Monthly Web Magazine Mar. 2015
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トピックス
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■■■■■ 柔らかい話題と固い話題 瀧山幸伸
柔らかい話題と固い話題を一点ずつ。
なぜ固い話題にこだわるのかというと、Japan Geographicの目的は教育だからです。
営利を目的とするマスコミなどとは違うので、地味だけれど重要な情報も積極的に提供したいと願っています。
百万人に読み捨てられる柔らかい話題よりも、一人の人生を変える固い話題、貴重な情報のほうが、提供者としても幸せです。
■■ 柔らかい話題 『SLと朝ラーメン』
私は熱狂的な鉄道ファンではありません。現地で遭遇すれば撮影する程度ですので、鉄道関係の資料は充実していません。
島田の大井川鉄道はSLが走る鉄道として頑張っていましたが、経営は危機的でした。
昨年からは「きかんしゃトーマス」が走り、大人気の鉄道として注目を集めています。
たまたま遭遇したので、二重連結のSLが走る姿とSLが大井川橋梁を走る姿を収録しました。
写真では迫力を感じませんが、スローモーションのムービーは握力満点です。
きかんしゃトーマスは、6月から運行ですので、タイミングが合えば撮影したいと思っています。
同じムービーページで島田の主婦が撮影されたトーマスも見られます。
島田の居酒屋「和蔵」さんのご主人は気さくで素敵な方です。
地酒も料理もおいしいですが、彼に教わった「麺屋燕の朝ラーメン」もおいしかったです。
朝6時半からやっている変わった店ですが、8時に行ったら満員状態でした。
京風カレーラーメン
■■ 固い話題 『冬は史跡巡りに最適 』
このサイトが始まってから12年になります。国の文化財リストに登場する数多くの「史跡」は、まだ完全収録できていません。
それでも国を含め他よりもはるかに充実していますが、私自身も「絵」になる建造物や天然記念物などの調査を優先してきました。
全国の建造物などはほぼ網羅できましたので、1月、2月、3月と、関東と東海の史跡を調査してきました。
なぜ冬に?には理由があります。
ほとんどの史跡は毒蛇などの危険がありますので、彼らが冬眠している冬は安全です。
さらに、木の葉が落ちていますから、古墳などの全体景が撮影しやすいのです。
おまけに、巣作りに励むオオタカなどの野鳥に遭遇することもできます。
史跡の中から古墳をとりあげてみましょう。
どらえもんで有名な出版社が教養風食べ歩き雑誌?の3月号で古墳の特集を組んでいましたから、内容を比べてみるのも面白いでしょう。
私がおすすめする古墳のポイントは、以下のとおりです。
・勢力の大きさ
単にサイズが大きいだけではなく、地理的な勢力圏など、群として見ると興味深いです。
・石室と石棺が見学できるか
石室の厳かな雰囲気、重い石棺の蓋が開いて古代人が出てくるのではないかと思える緊迫した体験です。
・埴輪やなどの重要な遺物があるか
重要な遺物は教科書や博物館で確かめられます。例えば上野の国立博物館の展示は参考になります。
装身具や馬具などはシルクロード経由のものもあり、世界史規模で見る必要があります。
群馬県太田市天神山古墳、群馬県前橋市宝塔山古墳、群馬県前橋市 二子山古墳
■■■■■ 観梅にもいろいろあって 大野木康夫
2月から3月にかけて、全国各地の梅の名所は賑わいを迎えます。
梅の名所は大きく分けて二つの類型に分かれるような気がします。
一面に広がる梅のじゅうたんのような大展望型の梅の名所
栽培用の梅林を観光用に開放しているものが多いので、個々の木よりも大景観が魅力です。
写真では伝わりませんが、花の盛り時期、一面に匂いたつ梅の香りも楽しみです。
梅の栽培地なので普段は静かですが、この時期は大勢の人でにぎわいます。
整備された梅園や社寺
普段から手入れされている観賞用の木なので、観賞用の鮮やかな花が咲き誇ります。
梅にまつわる故事や伝説なども魅力の一つです
こちらには、端正に手入れされた盆梅も入ると思います。
数ある梅の名所では、形はどうあれ、花を愛でるのが基本となっていますが、京都市山科区の勧修寺は、それとは異なる「梅の名所」です。
勧修寺は、梅の名所として多くのところで紹介されています。
しかし、境内に大きな梅園があるわけでもなく、開花する梅の木も10本程度しかありません。
勧修寺が梅の名所とされるのは、書院前の「臥龍の老梅」が有名だからです。
臥龍の老梅は、江戸時代に京都御所から移植されたもので、樹齢は約300年です。
臥龍の老梅の全景
親木はすでに花をつけておらず、子、孫の木がわずかに白い花をつけており、地味な感じです。
しかし、説明板を見ると、臥龍の老梅の見どころは「花ではなく幹」とされています。
親木は花を付けませんが、たしかに、龍が這っているような姿をしており、根が付いているので朽ちずにその姿を長年保っているということで銘木となっているということでしょう。
子や孫の花は控え目ですが、重要文化財に指定されている書院に映えていい雰囲気です。
樹齢750年といわれ、書院前に大きく広がるハイビャクシンの迫力との対比も面白いと思います。
花を期待して来られる方には少し物足りないような気がしますが、「梅の名所」として知られるのも分かるような気がしますが、この時期は、境内の氷室池で、アオサギが巣作りの真っ最中でした。
家に帰ると、我が家の庭の梅も今が盛りです。
今回は夏の風物詩とされる「水琴窟」を紹介します。数年前にNHK「美の壺」でも取り上げられました。情報としては遅いかもしれません。
その水琴窟は、伏見稲荷大社境内と道を隔てて建つ大橋家の庭園にあります。特に京都最古の水琴窟を備えた庭園として特筆され、京都市の登録文化財に指定されています。庭園は苔に覆われ、大小・色とりどりの石や燈籠が点在する落ち着いた雰囲気を保ち、稲荷大社付近とは別世界の閑静さです。
大橋家庭園は、現当主・大橋亮一氏の曾祖父・大橋仁兵衛氏が隠居屋敷(別荘)の庭として、親戚で親しかった七代目・小川治兵衛(植治)氏の監修を得て1913(大正2)年に完成した、露地風の個人宅庭園です。既に百年を経過しています。
大橋家は鱧をはじめとする瀬戸内海の鮮魚の元請を家業とされており、庭園名『苔涼庭 たいりょうてい』は親交の深かった各地網元の『大漁』を祈念して名付けられたようです。
七代目・小川治兵衛氏は、明治・大正時代を代表する造園家で、京都では『平安神宮の神苑』『無鄰菴(山形有朋の別荘)』『有芳園(住友家別荘)』などの国指定の名勝を含めた名園を手掛けており、この時代は特に琵琶湖疏水が完成し、その水を引き込んだ造園が治兵衛氏のパターンでもあったようです
この庭園には2箇所蹲踞(つくばい)に設けられた水琴窟があって、両方ともに100年もの間いい音を響かせ、今も現役でいると聞き半信半疑で訪れました。
庭に案内されて、一番にその音色に接しました。ビックリです。とても素晴らしい響きです。見事に応えてくれました。正に「いきもの」のようです。
その音色をおきかせできないのが残念です!どのような構造になっているのか興味が募ります。
水琴窟は、蹲の排水装置として地中に埋めた甕に工夫を加え、手洗い時に涼しげな音を響かせるもので日本庭園最高の音響装置と称されています。
上から滴らせた水が落ちる時、甕に反響する深く澄んだ音を楽しむというもので、寺社巡りの中で、所々で見かけはしますが、音色に接する機会は殆どありません。
一般的な水琴窟断面模式図
苔涼庭にある二つの水琴窟にはそれぞれ特徴があります。
一つは、周囲より一段低く作られて「降り蹲踞(おりつくばい)」に設けられ、蹲踞の底には鮮やかな色彩の砂利が敷き詰められており、実用というよりは観賞用に作られたようです。この蹲踞は客間に面して、景石、石灯篭、クロマツが植えられている築山とセットになっており、この庭一番の見所といえます。
もう一つの水琴窟は、客間と待合の間の縁先手水鉢(えんさきちょうずばち)に設けられています。この手水鉢は実用が主となっています。
何れも水には敏感で、やり水の量や間隔で音色が変ります。金属音に似た澄んだ響きは癒しになります。二つの水琴窟はさほど離れていないため、音の微妙な違いを聞き比べることができるのもこの庭の面白いところです。残念ながら内部の構造は解りません。
仁兵衛氏がこの土地を求めたのは1911(明治44)年で、付近には人家もほとんどなく、周囲は木々に囲まれた森だったようです。
現当主の四代目・大橋亮一氏のお父さんの若い頃の写真にも森に囲まれていた様子が写っているようです。
水琴窟のこころよい音色は森の中にも響き渡ったことでしょう。その時と同じ音色を今味わっていると思うと、不思議な感じがします。
水琴窟は江戸時代に考案され、明治時代から昭和の初めまでは各地で多くつくられていたようですが、戦中・戦後の混乱期は忘れ去られたようで、昭和50年代には全国で音が聞こえる水琴窟は7〜8か所残っただけと伺っております。
1983(昭和58)年頃、朝日新聞の天声人語やそのすぐ後、NHKのTVで取り上げられたことが復活の契機となり、現在では京都市内だけでも40数カ所を数えるようです。広辞苑に記載されたのはその後でまだ日が浅いようです。京都では妙心寺の塔頭・退蔵院や円光寺にもありますが、苔涼庭のものより新しいものです。
亮一さん自身も、「音が出ることは知っていたが、水琴窟であることは、天声人語の記事を見て初めて知った」と話されています。
それまでも、その後も手入れは一切行っていないとお聞きし驚きました。
一般に、水琴窟は地中にあるため、甕に泥がたまり早ければ10年程度で音が出なくなるとされます。
水琴窟がこれまで一般に知られることがなかったは、機能する期間が短く、歴史的に有名な庭園や神社仏閣などには残っておらず、所謂文化財の範疇にも入っていないことによるともいわれます。その点からも、大橋家の水琴窟は貴重です。
縁側に座って、亮一さんからお話を伺いました。
この庭が作られた頃は、疏水が完成し、その水を引き入れる庭園が多く造園されたようです。
「疏水の水にかわる水の景色として水琴窟が考えられ、水琴窟の音を聞いて庭の水・流れを想像したのでないか」といったお話や、仁兵衛さんは雅楽を趣味とされていたので音を楽しむ水琴窟をつくったのかも・・。何一つ資料が残されていないので、掘り返すこともできない。現在、庭の管理を委託している十一代目や十二代目小川治兵衛さんとも語らいの中で想像を膨らませておられる様子でした。
庭をじっくり眺めつつ、いろんなお話をお聞きしながら曾祖父・仁兵衛さんのこの庭園にかけた思いを想像して過しました。
この時期、色気のない庭にツバキが一輪花を開いていました。最近小鳥が庭を掘り起し、苔をダメにしている。一年通して気が抜けない日々が続くとのお話でしたが、今後も長く守って欲しいとお願いして別れました。何時かまた訪れるつもりです。四季の花も豊富です。
お庭
■■■■■ 梅とともに春がそこに 田中康平
梅が咲いて春の花の季節が今年も始まったかと思う。
北関東にいたときは梅といえば偕楽園や足利の西渓園だった。
九州ではどこだろうかと思うと、まずは太宰府の梅から始まってやはりいいところが幾つもあるようだが、なにしろシーズンの開始が早い。
気象台の生物観測では福岡の梅開花は平年で2月3日、今年は1月28日だが宇都宮では平年が2月14日、今年が2月26日で今年に限れば福岡は北関東より1ヶ月くらいも早い。
ぼんやりしていると出遅れてしまう。
勿論場所により木により開花時期は様々で、今年は1月21日に自宅から数キロの春日公園で今季初めての梅開花を見た。これは早い。
続いて自宅の梅が開花しこれは3月10日の強風で散り去るまで花が続いた。
梅は期間が長い。散り方も梅吹雪というのはなくて地面がゆっくり花びらで覆われていく。優雅だ。
梅のように生きる、そんなことを思ってしまう。
数日前、有明海の広大な干潟・大授搦(だいじゅがらみ)で季節の野鳥を堪能した後、小城の牛尾梅園というところに寄ってみた。勿論初めてだ。
江戸時代から続く梅果実栽培用の梅林らしいが、1万本を越える梅がほぼ満開で圧倒的だ。
小山を登りながらそぞろに見ていく。波打つような梅の花、こんなのが見ていて気持ちがいい。
実用的にドライに一面に広がる梅の花の様は、見てくれとばかり押し付けるようなところがないのがいい。
桜はもう2週間もすれば咲き始めるだろう。巡り来る心が浮き立つような季節はいつも新鮮な何かをもたらしてくれるように思えている。
写真は順に、1.春日公園の梅開花(1月21日), 2.自宅梅開花(2月4日), 3.太宰府飛梅(2月15日), 4.福岡城址の梅(2月25日), 5/6.牛尾梅園の梅(3月7日)
■■■■■ ある雨の日、京都へ 野崎順次
3月1日、日曜日、終日雨である。いつものリュックに小型カメラ2台と豆袋(三脚代わりの自在枕)をほりこんで、書類仕事のある家内を残して独りで家を出た。いつもよりは遅いスタートで、午前11頃にJR京都駅に着いた。
最初、京田辺の大御堂観音寺におられる国宝十一面観音様を拝観にと思ったが、気が変わって、上京区妙顕寺の非公開文化財特別公開に向かった。琳派を代表する尾形光琳ゆかりの寺とのことで、光琳などの絵画や風情のある三つの庭があるそうだ。室内で鑑賞できるので、雨の日にはうってつけである。
バスの1日乗車券を購入
市バスの1日乗車券500円也をバス乗り場の自動販売機で買った。以前はバスターミナルの案内所で買っていたのだが、最近は外国人観光客が長蛇の列をなしている。1回のバス代は230円だから、3回使えば元が取れる。バスの車内でも買うことができるが、たまに売り切れてしまう。そのようなときには「次のバスで買ってください」と云われて、そのバスは無料になる。事情の分からない外人観光客は、怪訝そうにするが、英語で説明できる運転手さんはまずいない。払わなくてもいいから早くバスから立ち去れとばかりに、手で追い払うしぐさをしていた。
途中で中華そばを食う
B1乗り場(と言っても地下1階ではなく地上にABCと三つのプラットフォームが並ぶ)から9系統西賀茂車庫前行きに乗る。バスは西に向かい、そして堀川通を北上する。そろそろ昼飯時である。一番前の独り席に座って、適当な店を探す。京都はラーメンの美味しい店が多い。堀川下立売のバス停のちかくに「スープのうまいラーメン」と書かれた幟を見つけて、バスを降りた。「中華そば 笑麺(しょうめん)」という店である。中に入ると、時間が少し早いとはいえ、客がいない。「あまり美味くないのかな」と悪い予感がよぎるが、自動販売機でラーメンライス780円也の食券を買う。カウンターの向こうにも誰もいない。「すみませーーーん」と大声を出すと、やっと主人が出てきた。「麺固めでお願いします。」5分くらいで「はい、固麺です」と出てきた、そして、大根の漬物二切れが乗った飯も付いている。
食ってみると当たりだった。ほんの少し味と香りがきついが、うまい。「ますたに」とおなじ背脂醤油ラーメン系である。お米は京都市内の契約農家のものを使っているというようなことが書いてあったが、普通の味だった。次回は煮卵もトッピングした看板メニュー「笑麺」大盛りでも食べようかな。
ガッガーン、妙顕寺は拝観休止
バス停に戻り、12系統立命館大学前行に乗って堀川寺ノ内で降り、東に5分ほど歩くと
北側に妙顕寺の山門があった。妙顕寺は初めてではない。2013年2月に近くの本法寺を訪問した時に北西の墓地や境内を見て回った。大きなお寺であるが、国の重要文化財に指定されている建造物がなさそうで本格的な写真撮影はしていない。山門に受付を示す地図があり、その方向に歩くおばさまらがいた。ところが、受付の戸が閉まっていて中に入れない。
案内の看板をよく見ると「2月28日〜3月9日は拝観休止」と明記されている。今日は3月1日である。気が付かなかった。同じように間違ったおばさまが4、5人いて、少し立ち止まってから帰って行った。がっかりした。拝観休止期間には土曜日曜が4日も含まれているのはどういう訳だと怒った。
京田辺へ転進
仕方なくバス停に戻り、次に来た祇園行きのバスに乗った。満員である。半分くらいは外国人観光客らしい。リュックを降ろして前に抱く。次のバス停でさらに乗客が増えて身動きできなくなった。時刻はまだ12時40分であるが、だんだん雨がうっとうしくなる。四条通に入ると渋滞がひどくなった。もう家に帰ろうかと少し思ったが、初志貫徹、京田辺の十一面観音様を目指すことにした。四条烏丸でバスを降りて地下鉄に乗り換え、竹田で近鉄に乗り換えて1時半頃に三山木に着いた。
国宝十一面観音像に感動
雨は相変わらず降っている。観音様の居られる大御堂観音寺は駅から2km余で特に日曜日はバスの便はない。タクシーがなければ、歩けばいいさと思っていたら、幸い、駅前にタクシーが1台だけ待っていた。乗り込むと運転手さんが「拝観は20分くらいあればいいから、メーター倒さずに待ってます。」と言ってくれた。雨の中でも本堂や周囲の写真を撮ろうと思っていたが、そう云われるとその気が容易に失せた。観音様に集中すればよい。
観音寺に着いたが、参道にも境内にも人気がない。庫裡の呼び出しベルを押して玄関に入ると、直ぐにご住職が出てこられ、「本堂の前でお待ちください。」とのこと。50m位だから、傘もささずに本堂に走った。その内、僧衣に着替えたご住職が来られ、靴を脱いで本堂内に導かれた。拝観料は400円で、お供えの台の上に100円硬貨が十数枚あった。千円札を置いて、お釣りは少ないけれどもお布施ということにした。ご住職の読経を聞きながらお焼香をして手を合わせる。そして祭壇の向う側に行って厨子を開いていただき、高さ1m70㎝余の国宝十一面観音様を見上げた。一木式木芯乾漆造の天平仏(8世紀半ば)で聖林寺のものと似ているが、お顔はこちらの方が優しい。いいお顔という点では、向源寺(渡岸寺)の十一面観音と並ぶのではないか。厨子の前でうっとりと見ていると、ご住職は祭壇の向こうを行ったり来たりしながら私一人のために説明されている。少し離れて祭壇の横から観音さんを見ると、お顔がさらに優しくなる。さらに他の国宝十一面観音との比較や、お寺の由緒など聞かせていただいた。往時は巨大なお寺であったそうな。参道は桜並木で、その両サイドは菜の花畑という。是非、春爛漫の時に戻ってきたい。
猿丸神社の話
運転手さんは60代半ばの男性で、帰り道であれこれ話をした。私の定番の話題は同世代の友人のほぼ半分は癌経験者であることだが、運転手さんの奥様も数年前に子宮がんになられて手術を受けたそうだ。その時に、癌封じで名高い猿丸神社のお水をもらってきた。奥様はご健在である。後で調べると、猿丸神社は三山木から北西20km位の山中にあり、滋賀県との県境に近い。三十六歌仙の一人、猿丸太夫を祀る。奇岩があるようで何となく行ってみたい場所である。
タクシーで三山木駅に戻ると未だ午後2時で、料金は1,780円だった。何と値打ちのあるタクシーの使い方であろうか。2000円払った。
錦市場でお買い物
いいものを見たので元気が出た。次には錦市場に行って、う巻を買おうと思った。来た時のコースを近鉄、地下鉄経由で四条烏丸に戻った。ここから錦市場の西の入り口までは歩いても近いが、バスの1日乗車券を使いたい、四条烏丸から四条河原町までバスに乗ったが、すごい渋滞で半時間ばかりかかった。
錦市場では、う巻、湯葉、生麩の田楽、玉ねぎの漬物を買った。高齢の母と家で仕事をしている家内への土産である。生麩の田楽は5本入りパックで、帰る途中に大吟醸小瓶をラッパ飲みしながら、2本食べた。すこぶる美味である。両方とも。結局、小型カメラ2台で撮った写真は合計しても10枚くらいで、豆袋は一度も使わなかった。
その夜の我が家の食卓
夕食のおかずは、う巻、湯葉、玉ねぎの漬物、そら豆だった。ビールを飲んだら眠くなった。
今年も3月11日が近づいてきました。
4年前に東日本大震災が発生した日。この日が近づくと大震災に関する報道が目に見えて増加します。
でもこの時だけで、日本中で東日本大震災の被災者に寄り添う気持ちが風化してきているように感じられます。
死者・行方不明者18,483人、地震とその津波で一瞬のうちに失いました。
大震災の一週間後に居た387,000人あまりの避難者が今でも234,000人と4年で40%しか減少していません。
復興は遅れていると言わざるを得ないのでしょう。
被害の大きかった東北3県の復興工事の20%が入札不調なんて時期がありました。
今は、それを減少させるための費用の上乗せが可能な対応が取られているようですが資材・人件費の高騰、人手不足が復興を妨げていることに間違いないようです。
やはり、オリンピックが2020年である必要はなかったのではないでしょうか。
復興をやり遂げてから、開催を検討するぐらいでちょうどよかったのではないかとの思いにとらわれます。
震災直後最大182,000人/月ものボランティアが復興に泥まみれとなり、昨年12月でも4,000人の方が被災3県に無償の善意を提供し続けています。
それなのに、高速道路震災復旧工事では、法を犯しても利益を上げたいという組織が談合を行い公取委の摘発を受けています。
損失を出してまで協力すべきなとど言うつもりありませんが、同じ日本人のすることとは思えません。
とても悲しい気持になります。
福島県と宮城・岩手県の2県では随分と異なる復興プロセスになってしまいました。
福島県は原発の影響でこれからも永く苦しみます。私が生きている間に終結宣言がでることはないでしょう。
多くの故郷を失わざるを得ない方々には、かける言葉もありません。
さぁ、じぁお前はなにをするんだとの声が飛ぶのが当然の成り行きです。
復興に立ち向かう人々の姿をテレビ・新聞で見聞きし目頭を熱くし、被災者にこころを寄せること。
ボランティアをやりたくとも、65才を過ぎた中高年では足を引っ張るだけと自覚しています。
4月に福島に観桜で一泊旅行、5月に宮城にゴルフをかねた被災地状況検分一泊旅行、わずかな経済的効果を果たしてきたいと考えています。
■■■■■ 看板考「電話販売店」 ゆはらきみこ
所在地:東京都江東区清澄
江東区の「清澄庭園」を背景にして、清澄通りに面して建っている長屋のような鉄筋建物があります。鉄筋2階建てで、5〜6軒で一つの棟。次の棟との間に空き地を造り火災による延焼を防ぐようになっていますし、驚くことに屋上があって隣に避難できるようにもなっています。
1923年の関東大震災後にその教訓を生かして造られた建物で、強固でさらに地下室もあります。第二次世界大戦(1941年:日本が加わった年)の時にも焼かれることもなく、地下室は防空壕となったそうです。1928(昭和3)年に建てられたもので築87年経っていますが、土地は東京都の所有で、今後は背後にある清澄庭園に組み込まれる予定になっています。上物売買は現在は禁止されていると不動産屋さんが言っていました。売るのであれば東京都が買い取るということなのでしょうね。
この長屋のような貴重な鉄筋作りの真ん中ほどの家に看板がありました。
昔の字体ですが「電話売買 ○○販売店」と読めます。
えっ電話って売買できるの?と思ってしまいますが、加入権(施設設置負担金)が必要であった頃は7万円台で権利のようなものがあったそうで、2008年頃でも、正式に買おうとすればその半額くらいは必要であったそうです。それは債権と呼ばれていたので、売買が可能で、そのための業者も多かったそうなのです。看板の字体の古さから想像すると、当用漢字については1947(昭和22) 年11月5日に施行されていますので、少なくともそれ以前の看板と思われます。
時代は随分と変化して、現在の債権は500円から2000円くらいとのこと。電話売買はあまり商売にならなくなったということのようです。看板のある家も、もちろん現在営業をされているわけではありませんが、店内をのぞかせていただくと黒光りした一枚板の、かなり幅の広い立派なカウンターがあって、老舗の商店の趣と時代が感じられました。
回線提供も様変わりしました。現在はNTTしか電話回線提供が出来ないわけではなく、光電話、IP電話、ソフトバンク、KDDIなどほとんど新規加入の費用(加入権として)を必要とすることがなくなりました。携帯電話の爆発的な普及はいうまでも無いことですが、さらに携帯電話の中に、無料で通話ができるLINEというコンテンツまで登場しています。本来の電話を、あえて「家電」と言うほどになっています。
愛知県の田舎に住んでいた私の小さい頃、もちろん家には電話がなく、東京の叔父からの急用には電報でした。村の中では庄屋の役目のような大きな家に(切手も売っていた)だけ電話があって、壁にかかっていたロボットの形に見える電話を(固定電話のあゆみをしらべると、23号自動式壁掛け電話機だったようです)、祖母が電報が来た東京の叔父にかけさせてもらっている、という思い出があります。庄屋さんの家はお金持ちでメロンや苺やカステーラなどもあり、電話を借りる用があると祖母に孫一人までついていっても良いルールが当時はあって、庄屋さんの家で出されるおやつがとても楽しみで、弟と順番を争ったこともありました。……「電話売買」の看板のお話でしたが、ちょっと卑しい顛末になりました。スミマセン。
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Editor Yuki Takiyama
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