                   


駅から南東に少し歩くと重伝建地区である。
   


パンフレット
      


左手に弥栄神社の御旅所と水路から水を引いた庭
        


西側の新丁通り
  


祇園丁通りを行く。鯉の米屋さんからモダンな郵便局舎
      


鍵状に曲がって、重伝建地区中央の本町通り(三丁目)
        


魚町通りを横切ると、本町通り(二丁目)である。高津堂の漢方胃腸薬「一等丸」は森鴎外も愛用したそうだ。
      


国登文 華泉酒造場店舗兼主屋 明治/1883-1896
木造2階建、瓦葺、建築面積303㎡


通りに西面する町家。間口11mの木造2階建で、北側面に十畳の座敷、背面に台所などを付設する。切妻造で正面に下屋庇を付け、桟瓦で葺く。2階は大壁で、虫籠窓を開け、両端に袖ウダツを付け、1階には出格子などを構える。商家らしい雰囲気をよく残している。

国登文 華泉酒造場道具蔵 江戸/1830-1867
土蔵造2階建、瓦葺、建築面積27㎡
主屋の北側に東西棟で建つ。桁行6.8m梁間3.9mの土蔵造2階建。切妻造妻入で桟瓦葺とする。自然石を並べ基礎をつくり、壁を漆喰仕上げとし、東面に出入口を設ける。通り側は腰を海鼠壁とし、上部に窓を穿ち、銅製開戸を吊る。

国登文 華泉酒造場衣装蔵 江戸/1830-1867/1996頃改修
土蔵造2階建、瓦葺、建築面積38㎡
主屋の南側に東西棟で建つ。桁行9.5m梁間3.9mの土蔵造2階建。切妻造で桟瓦葺とする。壁を漆喰仕上げとし、北面に出入り口を設ける。通り側は腰を海鼠壁とし、窓を穿ち、銅製開戸を吊るなど、道具蔵と相似する外観をつくり、風格のある構えとする。
             


国登文 橋本酒造場店舗兼主屋 明治/1883-1896
木造平屋建、瓦葺、建築面積350㎡


通りに西面する間口14mの平入町家で、側背面に座敷や仏間、浴室などを付設する。切妻造で桟瓦を葺き、正面に下屋庇を付ける。木造つし2階建。上屋部分に袖ウダツや虫籠窓、格子、1階に子持格子などを構える。重厚な表構えになる大規模な商家建築。

国登文 橋本酒造場表門 明治/1883-1896
木造、瓦葺、間口1.7m、左右袖塀付
主屋と道具蔵の間に、通りに面して建つ。間口1.7mの棟門で、左右に袖塀を付ける。本柱上、冠木を載せ、男梁を前後に出し、軒桁を支持する。軒天井を張り、一軒疎垂木。切妻造で、桟瓦を葺く。袖塀は腰モルタル、上部漆喰仕上げで桟瓦葺。屋敷構えを整える。

国登文 橋本酒造場道具蔵 明治/1883-1896
土蔵造2階建、瓦葺、建築面積26㎡
庭を挟んで、主屋北側に位置する。桁行5.6m梁間4.7mの土蔵造2階建。切妻造で桟瓦葺、南面に鉄板葺庇を付ける。自然石積基礎上、漆喰仕上げとし、通り側は腰を海鼠壁とし、上部に銅製の開戸を吊る窓を開ける。通りに妻を見せ、表構えに変化を与える。
             


国登文 河田家住宅主屋 大正/1912-1925
木造2階建、瓦葺、建築面積170㎡


通りに東面する間口11mの町家。切妻造桟瓦葺で、正面に鉄板葺庇を付ける。前寄り南半を店舗、その奥を通り土間、北寄りに居室等を配し、背面に便所や台所などを付設する。1階正面は店舗部分に引戸をたて、床上部は鉄格子窓とする。近代商家の面影を残す。
 


西の今市通りと東の横町通りとの交差点、これを越えると、本町通り(一丁目)である。
       


国登文 古橋酒造場店舗兼主屋 大正/1921頃/1955増築
木造2階建、瓦葺、建築面積310㎡


通りに西面する間口13mの木造2階建の町家。モルタル吹付け仕上げの洋館と、昭和増築の座敷を付設する。北入母屋南切妻造桟瓦葺で、側面を大壁造、正面を真壁造とする。2階の内法を高くし、正面に子持格子、両端に袖ウダツを付け、豪壮な正面構えをつくる。

店舗兼主屋の奥に作業場と仕込蔵(国登録文)が見える。 
        


国登文 ささや呉服店店舗兼主屋 江戸/1830-1867/1969改修
木造2階建、瓦葺、建築面積207㎡


通りに東面する町家。間口14m木造2階建、切妻造桟瓦葺とし、銅瓦棒葺の下屋庇を付け、背面は葺き降ろす。北側の小路に大きく妻壁を見せ、庇付の窓を二ヶ所開ける。大壁造とし、両端にウダツを設け、庇には幕板を付ける。商家の表構えを残す。

国登文 ささや呉服店旧呉服蔵  江戸 1830-1867/1965頃改修
土蔵造2階建、瓦葺、建築面積23㎡
主屋の南、玄関を挟んで東西棟で建つ。桁行5.9m梁間3.9mの土蔵造2階建。切妻造で、桟瓦で葺く。外壁は漆喰仕上げで、通り側には腰を海鼠壁とし、各階に瓦庇付の窓を開け、銅製の開戸を吊り、上部に家紋を飾る。主屋と一体で、街路景観を構成する。
     


国登文 分銅屋店舗兼主屋 江戸/1854-1960頃/1926-1945改修
木造平屋建、鉄板葺、建築面積185㎡


通りに西面する間口11mの町家。切妻造鉄板葺で、当初はつし2階建。正面に下屋庇を付け、背面は葺き降ろし、台所や便所を付設する。漆喰仕上げで、2階に広く格子窓を穿ち、1階には格子戸をたて、幕板のガラスに家紋をあしらう。津和野における町家の一例。

店舗兼主屋の奥に土蔵とはぜ蔵(いずれも国登文)が見える。
       

それから
    


国登文 財間家住宅部屋の蔵 明治/1898-1911
土蔵造2階建、瓦葺、建築面積23㎡


主屋北側に庭を挟んだ位置に南北棟で建つ。桁行5.9m梁間3.9mの土蔵造2階建。切妻造桟瓦葺。石積基礎上、漆喰仕上げとし、腰を海鼠壁とする。東面に出入口を設け、掛子塗の両開戸をたて、通り側の上部に窓を開け、銅製の開戸を吊る。
    


国登文 財間家住宅本門 明治/1898-1911
木造、瓦葺、間口1.7m、左右袖塀付


主屋の北、通りに面して建つ。一間腕木門で、左右に袖塀を付ける。本柱上、楣で固め、前後に腕木を出し、桁を支持する。一軒疎垂木。切妻造で、桟瓦を葺き、棟は輪違とする。建具は両開戸で、通り側は桟唐戸に作る。主屋や部屋の蔵とともに重厚な屋敷構えを見せる。
   


国登文 財間家住宅主屋 明治/1898-1911/1926-1945・1946-1965改修
木造2階建、瓦葺、建築面積408㎡


通りに西面する町家。間口15mの木造2階建、北側面に座敷、背面に台所や浴室、便所などを付設する。切妻造桟瓦葺で、正面に下屋を付ける。正面2階は両端を大壁とし、その間に広く格子を構え、1階に平格子や出格子を設ける。津和野の代表的な町家建築である。
    


国登文 財間家住宅漬物蔵及び木小屋 明治/1898-1911/1926-1945改修


木造平屋建、瓦葺、建築面積35㎡主屋背後に接続する台所棟から東西に延びる桁行12m梁間2.9mの木造平屋建。切妻造桟瓦葺。東西三室に分け、西端を土間で井戸を置き、中央を漬物倉、東側を木小屋とする。敷地側は真壁。通り側を大壁とし、主屋から連続して、街路景観を形成する。
    



国登文 河田商店店舗兼主屋 明治/1898-1911
木造2階建、瓦葺、建築面積217㎡


東の通りと、南の小路に画される敷地の東端に位置する。間口9.9mの木造つし2階建、切妻造桟瓦葺の平入町家で、北面に落棟で座敷や仏間を付設する。壁は大壁で、正面は大きく開口を穿ち、小路側は庇付の窓を三ヶ所穿つ。骨太で剛直な外観をつくる。

国登文 河田商店本蔵 明治/1898-1911
土蔵造2階建、瓦葺、建築面積83㎡


敷地の南辺、主屋角屋の西に続く。桁行14m梁間5.9mの土蔵造2階建。切妻造桟瓦葺で、東寄りの棟を一段下げる。内部は東寄りと西側に大きく分かれる。石積基礎に建ち、腰海鼠壁とする漆喰仕上げで、要所に開口を設ける。主屋と一連で街路景観を整える。
           


田中家店舗兼住宅
     


国登文 津和野カトリック教会 昭和前/1929
木造平屋建、鉄板葺、建築面積131㎡


この教会は,長崎浦上のキリシタン信徒の殉教地として知られる津和野にビリオン神父によって創設されたもので,現在の建物は昭和4年の再建である。木造平屋建の単塔式のゴシック様式になり,簡潔な図柄のスデンドグラスのある教会として親しまれている。

国登文 神父館 昭和前/1917
木造2階建、スレート葺、建築面積69㎡


和風庭園に西面して建つ。桁行13m梁間5.4mの木造2階建。寄棟造スレート葺とし、外壁は2階を下見板張、1階を腰板張、上部を板壁ペンキ塗装とする。内部は1階に事務室や応接室、食堂、2階に居室三室などを配する。地方における教会施設の一例。
                                 


殿町通りを南(南西)へ


殿町通りは江戸期の面影を良好に残しており、はじめは未知の西側(役場側)にのみ水路があったが、明治18年(1885)の国道整備に伴い、新たに道路の両側に水路が整備され現在のすがたになった。津和野のイメージにもなっている鯉は、民俗学者宮本常一の提案によって、昭和9年(1934)に放流されたのが今日の姿のはじまりである。水路には花菖蒲も植栽され、今では津和野にはなくてはならない殿町通りを彩る名所となっている。
(現地説明板)
                  


国登文 津和野町役場(旧鹿足郡役所) / 大岡家老門


この建物は大正8年(1919)に鹿足郡役所として建てられた。郡役所の制度が廃止され、一時警察署として使用されたが、昭和30年(1955)の町村合併で津和野町役場となり現在も現役の役場庁舎として使われている。外観は今日まで大きな改変はなく当時の面影を良好に残している。大正期に流行した和風公共建築で、木造瓦葺平屋建。両脇の部屋を前面にせり出し平等院鳳凰堂をイメージした外観となっている。
表門は家老大岡家の正門が明治の初めに取り外され、保存されていたものを、昭和50年代に今の場所に戻し、併せて周囲の土塀なども復元された。
(現地説明板)
                       


県史跡 津和野藩校養老館


藩校養老館は、津和野藩主亀井氏8代矩賢が、天明6年(1786)、「下中島堀内」(現在の津和野小学校裏付近)に創設した津和野藩の藩校です。創設当初は儒学を主として漢学、医学、礼学、数学、兵学などの学科が設けられていました。
その後、11代茲監は嘉永2年(1849)に新たに国学や蘭医学を設け、規模を拡大するともに人材育成に力を入れました。創設時の建物は、嘉永6年(1853)の大火で焼失してしまいましたが、安政2年(1855)に現在地に移転して再建され、明治5年(1872)に廃校となりました。
ここは幾多俊才を輩出した藩校として名高く、西周(近代日本哲学の祖)、森鴎外(文豪・軍医総監)、福羽美静(国学者・明治天皇待講)、山辺丈夫(日本紡績業の父)、小藤文次郎(日本地質学の父)、高岡直吉(初代札幌市長)、堀藤十郎(中国の銅山王)、福羽逸人(日本近代園芸の祖)、加部厳夫(国学者、「君が代」選定に携わる)など、後に全国に名を馳せた人物が学びました。
現在は、武術教場(槍術・剣術)と御書物蔵の建物を含む敷地が当時のまま残り、県史跡に指定されています
(津和野町ウェブサイトより)
                 


養老館槍術教場内部
                        


養老館剣術教場内部
                  


森鴎外遺言碑、御書物蔵の展示、大国隆正顕彰碑など
                     


県文 旧津和野藩家老多胡家表門・番所・土塀


多胡家表門は津和野藩筆頭家老を務めた多胡家の表門で、左右に番所を構え(向かって左を通称「物見」と呼びます)津和野町殿町の道筋に面して建ちます。
“表門は3間1戸薬医門の形式になり、屋根は切妻造り、瓦葺きである。扉筋の4本の本柱と背後の2本の控柱からなり、正面の中央に板桟戸を開き右脇間に潜り戸を設ける。”昭和52年5月4日島根県指定有形文化財(建造物)指定告示書より。
建築年代は嘉永6(1853)年の大火後であり、番所(向かって右側、門番詰所)はその保存修理工事(平成27年度完成)中に発見した祈祷札により安政7(1860)年としています。
多胡家表門は薬医門の形式ではありますが、扉筋と棟木の平面位置の差は小さく扉筋の柱の面と棟束の面がそろうような形態となっており、一見すると棟門のように見れるところが興味深い点です。津和野城下町においても薬医門であってしかるべき敷地入り口においても棟門に控柱を設けるような門も散見できます。
(「津和野文化ポータル」ウェブサイトより)
             


鷺舞の像
  


帰りは殿町通りから、東側の裏道、万町通りをもどった。狭い道で途中に土蔵群がある。
                                    


津和野駅から新山口へ
           


May 25,2017 瀧山幸伸

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Aug.2010 瀧山幸伸 source movie

西周旧居

Old Amane Nishi residence

           

            

森鴎外旧居

Old Ougai Mori residence

             

                 

津和野城跡

Tsuwano castle

           

津和野の街並

Downtown Tsuwano

多胡家表門

Tagoke Omotemon

      

藩校養老館

Youroukan

         

津和野町役場

Tsuwano town office

     

     

                            

         

カトリック津和野教会 殉教の歴史

Catholic Tsuwano church

                  

                       

青野山

  


Dec.2003 source movie

 

 

元資料:国土地理院

津和野の名前は「つわぶきの生い茂る野」に由来する。

弘安5年(1282〉源範頼の子孫である地頭職、吉見頼行が元寇警備のため能登から着任した。

津和野城は彼が着工した本格的な山城。

吉見氏は、大内、その後毛利の家臣となる。

関が原の合戦以後、「千姫事件」で知られる坂崎氏が入城し、在位16年の短期間に津和野城の大改築と城下の整備、新田開発、和紙などの産業奨励、鯉の養殖など、今日の津和野の礎を築いた。

坂崎氏が千姫事件で失脚し、元和3年(1617)因幡鹿野城主亀井政矩が4万3千石の藩主となった。

歴代藩主は殖産と教育に注力し、津和野の実録は15万石といわれるほど華栄した。

このような歴代藩主の人材育成策が功を奏し、西周や森鴎外など日本を代表する人物を輩出するに至った。

津和野の街並

津和野の景観整備は昭和50年代半ばから行われた。

殿町の街路舗装、電柱の地下埋設、郷土館前に草刈家の門を移築するなどである。

条例で環境保全地区を指定し、特別保存地区・保存建物・保存記念物を定めている。

建築物の構造は和風とし、高さ、色彩、デザイン、屋根は石見瓦を使用するなどのガイドラインが設けられている。

橋のたもと、殿町通り入り口のミニ庭園 

水清き池に灯篭を配置し、古都の情緒を演出する。

重要な景観要素であるノード(交通の結節点)がこのように景観修景されると街並の印象が大きく変わる。

もしここがコンビニやガソリンスタンドだったら、その差は明白だろう。

手すりのデザインと素材は昔風に改善したほうが良い。

山から湧き出す清水はさぞやおいしいのだろうが、それを飲む場所が随所に無いのは不思議だ。

地元の人には価値が無くても、おいしくない水を飲まざるをえない都会人には貴重な清水なのだから、「名水の里」に向けてぜひ検討して欲しい。

 

旧津和野町役場付近

役場の建物は城下町の情緒を活かし街並に調和したもの。

さらに欲を言えば、役場の機能は美観地区外に移転させ、この建物は訪問客用の施設に転用されるとなお素晴らしい。

通常の城下町では、無粋なデザインの公共施設が、景観的に最も重要な旧城下に陣取り、街並と情緒を破壊している事例が多いのだが、ここ津和野では、公民館、警察署、博物館などが古い街並に調和するように建築されており、住民の見識の高さに敬服する。

  

  

藩校 養老館(歴史民俗資料館)

天明6年(1786)創設された。

この建物は安政2年(1855)の建築。

西周、森鴎外など多くの人材を輩出した。

  

  

殿町通り

  

水路の鯉

2千本の花菖蒲と天然のホタルの舞う時期が重なり、「ホタルの里」としても有名。

  

 

多胡家表門

津和野藩の家老職の屋敷。

 

  

カトリック教会

  

町屋の街並

こちらには水と緑の潤いが感じられず、直線の道路とあわせ、冷たい印象を抱く。

ベンチ、植栽、水盤などで構成されたミニパークを設置するなど、のんびりと時間を過ごす工夫が欲しい。

夏の夜はなごみの和風照明と床机台を水路沿いに配置し、豊かな時間を過ごしたい。

  

    

  

電柱と看板は見直すべきだろう。

  

4軒もある造り酒屋は街並の顔だ。

  

造り酒屋の横丁はモノトーンで美しい。

 

古い街には日常にお茶を楽しむ文化があり、和菓子は格別においしい。

源氏巻が有名。

  

  

  

  

  

 

川の風景

環境に恵まれた津和野。

川の水の清らかさ、水音、小鳥のさえずり、鷺の舞い、水鳥の戯れ、これらが感性豊かな街の印象を演出する。

現在の護岸では水の音と流れを間近に感じることは難しいので、水辺まで近寄れる護岸と遊歩道を整備して欲しい。ホタルの時期ならずとも、さらに楽しい逍遙路となるだろう。

  

  

  

 

馬場先櫓

 

森鴎外旧宅(史跡)

文久2年(1862)この家で生まれた。

  

 

西周旧居(史跡)

哲学者西周が4歳から25歳まで居住していた。西家と森家は親戚。

  

  

橋南側の街並

  

 

【70年代旅行ブームから学ぶ】

72年から78年まで、アンアン・ノンノなどの女性誌に取り上げられ、萩と津和野に「アンノン族」と呼ばれる若い女性が殺到した。

今は静かな城下町の面影を取り戻しているが、当時は相当に賑やかだった。

この現象を考察した資料として「戦後ユース・サブカルチャーズについて(2):フーテン族からアンノン族へ」が興味深い。 *(難波功士 関西学院大学紀要Oct.2004)

アンノン族以前の旅行は、男性中心でファッションにとらわれない「カニ族」あるいは「鉄道研究会」が主流であった。

カニ族のライフスタイルは、自然風土との一体感に幸せを求めるアニミズム、あるいは「禅」の哲学に近い。

彼らは、美しく神秘的な自然に着目し、北海道の知床などに自己の原点たる土地を持っている。

年を重ねて、青春時代の原点である北海道を再訪するカニ族(あるいは鉄道ファン)は多いらしい。

アンノン族ブームは、国鉄の「美しい日本と私:DISCOVER JAPAN」キャンペーンにタイアップし発展した。

その中核は、時間的経済的余裕を持つ女子大生、結婚適齢期の高学歴団塊世代女性であった。

アンアン・ノンノは、従前の女性誌がファッションなど一ジャンルに特化していたのに対し、旅行と食住まで含めた「ライフスタイルのあり方」を提案する総合誌を確立したという点で、社会的影響力が大きかった。

この「ライフスタイル提案」という概念は、以降のハナコ族にも引き継がれている。

「日本の伝統文化」、「自然とのふれあい」、「異国情緒」が彼女らの旅の三本柱であったが、いずれもヨーロッパへの憧憬を意識したもので、 「美しい日本と私」の中の「美しい私」が興味の中心であり、親しい友人とおしゃべりしながら楽しい旅をし、おいしい食べ物と美しい工芸品などを堪能するという旅を指向していた。

アンノン族の目的地となった京都は、工芸美術品、食事など、満足度が高かったのだが、倉敷ではちょっとがっかり。

萩と津和野に至っては、遠すぎるし、彼女らを魅惑するキラーコンテンツが圧倒的に不足していた。

アンノン族の旅行ブームは、オイルショックによる景気の後退と、彼女らが家庭を持ち仲間との旅行が困難になったことに伴い一過性で終わった。

彼女らを受け入れる側も刹那的な消費誘導に走り、彼女らの潜在的需要を開拓すること、リピーターとして確保することはできなかった。

つまるところ、「津和野でなければならない理由」が無く、彼女らのライフスタイルに合わなかったのだろう。

さて、当時から30年経過したアンノン族が萩や津和野に回帰して来るのだろうか。

今日の彼女らは日本文化を再認識する余裕ができる年代になった。

それはサライの読者層に団塊世代女性が多いことからも理解できる。

今後の津和野に彼女らのライフスタイルに合う魅力が得られるかどうか。

問題は、城下町情緒を色濃く演出する「本物の街並保存と復元」がそれほど進んでいないことと、時間を消費できる魅惑的なプログラムが少ないことだ。

街並としては、津和野全体を城下町風の街並に戻し「津和野はタイムスリップできる魅力的な街」だという印象を与えることが必要だろう。

最近流行りの「重要文化的景観」として認知される要素は揃っている。

山城、櫓、川、街並、神社、そして、周囲の山並がそれを包み込む。

町全体の文化的景観(俯瞰景観)の例として、白川郷荻町が参考になろう。

城下を一望するランドマークとして、津和野城の復元も検討したい。

これらの環境を活かして、五感、衣食住、特に美容と健康に満足を与える工夫が必要だ。

城下町にふさわしくない要素の、鉄塔や看板、ビルなどを徹底的に景観に調和させる。

それに加えて、訪問者の心をつかんで離さないような精神的文化的な魅力作りを継続する。

ただでさえ直線的で広すぎる殺風景な道路から車を締め出す。

ストリートを修景し緑と潤いと伝統文化に溢れた街並を創る。

水辺、山裾の遊歩道を整備する。

夜の街歩きが楽しくなるような賑わいの一角を設ける。焚き火、かがり火など、温かみのある演出と共に。

村上の雛祭り、屏風祭りのように、各民家が土蔵に眠っている古美術品を展示する。

今や全国各地の積極的な造り酒屋やしょうゆ醸造家、豆腐製造所などの伝統的工業施設は、良水と厳選原料を利用したアンチエイジンググッズを作ったり、ギャラリーを利用してイベントを行ったりと、街をプロモートするスペースメディアとなっている。

町に隣接して道の駅併設の温泉施設を作ったが、ターゲットセグメントは明確でなく、津和野ならではの特色も出せていない。

町全体が俵山温泉のような現代風湯治を指向しているわけでもない。

工夫次第で町おこしの構想は低投資額でも実現できる。問題はそれを継続し続ける母体だ。

町おこしの有志が集まり、手作りのタウンマネジメントを、訪問者も参加する形で実行してほしい。

大きな家をもてあましている世帯も多いだろうから、学生や高齢者が比較的長期間この町に滞在するための「ホームステイプログラム」なども有意義だ。

訪問者は地域住民との交流を通じてお金で買えないコミュニティ価値を実感することができる。

リピーター増殖の一助ともなろう。

小さい城下町であるがゆえに、このようなマスタープランと実行組織が必要ではなかろうか。

お手本とまではいかないが、あるべき方向へのインスピレーションは、宮崎の飫肥や長崎の島原、岐阜の郡上八幡、山形の金山に見て取れる。

飫肥では、鯉の泳ぐ水路を増やし、年越しの灯篭祭りを行うなど、お金をかけないで街の魅力を上げる努力を試行している。

郡上八幡では、祭りと水をテーマにミニパークを創造している。

金山では、「林業」の伝統と「水」の恵みにこだわり、梁を表わした「金山形住宅」への改築を奨励し、看板を撤去し、水路沿いの修景を行い、屋根付きの木造橋を架橋している。

文化と時間消費対策としては、人物ゆかりの津和野ブランドを活かし、旧藩校を利用した松代のような文化プログラムの導入も考えられる。

ただし、少人数向けに高度な技術を伝え、作品を作り出して行くような、津和野ならではの文化プログラムでなければ成立しないだろう。

例えば、「和菓子作りとお茶の世界を習うなら津和野に1週間滞在せよ」とか、「心身の若返りには津和野ワンウィークアンチエイジングパックを」などだろうか。

津和野単独では無理なので、県を越えてとの連携も視野に入れてプログラムを開発して欲しい。

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