Monthly Web Magazine July 2025
■ 全国の海岸沿い道路の制覇完了 瀧山幸伸
制覇といえば、よく話題になるのは鉄道駅とか「全市町村の制覇(離島を除く)」だ。
自分は10年以上前に全市町村の制覇を完了していた。調査旅行をしていたら結果的に全市町村を巡っていたということで、意図したものではなかった。 鉄道駅の制覇をする人は証拠を集めているが、 全市町村を制覇する場合も証拠がない場合は真偽が疑わしい。当初は全国の市町村訪問の履歴を見るために全国道路地図に軌跡を塗っていたのだが、真っ赤になって何が何だかわからなくなるほどだったので軌跡を塗るのは途中でやめた。取材記録として撮影日入りの写真や動画を残しているし、ページがない市町村はあってもその周辺市町村に撮影済ページがあるのでそれらが証拠で、経路として通過または立ち寄りしたことは合理的に疑いの余地はないだろう。
本題の「全国の海岸沿い道路」について、ずいぶん昔だが、たまたま旅先で民放を観ていたら、電気自動車を使って海岸沿いに全国一周をするという番組があった。その時は他に優先すべき調査先が多かったので、海岸線の調査は簡単なことだろうと高をくくっていて、アドホックにオプションとして制覇できると思っていたのだが、実際は簡単なことではなかった。よくよく考えてみると、伊能忠敬は海岸線を巡るだけではなく測量を行っていたのだから、彼の偉業の難易度がいかに高かったかに感服する。
全国の海岸沿い道路の全制覇(自動車が通行可能な道路、同じく離島を除く)は今月の北海道調査旅行でようやく完了した。海岸線の軌跡は地図に塗りやすい。
最後に残っていた海岸線はどこかというと、北海道の西南部、瀬棚町にある海岸道路で、その中程には旅先で観た民放で「日本一危険な神社」と呼ばれていた太田神社がある。
まずは「日本一危険な神社」の話題から始めよう。
いわゆる「日本一」はエビデンスがない場合が多くうさんくさい。放送は嘘を伝えてはいけないはずなのだが、きちんとした取材の裏付けがとれていないのだろう。「危険な神社」は全国各地の神仏習合、いわゆる修験道の地に数多くあるが、いずれも非常に危険で、太田神社を凌ぐ危険な神社をたくさん知っている。特に九州の英彦山、耶馬渓、国東半島には危険な神社が多い。その中でどれが日本一かは明確な評価基準が必須だ。
実は太田神社がある太田山も修験の山で、太田神社は航海の安全と豊漁の守り神として、室町時代の1441年から43年にかけて創建されたと伝わる。本殿は道内最古の山岳霊場・太田山の中腹に開いた岩穴にしつらえてある。神社の創建年代ほどあてにならないものはないが、北海道に修験の地があることが大変な驚きだった。
次に、「航海の安全と豊漁の神社」の話題に入ろう。
航海の安全と豊漁の神社というのは各地にあり、港近くの絶壁に建っているものが多い。そのような神社の社叢は天然記念物に指定されていいる例が多いので必然的に調査対象地として訪問することが多い。特に「航海の安全」は灯台のようなもので、目印となる山頂付近に創られた。有名なところでは北前船の航路にあるもので、島根県隠岐地方の、時代はさらにさかのぼるが流罪の天皇の船を迎える火も焚いたと伝わる焼火(たくひ)神社(重文)や山形県鶴岡市の金峯神社だ。
焼火神社
金峯神社
さて、次は「修験道の地」の完全リストと完全制覇についての話題だ。
全国各地の修験道の地は、南は鹿児島県指宿の開聞岳近くの竹山で、天然記念物のソテツ調査を兼ねて登った、頂上近くの祠は大変危険な地だった。
竹山
北限は青森県弘前市の岩木山というのが定説で、これまた山頂の神社は無形民俗文化財の岩木山登拝行事として有名で難易度が高い。
岩木山
映画にもなった立山の剣岳山頂など難易度が高い山を除き修験地はほぼ全て調査したと思っていたのだが、まさか北海道にもあったとは知らなかった。北海道はアイヌの聖地「ピリカノカ」だけかと思っていたのだが。
ここまで進めば「修験地」と「航海の安全」がなぜ太田神社に結びついたかが推察できる。 北前船の舳先に括りつけられて荒天の生贄とされていたお坊さんがいたそうで、彼らが難を逃れて解放され、北前船の航路沿いに修験地を開いた例は秋田の男鹿半島にある五社堂(重文)が有名で、北海道でも同様のスペクタクルドラマがあったとしても不思議ではない。
五社堂
そもそも修験道の地の完全リストと評価手法がないことが問題なので、我々が完成させなければならないミッションとして残っている。
■ 山陰海岸 大野木康夫
6月21日、兵庫県香美町の山陰海岸に行きました。
海からしか見ることができないと言われている国指定名勝「鎧袖」を撮影したかったので、かすみ海上GEO TAXIを予約しました。
香住には早めに到着したので、予約時間の10時まで、香住港周辺を撮影して回りました。
帝釈寺本堂(兵庫県指定文化財)
下浜の流痕(兵庫県指定文化財)
丹後松島、香住四ツ島
三田浜
千畳敷、黒島、かえる島
但馬赤壁
大引の鼻
大引の鼻展望台から白石島の方を見ると、目的地である鎧袖が遠くに見えていました。
かすみ海上GEO
TAXIは香住海岸の絶景スポットを小型船で周遊するもので、予約制、最少催行人員は2名ですが2名分の料金で1名でも運航してもらえます。船長さんは皆さん地元の漁師さんです。
白石島
香住モアイ
須井洞門
小さい船なので洞門の中まで入ってもらえます。
兄弟赤島、姉妹赤島
鎧袖
高さ70m、幅200m、傾斜角70度の柱状節理の崖です。近くで見るとすごい迫力があり、これだけでも来た甲斐があると思いました。
鷹の巣島
くじゃく洞門
松ヶ崎百層崖
衣笠洞門
めがね岩
青の広場
余部橋梁
御崎付近
但馬御火浦 釣鐘洞門
GEO TAXI の最終地点です。
岸に近いところは定置網があるので、帰路はイカ漁の漁場(漁火ライン)を通って行きます。
この日はイルカを見ることができました。
白石島
黒島、五色洞門
あっという間の1時間半でした。この日は波が穏やかでよかったです。
GEO TAXIは香住だけではなく、但馬御火浦の三尾にもあるそうです。
その他、最近は史跡名勝天然記念物を意識して撮影しています。
宇治古墳群
二子塚古墳、瓦塚古墳、二子山古墳
宇治山
森山遺跡(城陽市)
綴喜古墳群(京田辺市、八幡市)
飯岡車塚古墳、大住車塚古墳、八幡西車塚古墳
天塚古墳(右京区)
明日香村にはよく行った。50回は超えているだろう。一人の時が多いが、子供たちと一緒の家族旅行やバスケット仲間と毎週の歴史講座を聞きに行ったりしたこともある。高松塚古墳の発掘以来、突然表舞台に出て、数か所の国営飛鳥歴史公園が整備されたり、大きな変化があったが、昔ながらの景観もよく残っている。最近、撮影した写真から選んでみた。
檜前、キトラ古墳から飛鳥駅に帰る途中
平田/野口、鬼の俎・雪隠あたりから
上居、上宮寺裏の墓地からの絶景
祝戸地区の東展望台から
細川谷棚田
阪田棚田
稲渕棚田
岡寺から
甘樫丘から
飛鳥、真神原
飛鳥/奥山、山田道から
今月は、諏訪大社4社のうちの、上社前宮と本宮です。
諏訪大社は長野県の諏訪湖周辺4か所にある神社。全国に約25,000社ある諏訪神社の総本社(ウイキペデイア)で、国内にある最古の神社の一つです。
古くから信濃国一宮として崇敬を集めた古社で、諏訪湖の南の上社(前宮と本宮)、北の下社(春宮と秋宮)、四社を合せて総称します。
大社には御祭神を祀る本殿は存在せず、その代わり、上社では神体山(守屋山)を、下社では御神木(春宮は杉の木、秋宮はイチイの木)を御神体として祀っています。
諏訪大社の社殿の周囲四隅には、御柱(おんばしら)と呼ぶ以下4本の柱が建てられています。
御柱は一から四の順に短く細くなり、上空から見た場合に時計回りに配置されています。
七年毎に行われる諏訪大社式年造営御柱大祭は全国的に著名です。次回は令和10年「2028年」に開催されます。
7月の博多の街は何といっても山笠だ。1日から飾り山が公開されて10日からは舁き山が動き始める。最後の15日早朝は追い山と呼ばれ決められたコースを舁き山が走るスピードレースとなる(スピードレースは江戸時代から)。これを書いている時期はまだ「静」の飾り山の時期だ、市内13か所に飾り山が設置されていて、暫く見ていなかったのもあり、いくつかを回ってみた。
今年の一番山笠となる東流(ひがしながれ)の飾り山を呉服町交差点呉服町ビジネスセンターに見る。舁き山も出来上がっていて一緒に見られる。飾り山の標題は表裏とも義士誓となっている。続いて中州の飾り山を4つ見る、ほかの飾り山でも標題は歴史ものが多いが裏は子供向けにアニメを扱ったものなど様々だ。博多人形師がそれぞれに担当して作り上げるが14日の夕刻から15日早朝までに飾り山は解体され人形などの飾り物はこの時期限りとなり関係者に分けられる。舁き山も15日早朝の追い山が終わるとすぐに解体される。激しい追い山の終わった15日の午前8時ころからは街は何事もなかったかのように普通に動き始める、この潔さが山笠の大きな魅力のような気がしている。
写真は順に 01:東流の飾り山(義士誓)02:01の部分、03東流の舁き山、04:03の舁き小屋、05:博多リバレインの飾り山(関ケ原長政武勲之)、06:05の裏(決闘巌流島)、07川端中央街の飾り山(裏:つくろうユニークな未来)、08:07の表(源平盛衰扇の的)、09・10:上川端通の飾り山/舁き山(ヤマタノオロチ この形で追い山に参加する)11:中州流の飾り山(呑取日本号)、12:12の部分ー長政の大水牛の兜、13:11の飾り山の裏(鞍馬山剣術指南)
まだ、暑さが厳しくなる前の6月早々に群馬県太田市の旧中島家住宅に行ってきました。
中島飛行機の創設者中島知久平が両親のために建てた邸宅です。
重要文化財で建物も大きいですし、芝生の庭も広大な文化財です。
ただ、リーフレットにもある通り、現状、見学できる内部は一部分のみでそれがとても残念です。
スタッフの方にお聞きしたところ、全体を見学できるようにする計画だそうですが、見学開始が平成26年で
すでに10年以上が経過しており、いつになったら全体が見学できるようになるかははっきりしませんでした。
中庭を囲んで建物が建設されていますが、その中庭も大きな石灯篭が倒れたまま放置されており、
少し哀しい気分になりました。できればもう少し文化財が大切にされればと感じてしまいました。
外観のみ見学できる建物もあり、どれも重厚な和風建築ばかりです。
現在、見学は無料です。料金を徴収し早く全体が見学できるようになることを祈るばかりです。
木造建築は劣化してゆきます。適正な修繕が欠かせません。また、使用しなくても劣化してゆきます。
昭和初期の建築物ですから、今のところ外観から大きな劣化は見られません。
是非今のうちに手を加え、建物全体にに人がいつも出入りする文化財にしていただけたらと思いました。
近年の天候異変で、夏の楽しみである花火やお祭りは命がけで参加しなければならなくなった。夏の暑気を払う夏花火が春花火(足立区)に変更されたり、夏祭りの子ども神輿が中止になったりすることもあるようになった。
人はどこかに住むのでその地域の氏神様に護られることになる(信じる信じないは別として)。
76才まで生きてきた私はこれまでに4つの氏神様に護られてきた。
出生したのは愛知県江南市古知野町。村のはずれにあるのは「井出神社」。
いでのみやにまいらやぁ、(井出の宮に参拝していらっしゃい)と祖母に送り出され書き初めを燃やし、どんど焼きのお餅を食べた小学生時代の記憶が残っている。
その後東京都墨田区に引っ越したので隅田川の脇にある牛嶋神社の氏子となった。牛嶋神社は秋祭りだったので田園の豊穣を想像させてくれた。神輿はそれほど大きくもなく、浅草通りを都電を待ったり抜かれたりしながら車道の端っこを、雅楽の調べを奏でる小型トラックとともに大人達が担ぐのを見送った。投げ銭!とちゃっかりと白幕をなびかせて続くリヤカーに投げ銭をした。
20代半ばに嫁いだ。嫁ぎ先は東京都江東区深川。深川八幡様の氏子となった。
そして大変に驚いた。今流の言葉で言うと「何コレ?!」だった。
真夏の死にそうな暑さの中、神輿が担ぎ出されていた。わっしょい!わっしょい!の掛け声も腹の底からだし、バケツにくみ置きした水や、ホースから直接もあり、神輿と担ぐ人々に盛んにかけられる水。水しぶきに担ぎ手は目をしっかりつむって恍惚の表情で神輿と一体化していた。更に沿道の見物人は誰の家のバケツでも水桶でも無礼講で、そこら辺を走り回って水をかけまわっていた。
町内の四つ角では四方八方からかけらける水しぶきで祭を見ている年寄りまで見事にびしょぬれだった。
水掛に参加しただけで「何コレ?!」の?マークはすぐに消え、それどころか感嘆符がたちまちに増え、すごい!すごい!を連発して祭りの虜になっていた。
三年に一度の本祭りが待たれたが、子育て中は子どもたちに山車を引かせなければならず、連合渡御に出て行く町内の神輿を家から見送った。その後は義理父が入退院を繰り返したのでお盆には家族連れで郷里に帰っていたから、お祭りに参加する機会は何年も巡ってこなかった。
平成5年の本祭り(氏子である56町会の神輿が八幡様でお祓いを受けた後に、氏子の管内の大枠側通りを一日かけて練り歩く壮大な連合神輿)に、友達が「今年はみんなで神輿を担ぐんだからね」と言いに来た。
当時私は悪性リンパ腫の大病をして治療は無事に終わったものの、死にそうなくらいガリガリに痩せていた。
友だちに「私は見てるから」と言った。
「何言ってんの。私たち40代に突入した記念に担ごうって決めたのよ。皆で同じ頃にこの町内に嫁に来た仲間じゃない。一緒にこの町で暮らしてきたじゃん。一緒に担ごう! 40代に担いでおかないと、今に年寄りの面倒見る世代に入ったら担げなくなるからね。病気なんか関係ないからね。元気出して担ぐよ!」。
長い入院生活ですっかり筋力の落ちた足だったから心配だったが、友だちの温かい気持ちが嬉しかった。
祭り当日の早朝5時。白股引に白足袋。手ぬぐいを細く裂きねじり鉢巻をした。伴天に茶色の帯をきっちり締めて黄色いたすきを八の字にかけた。神酒所前に行くと友達が待っていて炊き出しのおにぎりと味噌汁をくれた。一日長いけど頑張ろうね、っと言い合った。町会の役員さんが「おおっ!町内の若嫁たちのお出ましだね!」と言ってくれた。
祭り総代が編み笠に揃いの浴衣で先導し、金棒隊がシャリンと棒を地面に着き、静々と3歩進んで歩を止めた。そしてまたシャリンと金棒を付く。神輿が動き出した。
煙草娘(水をかぶってタバコが濡れるので、吸いたい人は煙草娘からもらう)が絣の着物に緋の裾巻きで色を添え、担ぎ手の交代が100人ほど神輿の後についた。
わっしょい!の掛け声の後にちょんちょん!の拍子木が二つ入った。
わっしょい!ちょんちょん!わっしょい!ちょんちょん。
早くも水掛が始まり、女の子たちの楽しそうな悲鳴がした。空を仰ぐと日の出の雲が切れて真っ青な夏空が広がり始めていた。
門前仲町の八幡様でお祓いを受けた後、神輿は大門どおりに入る。連合御渡りする各町会の神輿の上の鳳凰が揺れに揺れて、群集と呼べる人々が移動して行く。絶え間ない水しぶきが真夏の太陽の下でそこかしこに小さな虹を作っていた。
そろそろ担ごうか?女たちは2、3人一緒に飛び込んで体を密着させて大丈夫!行こうか!と言い合った。
正午過ぎのメインでは永代橋の直前で女神輿をさせてもらった。一緒の頃に嫁いで来た町内の嫁中間たちが大きな神輿を支えていた。愚痴や暮らしや子育てを女の視線で理解し合える仲間たちだけで支えていた。大病を励ましてくれて祭りに誘い出してくれた嫁仲間たちが、大丈夫?疲れない?と目で聞いてくれていた。どしゃぶり雨のように降ってくる水を受けながら、この町に嫁いできて良かった、と心底思った。
八幡様の氏子で35年暮らした後に娘一家と同居したので深川の地を離れて板橋区に来て熊野神社の氏子になった。盛大な深川に比べると味気なくこじんまりと、大人神輿の担ぎ手も無いのか神輿の丸太が空いていて、担ぐ大人も喜びよりも重さで大変という顔に見えた。孫連れで参加したが住宅街なのであまり騒がないで欲しいとの注意を受けた。
そして神輿を見ると水をかけたくなって困った……。
コロナで、深川本祭りもしばらく延期になっていたが、昨年本祭りで連合渡御が行われた。もう担げる歳ではないのでカメラを持って撮影に廻り、ついて行かれるところまでと、がんばった。四方八方から飛んでくる水しぶきからカメラを護ることに命をかけた。
病気療養中の私を祭に誘ってくれた嫁同士の仲間も、事業の失敗である日忽然とこの町から姿を消したり、離婚をしたりで何人かが欠けている。今はどこの氏子で暮らしているのだろうか。深川の水掛祭りは特殊だから、他所のお祭りを淋しく感じていないだろうか。家の前にバケツを置いて水をかけるまで椅子に座って待っていた老齢の婦人たちは半数以上が亡くなっていた。みんなで一緒にわっしょわっしょい!!といつまでもいつまでもやりたいと思う。そんなこと無理であることは承知ではあるものの祭りの陰に一抹の寂しさがある。
■ 酒井英樹
All rights reserved 無断転用禁止 登録ユーザ募集中