JAPAN GEOGRAPHIC

Monthly Web Magazine  Sep. 2023


■■■■■ Topics by Reporters

■ 牧野富太郎ゆかりの地  瀧山幸伸

テレビで牧野富太郎の連続ドラマが取り上げられた。彼の業績を広く知ってもらう良い機会で、興味のある場所や植物の現地を探訪する人が増えることはうれしい。

Japan Geographicでも多くの地が紹介されている。彼の人生や研究生活と関連のある場所としては、高知佐川の生家跡や母が好きだったバイカオウレンが咲き桜の名所となっている牧野公園などはおすすめだ。

   

彼が研究した植物と関連のある場所は、高知の牧野植物園、東京の牧野富太郎旧宅、小石川植物園のほか、彼の調査の基本となった横倉山などはぜひおすすめしたい。

  

我々が調査・撮影している天然記念物指定植物の多くは彼との関係が深い。それら全てを最適なシーズンに巡ることは数年がかりの巡検となるだろうが、周囲の地形、植生、自然が育んだ衣食住の文化などを含めればとても楽しい旅ができることだろう。

変わり種の天然記念物が好きな方に特におすめなのは、ヤッコソウ、キイレツチトリモチなどだろう。ヤッコソウは天然記念物指定地以外でも各地で見られるが、キイレツツトリモチは難しい。指定地の喜入を調査したが見つからず、文献うわさで紹介された鹿児島市内の自生地でも見つけられず。長崎の伊王島に行くかと思案していたところ、なんと牧野植物園で見られるとの情報があり、めでたく対面した感動は忘れられない。

植物学の牧野を巡る旅も面白いが、民俗学の宮本常一を巡る旅は別の意味で興味深い。

 


■ 再開2回目 大野木康夫

8月26日、撮影を再開して2回目の取材に兵庫県の中東部に行きました。
1日の行程は家庭の事情で難しいので、早朝から半日の行程を予定し、日の出時刻の5:40に最初の目的地である朝光寺に着くように京都の自宅を4時過ぎに出発しました。

朝光寺(加東市)
5:40~6:25
本堂は兵庫県の国宝建造物の中で最も訪れる人が少ないものだと思っています。
3回の取材で境内で他の方にお会いしたことはありません。

   

若宮八幡宮(加東市)
6:35~6:46
東条湖おもちゃ王国の近くで、車は通りますが参拝される方は見かけることはありませんでした。

 

秋津薬師堂(加東市)
6:52~7:04
県指定文化財ですが趣のある建物でした。

 

上鴨川住吉神社(加東市)
7:18~7:31
社殿が塗りなおされ、鮮やかな彩色になっていました。

 

大川瀬住吉神社(三田市)
7:51~8:12
この日初めて他の参拝者の姿を見かけました。

  

天津神社(三木市)
8:28~8:45
前に訪れた時と比べ、本殿の彩色が劣化しているようでした。

 

大歳神社(三田市)
9:14~9:26
貴志の御霊神社が一斉清掃中で撮影できなかったので飛ばして訪れました。

 

小野天満神社(三田市)
9:45~10:06
ガラス張りで映り込み防止のレフ板を忘れたため苦労しました。

 

観福寺(三田市)
10:35~10:40
駆け足撮影なので山門のみの撮影でした。

 

小柿天満神社(三田市)
10:16~10:28
獣除け柵で参拝しづらかったです。

 

高売布神社(三田市)
10:46~11:00
共同作業で周囲の伐採が行われていて少しにぎやかでした。

 

蓮花寺(三田市)
11:07~11:34
山門から多宝塔までの距離が長く、勾配も急で歩きごたえがありました。

  

波豆八幡神社(宝塚市)
11:44~11:56
快晴で撮影しやすかったです。

  

素戔嗚神社(宝塚市)
12:09~12:16
アプローチの道が狭く、少し苦労しました。

 

この後、新名神川西インター経由で13時過ぎに帰りました。
重文+県文建造物で計画し、少しでも多くの撮影をしようとして少し駆け足の撮影となりました。




■ 蟇股あちこち41  中山辰夫

京都大徳寺と石清水八幡宮と弘前最勝院です。いずれも余りにも有名な社寺です。大徳寺は令和5年4月に唐門、他の特別公開が行われ参加しました。
石清水八幡宮は桃山文化を引継いだ江戸時代初期特有の細部意匠が見られます。最勝院にはユニ-クな十二支と繊細な蟇股が配されています。

   


■失われた??建造物 =重文跡を訪ねて= 臼井家住宅 酒井英樹

 明治30年(1897)に「古社寺保存法」に基づいて特別保存建造物の指定から126年、多くの建造物が重要文化財(古社寺保存法での特別保存建造物、国宝保存法での国宝を含む)に指定された。
 しかしながらこの内、第二次世界大戦末期の戦災による焼失などにより滅失で指定解除された建造物は242棟となっている。

 跡地に再建したものもあれば更地のものも存在している。
 そこで、かつて重要文化財建造物のあった場所を訪ね、その現状をかつての雄姿と共に紹介していきます。

 夏の盛りの8月の午後、奈良県高取町上土佐に立ち寄った。夕方から地元主催の祭りがあるとお誘いを受けて、滞在することにした。
 祭りまで少々時間があったが、山城の高取城を探索するまでの余裕がなく、旧街道沿いの古い面影を残す町並みを探索することに・・・
 上土佐は大和高取2万石上村藩の城下町。
 高取城は大小2つの3重天守を持つ近世の山城であった。

 上土佐の街並み
  

 沿道沿いを探索してみると、植村家長屋など藩政時代の建造物が残っている。
 
 植村家長屋門
  高取藩城代家老邸宅の表門
  

 そうした中、ふと整備された空き地に建つ石碑『伊勢屋屋敷跡』に目が留まった。
 
 跡地
 
 
 石碑
 

伊勢屋は高取藩公用伝馬役を務めた臼井家の屋号。臼井家住宅主屋は元禄年間(1688-1703)の建築で、内倉とともに昭和49年(1974)5月に重要文化財に指定された。
 碑文の建つ空き地はかつて臼井家住宅の跡地だが、臼井家住宅は冒頭の重要文化財指定を解除された242棟のリストには含まれていない。

 主屋と内蔵は所有者からの寄贈で奈良県所有となり、昭和51年(1976)大和郡山市にある奈良県立民俗博物館に移築されて現存している。

 移築後の臼井家住宅主屋
      

 主屋内部
    

 内倉
  

 臼井家住宅の移築先は博物館の野外展示場であり、広い敷地に建てられているため建物全体が見えることは良いが、残念ながら本来の狭い街道筋とは雰囲気が異なる。

 移築することで単体での建築物としては保存されているが、周りやその環境も含めての保存ではない以上、本来とは異なるものを伝えかねない。
 移築先も元の場所と合わせるように工夫されてはいるが、元の位置での保存に勝るものはない。
 しかし、移築することで保存が図られるのなら移築も致し方がない。

 開発などで移築保存された指定建造物が全国各地に存在する。
 今後もさらに移築して保存を図る必要が増えるとのデータもある。

 これまで単体の建造物の撮影を重視してきたが、これを改めて周りも含めた撮影をしていく必要があることを強く感じたが・・・、投稿に反映できるかなぁ・・。


山鹿灯篭踊り  田中康平 

山鹿灯篭踊りは60年位前の九州にいた頃から何とはなしに頭に灯篭をつけた不思議な踊りの祭りがあると気にはなっていた。そのままに60年を過ごし、そろそろ見ておかなければもう見れないかもしれないとの思いがあって、帰りが遅くはなるが日帰りバスツアーで見に行った。昼食後出発するツアーだから行くのは楽ではある。
夜の7時から9時まで会場となっている山鹿小学校のグランドの特設スタンドで踊りを見るのがメインだがそれまでは時間があるので山鹿の街をぶらぶらする。重要文化財の芝居小屋「八千代座」があったり、登録文化財となっている旧銀行の建物を利用した山鹿灯篭の博物館などもあって、文化的にも結構興味深い街だ。600年位前から和紙の灯篭を使った踊りが伝わってきているという。山鹿は筑前山家経由豊前小倉に至る豊前街道沿いにあり九州を南北に貫く国道3号線沿いでもある、古くからの交通の要衝となっているのが文化のバックボーンということの様だ。後で調べると山鹿南部の霜野には康平寺という康平元年(1058年)建立の天台宗の山岳密教寺院があるという、何かのゆかりを感じて、また訪れねばと思ったりもしている。
この日は町の中心部は通行止めでお祭り広場ともなっていて町中に祭りの気分が満ちている、いい感じだ。会場で千人灯篭踊りが始まる。ゆったりとした「よへほ節」にのって踊りの輪が優雅に回っていく。カメラマン席ではないので撮影はどうしても前の人の頭が入る、それも祭りらしくていいかと思ったりする。
暗がりの中バラバラになっていた全員が離れたところに停めてあるバスにきちんと戻る、予定より少し前だ、本当に不思議だ。夏の祭りシーズンもそろそろ終りか。

写真は順に、1.山鹿灯篭 山鹿の和紙製 2.、3.街中の通りでも踊りが披露され写真撮影にも応じる(昼間、お祭り広場にて) 4.、5.千人灯篭踊り 6.八千代座でも披露される「よへほ節」

     「よへほ節」




■ 加茂水族館 川村由幸


7月末の山形行で唯一何の障害もなく撮影が出来たのがこの加茂水族館でした。
   
海月の展示で復活した水族館です。入口のモニュメントも海月になっています。
訪問したのが夏休みに入って早々でしたから、平日ではありましたがお子さん連れの家族で結構混雑していました。
入館してしばらくは通常の水族館と変わりなく、魚類の展示が続き、中盤から出口までが海月の展示という構成でした。
   
海月が美しい生き物だと感じる展示がなされていました。
フワリフワリとゆっくり移動する海月を見つめていると癒されるのも確かです。
   
ただ、海月で復活した水族館と強く認識していた私にとっては期待はずれとまでは言えないものの、物足りない感の強い見学でした。
もっと展示の数が多いと予測していました。海月にどれほどの種類があるのかも承知しているわけではなく数が少ないというのは不遜な物言いなのかもしれません。
でも、大変残念ですが、この水族館が私の住まいの近くに存在していたとしてもリピートで訪問しないように思えます。
もろろん、上の画像の左の海月の大水槽はとても魅力のある展示であることは間違いありませんが。
この大水層の短い動画をご覧ください。


■浄瑠璃寺門前、吉祥庵の手打ち蕎麦 野崎順次

この夏、久しぶりに当尾(京都府木津川市加茂町)の石仏めぐりを復活した。奈良交通と木津川コミュニティバスに乗れる木津川古寺巡礼バス一日乗車券を使って、JR奈良駅あるいはJR加茂駅からスタートする。年が年だし、猛暑だし、昔のように長距離が歩けないので、小分けして訪れるわけである。そうして、新たに「発見」した美味しい蕎麦屋さんが吉祥庵である。浄瑠璃寺の門前、参道沿いに2軒の茶屋があり、共に元気なおばちゃんが蕎麦や定食を提供しているが、それではない。

幹線道路沿いのちょっとした高台に瀟洒な建物があり、少し敷居が高く感じられるが、、石段を登り、中に入ると、落ち着いた空間がある。季節と時間にもよるだろうが、客は少ない。

          

上品なおばあさんがいて、「蕎麦しかありませんけど」という。酒類もビールはなく、冷酒だけ。おじいさんがそばを打つ。二人だけの店である。いつも頼むのは、最初がおろしそばで、続いてせいろである。

     

そばが実に繊細である。そばだけ少しつまんで食べて、それから、岩塩だけかけてみて、最後にそばつゆに少しつけて食べる。ネギはない。もちろん、辛み大根おろしと生わさびはおろしたてで、云われなくても、わさびはつゆに入れないで、そばに直接つけて食べる。

客は少ないといったが、これまで4回行ったが、2回は目の前で閉店となった。ネタ切れなんだろうけど、それにしても早すぎる場合がある。ちなみに開店は午前11時。

7月16日(日)午後2時20分くらいに行った。最初に食べたとき。
7月22日(土)浄瑠璃寺の帰りに寄ろうとしたが、目の前で閉まった。午後2時半くらい。
9月2日(土)午後1時15分頃に行って食べられた。
9月9日(土)午後1時10分に行った。暖簾が下がっていて、中に入ると客が二人いた。ところが、蕎麦が無くなったので駄目といわれた。この蕎麦のためにバスの時間と石仏コースを調整したのに。

次回は開店時にいって、蕎麦を食べてから、石仏めぐりをするかなあ。



■ 『破れ稲荷』 柚原君子


『山の手は坂で覚える。下町は橋で覚える』という言葉がある。
東京の山の手は広大な武蔵野台地の東の端にあって、緩やかな起伏で成り立っているから山に伴った坂道が多い。
下町は徳川家康が江戸入府後、物資の運搬を海路に求めたために運河が切り開かれ、そして人口が増えていくたびに東京湾の埋め立てを図ったから、橋がやたらに多い。
大塚駅を発車する錦糸町行きの都バスに乗ると、そのことがとても顕著に体験できる。
白山から下ってくる春日通りの道はかなりの急勾配で、春日町の交差点を谷にして再び上りとなり、真砂坂上から湯島天神の辺りを頂にして、もう一度、急な下りの坂道が上野広小路へと続いている。広小路から先の起伏は橋がもたらしていて小さい。地名もだんだん海に関連するものになっていく。
広小路から北の方角には上野の山があり、さらに入谷、谷中、うぐいす谷と谷の地名が残り、西の方角に戻れば白山で、この辺りは坂道ばかりである。
不忍通りと白山通りの交差点を動坂という。江戸時代の初期に万行上人が、この坂下に庵を設けて不動明王像を安置したので不動坂と呼ばれていたが、やがてそれは略されて、動坂と呼ばれるようになった、と町の観光案内書にあった。この坂の途中に稲荷寿司を売っている店があり、さらにその坂をのぼっていくと、がんや感染症を治療する都立駒込病院がある。30年前には、都立駒込病院に入院したらかなりの重病だと言われた。最後の望みを賭けた治療ができる医療機関の最先端だったからである。



父が胃癌による手術で胃を全摘したその翌年に、私の夫が亡くなった。昭和60年のことである。当時は告知をするかしないかは患者の性格をはじめとする現況優先で医師との話し合いで決められる時代であった。私たち家族は告知しない方を選んだ。
父は退院後大衆食堂を復活。私を可哀想だと言い、家業の食堂で使用しているお米から魚、肉、しょうゆ、味噌にいたるまで、私の家庭に運んでくれた。
「俺は胃がなくてもこんなに元気になったんだから、まだまだ俺は頑張れる。お前の家は今が大変なんだから、俺がついていなければ」。それが父の口癖だった。
が、父はその年の夏に微熱が出て体調を崩した。再発だった。
「胃腸外科でもらっていた薬を、これまできちんと飲んでいなかったからな。これからはちゃんと飲むよ」と言った。
私は驚いて弟の家に電話をした。
「病院から出ている薬は抗がん剤だろうと思う。飲んでもらわなければ困るんだけど、仕方ないなぁ。告知をしていない害だよね。でも、ものは考えようかもしれないよ。お父さんが元気を回復したのも、がんではなかったという事を支えにしたからかもしれないしね。俺たちはお父さんのがんを告知せずに、握りこんでしまうと決めたんだから、今更ほかの道にはいけないよ」。と弟は言った。
父は駒込病院に入院をして、当時最先端治療になっていた温熱療法を受けた。父は短期間の入院だと信じていた。夜になると私たちの家に電話を掛けてきて「今何をしている? どこも痛くないから帰りたいなぁ」と言った。
その後の検査の結果、胆嚢にも転移があって、それはかなり大きく、父の体の皮膚を破って外に出てくるような大きさになっていた。



夫が亡くなった後の私の家庭を父は随分と助けてくれた。だから私は病院に通って父の話し相手になろうと決めた。仕事が終わると、私はバスを乗り継いで動坂下のバス停から病院を目指して毎夜、坂道を上がって行った。
上がっていく途中に寿司屋があった。月末で持ち合わせがなく、安く売っていた破れ稲荷を5個だけ買った。父と一緒に少しの夕食を摂ろうと思った。病室を開けて中に入ると、父が色のない顔で寝ていた。つい先ほど、腹の腫れ物が破れて、食事は禁止になった、と言う。
「何を買ってきた?」と聞くので、「破れ稲荷があったからね、一口食べるかなと思って。……食べられないんだね。明日にしょうか」と私は答えた。
「俺はいい。お前食え。仕事が終わってすぐに来たんだろう」。
私は父に甘えるつもりで素直に食べた。父は窓のほうを見ていた。



父は蜜柑なら、5,6個、スイカなら半分は朝飯前に、マコロンが好きで袋ごと……とにかく何でも良く食べる人だった。食べることが楽しみで仕方がないという食べ方だった。
転移したがんが胆嚢を破ってさらに腹部の皮を破って、父の腹に穴があいた日、何も食べられなくなったその父の前で、私は破れ稲荷を食べた。何故食べたのだろうと、チリチリチリチリと後悔の念が今でも体をめぐる。
父を越えようとは毛頭思っていないが、日々訪れる雑事のなかで状況を読み取る判断の甘さが付いて回る。父が守ってくれて今の私があるのに、父のような包容力を持ち合わせられないで、坂の途中に不安定に立っているだけのような、情けない自分である。



■ おばちゃんカメラマンが行く 事務局

★今月のニャンコ

大分県竹田市 河宇田湧水のネコ

水きらい!

  

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