Monthly Web Magazine Dec. 2015
■■■■■岡崎・南禅寺界隈の庭園群(紅葉めぐり) 中山辰夫
南禅寺周辺の庭園巡りをしました。非公開の個所も多く外から眺めるばかりです。一部季節の異なる分も含みます。
南禅寺は1868(慶応4)年の神仏分離令や続いての社寺上知令などにより、約13万坪あった寺領が約4万坪に縮小し、塔頭も25院が8院になりました
これらの旧境内・塔頭跡地と岡崎には、明治20年代後半から昭和初期にかけて多くの邸宅・別荘が建設され、庭園が作庭されました。これらの庭園を総称して,「南禅寺界隈別荘庭園群」といわれます。
京都市は「岡崎・南禅寺界隈の庭の調査」を行い、境内や邸宅地が60カ所、その当時作庭された庭園が40ケ所残っていると報告しています。
岡崎・並びに南禅寺界隈の庭の位置図・他 (引用:岡崎・南禅寺界隈の庭の調査)
この地域が邸宅化・別荘化したのは、琵琶湖疏水の完成と岡崎一帯を含む周辺土地の工業地化計画の変更と、有力施主と小川治兵衛の存在が挙げられます
庭園の殆どが7代目小川治兵衛(植治)の作庭で、その作風は、「東山を借景とした演出、琵琶湖疏水の水を利用した流れの意匠、明るく開放的な芝生の広場、林間に見え隠れする瀟洒な茶室の佇まい」ともいわれます。
100年余の間、所有者が転変し、使用目的がかわった所も多くあります。個人所有のため非公開先が多くあり、庭園全部を鑑賞することは今後も無理でしょう
訪問先を列挙します。夫々が持つ歴史を知ることも興味深々です。 (注) 以後の文中にある⑦・小川治兵衛は7代目小川治兵衛の略です。
有芳園(非公開 鹿ケ谷下宮ノ町) 第15代住友吉衛門(春翆)の別邸、約3000㎡、作庭者:⑦・小川治兵衛、1919(大正8)年頃完成
春翆は治兵衛の大スポンサーで、住友系の幾多の邸宅・別荘の作庭を命じました。
(財)泉屋博古館(鹿ケ谷下宮ノ町) 住友春翆のコレクション及び住友家の伝来品を展示、1960(昭和35)年設立、作庭:11代小川治兵衛
光雲寺(塔頭・非公開 南禅寺北ノ坊町59) 書院南庭園、池泉回遊式、1927(昭和2)年作庭、⑦・小川治兵衛の晩年の作品
京都つる家(料亭・岡崎東天王町) 1928(昭和3)年頃開業、築山林山式、作庭者:加藤熊吉(植熊)、1921(大正12)年頃の作庭
永観堂禅林寺(永観堂町) 今年の紅葉が美しかったのは永観堂だけと多く耳にしました。 枯山水式庭園もある、琵琶湖疏水の水を利用
碧雲荘・清流亭・怡園・流響院が並ぶ一帯は、閑静で独特の風格が感じられる邸宅が並ぶ。左右が碧雲荘と清流亭で、突き当りが怡 園です。
この地域の別荘開発に大きく貢献したのが不動産業者・塚本与三次(近江五個荘商人が祖)です。京都市から水車の権利を買い取って水を確保し、土地開発を進めました。碧雲荘・清流亭・怡 園・流響院の一帯は塚本の所有地で、流響院と清流亭は塚本の邸宅・福地庵を二分し、岩崎小平太と下郷傳平に譲り初めての別荘建築としました。その後、与三次と治兵衛は協力して庭付き高級建売住宅の販売にも着手したようです。野村碧雲荘は与三次、有芳園は治兵衛から買い求めました土地でした。 流響院と清流亭は一郭の中に並び建っています。
碧雲荘(非公開 南禅寺下河原町) 施主:野村徳七(得庵):池泉回遊式、庭園面積約3000坪、作庭:⑦・小川治兵衛・白楊、1917(大正6)年頃着手
怡園(非公開 南禅寺下河原町) 塔頭跡、1928(昭和3)細川護立所有、「怡園 いえん」は喜ぶ・楽しむの意、7代目小川治兵衛、1932(昭和7)年完成
清流亭(非公開 南禅寺下河原町) 現在は㈱京都大松の所有、分割して下郷傳平が購入、作庭は⑦・小川治兵衛・白楊(長男)、1914(大正2)年に完成
流響院(非公開 南禅寺下河原町) 現在は宗教法人・真如苑が所有、分割して三菱の岩崎小弥太が購入、作庭は清流亭と同じ。臨時の特別公開日有
洛翆(非公開 南禅寺草川町) 藤田小太郎の私邸、現在は日本調剤㈱が所有、敷地約1000坪、⑦・小川治兵衛が作庭、2003(平成15)年に11代目が改修
松下真々庵((非公開 南禅寺草川町) 施主:染谷寛治、池泉回遊式、作庭:⑦・小川治兵衛、1913(大正2)年頃、松下幸之助所有、1961(昭和36)年大改修
聴松院(塔頭・非公開 南禅寺草川町) 池泉回遊式、室町後期、作庭:相阿弥、江戸時代頃は湯豆腐店を併設、現在は「奥丹」が隣に出店する
大安苑(料亭 南禅寺草川町) 京割烹店、塔頭・牧護院の隣り、池泉回遊式、作庭⑦・小川治兵衛:
牧護庵(塔頭 非公開 南禅寺福地町)) 1320年塔所として建立、本堂は昭和初期建立、庭園は古典工法により作庭、「わらべ地蔵の庭」と称される
桜鶴苑(料亭 南禅寺草川町) 1913(大正2)年古美術商・山中定次郎購入、池泉回遊式、作庭:⑦・小川治兵衛、1915(大正4)年頃、現在清水家所有
慈心庵(塔頭 南禅寺草川町) 「だるま寺」が通称、1385年頃創建、その後衰退し江戸期に蜂須賀家が再興、庭園は池泉回遊式
順正(湯豆腐店 南禅寺草川町) 1839年(天保10)年創設の順正書院が始まり、作庭は江戸時代、1946(昭和21)年上田堪一郎購入し改修
南禅寺方丈(南禅寺福地町) 現存の建物は桃山時代のもの、庭園は方丈庭園(虎の子渡し)、枯山水、作庭;小堀遠州、1611(慶長16)年
南禅院(塔頭 南禅寺福地町) 建物は1703(元禄13)年に再建、庭園は唯一残された遺産で13世紀後半の造庭、池泉回遊式、作庭者:夢想国師、
天授庵(塔頭・南禅寺福地町) 1340年創建、枯山水と池泉回遊式、作庭者:不明、池泉式は鎌倉末期から南北朝期の特徴を有す、桜・紅葉が見事
南陽院(塔頭・非公開 福地町) 1908(明治41)年創建、枯山水、作庭:⑦・小川治兵衛、1908(明治42)年、毎年臨時特別公開日あり
何有荘(非公開 南禅寺福地町) 現在の所有者は2010(平成22)年からエリクソン氏、現在改修中(2029年完成)、作庭:⑦・小川治兵衛、1917年頃作庭
金地院(塔頭 南禅寺福地町) 施主:崇伝、枯山水「鶴亀の庭」、作庭者:小堀遠州、1631(寛文8)年頃作庭、庭園は東照宮に続く
大寧軒(非公開 南禅寺福地町) 塔頭跡、施主:原弥兵衛が薮内紹智の構想で作庭、1906(大正12)年頃、敷地約470坪
智水庵(非公開 南禅寺福地町) 塔頭跡、個人の所有、池庭と茶庭の組合せ、作庭:⑦・小川治兵衛、小規模庭園、 「菱田邸庭園」ともいわれる
八千代(旅館と料亭 南禅寺福地町) 池泉回遊式、⑦・治兵衛作、八千代の安土桃山時代は御所御用達の魚問屋、後に料理屋に転じ、戦後現地で開業
對龍山荘(非公開 南禅寺福地町) 現・㈱ニトリホールデイングが平成10年より所有、伊集院兼常が1896(明治29)作庭、後に市田弥一郎により1906(明治39)年頃現在の庭形が完成、池泉回遊式、作庭者:⑦・小川治兵衛 治兵衛は伊集院に造園の技法・技術・総合的創造力を習う。国指定名勝
菊水(旅館・料亭 南禅寺福地町) 對龍山荘と向い合う、池泉回遊式、⑦・小川治兵衛、1895(明治28)年頃、円山公園の枝垂れ桜と兄弟の桜がある
白河院(旅館 岡崎法勝寺町) 施主:大丸の下村忠兵衛、築山林泉回遊式、作庭:⑦・小川治兵衛、1919(大正13)年、治兵衛の熟年期の技が光る
平安神宮(岡崎最勝寺町) 池泉回遊式、作庭:⑦・小川治兵衛、1895(明治28)年、その後も改修続く、東神苑は1916(大正5)年に完成
京都市美術館(岡崎円勝寺町) 1909(明治42)年に造営された商品陳列館の庭が前身、小川治兵衛が工事主任、美術館は1933開館、庭は改変している
無鄰菴・瓢亭・ぎんもんどは隣り合っている。三条通から一筋入ると、左が無鄰菴、右がぎんもんど、突き当りが瓢亭で、琵琶湖疏水の水が順に廻ってゆく
都林泉名所図会に描かれている湯豆腐屋「丹後屋」の跡地が無鄰菴で、丹後屋は後に口丹、中丹、奥丹の三店に分かれました。奥丹が聴松院横で開業中
無鄰菴(南禅寺草川町) 施主:山県有朋、池泉回遊式、作庭:小川治兵衛、1896(明治29)年完成、治兵衛35歳、1941(昭和16)年京都市に寄贈された
庭に造詣の深い有朋が、自ら設計・監督し、治兵衛を指導した。治兵衛にとって無鄰菴は、近代庭園造営の祖と言われる原点である
瓢亭本店(料亭 南禅寺草川町) 400年程前茶店としてスタート、1864(元和元)年より料亭にかわり現在に至る。隣は湯豆腐屋「丹後屋」でした
南禅寺ぎんもんど(京料理店 南禅寺草川町) 近江の豪商・小林吟右衛門の別荘、「総合商社・チョーギン」が前身、庭園は池泉回遊式、⑦・治兵衛作庭
ウエスティン都ホテル京都(ホテル 東山区粟田口華頂町)
ホテルの7階に「佳水園庭園」、5階に「葵殿庭園」がある。ホテルは1890(明治23)年開設の保養所・吉水園が前身、1900(明治33)都ホテルとして開業
佳水園庭園 1925(大正14)年の昭和天皇即位大礼に合せ作庭、作庭者:小川白楊(治兵衛の長男)、白楊は翌年43歳で病没、自然の岩盤を利用した
葵殿庭園 1915(大正5)年の大正天皇即位の御大典頃は植栽程度の庭園を回遊式に改修、⑦・治平衛、1933(昭和8)年、治兵衛最後の作品となった。
旧並河家(並河靖之七宝記念館 東山区三条通北裏川白川筋東入ル堀池町) 隣家で親戚の⑦・治兵衛最初の作品、池泉回遊式、1894(明治27年
七宝の制作に要する研磨用の余水を水源とした。琵琶湖疏水の水を個人宅に引きこんだ初で、別荘の先駆となった。
円山公園・日本庭園 1886(明治19)年に総面積9万㎡の公園が設けられ、翌年京都市へ移管され、京都市最初の都市公園となった。
その後、武田五一の園池計画に沿って拡張と整備が行われ、1912(大正元)年に⑦・治平衛により池泉回遊庭園が造庭され現在の形となった。
≪引用資料は「岡崎・南禅寺界隈の庭の調査」、他≫