Monthly Web Magazine Jan. 2019
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危険なデスティネーション(目的地)シリーズ、前回の「危険な滝行」に続いて、今回は修験地、広義の山岳信仰の地をとりあげる。
そもそも「デスティネーション」の語源が「デスティニー(運命)」だから、行くべき運命の地ということで、行かないという選択肢はない。
滝、修験地、ヒグマや毒蛇など危険動物の場、山岳、青木ヶ原などの森林、海・川・湖水、洞窟、廃鉱山や廃墟など、危険な目的地は多いが、交通事故や犯罪が多い都会も危険だから、要はリスクマネジメント次第だ。
修験地は、南端の指宿竹山から北端の仏が浦まで各地にあるが、性格上、どれも危険に満ちている。修験地の寺社は危険だが、境内に隠された奥の院はもっと危険だ。奥の院への道は一般人が安易に入り込まないようになっているが、あちこち参拝していると、その道が「こっちへおいで」と手招きしてくれる。観光ついでや遊び半分で立ち寄ることは控え、それなりの宗教心と自制心と装備をもって訪問に値する、素晴らしいデスティネーションだ。
福岡と大分の修験地は、英彦山を筆頭に、六郷満山、大分各地の耶馬渓、岩屋神社、求菩提など、同じ系統の文化財として世界的に(世界遺産としても)価値が高いが、まだ誰もそのことを認識していないのは残念なことだ。六郷満山のサイトで啓蒙ビデオを作っているので興味がある方は閲覧してほしい。
昨年12月、危険な修験地を二か所訪問した。一つは岩屋神社、もう一つは古羅漢で、二度三度と訪問したくなる地だ。
岩屋神社への最初の訪問は単純に重文建築を調べることだった。神社には、本殿の岩屋神社と摂社の熊野神社の二つの重文がある。いずれも崖の窪みに造られたもので、参拝するだけでも迫力があるが、今回はさらに奥の院を巡った。崖を這う道は苔が生えてヌルヌル滑る。さらに悪いことに驟雨に襲われてしまった。連れは足がすくんで泣きべそだった。
古羅漢は、史跡に指定されているので訪問したのが最初だった。羅漢寺や青の洞門の隣の競秀峰とは至近距離にあるが、観光化されていないので訪問者は稀だ。こちらの崖道は岩屋神社よりも急峻で、ハシゴや鎖場があり、大きな恐怖を覚える。黒部峡谷の十字峡よりも怖い。.さすがに連れは一部区間を断念して大回りした。
年末年始の休暇の最後に、徳島の日本庭園を鑑賞することにした。重森三玲著「日本庭園歴覧辞典(昭和49年)」では、徳島市内の名園として、観音寺、千秋閣(徳島城)、瑞巌寺、阿波十郎兵衛屋敷、阿波国分寺の五つが挙げられている。三玲さんがよく使っていた阿波の青石(緑泥片岩)の本場でもある。
1月5日(土)早朝、倉敷の田舎家を出て、午前8時14分にJR徳島に着いた。駅近くのホテルに撮影機材以外の持ち物を預けてから、タクシーで観音寺に行った。徳島市内には別の有名な観音寺(国分町、四国八十八箇所霊場の第十六番札所)があるが、私が目指すのは徳島駅にもっと近い勢見町の方である。三玲さんいわく「池庭は相当に荒廃しているが、奥の枯滝石組を一覧すると、蓬莱式の豪華を極めて石組が見えを奪うであろう。」、また「桃山期の庭園石組の中でも傑出している。」。玄関で声をかけると、老婦人が出てこられて、「たいした庭じゃありませんよ。」といって、書院に案内していただいた。書院廊下で撮影の準備をしていると、お茶とお菓子が出てきたので恐縮した。
次の瑞巌寺までは1kmくらいなので、歩いて行った。直ぐに分かるだろうと高をくくっていたため、変な急坂や石段を登って、お寺のお墓に迷い込んでしまった。結局、もとの道に戻って、グーグルマップを見直して、山門にたどり着いた。まずは庭園を撮影してから、補助的にその他境内を撮影しようと思ったが、アプローチ感を高めるために、山門、大きな切り株、鐘楼を撮ってから、庭園の入り口にたどりついたら、「イノシシに庭園内を荒らされておりますので庭園の観覧は休止させていただきます」とある。玄関に行って、お願いしたが、どうしても駄目だと断られた。
後日、瑞巌寺のイノシシ害に関する新聞記事をみつけた。
「徳島市東山手町3の瑞巌寺で23日午前7時ごろ、設置していた鉄製おり(幅約1メートル、奥行き約2メートル、高さ約1メートル)にイノシシ1頭が捕獲されているのを、法輪太猷住職(48)が発見した。イノシシは2歳前後の雌で体長約110センチ、体重約40〜50キロ。連絡を受けた徳島地区猟友会員と市職員によって殺処分された。人への被害はなかった。瑞巌寺でのイノシシ捕獲は今年に入って3頭目。
法輪住職によると、寺の周辺では2011年ごろからイノシシの出没が確認されていて、15年ごろから現れる個体数が急増。境内のコケを剥がされたり、植物を荒らされたりする被害に悩まされており、昨年11月から庭の一般拝観を中止している。」
(徳島新聞 2018年5月24日より)
それから、15分ばかり歩いて、徳島駅に戻り、タクシーで阿波十郎兵衛屋敷へ行った。タクシー代は1500円くらいだった。予想よりも安い。参考までに、翌日に行く阿波国分寺(徳島駅から約8キロ)までの料金を聞くと、「3000円くらいだが、特別に2000円で行きますよ。」といってくれた。徳島市内はバスの路線が多いが、回数が少ない場合が多く、1時間に1本あればましな方である。その時点では、行きはバスで、帰りはタクシーをお願いしようと思っていた。それで運転手さんと携帯番号を交換した。
阿波十郎兵衛屋敷の庭は「鶴亀の庭」と呼ばれる。三玲さんいわく、やや円形の池に大きな亀島を配するのは元禄期に流行した地割であるが、全体の石組が弱いので、後に改造されたようだ。「ともかくこのような伝説地として有名な庭だけに、一見の価値がある。」
徳島駅までバスで戻り、セルフうどん店で昼食を撮ってから、陸橋を越えると徳島城跡である。ここには三玲さん絶賛の旧徳島城表御殿庭園(国名勝)」がある。「本庭は全面積約千五百坪を有し、当代全国庭園中での白眉である。しかも、本庭は前述のように枯山水と池庭との二つを併合している点や、池庭が深く掘られて、何段かの護岸石組を設けることなどは、まったく桃山期の典型的なものであって、しかも全庭の庭石が青石を豊富に用いてあることによって一段とその豪華さを語っている。」
午後3時を少し過ぎたので、駅近くのホテルに戻ってチェックインした。もう今日は歩けない。とりあえずチューハイを飲んで風呂に入り、ベッドで昼寝した。
6日(日)午前8時45分徳島駅前発のバスに乗る予定である。その前に昨日のタクシーの運転手さんに午前11時に阿波国分寺まで迎えに来てと電話した。すると、「今日は雨が降っとるけん、あまり仕事にならんやろう。阿波国分寺まで往復3500円にするし、撮影の間待っとくけん、自家用車と思って使ってええよ。」と云ってくれた。雨なのかと驚いたが、運転手さんのサービスに甘えることにした。
阿波国分寺の石組庭園は素晴らしいようだ。かつては荒廃して寺院自体も問題にしてなかったが、昭和15年にその豪快無比な石組が三玲さんによって発見された。日本一の石組だという。
ホテルから外に出ると、小雨が降っている。タクシーのフロントガラスを見ていると、少しきつくなってくるようだ。開園は午前9時であるが、8時40分には現地に着いた。すると、驚いたことに、本堂らしき建物に足場がかかって工事中である。「名勝阿波国分寺庭園本堂修理工事、工期 平成28年10月13日〜平成32年3月31日」とある。庭園も工事の対象であるし、竣工予定は来年の3月である。雨の上に工事中と不運が重なる。とにかく、運転手さんに傘を借り撮影機材をもって納経所へ行った。工事中だが、それでよければ無料で鑑賞できるとのことで、それなりの撮影ができた。
阿波国分寺で庭園以外に特筆すべきは、天平年間(729−748)に建立されたと思われる七重塔の心礎で環溝型という珍しい形式である。これも阿波の青石で作られている。
というわけで阿波国分寺の撮影は短時間で終わり、運転手さんと相談の上、徳島県立文化の森公園に連れて行ってもらった。ここでタクシーと別れ、三館棟(21世紀館、博物館、美術館)を観覧後、11時30分のバスで徳島駅に着き、12時24分発特急うずしおで徳島を離れた。
1月5日に日帰りで熊野三山詣りに行きました。
京都の家を出たのは6時過ぎ、熊野本宮大社まで京奈和道、国道168号経由で3時間ほどかかりました。
まあまあの人手で、河原の臨時駐車場に車を停めることになり、石段を上がって祓戸社、手水所を経て神門前に行くと、授与品を授けてもらうテントが立ち並んでいました。
神門をくぐって、作法どおり5箇所でお詣りをしてから、自分に勝つための御守りという「勝守」を授かりました。
本宮からは高規格道路を通って新宮の熊野速玉大社に行きました。
写真を撮る身としては、本宮から新宮にかけて、見ごたえのある滝が点在しているので、寄りたいところでしたが、時間が遅くなるのでどこにもよらずに新宮に直行しました。
速玉大社は社殿が明治期に打ち上げ花火で全焼したために、新しい社殿となっていますが、梛の大木が生い茂っており、いい雰囲気の神社でした。
最後に、熊野那智大社に行きました。
熊野那智大社は拝殿の改修中で、社殿が見えにくくなっていました。
せっかくなので、隣の青岸渡寺にもお参りしました。
那智の滝は水量が少なく、やさしい感じになっていました。
熊野三山と青岸渡寺の御朱印です。
最後に、写真撮影をしたいと思い、熊野の楯ヶ崎に寄りました。
楯ヶ崎へは国道311号沿いにある駐車場から南方系の植生の林を通る遊歩道を2km弱行かなければなりません。
15分ほどで海岸に鎮座する阿古師神社に着きました。
阿古師神社は中間点で、そこから遊歩道のアップダウンを15分ほど行けば千畳敷に着きました。
すぐ上には二木島灯台があります。
灯台を越えると、楯ヶ崎展望台で、柱状節理の見事な断崖を見ることができます。
釣り人は断崖の下まで降りていましたが、高所恐怖症なので、断崖の上から眺めるのが精一杯でした。
それでも、いろいろな角度から撮影することができました。
帰路は東周りの道で帰りました。
途中みえた断崖は海金剛です。
日が暮れると大変なので、急いで駐車場に戻りました。
熊野にはこれまでも何回か行っていますが、滝、熊野那智大社、鬼が城、熊野古道、お祭りなど撮影したいものがいっぱいあるので、今後も何度も訪れたいと思います。
やや穏やかな幕開けとなった今年の年明け−京都・八坂神社には約102万人の参拝客が訪れたようです。
賑わう八坂神社境内
1月3日、新年恒例の「かるた始め式」が行われました。
祭神である素戔嗚尊(すさのおのみこと)が櫛稲田姫命と結婚した時に「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作ル その八重垣を 」と詠んだと伝わることに因んだ行事で、今年で49回目を数えます。この歌は日本最古の31文字の和歌とされています。
色とりどりの平安装束に身を包んだ男女が能舞台の上で「初手合わせ」の奉納として百人一首の札を取り合いします。
全日本かるた協会近畿支部に所属する9歳から27歳の男女14人が、袿(うちぎ)に緋ばかま姿などで能舞台に上がり、百人一首の上の句が読まれると、ゆっくりとした動きで札を押さえました。
「何時もと違う服で少々面食らった小学生」や「背筋が伸びる思いがした女学生」も頑張りました。華やかな雰囲気に初詣客も満足気でした。
終わりには競技かるたも披露されました。元名人の対戦は札払いが素早く、見ていた参拝客から驚きのどよめきが起きました。
現在のかるた人口は約百万人とか。高校生の間で人気が高いと聞きます。
1月5日、大津市・近江神宮で競技かるたの日本一を決める「第65期名人位・第63期クイーン位決定戦」が行われました。全日本かるた協会主催で、競技かるた最高峰の大会です。毎年この日に開催されます。
近江神宮の祭神は天智天皇で、日本の時報制度を確立されましたが、小倉百人一首の巻頭歌を詠まれたことから、かるたの殿堂とされています。
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
正月休みを利用して、復興途中の熊本へ。
加藤神社に参拝しようと熊本城へ。未だ石垣は修復途中であった。
番号をつけられた石垣が並んでいる。
以前のお城より白くなっている。
次に訪れたのは阿蘇神社。正門も壊れ、手水舎もなくなっていたが、参拝する人は多かった。
こちらは崩壊した神社の部分を並べた資料館。今だけ近くで見られるものかもしれない
まだまだ修復は難しいかもしれないが、今年は災害もない一年になることを願ってます。
年の初めは毎年過ぎた年の回顧です。
近隣に未取材の文化財が少なくなってしまったことも原因の一つではありますが、ともかく取材行が激減したのが2018年でした。
ファインダーから覗く文化財に魅力も感じていますし、シャッターを押すことが楽しいのも変わりません。
突き詰めれば、取材の時間を作り出すことができなかった自分自身の怠慢だけのように思っています。
そんな2018年もいくつか記憶に残る取材をしています。
古民家好きの私にとって印象深いのは三か所の古民家展示施設です。
最初は日本民家園、川崎にあるこの施設の訪問は初めてでした。
20棟を超える古民家が移築・展示され、8棟の重要文化財も含まれており、とても充実した内容の展示にとても楽しい時を過ごしたと記憶しています。
古民家好きと自称しながら今まで足を踏み入れていなかったことを恥じ入るばかりです。
次は江戸東京たてもの園です。中央線武蔵小金井駅から歩いて訪問しました。
日本民家園同様初めての訪問です。東京近郊の車移動はどうしても時間がかかり苦痛が伴います。
電車ですのでカメラが重い、この時は小型カメラを持参しての電車行でした。
ここは日本民家園よりも新しい時代の民家が多く展示されています。展示建造物は復元ですが、文化的価値の高い失われたものを残してゆくことに大きな意味があると思います。
敷地も広く、建造物の数も多いため、じっくり見学すると一日仕事になります。
古民家の最後は福島民家園。入場無料なのに驚きました。
観桜のついでの訪問でしたが、すべての展示物の維持・管理が徹底して実施されていることに関心しました。
ここで見たいくつかの古民家に土間に筵をひき、そこが居住スペースとして利用されていて驚いたのを記憶しています。
しかし、福島県は太っ腹ですね。
ついででない観桜でも昨年は新しい発見がありました。昨年はともかく桜の開花が早くて福島でも予定した日程ではほとんどの桜が盛りを過ぎていました。
そんなとき、助けてくれたのが田村市の桜達でした。しかも巨木でみごとな桜がいくつも存在しているのです。
その上、他の観桜人が少なくてゆっくりと我儘に桜が楽しめたのです。
開花が遅い理由は田村市の標高が他より高いためのようですが、確実ではありません。
ここを知ったおかげで、福島の桜は開花後、G.W前まで楽しむすべを手に入れたことになります。
最後が真夏に訪問した田母沢御用邸です。日光には何度も出かけているのに過去に訪問していませんでした。
大正天皇の別荘として造営されたみごとな建造物なのに、世界遺産の日光の寺や神社ばかりが目立ち、あまり光が当たったことがない建造物です。
2018年の夏は記録的に暑く、全く涼しくない日光で大汗をかいての撮影でした。
庭に一本大きな枝垂れ桜があり、これが咲いている時期にまた来てみたいと感じたのを記憶しています。
残念ながら、充実したとは言い難い2018年でした。
2019年は多くの取材にと抱負を語りたいのですが、70才を迎える今年、気力・体力・知力の全てが低下するばかり。
高い目標を掲げても実現できる元手がありません。
panasonicのフルサイズでも購入して勢いをつけ、昨年より一件でも多くの文化財を訪ねたいと思うばかりです。
■ 2019年新年を迎える 田中康平
2019年はどんな年になるだろうか。考え始めても頭が回らない、1歳だけ歳をとることだけは確実だ。
最近は大晦日に終いの日の入りを眺めるように心している。確実に終わっていく時の動きが目でみられるからだろうか初日の出を見るよりも感じるところが多い気がしている。わざわざ遠くまで出かける訳ではなくて近くの少し西の空が開けたところで眺めている。なかなかいい。太陽に向かって有難う、ご苦労様でしたとつぶやいてしまう。
年が明けると勿論のように初日の出も近くで眺めている。今年は出遅れて住宅街の上に出たところをかろうじて見た。その分感慨が薄い。明けてくる新年という概念にあまり魅力を感じなくなってきたからだろうか。冥途への一里塚という方がしっくりくるようになったからだろうか。
買い物ばかりのおせちを食べて赤酒のお屠蘇を飲んで雑煮を食べて年賀状を見てといつもの繰り返しのような、それでも勿論毎回新たな正月が過ぎていく。今年は年末にやってきた息子達家族の半分が元旦まで居残っていたがそれも早々に引き上げて午後は静かな正月に戻った。
初詣は正月2日と3日に出かけた。これも近くばかりだ。毎年訪れている安徳天皇ゆかりの御子神社ともう一つは片江阿蘇神社とした。
この他に穴観音と大濠公園の鳥見ついでに護国神社にも詣でて今年も形なりに3社1寺参りとした。このくらい回らないと正月という気がしてこない。
片江阿蘇神社は福岡市城南区片江にあって、あの地震で重要文化財の楼門が壊れた阿蘇神社ゆかりの神社ではあるが正式な末社ではない。南北朝時代に筑後川の合戦に勝利しこの辺り一帯を南朝側として一時支配した菊池氏が建立したのではないかと伝えられているようだ。
どうにも九州の歴史では南北朝の争いのあたりが謎も多く歴史としては面白いようではある。
今年はどんな年になるだろうか、平和な平成が終わり争いの時代に入っていく入口の年になるのかもしれない。こちらは面白がってはいられない。
所在地:東京都中央区有楽町ガード下
あと三ヶ月弱で元号が代わります。略して書くことを考えると「M」「T」「S」「H」で始まる文字は有り得ないことだけは確実と言われていますが、さてどのような元号になるのでしょうか。
昨年暮れに大正生まれだった母が亡くなり、もう少し頑張ってくれたら四つの時代を生きた女になったのに、と思ったものですが、そういう私も3つの時代を生きた女になることができて、何かちょっと誇らしい気持ちです。90歳まで生きるとして(かなり欲張りか!)昭和を40年間生きて、平成を30年間生きて、新元号を20年生きる……悪くない数字の並びではないかと新元号のニュースを見ながら思っています。
当該看板は昭和30年〜45年頃の映画のポスターです。日比谷から銀座に向かっていく途中に俗に言う有楽町ガード下の壁に貼られています。だいぶボロボロになっていますが、雨が当たらないのかまだまだ文字は読み取ることが出来て、特に老齢の方々が立ち止まって見入る姿が見られます。
出演の方々はほとんどの皆さんが黄泉の世界に旅立たれた方ばかりですが、当時はいざなぎ景気、東京オリンピック、万博など日本人が元気に闊歩し始めた時代。それらを繁栄するように面白おかしく楽しく元気いっぱいの映画が多かったような気がします。
私はまだ中学生になったかならないかの頃で、住んでいた下町の墨田区押上に一軒の映画館があり、売り子が首にカゴをさげてアイスクリームやおせんべいを通路を通って売り歩き、映画は三本立ての入れ替え無し。大川橋蔵、美空ひばり「雪之丞変化(ゆきのじょうへんげ)」「新吾二十番勝負」などを祖母に連れられて、はじめは立ち見で、途中で席が空くと急いで取って、お便所のおっしっこ臭いがかすかに漂ってくる中を、満員の観客の吐く息の息苦しさをものともせずに観た記憶があります。祖母は村田英雄よりは三波春夫、中村錦之助よりは大川橋蔵とイケメン好みだったようです。
父が好きだったのは座頭市で、主に浅草で観ています。ラブシーンもけっこう有りましたが、当時の大人はそれほど子どもに気を使うことも無かったようです。座頭市はいつも満席で、映画なのに「そこだ!殺れ!」などのかけ声も飛び、通路に座って父と一緒に観て、一つの映画が終わると席を確保するのに真剣で、今の時代のネットで席を確保してから出掛けるなんて夢のまた夢。父は私と弟だけ先に帰して、どうやらそのあと「ストリップ」を観てから帰ったようで……だから浅草だったようで……。
十把一からげの大ざっぱな躍動感にあふれた昭和という時代に、人の核になるようなものを積み上げてきた私は、映画ポスターのような明るい元気な昭和は良い時代だったと思えます。
平成には平成人の思いがまたあることでしょうが、それも残りあと三ヶ月弱。さてさて新元号はどうなるでしょうか。とても楽しみです。
出水平野のツルの越冬数は一万を超える。世界一のツルの越冬地だ。
歴史的に見てツルの渡来記録で一番古いのは、1927年(昭和2年)440羽、1939年(昭和14年)には3908羽(内タンチョウ1羽)になっていたそうだ。
戦争中出水に航空基地が在ったため激減し、戦後1947年(昭和22年)には275羽まで減少した。その後1952年(昭和27年)国の特別天然記念物に指定され、ねぐらの整備や給餌などの保護策がとられ、年々増加する。
1992年(平成4年)には10,327羽記録され「万羽鶴」となり現在も11,000羽程度飛来している。
種類はナベツル約9000羽(世界のナベツルの約8割)、マナツル約3000羽(世界のマナツルの約半数)が大半で7〜8種類のツルが観られる。
ねぐらの整備と給餌だが、1万羽を超えるツルを保護するためには住民との協力が必要だ。ツル達はエサを求めて田んぼに入り畔を掘り返してしまう。
そのためツルの保護区域として荒崎及び出水干拓東工区の水田を農家から借上げ104ヘクタール の保護区域を2箇所に設置し、ねぐらを作るために川から水を引き込むとともに、毎日給餌を行う。
給餌は毎日朝7時、1.5トンの小麦とモミ、2月からは北帰行に備え小魚まで提供する。田の二番穂や生き物はツルにとっておいしいごちそうだ。ネットで囲われた保護地域一帯は写真の通り「なんじゃこれ〜」のツル団子状態となる。
一万羽のツルを撮るのは北海道の親子ツルを撮るより難儀だ。シャッターチャンスが多い割には納得がいくものが撮れなかった。毎回残〜念だ。
3月ツル達が北へ帰ると田んぼを耕し畔を修復し、持ち主に返すというとんでもなく大変な保護対策だ。こんなに費用と手間と神経を使う特別天然記念物がほかにあるだろうか?なんせ世界のツルの生命にかかわっているのだから。
日本人がツルを好きな理由は美しい珍しいだけでは無い。ツルは一生涯相手が死ぬまで同じ相手と生活し、子育ても夫婦共同で行うというところだ。仲睦まじく鳥の割には20〜30年と長生きらしい。
出水平野のツルもここでパートナーを探し北に飛び立っていくのだ。
人間では見分けがつかないが、個性もいろいろあるのだろう。パット見誰でもいいような気がするが、生涯のパートナーは給餌場でビビット来て決める。婚活パーティー場だ。ここならよりどりみどり、当たって砕けろだ。なんと合理的な事か。
人間もツルを見習って、おいしいご飯の前でしがらみを脱ぎ捨て、気の合った人と結婚したら幸せな人生が待っているのかもしれない。越冬鳥と地域共存を考えていたのだが、なんだか話が逸れてしまったようだ。
参考文献
出水市ツル博物館HP
今月のにゃんこ
長崎県雲仙市 神代小路
冬は寒いせいか地域ネコもなかなか外に出てこない。
日向があっても外は寒い。
九州はまだ暖かく、地域ネコがうろうろしていると優しい住民が住んでいる優しい街だろうなと想像させられる。
付かず離れずついてくるがおっとりした猫たちだ。
右ほほを上げてすかした笑い方をするイケメン君だ。
今月のにゃんこ
Japan Geographic Web Magazine
Editor Yukinobu Takiyama
yuki at JAPAN GEOGRAPHIC (Replace at to @)
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